そして土曜日。天ケ瀬と我妻の三人で、レジャー体験イベントへやってきている。
入場ゲートをくぐってすぐ、奈央は目を見開き眉を吊り上げた。
「人、多すぎでしょ!」
汗をかくような気温の中で、数えきれない人数がひしめき合っている。奈央は頭を抱えたが、反して、我妻は髪を振り乱して大きく跳ねた。
「すごーい! アトラクション! 遊園地!」
「エリアごとに、違う物があるんだな」
天ケ瀬の開いた会場案内リーフレットを、我妻も覗き込む。今日の我妻は、細身のブレスウォッチを付けていた。
(どうして三人なのかしら。我妻には、天ケ瀬さえいればいい)
奈央は、そっと二人から離れた。他意はない。ただ、ポツンと孤独に設置されている、会場案内リーフレットを取りたいだけだ。
リーフレットを広げると、写真と文字がぎっしり詰め込まれている。
(へー。いろいろあるんだな。マリン、キャンプ。ビジネスエリアって、なん――)
流し読みしていると、一つの文字に目を奪われた。
(水族館……)
気がつけば、手が鞄に流れていた。奈央のボールペンには、今日もベタが浮いている。
(なんでビジネス? マリンじゃないの?)
作り物の海は、群れに入れてもらえないのだろうか。
ビジネスエリアは、マップの東エリアにあった。脚が東へ向いたとき、天ケ瀬は余計なことを言う。
「VR行くか? 魔法っぽいよ、きっと」
「魔法!? 行く! VRってなに!?」
「仮想現実。ゲームの中に自分が入れる、みたいな」
「魔法使いになれちゃうの!? 使命を負わずに!? なら無給でいいよ!」
二人は腕を組んで歩き出す。VRエリアがどこなのか、奈央は知らなかった。
(……パーカーいらなかったな)
今日は少し暑い。手の甲で汗を拭い、未開の地へ向かった。
VRエリアに入り、まず目に入ったのは巨大なモニターだ。異文化を感じる街並みが映っている。海沿いに真っ白な建物が段を作っていた。
日本では見ない絶景に、さすがの奈央も感嘆の息を漏らす。
「すごい。旅費が浮く」
「他に感想ねえの……?」
天ケ瀬は、浅く苦笑いをした。そう言われても、奈央の思うことは一つしかない。
(この海にも、ベタはいるのかしら)
巨大な四角いモニターは、濃紺の群れから外れた自分を思い出させた。
(……ともちゃんて、休みの日はベタの餌どうするんだろう)
黒瀬がなにをしているのか、急激に気になった。目を閉じると、瞼の裏にベタが泳ぐ。はしゃぐ我妻の声だけが、奈央を陸に縫い留めた。
「いいな~! サントリーニ島、一度は行ってみたいんだよねぇ!」
「うーん。卒業旅行じゃ無理だなぁ」
いつの間にか、我妻は、SF漫画に出て来そうなヘッドセットを付けていた。
(天ヶ瀬よりも、サントリーニ島がいいのかしら)
目の前に天ケ瀬がいるのに、我妻はVRに夢中だ。名前すら呼ばず、見向きもしない。
(VRは仮想現実……)
ためしに、天ケ瀬の腕に抱きついてみた。すると、天ケ瀬は目を丸くする。
「なに。どしたの」
「どう思う?」
「別に……え? なに?」
「……理解できないなと思って」
「なんだよ。勝手に抱き着いといて」
「ああ、いや。あんたの腕に文句あるわけじゃないわよ。ごめん」
暑苦しくなり、奈央は天ケ瀬の腕を放り捨てた。
(予想以上に面白くなかった。もっと、なにかが起きると思っていたのに)
いつも独占欲丸出しの我妻を見ると、VRの説明をするスタッフの腕をつかんでいた。
VRに興味はない。ただ、サントリーニ島の海は気になった。
(あの魚影は、なんの魚かしら)
