ベタな私の孤独論

 倫理準備室のカーテンを開けて外を見ると、まだ他校の女子生徒は鯉をやっている。
 けれど、自然界に敵はいるもので。黒瀬はニヤリと笑みを浮かべた。
「見てみろ。前島先生の出陣だ」
 天ケ瀬目当てで集まった女子生徒を、中年の女性教師が追い払ってる。男性ではセクハラ騒ぎになりかねない。けれど、気弱な女性では舐められる。
 消去法で、物おじしない女性――厳しい生活指導で恐れられる前島が出向く。これもまた、いつものことだ。
「あーあ。微笑ましいったらないわ」
 ものの数秒で、鯉は霧散した。しかし、天ケ瀬の顔は晴れない。
「ま~た嫌味言われるな。どうにかしろって、俺に言われてもさぁ」
「本当よね。困ってる人が、自分でどうにかしなさいよ。ねえ、ともちゃん」
 黒瀬を振り返ると、冷蔵庫を開けている。コーヒーのボトル缶が見えた。
「俺は困ってないから、前島先生がやるんだ。ピンクと学ラン、評判は?」
「残念ながら、非常に良かったよ。転校するのかって、セーラー服に喜ばれた」
 天ケ瀬は口を尖らせて、黒瀬の隣へ立ってコーヒーを勝手に取り出す。奈央はソファに深く座り、鞄を床に放り投げた。
「あのねえ、嫌われたいなら、万人の怒ることをしないと。人畜無害な奇天烈イケメンは、孤独ではなくカリスマになるのよ」
「孤高を気取るな、とは言われるよ。寂しいなぁ」
 眉をひそめて、天ケ瀬はかすかに笑った。
(へえ。意外)
 奈央の中で、天ケ瀬は寂しさと無縁の印象だった。天ケ瀬はいつも笑顔でいる。どこへ行っても引く手あまたで、常に求められている。我妻も大はしゃぎだ。
(……天ケ瀬に、倫理準備室は似合わない)
 けれど入り浸っている。その理由は、そういえば、知らなかった。
 奈央は身を乗り出して、天ケ瀬の顔を盗み見る。
「興味深い話だわ。なんで寂しいの?」
「そりゃあ、理解してほしいからだ。顔しか興味ない奴は、老後見捨ててくるぞ」
「そう? それは大袈裟じゃない?」
「なんで。だって、そうだろう。内臓を移植しても、俺は俺のままだ。名前だってそう。婿養子に入って姓が変わっても、俺の人間性は変わらない。けど顔は変わる」
 天ケ瀬は、するんと自分の頬を撫でた。
「この顔なら誰でもいいんだよ。どいつもこいつも」
 また少し、意外に思った。天ケ瀬には、攻撃的な言葉も似合わない。
 広げている掌は、意外と大きかった。顔半分をすっぽりと包み込んでいる。いや、顔が小さいのかもしれない。きらめく顔立ちは、間違いなく美しかった。
(顔ねぇ。違うと思うけどな。少なくとも、我妻は)
 タイミングを合わせたかのように、倫理準備室のドアが開く。ぴょこんと顔を覗かせたのは我妻だ。
(結局、いつもの顔ぶれ――……いや、これは……よくないな……)
 我妻は赤いリストバンドを付けていた。その下には、わずかに包帯がはみ出ている。
(またやったのか)
 奈央たち三人の中で、我妻だけは、倫理準備室にいる理由が明確だった。
(出血が多かったのかしら。顔色が悪い)
 保健室登校という仕組みを知ったのは、我妻の騒動からだ。
 高一の一学期、授業中に手首を切ったらしい。当時クラスの違った奈央は、噂でしか知らなかった。知っているのは、直後に天ケ瀬が転校してきた事実だけだ。
(学ランは、前の学校の制服でしょうね)
 しかし、それ以上は知らない。強いていうならば、我妻と天ケ瀬は、恋人だと明言していないことくらいだ。誰が聞いても、はぐらかされるらしい。
(なんで、保健室から倫理準備室にステップアップしたのかしら)
 なにかあるのだろう。他人の立ち入れない、深い事情が。
