五月も下旬になり、制服のブレザーはクリーニングへ回された。高校の塀の内側は、セーターへ姿を変えている。
「冷房つけるの早すぎない? 寒がりへの配慮が足りないわ」
指先を擦り合わせながら、無人の廊下で始業チャイムを聞き流した。窓の外を見ると、数名の生徒が走っている。向かう先にあるのは、全三学年の教室棟だ。
「どうせ遅刻なんだから、歩けばいいのに」
朝一番はショートホームルームをする。濃紺のセーターたちは、教室で群れを形成しているだろう。人間の整列ぶりは、鰯よりも均等で直線的だ。
「群れからはぐれた魚って、すぐ食べられちゃいそうだよねえ」
走っていた全員が建物に入ると、奈央は教室棟に背を向けた。選択授業の教室しかない東館を、一人きりでゆらゆら歩く。
(鰯って、群れごと大型魚に食べられるのよね)
しばらく漂うと、明かりの漏れる扉が現れた。扉には『倫理準備室』というプレートが付いている。授業すらおこなわれない部屋へ、奈央は軽やかなステップで飛び込んだ。
西端にある倫理準備室はうす暗い。けれど、きらめく物もあった。蛍光灯の光を跳ね返しているのは大きな水槽だ。青い魚が、一匹だけで泳いでいる。
「やあ、ベタ。今日も元気に、孤独してるかい?」
ベタはふり向いてくれなかった。毅然としていて清々しい。
――倫理準備室でベタを見る。この密やかな時間が、奈央のホームルームだった。
水族館は小ぶりな水槽だったけれど、倫理準備室の水槽は両手で抱えるほど大きい。せっかく広いのに、ベタは水草に埋まっていた。
「青が青すぎて隠せてないよ」
撫でるように水槽を撫でる。すると、奈央の手は水槽に吸い付いて離れなくなった。
「……あ、そっか。これが欲しいんだね」
餌のプラスチックカップに手を伸ばす。一匹しかいないベタには、専用の餌が用意されていた。
「贅沢者め」
蓋を開けると、大きな影が奈央を包んだ。うしろから餌を取り上げられる。
「やったばっかりだから駄目」
「ともちゃん」
深爪の指を躍らせたのは、黒いジャケットの男性だった。持っている出席簿には『倫理 黒瀬智明』と書いてあった。
「二十八で『ちゃん』付けは無理がある。というか、教師を愛称で呼ぶな。先生と呼べ」
「親近感は大事よ。今日も寝ぐせヤバいね。遅刻ギリギリ?」
飛び跳ねた黒瀬の髪を梳いてから、曲がっているネクタイを締め直してやる。けれど、黒瀬はすぐに緩めてしまった。
「お前よりは早くに来てるよ。コーヒー、ホットにするか?」
つんと指先をつつかれた。セーターの袖を引っ張り、手を温めている。それだけだ。
「もう。そういうとこよ?」
「なにが。飲むの、飲まないの」
「アイスでいい。あ、うしろシャツ出てるよ」
「出してるんだよ。マグカップ持ってきて」
「はあい」
戸棚に手を伸ばすと、取っ手にアクリルキーホルダーがぶら下がっていた。冷蔵庫の扉には、マグネットが幾つも貼ってある。どれも魚のイラストだ。
「ねえ。これ、校外学習で行った水族館の?」
「そうだよ。生徒たちがお土産でくれた」
「へ~。偉いね。ちゃんと使ってあげてるんだ」
「当然だろ。少ない小遣いで買ってくれたんだから。ほら、カップ」
「ん」
名も知らぬ魚のキーホルダーを揺らし、棚に手を突っ込んだ。
中には奈央のマイカップが置いてある。駅前の百円ショップで買った、シンプルな白一色だ。倫理準備室へ通うようになって、黒瀬が持ってこいと言ってくれた。
「二年生になったし、新しいのにしようかなぁ」
「できれば白無地はやめてくれ。他と見分けをつけにくい」
黒瀬はマグネットを一撫でして、冷蔵庫からコーヒーのボトル缶を取り出した。缶のままでいいと言ったのに、毎回、必ずカップに入れ直してくれる。
(こういうとこよね)
戸棚を閉めると、カチャンと音がした。複数のアクリルキーホルダーがぶつかっている。一つ一つは綺麗だけれど、群れを見ていると喉の奥が焼けた。
「……アクキーはガチャだよ。いらないのを渡されただけだと思うけど」
イラストは鯵だ。食卓に並ぶ魚は、水族館のガチャとしては、ハズレとしか思えない。
けれど黒瀬は、大切そうにキーホルダーを撫でた。
「彼女たちは『お土産』だと言って、僕にくれた。それがすべてだよ」
かすかに微笑むと、奈央のマグカップにコーヒーを注いでくれる。八分目までくると、両手で支えて渡してくれた。きっと、これならカップが割れることはない。
「こういうとこなのよ……」
「だから、なにが?」
「不登校児が倫理準備室に集まる理由」
奈央が授業を受けなくなったのは、高一の二学期のことだ。きっかけは覚えていない。いじめはなかったし、成績は平均点にプラス十点は取っている。
それでも教室へ入るのは、出席日数に必要な最低限だった。
「逃げてくる生徒、保健室登校より多いんじゃない?」
「保健室は他の生徒も出入りするからな。隠れ家には向かん」
「倫理準備室のほうが、生徒は来るでしょ」
それでも奈央は、最終下校時間まで倫理準備室にいる。気になることがあるからだ。
「……ねえ。どうしてベタにしたの? 熱帯魚は、他にもいたでしょ」
倫理準備室のベタに気づいたのは、高二の一学期だった。奈央は、初めて選択した倫理の授業を、初っ端から三回欠席している。補習をすると呼び出され、出会ってしまった。