奈央は鞄に沈んでいたベタのボールペンを取り出した。モニターに映っているサントリーニ島の海に重ねてみる。
(前なら写真を撮った。SNSにアップできるから。でも、私は絆を消した)
けれど心は痛まなかった。誰をフォローしてたかも思い出させない。最後に投稿した日すら記憶になかった。
(でも、ともちゃんは人でなしじゃないって言ってくれた)
倫理準備室の水槽を思い出すと、我妻の叫び声が飛び込んできた。ヘッドセットをつけたまま「普通なら死んでる」と笑っている。無骨なヘッドセットを装着している我妻は、ひどく、普通の女子に見えた。
天ケ瀬は「本当だ」「すごいな」と、軽い相槌は打っていた。けれど、VRに割って入ろうとはしていない。それでも、手は我妻の肩を抱いていた。
(私がはぐれたら、二人はどうするだろう)
忍ぶように、奈央は後退した。ヘッドセットをしている我妻は気づかない。では、天ケ瀬はどうだろう。
わざと鞄を持ち換えてみる。カランとボールペンの転がる音だけが響いた。気づいたのか、天ケ瀬は視線だけを奈央に向ける。
けれど、それだけだった。天ケ瀬は軽く微笑み、また我妻に集中する。
(実は、天ケ瀬のほうが執着してんのかしら)
SNSの通知が来なくても、ぴったりと寄り添う二人を見ても、奈央の心が痛むことはなかった。
(そういや、水族館のブースってどう行けばいいんだろ)
場内の地図を広げると、突如、後ろから手が伸びてきた。
「水族館は、南ゲートの通路を渡るんだよ」
「え?」
落ちてきたのは知っている声だ。奈央を包んだ黒い影を見上げると、黒瀬がいた。
「……寝ぐせ、今日もヤバいね。隠れ引率?」
「そうだよ。校外学習扱いにしたから、出席日数を稼げるぞ」
「マジで」
地味に有難い情報だ。迷わず天ケ瀬に背を向ける。黒瀬はなぜか目を丸くした。けれど嬉しそうでもあり、二人きりで水族館コーナーへ向けて歩き始める。
我妻の声が聴こえなくなったころ、奈央はようやく呼吸を始めた。
「ねえねえ。天ケ瀬って、我妻のために転校して来たのかな」
「さあね。非常勤は生徒のバックグラウンドまで知らないよ」
「ふうん。ともちゃんて、なんで教師になったの? 教職って人気ないよね、今時」
「就職活動をしたくなかったからだよ。人手不足の教職は、引く手あまたなんだ」
「現実的だね。じゃあ、なんで倫理だったの?」
「哲学科を専攻したから。倫理の他に教えられる教科はなくてね」
「消去法ってこと? なら、どうして哲学科にしたの? 就職を前提に考えるなら、必修科目のほうがいいよ。需要の高い学科にすればよかったのに」
「それは俺の台詞だ。なぜ倫理を選択した? 政治経済のほうが役に立つ」
「え」
軽い会話をしていたつもりが、急に突っ込まれた。奈央は慌てて考える。
奈央の学校では、倫理と政治経済のどちらかを選択する。受講生徒数の割合でいくと、六割は政治経済を取っていた。
「……なんでだったかなぁ。政治経済はイヤだった……気がする?」
「なんで? 難しそうだから?」
「意味が薄そうだなぁと思って。だって、時代で変わるじゃない。政治って。でも庶民に政治は動かせない。意味ないのよ。そんな授業を取って、なにか意味ある?」
「厳しいな。でも、倫理も同じだろう。倫理観は時代に左右される」
「そうだけど――……ああ、そうだ。わからなかったんだ。倫理とはなにか」
学年の変わるごとに、どの授業を選択するかの書類を提出する。科目名さえ見れば、授業の内容は想像がついた。けれど、倫理だけはわからなかった。
