違和感のある扉 ~死界文書短編通信

 都内のワンルームのマンションって、生活するにはすごく便利だ。駅が近いと家賃は十万円を超すが、まだ独身で養う家族も仕送りする父母もいないので、安サラリーマンでもなんとかやっていける。同期で独身は俺だけになったが、結婚して家族が増えたりすれば、こんな自由で便利なところから都心を離れた場所に移っていくしかない。
 とはいえ、少し寂しいこともあった。まあそれは少し前までだ。いまは可愛い彼女と同居しているからね。彼女の名前はアンズ。拾ったときはずぶ濡れのボロボロだった。残業つづきで精神的に参っていたあの終電から降りた雨の夜、駅前の公園でそれと出会った。それは可哀そうとかじゃなく、何か義務感みたいな気持ちで、とにかくマンションに連れて帰った。くそ真夜中にそいつとシャワーを浴び、乾かしてやった。そのときもまったく鳴かず、ただぶるぶる震えていた。
 アンズは三毛猫だ。頭にでかいアンズ色の毛が生えていた。それと鳴き声が出せないのか、鳴くようなしぐさをしても、その声は聞こえず、ただカサカサした声を出した。だからアンズがなにか意思表示をするときは、その可愛らしい前足でそこらをカリカリとひっかくようにするのだった。

「なんだアンズ、飯か?」

カリカリ カリカリ

「待ってろ。柔らかくしてやっから」

 アンズの飯はコンビニで買った。家の近くのコンビニからだ。都心で暮らすメリットはこういうところにあるんだ。ただ、レンチンするとアンズは一切食べない。まあ風味が飛んじゃう、からかもしれない。アンズは歳はわからなかった。若いのかどうか、本当は何歳かはわからなかったが、見た目だけは若そうに見えた。それに声が出せない理由もわからなかった。ただ、そんなにひどい環境にいたんじゃないとは思った。だって、こんなになつっこいんだから。ふつうの野良猫だったら、こんなに人に警戒心がないなんてあり得ないからね。

「猫を飼ってるって?」

 ある日同僚が不思議そうな顔をして俺にそう言った。休憩のとき、俺がなにげにそんなことを言ったからだ。

「ああ、捨て猫を拾ったんだ」
「へえ、おまえがねぇ…。生き物なんかに興味ないかと思ってたんだがな。彼女いないし」
「彼女は生き物か。まあそうだけど。いやしかし俺だって生き物くらい飼うぜ。小学生の頃はインコ飼ってたし」
「ああそう。ちなみに俺んちはまた今度、生き物が増える」
「はあ?何か飼うのか?」

 同僚は、愁いを込めた目で喫煙室の低いボックスの天井を見ながら、プウと紙煙草の煙を吐いた。

「三人目が生まれるんだよ。出産祝いよろしく」
「聞かなきゃよかった」
「そういやおまえのマンション、猫って飼えるのか?」

 ペット可のマンションもあるが、俺のところはあいにくペット不可だった。

「いや、飼えないんだがな」
「じゃあどうしてんだ?管理業者にばれたらまずいだろ」
「いやそれがな、うちの猫鳴かないんだ。ニャーとも鳴かないのさ」
「それって…」

 生まれつきかもしれないが、じゃなかったら猫の前の飼い主が、鳴かないように手術することもあるって同僚は言った。俺はそんな残酷なこと、と思ったが、でもそのおかげで俺のマンションで飼えるのだから、それは残酷とは言えないんじゃないかと少し思った。まあそんなことはどうでもいい。俺はあの小さな箱のような部屋に帰ることが、いまはとても切なく思えるのだから。深夜、家に帰る。ただいまー、と小声で言う。そうするとワンルームの部屋からすっ飛んで彼女が来る。そうして俺の顔を見ると、玄関のフローリングの端を――

カリカリ カリカリ

 と爪たてながら挨拶してくれる。俺はもうそれで、一日の疲れ、残業の疲れなんか吹っ飛んでしまうのだ。俺が眠るまでの少しのあいだ、缶ビールを飲んで座るソファーに彼女は俺の膝に乗る。毛づくろいをしながら、俺がまるで彼女の専有物みたいな態度で、ときどき尊大なまなざしでなにもない狭いワンルームの部屋を見回しながら、そうして俺を見返す。俺はそういう時間が好きだった。まあ寝るときは俺はベッドで、そして彼女はお気に入りの箱の中で寝る。こいつはたまたまマンションのゴミ捨て場にあったものだ。ちょうど大きさがアンズに合っていたんで拾ってきた。彼女はたいそうこの箱がお気に召したらしく、それ以来そこを寝床にしていた。

 そうしたある日、終電を逃し、タクシーで帰宅した時だった。時間は深夜二時。何の音もしない、そんな夜だった。

 彼女は箱の中で、冷たくなっていた。