(気にならないといえば嘘になる。けど、聞いたところでなにもできないわ。私はカウンセラーじゃないし、教師でもない)
 我妻のことは好きだ。魔法少女公務員化の発想は面白い。
 それでも、奈央は関わらなかった。
(ともちゃんのいう『寂しさを知らない』ってのは、私は人でなしってことかしら)
 きっと、そうだろう。天ケ瀬を見ていると思い知らされる。天ケ瀬は、いつの間にか我妻を抱き寄せていた。我妻も目を見開いて、じたばた暴れている。
「なに!? なに~!?」
「ご褒美」
「ええ~? 褒めてもらえることしてないよ」
「大丈夫。俺も先生も、いつでもここにいるよ。お前は一人じゃない」
 簡単な一言に、我妻は静止した。天ケ瀬の学ランを握って、人形のように動かない。
 少しすると、天ケ瀬は我妻を解放して手を握る。
「教室、一緒に行くか?」
 行くわけない。いまの我妻に、クラスメイトは毒でしかない――と、思ったのだが。
「……いく」
 意外にも、我妻は頷いた。
(行くのか)
 いつの間にか、我妻の顔色はよくなっている。天ケ瀬は、我妻の頭を覆うようにして抱き寄せた。
「芹沢は? 授業、どうする?」
 ついでのように呼びかけられて、ハッと現実に戻る。
「ここにいる。行っていいよ」
「じゃ、あとでノート貸してやる。行くぞ、沙姫」
「うん」
 ときどき、天ケ瀬は我妻を名前で呼ぶ。ごく稀にだ。
(いつもは呼べない事情でもあるのかしら)
 考え込んでいると、黒瀬がコーヒーをくれる。今日はボトル缶のままだ。
「寂しい?」
「別に。我妻を倫理準備室に連れてきたのって、天ケ瀬じゃないの? ともちゃんて教師っぽくないもん。友だちっぽくもないけど。だから、我妻の心に負担は少ない」
「さあね。生徒のプライベートまで突っ込まないよ。管轄外だ」
「それ。それよ。保健室って、迷える子羊を救おうとするでしょ? わかるよ? そういう職業だろうし。でも、倫理は違う」
 最初に孤独の話を聞いたとき、黒瀬は我妻と天ケ瀬と話せと言っていた。
「孤独になれ。でも、寂しくなるな。これって、我妻と天ケ瀬のことじゃないの?」
 黒瀬はコーヒーを一口飲むと、薄っすらと笑いながら肩をすくめた。
「そう思うのも仕方ない。きみは、寂しさを知らないからね」
「またそれ。そうよ。人でなしだからね、私は。ともちゃんも、そう思ってるんでしょう? 本当は、寂しい人間だなって」
「孤独と寂しさは違うよ」
 コーヒーのボトル缶を置き、黒瀬はベタの水槽を撫でた。
「似ているようで、得るものはまったく違う」
「孤独になったから、寂しくなるんだもんね。確かに、違う現象だわ」
「そういう意味じゃないよ」
「……じゃあ、どういう意味?」
「芹沢は人でなしではないってことだよ」
 黒瀬はデスクの引き出しを開ける。取り出したのは、なにかのパンフレットだ。表紙はさまざまな写真が載っている。渡されて見ると、ダイビングやサイクリング、ボーリング場、物販のようなスペースや、トレーラーなどもあった。
「なにこれ。レジャー体験?」
「そう。三人で行ってごらん。答えが見つかるはずだ」
「はあ……このイベントで……?」
 パンフレットを捲ると、賑わう遊ぶ人々で埋まっている。孤独と寂しさには無縁に見えた。いまの議題に沿った場所とは、到底思えない。
「考えてごらん。思考はきみを孤独にしてくれる」
「孤独に『してくれる』? なりたいものなの?」
「それを考えるんだよ。さて。俺は授業用のプリントを作るから静かにしててくれ」
「……一人で考えろって? 冷たいんだ」
 ソファに深く座り、奈央はベタのボールペンを握りしめた。
 ベタは語らない。水族館でも、倫理準備室でも、奈央の手の中でも。