「辞書で調べたのよね。倫理って単語を。そしたら、道徳とか秩序って書いてあった。変よね。なにが正しいかは、人それぞれよ。誰かに教えられることじゃないわ」
「惜しい。それは『倫理』そのものだな。道徳、モラル、秩序、良心、風紀……これらの向上に尽くすことを『善く生きる』といい、議論が組織化されると宗教になる。これらを論理的に学ぶのが、倫理学だ」
黒瀬はズボラな外見をしている。けれど、倫理を話すときだけは、鋭い目をした。
(そういえば、倫理の先生だったな)
すでに知っていたことなのに、初めて理解できた気分になる。天ケ瀬とは違う笑いかたをして、黒瀬は会場を見回した。
「ここに大勢の人間がいる。では、人間とはなんだと思う?」
「どう定義するか、ってこと? ん~……火を使うとか、知性を持ってるとか……」
行きかう人はさまざまだった。鰯のような集団もいれば、ベタと同じ人もいる。我妻と天ケ瀬と一緒にいた奈央のように、一人で楽しんでいる者もいた。
(そういえば、今日は牧村とやらのライブよね。あの二人は、一緒に行ったのかしら)
通学路にはいろいろな生徒がいた。寮生もいれば、自宅から来ている生徒もいる。
「……人は集団を作る」
「そうだな。議論が組織化されると?」
「宗教になる……善く生きようとする……」
そう、と黒瀬は満足げに頷いた。珍しく、澄ました顔をしている。
「……倫理は、人生に選択肢を増やす学問なのね」
「いいね。考えすぎる芹沢らしい解釈だ。ご褒美に、いいことを教えてやろう。保健室登校をすっ飛ばして、迷わず倫理準備室へ来た生徒は芹沢が初めてだ」
「――ああ」
すっと胸のつかえがとれた。
(そうだ。私は教室へ行かない選択をした。保健室ではなく倫理準備室を選んだ。善く生きる手段を、自分で選んだんだ。倫理準備室を選んだ理由は、覚えてないけど)
どこかで水音がした。倫理準備室のベタは、いまなにをしているだろう。闘う相手がいないと嬉しいのだろうか。寂しいのだろうか。
「ともちゃんって、なんで私たちの相手をしてくれるの?」
「じゃあ聞くが、お前はいま、なぜ俺を選んだ? 我妻と天ケ瀬からはぐれてまで」
「質問に質問で返さないでよ……」
鞄を開けると、ベタのボールペンが転がっていた。
(なんでもなにも、VRに興味ないし。我妻と天ケ瀬だって、お互いしか必要としない)
けれど、イラストのベタは、奈央を見ているがした。ボールペンは、水族館の水槽よりもはるかに狭い。
(入れ物とベタの比率が悪いわよね。どうやって闘えっていうの)
それでもベタは闘魚だ。広げた両手ほど大きい水槽なら、思い切り闘えるだろう。
(生きるためにも、周りを気にせず、躊躇せず、悩むことなく全力で)
奈央の体をベタが通り過ぎた。黒瀬の胸をすり抜けて、そして、どこかへ消えた。
「……そっか。だから私、倫理準備室に行くんだわ」
ゆっくりと黒瀬を見上げると、なぜか黒瀬は笑っていた。
「それはまた、違う話だ」
黒瀬は、奈央の手からベタのボールペンを持っていった。空虚な掌は寂しく感じる。すると、代わりになにかの冊子をくれた。
「なに?」
「考えろ。考えかたがわからないなら、先達に学べばいい」
表紙には、近代的な建物の写真が使われている。大学生くらいの男女が、わざとらしく爽やかな笑顔で歩いていた。冊子のタイトルを見て、奈央は目を見開いた。
「廣沢大学……?」
「哲学科は、考えかたを教えてくれる」
表紙を捲ってみると、目次には『入学願書案内』という項目があった。学部説明のところには、哲学科が存在している。
(これって)
