違和感のある扉 ~死界文書短編通信

 真一は声をかけようか迷った。あの長い髪、あの姿は、数日前あの店で会ったときのままだった。持っているバッグもそのままだ。真一の心は高鳴り、そしてなぜか冷や汗が背中に流れていた。

…どうかしちゃったのか、俺は。

 ただ偶然に隣り合わせになり、彼女の好意でシュークリームをもらって食べただけだった。考えようによっては何でもないようなことだ。お礼ぐらい言えばいいじゃないか、と思った。だが真一にしてみれば、そんな親切な彼女に声をかけるなんて、何か下心があるみたいに見られるような気がして、だからついその一歩が踏み出せないでいた。躊躇は停滞になり、そして当然行動も思考も停止した。真一はその場でただボーっとしているだけの存在になっていた。その心体ともに氷漬けになった真一を救ってくれたのは、彼女だった。

「あっ、この前のコーヒー屋さんにいた人!」

 大勢が歩いているなかで、そう声を彼女は出してこっちに歩いてくる。真一は何が起きたか、いや何が起きているのかわからない、という顔だった。が、すぐに気を取り直したようだった。

「あ、このまえはどうも」

 われながらセンスのない返事だと思ったらしい。すぐにネクタイの結び目を確かめて、そうしてきちんと女性に向き直り、頭を下げた。

「この近くで働いていたんですね、やっぱり」

 彼女はさもそれが確定事項だというふうに、チョコンとまた頭を下げ真一を見た。それが少し下から覗き見られるような感じで、真一にはそれがすごくくすぐったかった。

「あなたもこの辺ですか?」

 真一にはそれが当然だと思っていた。偶然出会ったコーヒーショップ。そしていまここ。彼女はこのあたりで働いている。真一はそう思っていたのだ。

「うーん、ちょっと違うな。わたし、この辺にはよく来るけど、それは人を探してなの」
「人探し、ですか?」

 ちょっと待て、この娘は探偵か何かか?と真一は思った。探偵という職業はあるのは知っていたが、こんな女性がそんな職業をしているなんて、なんだか真一には信じられないのだ。

「ひょっとして、あなたは…」

 真一が最後まで言うのを彼女はさえぎって言った。

「探偵じゃありませんよ。そんなふうに見えますか?」
「い、いえ、人探しとおっしゃるので」

 彼女はそうしてクスッと笑った。

「大事な人なんです。東京のどこかにいるはずなんです。わたし、その人を探しているんです」
「そう…ですか…」

 大事な人を探している…もうそれだけ聞いて真一の心は沈んだ。それは恋とかとは違う、それ以前の状態のなにかが消えたような気がしたからだ。まあそういうことなんだよ、と真一は自分を心のなかで笑った。するとそれを見透かすように、彼女は真一をじっと見た。見るだけじゃない。何かその瞳に、得体の知れない何かが潜んでいる、そう真一は感じた。それは違和感だった。優しそうな笑顔の奥に何かが隠れている。そういう感じだ。言い知れぬ居心地の悪さに真一は少し身を震わせていた。もうその場から去りたい、そう思った。だが彼女の目がそうさせてくれない。彼女の目がいつしか、獲物を狙う毒蛇のように、なんだか思えてきたのだった。

 そしてそれは唐突な言葉ではっきりと顔を出した。

「そうしてね、それはあなたなの、ねえ、真ちゃん…」

 いきなり心のなかに氷をつめ込まれたような感覚が襲った。その心臓の悲鳴のような鼓動が耳にまで聞こえた。真一の目の前にいるのは誰か?真一はなぜそんなことになったのか…その見当はじつはついていたのだ。それはこの女性と会った、あの夜だった。

 ――大学入試が発表される前日だった。俺は涼子とあの喫茶店で会っていた。涼子は高校二年生で、同じ部活だった。俺が高校二年のとき、涼子の家族は東京から引っ越してきた。そして俺の通ってる高校に編入してきたのだ。俺が高三になった春、部活を引退した日、俺は涼子から告白を受けた。それからなんとなくつき合い出して、そのままその日を迎えた。

