違和感のある扉 ~死界文書短編通信

 損失感と虚無感は同じだ。それが同時に起きれば絶望のどん底だ。もう何もする気力もなくなった。だが会社にはいかなければならない。それは俺個人の存在を否定することだ。会社があることで俺の価値がわずかながらでもあるということだから。だが目の前の箱にはもう価値はない。ただの、猫の死骸が入った箱だ。

 「どうすっかなあ…」

 それは彼女の始末、ということになる。始末、と考えて俺は少し落ち込んだ。悲しさや寂しさはあった。だけど、損失感がそれを押しとどめているのだ。わずかな期間の思い出だけが、頭の中を無秩序に駆け巡るだけで、感傷はほとんど感じていないことに気がついた。とにかくこれをどうにかしなくちゃ…ただそれだけを考えていた。
 だがもう会社に行かなくてはならない。俺はとっさに彼女をビニール袋に入れ、ガムテープでぐるぐる巻きにした。なぜそんなことをしたのか、後になって冷静に考えたとき、その自分の行動が恐ろしくなった。俺は彼女が死んだことを理解した。つまりそれから引き起こされる事態を無意識に想定していたのだ。とにかく俺は彼女を毛布にくるみ、箱の中に入れ蓋をした。それからまたガムテープで箱をぐるぐる巻きにし、とりあえず押し入れに置いた。まあ結果的にそれがいけなかったんだと今思う。

 「会社に行ってくるよ」

 俺はそう箱のなかの彼女につぶやいて、玄関を出た。外は嫌な雨が降っていた。傘もささず地下鉄の駅に向かう俺の姿に、誰も視線を向けてこなかった。俺は会社がなければ無価値な人間だと思った。ただ会社以外で俺の価値を認めてくれたのは、きっと彼女だけなのだろう…。もうその彼女もいない。

 「猫、死んじゃったのか」

 同僚が悲しそうな顔をしてそう言ってくれた。せまい喫煙室の壁に俺は視線を向けると、ただ小さくうん、とうなづいた。

 「かわいがってたんだろ?」
 「わりかしね。まあ短いあいだだったけど、ちょっとこたえるよ」
 「まあそうだろうな。さあ午後からは得意先回りだ。気持ち切り替えていこうぜ」
 「ああ…」

 気持ちを切り替えろ、と同僚は言った。だがいまの俺にそんな余裕はない。押し入れの彼女を何とかしなければならない。ゴミの日に捨てる?そんなことできない。じゃあ埋める?マンションの植え込み?公園?それこそできっこない。俺は考えあぐね、もうそれからも仕事に集中できなかった。
 あれから何日か経った。じつは彼女はまだ押し入れにいる。捨てる踏ん切りがつかないのと、その行為自体があまりにも難渋すぎて、俺は困り果てていた。いまも彼女はあの箱の中に冷たくなって入っている。そう考えると、何か胸が熱くなる。そうしてその胸の熱さの向こうに、言い知れぬ恐怖が浮かんでいた。

 「レンタカーでも借りて、どこか山の中に捨てるか…」

 そうも考えたが、会社を休んでまでそれはできないと思った。ただでさえここのところ仕事でミスを犯してばかりいる。俺の存在理由がどんどん小さくなっているのが、自分でもわかっていた。俺は途方に暮れ、そして時間だけが過ぎて行った。

 ある夜、俺はふと気づいた。

 「なにかな…」

 いつものようにソファーに寝転がってビールを飲んでいた。だからって、べつに何も解決などしていない。ただ現実から目をそらしているだけだ。だから部屋に帰ってきても、俺は押し入れから目をそらし続けていた。だがいま、その押し入れから小さな音がするのだ。

 カリカリ カリカリ

 聞いたことのある音だった。俺は一瞬、心臓が凍りついた気がした。まさかあの箱の中からか?そんなことあるはずない。俺は自分にそう言い聞かせた。だがまた、かすかに押し入れから、あの何かを訴えるような、そして箱の内側をひっかくような音が聞こえた。