さらにもう一枚、黒瀬は書類を渡してきた。題目は『進路調査票』だ。
「……ともちゃんって、先生だったんだね」
「わかったなら先生と呼べ」
「それはどうかなぁ。だって回りくどいよ、ともちゃんの話」
ベタのボールペンをなくした手で、奈央は大学のパンフレットを握りしめた。
してやられた気分だ。大学なんて興味はなかったのに。でも、廣沢大学は悪くないと思った。なにしろ、大学の設備案内に『寮完備』と書いてある。
黒瀬を見上げると、してやったり――と言わんばかりの笑みを浮かべられた。
「水族館コーナーは、三人で行くといい。友だちと出かけるなんて、受験が始まればできなくなるぞ」
「……まさか、三人で行けっていったのは、それで?」
「ああ。お前たちから、外で遊ぶって選択肢は出ないだろ」
「それだけ? 他には?」
「ないよ。感想文を書いて提出しろ。一応、校外学習だからな」
「げ。なにそれ」
「出席日数にしてやる代償だ。ああ、ほら。来たぞ」
黒瀬は奈央の後方へと視線を飛ばす。髪を振り乱して走っているのは、ヘッドセットを外した我妻だった。
「あ! いた! 奈央ちゃ~ん! あれ!? 黒瀬先生もいる!」
会場スタッフに「走らないで」と言われながら、我妻は奈央に飛びついてきた。
「心配したよ~! 迷子コールしてもらおうかと思っちゃった!」
「それはちょっと」
なぜか我妻は涙目だった。奈央が自分からはぐれたことは、天ケ瀬から聞いているだろうに。それとも、天ケ瀬はなにも言わなかったのだろうか。
ちらりと横目で天ケ瀬を見た。すると、やはり我妻だけを見ている。肩を落として息を吐くと、黒瀬に頭を撫でられた。
「じゃあな」
「帰っちゃうの? 一緒に遊ぼうよ」
「俺はベタに餌をやらないと」
「わざわざ? 土曜日だよ」
「ああ。俺のベタだからな」
それだけ言うと、黒瀬は去ってしまった。
(わざわざ来てくれたの? このためだけに?)
だとしたら相当マメだ。いくら教師でも、ここまでしない。校外学習扱いにするなんて、担任の富田や、他の先生への説明も必要だろう。
「非常勤っぽくないなぁ……」
「ほんとだよな」
ひょいと隣に立ってきたのは天ケ瀬だ。腕には我妻がくっついている。
「ちゃんと話せた? もう平気?」
「は?」
「俺の腕は二本しかないからさ」
笑っていた。両腕で我妻を撫でながら、奈央に向けて笑顔を振りまいている。
「……あんた、さては性格悪わね?」
哲学を学べば、理解できるようになるだろうか。天ケ瀬と我妻のことも。
入場ゲートをくぐってすぐ、奈央は目を見開き眉を吊り上げた。
「人、多すぎでしょ!」
汗をかくような気温の中で、数えきれない人数がひしめき合っている。奈央は頭を抱えたが、反して、我妻は髪を振り乱して大きく跳ねた。
「すごーい! アトラクション! 遊園地!」
「エリアごとに、違う物があるんだな」
天ケ瀬の開いた会場案内リーフレットを、我妻も覗き込む。今日の我妻は、細身のブレスウォッチを付けていた。
(どうして三人なのかしら。我妻には、天ケ瀬さえいればいい)
奈央は、そっと二人から離れた。他意はない。ただ、ポツンと孤独に設置されている、会場案内リーフレットを取りたいだけだ。
リーフレットを広げると、写真と文字がぎっしり詰め込まれている。
(へー。いろいろあるんだな。マリン、キャンプ。ビジネスエリアって、なん――)
流し読みしていると、一つの文字に目を奪われた。
(水族館……)
気がつけば、手が鞄に流れていた。奈央のボールペンには、今日もベタが浮いている。
(なんでビジネス? マリンじゃないの?)