「もう会えなくなっちゃうね…」
「夏休みとか帰って来るよ」
「それじゃもう毎日会えないじゃない」
「いや、毎日は会ってないだろ、俺たち」
「そうだけどさ、いつでも会える距離じゃないもん」

 俺たちはそうして最後のシュークリームを食べた。ひとつのそれをふたつに分けて。俺は寂しかったが、新しい生活にも期待していた。新しいものを見て、新しいものと出会う。それが何よりわくわくした。それからあわただしく数日が過ぎ、俺は東京に旅立っていった。駅のホームで、涼子はいつまでも手を振っていたっけ。そうして渡された手紙には、「わたしもきっと東京に行くからね。それまで待ってて。浮気すんなよ」そう書いてあった。俺はその手紙を、ずっと机の引き出しに入れたまま、もうとうにその存在を忘れていたのだ――

 真一はまるで映画の一コマのように目の前にその情景が浮かんだ。そうしていまふと気づいた。この女性はもしかして…いやそんなことはありえない。だって…涼子は高校三年の夏、死んだのだから…真一の心は騒いだ。
 大学一年の夏、真一はその訃報を聞いた。交通事故だという。帰省寸前のその知らせに、真一は絶望した。そうしてそれから墓参りどころか一度も故郷には帰っていなかった。あれから随分と経った。そしてあの夜、彼女に会った。家に帰ってから、何かモヤモヤしたものがずっと頭のなかをさ迷っていた。そして真一は思い出していた。涼子のことを。それはただなんとなく、だったが、なぜか真一には妙な確信があった。それは髪をかき上げるあの仕草だった。

「ごめんね」
「なぜ謝るの?」
「葬式にも行かず、墓参りにも行かないから、きみは怒って出てきたんだろ?」
「それじゃまるでわたし、幽霊みたいじゃないのよ」

 いや幽霊だから、と言おうとして、真一は言葉を呑んだ。それは言っちゃいけない気がしたからだ。

「じゃあなんで?」

 化けて出てきたんだ、という言葉も吞み込めた。まあそれには真一はもう恐怖で言葉が出ない、ということもあったが…。

「やっと見つけたんだよ?だからもう一緒だよ、ずっとね」

 真一は、高校二年の涼子の、あどけない笑顔を思い出した。それからもうずいぶん大人になったように見えて、なんだかとても眩しかった。相手は幽霊だったが。だが涼子がそう言ったとき、真一は震え上がらざるを得なかった。だって幽霊に、ずっと一緒だって言われたのだから。

「そ、そうなの?」
「そうよ」
「じゃ、じゃあ俺はどうなっちゃうの?俺も死んじゃうの?死んで幽霊になっちゃうの?」
「それもありかもね。真ちゃんはどうしたい?」
「俺は…」

 死にたくない。真一はひたすらそう思った。しかしそれは許されるのか、とも思った。涼子の幽霊はもう目の前にいる。それはすでに憑りつかれた、ということだろう。そういうものの末路はたいてい、狂い死にだ。

「わたし、真ちゃんと一緒なら、何でもいいよ」
「何でもいいって、どういうことだよ」
「どういうこともないでしょ?また一緒にシュークリーム食べようね」
「いやだからそれ、どこで売ってたんだよ!」
「うんとね、えへへ、青山墓地」
「マジかよ」

 真一は、いまだ一人暮らしだ。しかしそれは見た目だ。見える人が見たら、それはそれは仲の良い二人が、手をつなぎながらショッピングモールで買い物をしている、ように見えるだろう。まあ見えない人が見たら、ブツブツひとりごとを言いながら、ショッピングモールをうろつく頭のおかしな男、にしか見えないのだが。まあ一番大事なことは、真一たちが幸せか、ということだけだ。われわれがとやかく言うことじゃない。   //// 思い出のシュークリーム ~おわり~