 「おいおい…」

 俺はようやく押入れを開けた。そこにはまだあの箱があった。ずっと何も変わらず、箱はそこにあった。俺は恐る恐る箱に耳を当てた。だが音はしなかった。しばらく箱に耳をつけていたが、やはり音はしなかった。

 「気のせいか…」

 俺はなんだか馬鹿馬鹿しくなった。もしかしたら、一瞬、彼女が生き返ったのかも、と思ってしまったからだ。俺は半分ほど飲みかけたビールをシンクに捨て、そのまま寝床に入った。すぐに眠気が襲った。そうして俺は深い眠りに落ちた。目が覚めたのは深夜だった。べつに喉が渇いたわけでも、尿意をもよおしたわけでもなかった。ただ何となく目が覚めたのだ。すると、また押し入れからあの音がした。

 カリカリ カリカリ

 こんどこそ間違いじゃない。あれは彼女が何かをひっかいている。俺はそう確信した。だが、彼女はもう死んでいるはずだ。俺はちゃんと確かめた。死後硬直だって確認できた。じゃあなんで?俺は箱を開けようか迷った。開ければ彼女が死んでいるか生きているかわかる。だがそれはずいぶん勇気がいる…いやもう勇気どころじゃない、それはもはや狂気というべきことだ。

 「どうすりゃいいんだよ…」

 俺はもう頭の中が真っ白になった。だがまた箱の中からその音はした。

 カリカリ カリカリ

 「やめてくれ!」

 俺が今感じているのは恐怖だ。それは恐怖以外、何者でもなかった。そうして俺は無意識におかしなことを考えた。『シュレディンガーの猫』という物理学の思考実験の話だ。箱を開けるまで、猫が生きているのか死んでいるのかわからない、というやつだ。だが今目の前の箱から、彼女のひっかく音がするのだ。それが何を意味するのかは分からないが、とにかく彼女に異変があることは間違いないと思った。
 だけど俺には勇気がなかった。もちろん狂気もない。そんなものは人生でたった一度きり、使っただけだ。彼女が死ぬ前に、彼女は玄関にたたずんでいた。きっとここから出て行きたいんだろうと俺が思ったとき、俺のたった一度がそれだった。

 カリカリ カリカリ

 それは何か悲しい音だった…。真夜中、いま俺の部屋には、その音だけが響いていた。俺はただ震えながらずっと寝床で耳をふさいでいた。それを救ってくれたのは、朝の陽ざしでもなければ、街の喧噪でもなかった。ただ玄関のチャイムの音だった。俺は救われたと思った。俺はすっ飛ぶように寝床から起きだし、パジャマのまま玄関に走った。ただ一度、俺は押し入れの箱をチラと見た。玄関を急いで開けると、そこには数人の男たちが立っていた。そのなかの、陰険そうな顔をした中年の男が俺に一枚の紙を広げ、見せた。

 「中川勉さんですね?わたしは警視庁捜査一課の田宮と申します。じつは半年前、家出中の高校生の娘さんが行方不明になり、調べたところ、あなたといっしょに歩いているのを監視カメラの記録から見つけました。署で、お話を聞かせてくれますね?」
 「いや、それって家出の女子高生ってことですよね?そんなの知りません」
 「いや裏は取ってるんですよ。半年前からあなた、そこのコンビニで毎回二人分の弁当を買っているでしょ?それも数日前からパタッとまた一人分に戻っています。どういうことでしょうね?」
 「そ、それは死んだ猫にやってたからで、その猫はもう死んじゃって…」

 俺はいまどんな気持ちだろう。彼女の死が悲しいのか。それともそれが知られるのが恐ろしいのか…。

 「猫?どんな猫です?」
 「そ、それは三毛猫です。髪の毛をアンズ色に染めた猫です」
 「髪の毛、ですか…」

 俺はふと、あの日のことを思い出した。出て行こうとする彼女の首を、ちょっとだけ触ったことを。ああ、ほんとうに…ほんのちょっとだけ、触ったんだ…。

 またあの音がした。あの箱からだ。いま俺は悟った。アンズはきっとそこから出たいのだろう、と。   //// シュレディンガーの猫 ~おわり~