ベタな私の孤独論

 月曜日の朝、奈央は職員室へ向かった。倫理準備室には行かず、一直線に富田の席へ行く。すぐにでも、渡したい物があるからだ。
「おはようございます。進路調査票、持ってきました」
「んぇっ」
 よほど驚いたのか、富田は身体を激しく揺らした。腕が机にぶつかり、積んであった本やペンが落ちて行く。けれど富田は、真っ先に奈央の進路調査票を手に取った。
 書いてある『廣沢大学哲学科』の文字を見て「おお」と、大きく頷く。
「そうかそうか。やっぱり、そっちなんだな」
「やっぱりって、なんですか」
「黒瀬だよ。芹沢は昔のアイツにそっくりでさ~」
「昔……を、知ってるんですか?」
「お? 聞いてないか? あいつの高校三年間、担任は俺だったんだよ」
「え」
 そういえば、この学校の卒業生だと言っていた。勤続年数の長い教師なら、当時を知っているのは当然だ。
「そうなんだ。どんな生徒だったの?」
「そりゃもう、厄介の親玉みたいな奴だったよ。授業出てんのに、なんか、こう、出てねえんだよな。いっつもいるのに、存在してないっつーか」
「なんですかそれ」
「わはははは。直接聞いてみろ。仕方ないから、イベントだの寺社仏閣だの、校外学習しこたま設けて遊ばせて、ギリギリ出席にしてやったんだ」
「イベントって……もしかして、レジャー体験みたいなやつですか?」
「そう。感想文一個で一日出席。優しいだろう」
 奈央の呼吸が、一瞬とまる。富田は生徒に向き合う人だと、黒瀬は言っていた。
(……あれは、ともちゃん自身の経験だったのか)
 わずかに口角が重くなった。
(不愉快とまでは言わないけど……)
 肩透かしを食らった気分だ。しかし、富田は目尻を下げて「ひひひ」と笑っている。
「たまーにいるよ。お前たちみたいな、孤独になりたがる生徒」
 今度は奈央の身体が揺れた。
「どういう、意味ですか」
「まんまだよ。考えんと動けない。考えたいから、一人の時間を必要とする。結果、集団の中で浮いちまう。賢すぎるのも考えものだな。気づける選択肢が多すぎるんだ」
 それもまた、聞いたことのある言葉だ。
「ともちゃんもそうだった?」
「おうよ。三年間、ほとんど倫理準備室にいた。授業も、倫理だけは真面目にやってたな。哲学科に行くって聞いたときは、だろうなと思ったよ」
 ぺんっと、富田は奈央の進路調査票を叩いた。黒瀬に導かれて書いた進路調査票は、富田の手の中にある。第二希望と第三希望は、まだ空欄だ。
(ともちゃんの言葉じゃ、なかったのね)
 でも、滑り止めも哲学科を受けるだろう。
(最悪、寮はなくてもいいや。一人暮らしくらいできる)
 いまだって同室はいない。けれど、奈央は間違いなく生きていた。
「……富田先生」
「先生!? どうした。急に生徒っぽいことして」
「生徒ですよ」
 いつぶりだろう。誰かを『先生』と呼ぶのは。
 富田は国語の教師だ。倫理ではない。けれど、第四希望くらいになら、文学部を入れてもいいかもしれない。
 奈央は一歩下がり、腰から体を曲げた。
「迷惑かけて、すみませんでした」
 自然と頭は下がっていた。野太い男の声で「うわ」と声が跳ねる。職員室にどよめきが広がった。けれど、富田は笑って奈央の顔を上げさせる。
「なんかあれば言え。勉強は黒瀬に見てもらうといい。俺に哲学はわからん」
「はい。あの、三者面談、もう一度設定してもらうことできますか」
「もちろん。けど、北海道は遠いだろ。あれだ。テレビ電話でいいぞ」
「わかりました。それじゃ、失礼します」
 もう一度だけ富田に頭を下げ、奈央は職員室を出た。中から「なにがあったんだ」と、混乱の声が漏れている。