作り物の海は、群れに入れてもらえないのだろうか。
ビジネスエリアは、マップの東エリアにあった。脚が東へ向いたとき、天ケ瀬は余計なことを言う。
「VR行くか? 魔法っぽいよ、きっと」
「魔法!? 行く! VRってなに!?」
「仮想現実。ゲームの中に自分が入れる、みたいな」
「魔法使いになれちゃうの!? 使命を負わずに!? なら無給でいいよ!」
二人は腕を組んで歩き出す。VRエリアがどこなのか、奈央は知らなかった。
(……パーカーいらなかったな)
今日は少し暑い。手の甲で汗を拭い、未開の地へ向かった。
VRエリアに入り、まず目に入ったのは巨大なモニターだ。異文化を感じる街並みが映っている。海沿いに真っ白な建物が段を作っていた。
日本では見ない絶景に、さすがの奈央も感嘆の息を漏らす。
「すごい。旅費が浮く」
「他に感想ねえの……?」
天ケ瀬は、浅く苦笑いをした。そう言われても、奈央の思うことは一つしかない。
(この海にも、ベタはいるのかしら)
巨大な四角いモニターは、濃紺の群れから外れた自分を思い出させた。
(……ともちゃんて、休みの日はベタの餌どうするんだろう)
黒瀬がなにをしているのか、急激に気になった。目を閉じると、瞼の裏にベタが泳ぐ。はしゃぐ我妻の声だけが、奈央を陸に縫い留めた。
「いいな~! サントリーニ島、一度は行ってみたいんだよねぇ!」
「うーん。卒業旅行じゃ無理だなぁ」
いつの間にか、我妻は、SF漫画に出て来そうなヘッドセットを付けていた。
(天ヶ瀬よりも、サントリーニ島がいいのかしら)
目の前に天ケ瀬がいるのに、我妻はVRに夢中だ。名前すら呼ばず、見向きもしない。
(VRは仮想現実……)
ためしに、天ケ瀬の腕に抱きついてみた。すると、天ケ瀬は目を丸くする。
「なに。どしたの」
「どう思う?」
「別に……え? なに?」
「……理解できないなと思って」
「なんだよ。勝手に抱き着いといて」
「ああ、いや。あんたの腕に文句あるわけじゃないわよ。ごめん」
暑苦しくなり、奈央は天ケ瀬の腕を放り捨てた。
(予想以上に面白くなかった。もっと、なにかが起きると思っていたのに)
いつも独占欲丸出しの我妻を見ると、VRの説明をするスタッフの腕をつかんでいた。
VRに興味はない。ただ、サントリーニ島の海は気になった。
(あの魚影は、なんの魚かしら)
奈央は鞄に沈んでいたベタのボールペンを取り出した。モニターに映っているサントリーニ島の海に重ねてみる。
(前なら写真を撮った。SNSにアップできるから。でも、私は絆を消した)
けれど心は痛まなかった。誰をフォローしてたかも思い出させない。最後に投稿した日すら記憶になかった。
(でも、ともちゃんは人でなしじゃないって言ってくれた)
倫理準備室の水槽を思い出すと、我妻の叫び声が飛び込んできた。ヘッドセットをつけたまま「普通なら死んでる」と笑っている。無骨なヘッドセットを装着している我妻は、ひどく、普通の女子に見えた。
天ケ瀬は「本当だ」「すごいな」と、軽い相槌は打っていた。けれど、VRに割って入ろうとはしていない。それでも、手は我妻の肩を抱いていた。
(私がはぐれたら、二人はどうするだろう)
忍ぶように、奈央は後退した。ヘッドセットをしている我妻は気づかない。では、天ケ瀬はどうだろう。
わざと鞄を持ち換えてみる。カランとボールペンの転がる音だけが響いた。気づいたのか、天ケ瀬は視線だけを奈央に向ける。
けれど、それだけだった。天ケ瀬は軽く微笑み、また我妻に集中する。
(実は、天ケ瀬のほうが執着してんのかしら)
SNSの通知が来なくても、ぴったりと寄り添う二人を見ても、奈央の心が痛むことはなかった。
(そういや、水族館のブースってどう行けばいいんだろ)
場内の地図を広げると、突如、後ろから手が伸びてきた。
「水族館は、南ゲートの通路を渡るんだよ」
「え?」
落ちてきたのは知っている声だ。奈央を包んだ黒い影を見上げると、黒瀬がいた。
「……寝ぐせ、今日もヤバいね。隠れ引率?」
