いまは祖母だけが住んでいる家に戻ると、ぼくは両親にその話をした。まだ親戚たちが多く残っていた大広間で、ぼくは困った顔をしながらだった。
「山に登った?裏の山か」
父は怪訝そうに、しかしどうでもいいといった顔だった。親戚相手の酒盛りの最中でもあったようで、ふん、とめんどくさそうに鼻で笑われた。
「もう大学生にもなるのに、まるで子供だな、おまえ。その年で虫取りかよ」
「いやもういい」
あの白い虫のようなものの正体を知りたいと思った。ずっとこの村で暮らしてきた父なら知っていると思った。当てが外れたようだ。祖母は母と親せきのおばさん連中とずっと台所に立っている。どうにも聞けるようじゃない。ならほかの者に聞こうか?いやそれは広間で酒盛りの最中だ。この村のほとんどが台所か広間だ。ぼくは妙に孤独感を感じ、部屋に戻った。
そこは小学校三年までぼくが使っていた部屋で、引っ越すとき持っていかなかった古いおもちゃなどがきちんとしまってあった。ぼくはゆっくりと畳に腰を下ろし、そのまま畳に寝そべって、あの山の頂上のことを思い出した。もうどうでもいいようなことなのに、なぜかぼくの頭には、あの白いものの姿ばかりが浮かんでいた。
「なんだったんだろうな、あれ」
そう言ってぼくは手首を見た。あの赤い小さな傷は、もう薄茶色の小さな点になっていた。とくに痛みも腫れもない。あれが虫だったのかさえもうどうでもいいと思っていた。そう考えたら、なんだか気も楽になる。おかげで山登りで汗だくになった自分の体や服が気になった。シャワーでも浴びたいな…。汗でかゆくなった足首を搔きながらそう思った。掻いてて違和感があった。足首を掻く指に、何かブツブツとした感触が伝わる。なんだろうとズボンのすそをまくり上げて、ぼくは一瞬血の気が引いた。そこにはあの白い小さな粒が、無数に張り付いていたのだ。
「う、うわっ!」
ぼくはとっさにそのツブツブをむしり取った。それは爪で引きはがさないほど取れなくて、そしてそれはびっしりとぼくの足首にくっついている。むしり取っていくそれは、落ちて畳にプチプチと小さな音を立てた。ぼくはものすごく薄気味悪くなって、しかしそれを殺してもう一方の足首のズボンのすそをめくった。
「こっちもかよ!」
それは果たしてもう絶望するほど、それはそこに張り付いていた。いまむしり取った足首の皮膚は無数の搔き傷と、そして小さな赤い点がびっしりと刻まれている。だけどぼくはそれにかまわず、もう一方の足首に付いたそれらをむしり取った。やっぱりそこは搔き傷と赤い点がびっしりとなり、そうしてぼくは途方に暮れてしまった。畳の上にはその白いものが見える。よく目を凝らしてみると、それはなんだか動いているように見えた。
「これやっぱり虫じゃねえか!」
山にそれがいたんだと思った。きっとダニのようなものに違いない。この赤い点はきっと血を吸われた跡なんだと思った。そう思ったら、一段とおぞましい気持ちが込み上げてきた。だがその白い虫をそのままにはしておけない。
「ばあちゃん、掃除機はどこ!?」
祖母は母と何か話していたようだ。台所を仕切る暖簾から祖母は顔を出した。
「掃除機?なにすんだ」
「へ、部屋の掃除すんだよ」
「お前が山に行ってる間に掃除機かけてっけど」
「木っ端やなんか変なもんが服にくっついてきた。きたねえから掃除すんだ」
祖母はそう聞いて首をかしげたようだ。そうして台所の隅にあった掃除機をぼくに手渡してくれた。
「そうか…。まあ、朝言いそびれたんだけんど、山深く入ると虫が出るんさ。その虫は少し厄介でな、鹿とか熊とか、そういう獲物が来るとそれにとりついちまう。そうしてそりゃわんさかとな。そいつにとりつかれた獲物はやがて、そいつらに血をごっそり吸われて、運が悪けりゃ枯れ木みたいになって死んじまうっつう話だ。まあ裏山あたりにゃいるなんてことはないが、いまでも営林署のやつらは山に入るときには冬でも虫よけを持っていくそうだ」