(そこまで問題児だったのか、私は)
 一息つくと、奈央は倫理準備室へ足を向ける。
 もうすぐ予鈴の鳴る時刻だ。けれど、倫理準備室には電気が付いている。遠慮なく飛び込むと、黒瀬はベタに餌をやっていた。
「よお。提出したか、進路調査票」
「この学校で教師になったのは、富田先生がいるから?」
 つまんでいたベタの餌が、黒瀬の指から大量に落ちた。ベタ一匹に与える分量としては、いささか多い。
「問題児だったんだってね、ともちゃん」
「……富田先生は、ろくなことを言わない」
「思ってないくせに」
 ふいっと背を向けられる。黒瀬はベタの餌を置くと、逃げるように冷蔵庫を開けた。口を尖らせる横顔は、普段よりも子どもに見える。
(なんだ。意外と普通の人じゃない)
 奈央は笑いを押し殺し、スキップで黒瀬に駆け寄った。
「なんで国語教師にならなかったの?」
「さあね。コーヒーは?」
「いらない。授業出るから。富田先生の国語なの」
「そう。それは出ておかないと」
 それでも黒瀬は、コーヒーのボトル缶を取り出した。奈央へ差し出し、受け取るのを待っている。
(倫理の授業は週二。火曜日の五時間目と、木曜日の二時間目)
 やっぱり、コーヒーのボトル缶を受け取った。鞄へ入れると、駆け足で廊下へ出る。
「じゃ、明日の五時間目にね!」
 なにも言わず、黒瀬は軽く手を振ってくれた。
 予鈴を自席で聞きながら、本鈴を待つ。一分ほどして本鈴が鳴ると、すぐに富田は入室してきた。日直の号令で挨拶をすると、富田は出席を取り始める。
 出席は五十音順だ。相田という男子生徒を皮切りに、クラスメイトの名前を呼んでいく。同級生の名前なんて、久しぶりに聞いた。
 あ行、か行、順当に進んでいく。さ行に入ると、すぐに奈央の番になった。
「芹沢」
「はい」
 誰かが「え、いるの」と言った。男子の声だ。奈央とは対角線上に座っている。わざわざ振り返ってきて、食い入るように奈央を見た。なぜか、笑っている。
(……なんだろう、この感じ。憶えがある)
 既視感を覚えた。いつだっただろうか。なんのときだろう。
 記憶をたどり始めたとき、黒髪の男子生徒が立ち上がる。廊下側の一番後ろに座っていた男子は、奈央を笑った生徒の首を掴んだ。
「うぐっ!」
「二度目はないと言ったはずだ」
 鋭く言い捨てた黒髪の男子は――ピンク色をしているはずの、天ケ瀬だった。けど、制服は学ランだ。教室が静まり返ると、富田が走り出す。
「天ケ瀬! やめやめ!」
「へ~い」
 富田に腕をつかまれて、天ケ瀬は男子生徒を放り捨てた。左右に揺れるステップで、奈央の元にやってくる。
「なにしてんの。クラス違うじゃん」
「腕は貸さないけど、脚くらいは動かすさ。誰かさんの代わりにね」
「は?」
 天ケ瀬は軽く笑い、颯爽と帰っていった。戻るのだろう。我妻のいる場所へ。去っていく背中を見ると、奈央はだらりと腕を垂らした。
「……ああ、思い出した」
 教室はざわついていた。天ケ瀬への非難と、女子生徒の黄色い声が入り混じる。富田と目が合ったら「ひひ」と笑われた。
 ――そして、奈央は倫理準備室へ行かなくなった。

 それからは、『真面目』な高校生活を送った。高三になると、受験勉強は本格的になる。授業をサボりがちだった奈央は、同級生の倍は勉強を必要とした。
 クラスメイトと仲良くすることは、相変わらずない。だが寂しくはなかった。
 春になり、さらに衣替えを経過すると、急激に気温は冷え込んだ。靴下を二枚重ね履きしながら、試験勉強に明け暮れる。
(富田先生はともちゃんに習えばいいって言ってたけど)
 奈央は塾に通うことを選んだ。理由は単純だ。
(受験科目、国語と外国語と、地歴なのよね)