「そうだよ。校外学習扱いにしたから、出席日数を稼げるぞ」
「マジで」
地味に有難い情報だ。迷わず天ケ瀬に背を向ける。黒瀬はなぜか目を丸くした。けれど嬉しそうでもあり、二人きりで水族館コーナーへ向けて歩き始める。
我妻の声が聴こえなくなったころ、奈央はようやく呼吸を始めた。
「ねえねえ。天ケ瀬って、我妻のために転校して来たのかな」
「さあね。非常勤は生徒のバックグラウンドまで知らないよ」
「ふうん。ともちゃんて、なんで教師になったの? 教職って人気ないよね、今時」
「就職活動をしたくなかったからだよ。人手不足の教職は、引く手あまたなんだ」
「現実的だね。じゃあ、なんで倫理だったの?」
「哲学科を専攻したから。倫理の他に教えられる教科はなくてね」
「消去法ってこと? なら、どうして哲学科にしたの? 就職を前提に考えるなら、必修科目のほうがいいよ。需要の高い学科にすればよかったのに」
「それは俺の台詞だ。なぜ倫理を選択した? 政治経済のほうが役に立つ」
「え」
軽い会話をしていたつもりが、急に突っ込まれた。奈央は慌てて考える。
奈央の学校では、倫理と政治経済のどちらかを選択する。受講生徒数の割合でいくと、六割は政治経済を取っていた。
「……なんでだったかなぁ。政治経済はイヤだった……気がする?」
「なんで? 難しそうだから?」
「意味が薄そうだなぁと思って。だって、時代で変わるじゃない。政治って。でも庶民に政治は動かせない。意味ないのよ。そんな授業を取って、なにか意味ある?」
「厳しいな。でも、倫理も同じだろう。倫理観は時代に左右される」
「そうだけど――……ああ、そうだ。わからなかったんだ。倫理とはなにか」
学年の変わるごとに、どの授業を選択するかの書類を提出する。科目名さえ見れば、授業の内容は想像がついた。けれど、倫理だけはわからなかった。
「辞書で調べたのよね。倫理って単語を。そしたら、道徳とか秩序って書いてあった。変よね。なにが正しいかは、人それぞれよ。誰かに教えられることじゃないわ」
「惜しい。それは『倫理』そのものだな。道徳、モラル、秩序、良心、風紀……これらの向上に尽くすことを『善く生きる』といい、議論が組織化されると宗教になる。これらを論理的に学ぶのが、倫理学だ」
黒瀬はズボラな外見をしている。けれど、倫理を話すときだけは、鋭い目をした。
(そういえば、倫理の先生だったな)
すでに知っていたことなのに、初めて理解できた気分になる。天ケ瀬とは違う笑いかたをして、黒瀬は会場を見回した。
「ここに大勢の人間がいる。では、人間とはなんだと思う?」
「どう定義するか、ってこと? ん~……火を使うとか、知性を持ってるとか……」
行きかう人はさまざまだった。鰯のような集団もいれば、ベタと同じ人もいる。我妻と天ケ瀬と一緒にいた奈央のように、一人で楽しんでいる者もいた。
(そういえば、今日は牧村とやらのライブよね。あの二人は、一緒に行ったのかしら)
通学路にはいろいろな生徒がいた。寮生もいれば、自宅から来ている生徒もいる。
「……人は集団を作る」
「そうだな。議論が組織化されると?」
「宗教になる……善く生きようとする……」
そう、と黒瀬は満足げに頷いた。珍しく、澄ました顔をしている。
「……倫理は、人生に選択肢を増やす学問なのね」
「いいね。考えすぎる芹沢らしい解釈だ。ご褒美に、いいことを教えてやろう。保健室登校をすっ飛ばして、迷わず倫理準備室へ来た生徒は芹沢が初めてだ」
「――ああ」
すっと胸のつかえがとれた。
(そうだ。私は教室へ行かない選択をした。保健室ではなく倫理準備室を選んだ。善く生きる手段を、自分で選んだんだ。倫理準備室を選んだ理由は、覚えてないけど)
どこかで水音がした。倫理準備室のベタは、いまなにをしているだろう。闘う相手がいないと嬉しいのだろうか。寂しいのだろうか。
「ともちゃんって、なんで私たちの相手をしてくれるの?」