そういうことははやく言えよ、とぼくは思った。だがどうやらぼくはそいつらの餌食になったと思った。
「そいつにとりつかれたらどうすりゃいいんだ?」
「おまえ、虫を見たんか?」
「うん、小さいやつを」
「そりゃ大ごとだ。はやく取らねえと血を全部吸われるぞ」
「もうみんな取ったぞ。いま畳の上だ」
そこに赤い顔をした父がのっそりとあらわれた。いまの話を聞いていたらしい。
「なんだばっちゃん、虫の話か?」
「ああ、孫が虫にくわれたってよ」
「まだそんな話してんのか。ありゃ嘘話だろ」
「嘘なもんかい」
祖母はちょっと怒った顔を父に向けた。
「戒め話と言ってな、山に軽々しく入るのを戒めてんだぞ。それにイボタロウはほんとにいるんだぞ」
「イボタロウ?なにそれ」
ぼくはもうなんだか不安が爆発しそうになっていた。だから祖母に食って掛かるようにそれを聞いた。だが父がぼくを遮るように、そしてぼくの不安を見透かすように言った。
「落ち着け。イボタロウってのはカメムシ科の害虫だが、そりゃあ柑橘類にわくやつだ。カイガラムシの仲間で人に害はない」
「ほんと?」
「得意のネットで調べてみろ。まあ裏山にそんなもんがいるなんてことはないがな」
ぼくはその名を聞いて少し安心した。安心したら腹が立った。まったくろくでもない害虫だ。よりによって人間様にたかるなんて。今度行くときは、虫よけ…いや殺虫剤を持って行ってやろう、と心に決めた。
そうしてぼくは掃除機をかついで、ぼくの部屋に戻った。畳の上にはさっきの白いやつらがまだいた。どうやら動きはそんなに速くないようだった。掃除機ですっかりそれを吸い取ると、カートリッジ式のゴミのそれを外し、家の裏で焼いた。
「まったく災難だったな」
ぼくはそうつぶやくと、こんどはちょっと安心して、そして汗のことを思い出した。掃除機を台所に返すと、ぼくはふろ場に行き、服を脱いで…ふと鏡を見てしまった。声にはならない声が、ぼくの喉から放り出された。 //// 白いもの ~おわり~
「山に登った?裏の山か」
父は怪訝そうに、しかしどうでもいいといった顔だった。親戚相手の酒盛りの最中でもあったようで、ふん、とめんどくさそうに鼻で笑われた。
「もう大学生にもなるのに、まるで子供だな、おまえ。その年で虫取りかよ」
「いやもういい」
あの白い虫のようなものの正体を知りたいと思った。ずっとこの村で暮らしてきた父なら知っていると思った。当てが外れたようだ。祖母は母と親せきのおばさん連中とずっと台所に立っている。どうにも聞けるようじゃない。ならほかの者に聞こうか?いやそれは広間で酒盛りの最中だ。この村のほとんどが台所か広間だ。ぼくは妙に孤独感を感じ、部屋に戻った。
そこは小学校三年までぼくが使っていた部屋で、引っ越すとき持っていかなかった古いおもちゃなどがきちんとしまってあった。ぼくはゆっくりと畳に腰を下ろし、そのまま畳に寝そべって、あの山の頂上のことを思い出した。もうどうでもいいようなことなのに、なぜかぼくの頭には、あの白いものの姿ばかりが浮かんでいた。
「なんだったんだろうな、あれ」
そう言ってぼくは手首を見た。あの赤い小さな傷は、もう薄茶色の小さな点になっていた。とくに痛みも腫れもない。あれが虫だったのかさえもうどうでもいいと思っていた。そう考えたら、なんだか気も楽になる。おかげで山登りで汗だくになった自分の体や服が気になった。シャワーでも浴びたいな…。汗でかゆくなった足首を搔きながらそう思った。掻いてて違和感があった。足首を掻く指に、何かブツブツとした感触が伝わる。なんだろうとズボンのすそをまくり上げて、ぼくは一瞬血の気が引いた。そこにはあの白い小さな粒が、無数に張り付いていたのだ。
「う、うわっ!」
