違和感のある扉 ~死界文書短編通信

 事務所の時計を見た。もう午後十時をまわっていた。真一は椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。それからカバンに書類を詰めはじめ、あとは机を見回し、忘れ物がないか確認した。

「よし、大丈夫そうだな」

 そう言って彼は飲み終わった缶コーヒーを机のわきの小さなゴミ入れに放り込んだ。事務所の窓には向かい側のビルの明かりが見えている。まだ仕事してるんだなと、真一は「ごくろうさま」と小さくつぶやいた。
 真一が勤める会計事務所は、まあそれほど大きい規模ではないが、かなり多くの企業の顧客を抱え、それなりに忙しかった。ふだんならこんな時間に帰ることはなかったが、今日は事務所の休みで、仕事で出て来ていたのは真一だけだったのだ。

「コーヒーでも飲んで帰るかな…」

 事務所のドアのカギをかけ、真一はそうつぶやいた。真一は酒が飲めない。仕事帰りにいっぱいやっていく、という感覚がわからないのだ。夕食はさっき事務所でサンドイッチを食べた。帰って寝るだけだったが、でもそれじゃなんだか味気ない気がしたのだ。
 事務所の入っているビルから出ると、駅に向かう。駅はそう離れてはいないので、やがてオフィス街からにぎやかなネオンの街へと変わっていく。出勤で朝早くそこを通ると、なんだかすごくさびれた感じがしたが、いまはなんだかそれが生き返ったふうに見えた。真一はそれらのネオンを眩しそうに眺めながら、いつも寄るコーヒーショップに入った。まあどこにもあるチェーン店だったが、別にコーヒーにこだわっているわけじゃないので、とくに不満はない。不満はないが、いつも思うこと…いや、思い出すことがあった。

「あそこ、どうしてるかな…」

 それは真一の子供時代、両親に連れられて行った喫茶店のことだった。東京から離れた、いわゆる地方都市。その隅っこの駅前にあった小さな喫茶店だ。大学に入り、いまの仕事をするまで一度も故郷には帰っていなかった。たまに両親が東京に遊びに来るので、別にそれでいいと思っていた。まあ心残りがないと言ったら嘘になる。真一には思い出があった。あの故郷の駅前の喫茶店のシュークリームだ。ふわふわで、表面はカリッとしていて、そして香ばしい香り。なかには生クリームとカスタードクリームがいい具合に入っていて、子ども心に真一は、その舌がとろけてしまうほど美味しいと思っていた。

「最後に行ったのは…合格発表の前日だったっけ」

 大学に受かり、東京に来てからはあのシュークリームは食べていない。もちろん同じような菓子はいくつも買ったが、あの店の味のするようなものは一度も食べたことがなかった。
 窓際に並んだカウンターテーブルに肘をつき、真一は窓の外の景色をぼんやりと眺めながらコーヒーを飲んでいた。そのとき、隣の席に誰かが座った。見るとはなしに窓に映るその姿をチラとみると、髪の長い若い女性が…年の頃なら真一と同じくらいに見えた。まあ窓に映った姿だから、あまり正確なところはわからない。まあそれだけで、真一はその女性から一切の関心を消した。しかしふたたび真一がその女性に関心を向けざるを得ない、そんな事態が起きた。

「え?」

 真一が驚いたのも無理はなかった。真一の隣に座ったその女性が、おもむろに自分のバッグから紙袋を取り出し、テーブルに置いた。まあそれだけじゃ真一も注意を向けなかった。驚いたのはその紙袋から取り出したものだ。そうして女性はそれをつまみ、小さな口で食べはじめたのだ。それは明らかにこの店で売っているものではなかった。いや、この店には売っていないもの…それはなんとも美味しそうなシュークリームだった。
 真一はなんだかドキドキしていた。自分が店以外で買ってきた菓子を食べている、そんな気持ちになったからだ。店で売っている以外のものをその店で食べるなんて、なんて非常識だとも思った。うしろを振り返ると、カウンターの店員は何も気づかないようだった。もちろん真一には関係のないことだ。知らんふりしていればいいことだとも思った。だがそうもいかないことに真一は気づいた。

…それってあの駅前に喫茶店のシュークリームじゃないのか?

 まったくあり得ないことだった。あのシュークリームは、どこを探しても売っていないはずだ。それがなんで…。しかしかすかに漂ってくる香りは…もう間違いなくあのシュークリームだと真一は思い、そうしてこんどは真一の目がそれから離れなくなってしまった。そしてそれはすぐその女性に気づかれることとなった。

「おかしいですか?でもわたし、我慢できなくって。うふふ」

 屈託なくその女性は真一に笑顔を向け、そう言った。真一は顔が真っ赤になるのもかまわず、女性に顔を寄せ、小声で言った。

「それってよその店のやつですよね?ヤバくないですか」

 そう真一が言うと、女性はまたクスッと笑った。そうしておもむろに紙袋からあのシュークリームを取り出し、そっと真一に差し出した。

「だったら共犯」
「え?くれるんですか?」
「すごく美味しいんですよ、ここの」

 そう言ってその女性はペロッと小さな舌を出した。そのしぐさがあまりにも可愛かった…いや、強烈に何か思い当たるような気がして、真一は再びドキドキしてしまった。

「も、もしかしてこれって…」

 真一はその一番重要なことが聞きたかった。このシュークリームはあの店のなのか、と。

「これは青山にある洋菓子店で買ったの。そこはすっごい人気で、これもはやく行かないと買えないのよ。でも今日はちょっと用事でその近くに行ったから、ついでに買えたの。ねえ食べてみて。すっごく美味しいんだから」
「はあ…」

 思っていたこととは違った。だから真一は少しだけ拍子抜けした。そうしてその分、さっきから感じていた違和感が妙にむくむくと膨れ上がって来ていた。だからつい、真一は聞いてしまった。

「あの、あなた俺とどこかで会ってませんか?」

 女性はその長い髪をかき上げるようにして真一をいちど見、そして目を伏せこう言った。

「さあ、わかりませんね。でも、このあたりにはよく来るから、どこかですれ違っているかも」
「そう、ですよね」

 真一はそう返事をし、そうしてもらったシュークリームを一口食べた。もちろん店員に見られないように。そうしていきなり背筋が伸びた。これはあのシュークリームだ!間違いない。真一はそう思った。

「あの、これ!」
「しーっ。バレちゃいますよ」
「あ、ああそうですよね」
「そんなに美味しかったですか?」
「いえ、いえそうじゃなく、すごく美味しいです。ですが…」
「どうかしました?」
「故郷で食べたものと、瓜二つなんで驚いたんです」
「まあ、そうなんですか。それはよかったですね」

 そう言って女性はまた髪をサラリとたくし上げ、小さく笑った…のだが、どうも真一には、なんだか彼女の目は笑ってないように、感じた。

「あの、お名前を…」
「べつにお礼なんかいいですよ。いつもここに来るんです。また会えたらいいですね」

 彼女はバッグを大事そうに抱え、そして真一にチョコンとお辞儀をし、席を立った。それがあまりにも自然な流れだったので、真一はただあっけに取られてそれを見ていただけで、彼女が店から出ていくまでボーっとしているだけだった。しばらく真一はそのままの格好で、不思議な余韻と、そしてさらに膨れた違和感に苛まれてしまっていて、どうにもからだが動かなかった。

 それからしばらくして、偶然街角で彼女を見かけた。