「じゃあ聞くが、お前はいま、なぜ俺を選んだ? 我妻と天ケ瀬からはぐれてまで」
「質問に質問で返さないでよ……」
鞄を開けると、ベタのボールペンが転がっていた。
(なんでもなにも、VRに興味ないし。我妻と天ケ瀬だって、お互いしか必要としない)
けれど、イラストのベタは、奈央を見ているがした。ボールペンは、水族館の水槽よりもはるかに狭い。
(入れ物とベタの比率が悪いわよね。どうやって闘えっていうの)
それでもベタは闘魚だ。広げた両手ほど大きい水槽なら、思い切り闘えるだろう。
(生きるためにも、周りを気にせず、躊躇せず、悩むことなく全力で)
奈央の体をベタが通り過ぎた。黒瀬の胸をすり抜けて、そして、どこかへ消えた。
「……そっか。だから私、倫理準備室に行くんだわ」
ゆっくりと黒瀬を見上げると、なぜか黒瀬は笑っていた。
「それはまた、違う話だ」
黒瀬は、奈央の手からベタのボールペンを持っていった。空虚な掌は寂しく感じる。すると、代わりになにかの冊子をくれた。
「なに?」
「考えろ。考えかたがわからないなら、先達に学べばいい」
表紙には、近代的な建物の写真が使われている。大学生くらいの男女が、わざとらしく爽やかな笑顔で歩いていた。冊子のタイトルを見て、奈央は目を見開いた。
「廣沢大学……?」
「哲学科は、考えかたを教えてくれる」
表紙を捲ってみると、目次には『入学願書案内』という項目があった。学部説明のところには、哲学科が存在している。
(これって)
さらにもう一枚、黒瀬は書類を渡してきた。題目は『進路調査票』だ。
「……ともちゃんって、先生だったんだね」
「わかったなら先生と呼べ」
「それはどうかなぁ。だって回りくどいよ、ともちゃんの話」
ベタのボールペンをなくした手で、奈央は大学のパンフレットを握りしめた。
してやられた気分だ。大学なんて興味はなかったのに。でも、廣沢大学は悪くないと思った。なにしろ、大学の設備案内に『寮完備』と書いてある。
黒瀬を見上げると、してやったり――と言わんばかりの笑みを浮かべられた。
「水族館コーナーは、三人で行くといい。友だちと出かけるなんて、受験が始まればできなくなるぞ」
「……まさか、三人で行けっていったのは、それで?」
「ああ。お前たちから、外で遊ぶって選択肢は出ないだろ」
「それだけ? 他には?」
「ないよ。感想文を書いて提出しろ。一応、校外学習だからな」
「げ。なにそれ」
「出席日数にしてやる代償だ。ああ、ほら。来たぞ」
黒瀬は奈央の後方へと視線を飛ばす。髪を振り乱して走っているのは、ヘッドセットを外した我妻だった。
「あ! いた! 奈央ちゃ~ん! あれ!? 黒瀬先生もいる!」
会場スタッフに「走らないで」と言われながら、我妻は奈央に飛びついてきた。
「心配したよ~! 迷子コールしてもらおうかと思っちゃった!」
「それはちょっと」
なぜか我妻は涙目だった。奈央が自分からはぐれたことは、天ケ瀬から聞いているだろうに。それとも、天ケ瀬はなにも言わなかったのだろうか。
ちらりと横目で天ケ瀬を見た。すると、やはり我妻だけを見ている。肩を落として息を吐くと、黒瀬に頭を撫でられた。
「じゃあな」
「帰っちゃうの? 一緒に遊ぼうよ」
「俺はベタに餌をやらないと」
「わざわざ? 土曜日だよ」
「ああ。俺のベタだからな」
それだけ言うと、黒瀬は去ってしまった。
(わざわざ来てくれたの? このためだけに?)
だとしたら相当マメだ。いくら教師でも、ここまでしない。校外学習扱いにするなんて、担任の富田や、他の先生への説明も必要だろう。
「非常勤っぽくないなぁ……」
「ほんとだよな」
ひょいと隣に立ってきたのは天ケ瀬だ。腕には我妻がくっついている。
「ちゃんと話せた? もう平気?」
「は?」
「俺の腕は二本しかないからさ」
笑っていた。両腕で我妻を撫でながら、奈央に向けて笑顔を振りまいている。
「……あんた、さては性格悪わね?」
哲学を学べば、理解できるようになるだろうか。天ケ瀬と我妻のことも。