 結局、倫理の教科書は一度も開かなかった。
(善く生きる方法くらい、自分で考えろってことかしらね)
 そして、黒瀬に会わないまま受験当日を迎えた。落ち着かない気持ちでいたけれど、開花前の桜の下で、奈央の廣沢大学合格は確定した。
 真っ先に合格を報告した相手は、オンラインの三者面談にすら来ない母だった。

 そして、卒業式当日。同級生たちが写真だなんだと盛り上がる中、奈央は倫理準備室へ走った。こんな大事な日だというのに、相変わらず電気はついている。
 そっとドアを開けると、ベタに餌をやる黒瀬の姿があった。
「とーもちゃん」
「やあ」
「いいの? 卒業式に出ないで。いなかったでしょ」
「非常勤が一人いなくたって、誰も気にしないさ」
「私は気にするよ。いないなー、と思ったもん」
 久しぶりの倫理準備室を見回した。なにも変わっていない。なにもだ。
「やあ、ベタ。今日も元気に、孤独してるかい?」
 少し待ってみる。けれど、やはり応答はない。すいっと奈央の顔面を通り過ぎた。
 代わりに違う物がやって来た。コーヒーのボトル缶だ。
「あはっ。相変わらず、コレ飲んでるんだね」
「安いし、いっぱい入ってるし。味に個性もないから無難でいい」
「そうだね。高校生でも飲みやすい。私も、いっぱい飲んだ」
 蓋を開けないまま、奈央は缶を両手で握りしめた。
「思い出したんだ。教室へ行けなくなった理由と、ここに来てた理由」
「へえ。そうなの」
 興味なさげに、黒瀬はコーヒーを一口飲んだ。そういえば、今日はマグカップに入れ替えてくれないらしい。
 奈央はボトル缶を握りしめ、教室のある本館へ視線を投げる。
「男子の前で、生理痛をバラされたの。大声で、女の子の友だちに。二日目ってことも」
「馬鹿だからね、男ってのは。配慮がない。その友だちも」
「うん。すごい恥ずかしかった。皆も笑ってて。でも、一人だけ怒ってくれたのよね」
 水音がした。ベタは悠然と泳いでいる。ただ、水草のことは避けていた。
「……天ケ瀬が、笑った男子を殴ってくれたんだ」
 クラスの違う天ケ瀬が、なぜ奈央の教室にいたかは覚えていない。ただ、あのときも黒髪だった。
「天ケ瀬には我妻がいる。なのに私を守ってくれたのは、嬉しかった」
「知ってるよ。芹沢が倫理準備室へ入り浸るようになったのは、天ケ瀬が来ていると知ってからだ」
「うん、そう。あのころは、普通に天ケ瀬を好きだった。あはは」
 好きじゃなくなったきっかけは、憶えていない。奈央の記憶はベタばかりだ。
「それより、ともちゃんは富田先生の真似してただけってほうが、腹立ったかな」
 奈央はコーヒーのボトル缶を鞄に入れ、ソファへ置く。そして、深く頭を下げた。
「黒瀬先生。三年間、お世話になりました」
 倫理の授業は、正直、あまり憶えていない。それでも、黒瀬は微笑んでいた。今日は寝ぐせもなく、ネクタイも真っすぐだ。
(卒業式、出てくれれば良かったのに)
 逆光の中で見る黒瀬の顔は、なんだか整って見えた。
 すると、黒瀬は手を差し伸べてくる。手には、奈央のベタのボールペンがあった。いつか持っていかれた、ベタのボールペンだ。
「大学でも頑張って」
 けれど奈央は、ボールペンごと黒瀬の手を握りしめる。
「あげる! それじゃあね!」
 奈央はベタのボールペンを手放して、振り返らずに校舎を飛び出した。
 中庭でクラスメイトたちが写真を撮り合っている。家族もいて、感動をわかち合っていた。奈央の家族は、北海道でのんびりしていることだろう。
 そうして、奈央は一人で門をくぐる。振り向きたい物は一つもない。ただ少し、天ケ瀬と我妻の進路が気になった。

(了)