ぼくはとっさにそのツブツブをむしり取った。それは爪で引きはがさないほど取れなくて、そしてそれはびっしりとぼくの足首にくっついている。むしり取っていくそれは、落ちて畳にプチプチと小さな音を立てた。ぼくはものすごく薄気味悪くなって、しかしそれを殺してもう一方の足首のズボンのすそをめくった。
「こっちもかよ!」
それは果たしてもう絶望するほど、それはそこに張り付いていた。いまむしり取った足首の皮膚は無数の搔き傷と、そして小さな赤い点がびっしりと刻まれている。だけどぼくはそれにかまわず、もう一方の足首に付いたそれらをむしり取った。やっぱりそこは搔き傷と赤い点がびっしりとなり、そうしてぼくは途方に暮れてしまった。畳の上にはその白いものが見える。よく目を凝らしてみると、それはなんだか動いているように見えた。
「これやっぱり虫じゃねえか!」
山にそれがいたんだと思った。きっとダニのようなものに違いない。この赤い点はきっと血を吸われた跡なんだと思った。そう思ったら、一段とおぞましい気持ちが込み上げてきた。だがその白い虫をそのままにはしておけない。
「ばあちゃん、掃除機はどこ!?」
祖母は母と何か話していたようだ。台所を仕切る暖簾から祖母は顔を出した。
「掃除機?なにすんだ」
「へ、部屋の掃除すんだよ」
「お前が山に行ってる間に掃除機かけてっけど」
「木っ端やなんか変なもんが服にくっついてきた。きたねえから掃除すんだ」
祖母はそう聞いて首をかしげたようだ。そうして台所の隅にあった掃除機をぼくに手渡してくれた。
「そうか…。まあ、朝言いそびれたんだけんど、山深く入ると虫が出るんさ。その虫は少し厄介でな、鹿とか熊とか、そういう獲物が来るとそれにとりついちまう。そうしてそりゃわんさかとな。そいつにとりつかれた獲物はやがて、そいつらに血をごっそり吸われて、運が悪けりゃ枯れ木みたいになって死んじまうっつう話だ。まあ裏山あたりにゃいるなんてことはないが、いまでも営林署のやつらは山に入るときには冬でも虫よけを持っていくそうだ」
そういうことははやく言えよ、とぼくは思った。だがどうやらぼくはそいつらの餌食になったと思った。
「そいつにとりつかれたらどうすりゃいいんだ?」
「おまえ、虫を見たんか?」
「うん、小さいやつを」
「そりゃ大ごとだ。はやく取らねえと血を全部吸われるぞ」
「もうみんな取ったぞ。いま畳の上だ」
そこに赤い顔をした父がのっそりとあらわれた。いまの話を聞いていたらしい。
「なんだばっちゃん、虫の話か?」
「ああ、孫が虫にくわれたってよ」
「まだそんな話してんのか。ありゃ嘘話だろ」
「嘘なもんかい」
祖母はちょっと怒った顔を父に向けた。
「戒め話と言ってな、山に軽々しく入るのを戒めてんだぞ。それにイボタロウはほんとにいるんだぞ」
「イボタロウ?なにそれ」
ぼくはもうなんだか不安が爆発しそうになっていた。だから祖母に食って掛かるようにそれを聞いた。だが父がぼくを遮るように、そしてぼくの不安を見透かすように言った。
「落ち着け。イボタロウってのはカメムシ科の害虫だが、そりゃあ柑橘類にわくやつだ。カイガラムシの仲間で人に害はない」
「ほんと?」
「得意のネットで調べてみろ。まあ裏山にそんなもんがいるなんてことはないがな」
ぼくはその名を聞いて少し安心した。安心したら腹が立った。まったくろくでもない害虫だ。よりによって人間様にたかるなんて。今度行くときは、虫よけ…いや殺虫剤を持って行ってやろう、と心に決めた。
そうしてぼくは掃除機をかついで、ぼくの部屋に戻った。畳の上にはさっきの白いやつらがまだいた。どうやら動きはそんなに速くないようだった。掃除機ですっかりそれを吸い取ると、カートリッジ式のゴミのそれを外し、家の裏で焼いた。
「まったく災難だったな」
ぼくはそうつぶやくと、こんどはちょっと安心して、そして汗のことを思い出した。掃除機を台所に返すと、ぼくはふろ場に行き、服を脱いで…ふと鏡を見てしまった。声にはならない声が、ぼくの喉から放り出された。 //// 白いもの ~おわり~