「こんなに大きい水槽、必要ある? 洗うだけでも一苦労よ」
けれど、黒瀬はなにも答えなかった。はみ出したシャツを尻にして、ソファへ座ってコーヒーを一口飲む。
「富田先生が困ってたよ。進路調査票、あとは芹沢だけだって」
「もう! すぐ話逸らすんだから! なんで誤魔化すの!?」
「教師として、必要な指導を優先してるんだ。あんまり、富田先生を困らすなよ」
「富ジィめ。すぐ、ともちゃんにチクるんだから。担任のくせに」
マグカップをテーブルに置き、スカスカのスクールバッグを膝に乗せる。教科書一つ入っていない鞄から、孤独に佇む紙をつまみ上げた。
紙の上部には『進路調査票』と印刷されている。退出期日は、二週間前だった。
「大学なんて、高三になってからでいいじゃない」
「それじゃ遅いんだよ。親御さんは、なんて言ってるんだ。三者面談あったろ」
「やってない。北海道から行くのは大変だって、意向をLINEで送信された」
スマートフォンのLINEを立ち上げる。
母親からのメッセージは『好きなとこへ行きなさい』だけだった。黒瀬へ見せると、「なるほど」と小さく頷く。賛否のほどは読めなかった。
「北海道の大学は? もう落ち着いたんだろう? お父さんの仕事」
「そう言って、いつも数か月後に転勤してる」
奈央の父親は転勤が多い。小学校の間で三回、中学で二回も転校している。慌ただしいのが嫌で、寮のある高校を選んだ。入学からずっと、学校に併設の寮で生活をしている。
おかげで静かな生活を送れた。授業へ出ろと、日々言われることもない。
「どこが故郷か、わかりゃしないわ。出身地を聞かれるのが一番キライ」
「全国に友だちがいるのも、悪くないと思うけど」
「転勤族になったことのない人のセリフね。私の友だちは、SNSのフォロワーよ」
吐き捨てて、奈央はスマートフォンで愛用のSNSアプリを立ち上げた。五分に一回はチェックしている。
「ネットは物理的な距離をゼロにしてくれる。絆に顔は必要ないのよ」
画面にはさまざまな投稿が並んでいた。画像もあれば、うっぷんを晴らすようなテキストも多い。通勤通学をする朝は、学生にも社会人にも憎むべき敵だ。
同じく不満を投降しようと思ったけれど、黒瀬にスマホを取り上げられる。
「授業出ないなら、進路でも考えろ。勉強してたことにしてやるから」
「え~……」
ぶすくれたけれど、名案を思い付き笑みが浮かんだ。
鞄からペンケースを取り出し、ボールペンをつかみ取る。水族館で買ったボールペンだ。柄の部分に水が入っていて、ベタの絵が浮いている。動かすたびに、ベタは狭い狭い水槽の中で上下した。
「ともちゃんの母校って、なんてとこ?」
「先生と呼べ。ここの卒業生だよ、俺は」
「え!? そうなの!? あ、じゃなくて、大学!」
奈央は進路調査票に向かってボールペンを構えた。なにを目論んだか、察したのだろう。黒瀬は声を漏らして笑った。
「駄目だって。ちゃんと、行きたい大学を探しなよ」
「寮があればどこでもいいって言ったら、真面目に考えろって言われた。富ジィに」
「富田『先生』だ」
「はいはい。富田」
ベタの泳ぐボールペンを、指先で回して乱暴に弄ぶ。
「私の『真面目』を、どうして他人が決めるのかしら。真面目に答えたのに」
不器用な指先に絡まり、ボールペンは落下した。黒瀬は微笑みながら、ボールペンを拾い上げてくれる。
「富田先生は、生徒と向き合ってくれる人だよ。芹沢を心配してるんだ」
「どうかしらね。だって、私と関わってもいいことないでしょ? 授業には出ない、進路指導しても『真面目』に答えない、三者面談でも親は来ない」
学校指定のセーターを脱ぎ、黒瀬に放り投げた。奈央はベタの水槽に頬を寄せる。
「私一人いなくたって、世界は回るのよ」
水槽はひんやりしていて、急激に体温が下がったように感じた。すると、黒瀬はセーターを奈央の肩に乗せてくる。
「ベタときみは、『孤独』の意味が違う」
「……なにそれ。どういう意味?」
「ああいうことさ」
黒瀬は薄らと浮かべた。すると、ドスドスと廊下を踏み鳴らす音がする。足音は近づいてきて、勢いよく扉は開かれた。
「冷房つけるの早すぎない? 寒がりへの配慮が足りないわ」
指先を擦り合わせながら、無人の廊下で始業チャイムを聞き流した。窓の外を見ると、数名の生徒が走っている。向かう先にあるのは、全三学年の教室棟だ。
「どうせ遅刻なんだから、歩けばいいのに」
朝一番はショートホームルームをする。濃紺のセーターたちは、教室で群れを形成しているだろう。人間の整列ぶりは、鰯よりも均等で直線的だ。
「群れからはぐれた魚って、すぐ食べられちゃいそうだよねえ」
走っていた全員が建物に入ると、奈央は教室棟に背を向けた。選択授業の教室しかない東館を、一人きりでゆらゆら歩く。
(鰯って、群れごと大型魚に食べられるのよね)
しばらく漂うと、明かりの漏れる扉が現れた。扉には『倫理準備室』というプレートが付いている。授業すらおこなわれない部屋へ、奈央は軽やかなステップで飛び込んだ。
西端にある倫理準備室はうす暗い。けれど、きらめく物もあった。蛍光灯の光を跳ね返しているのは大きな水槽だ。青い魚が、一匹だけで泳いでいる。
「やあ、ベタ。今日も元気に、孤独してるかい?」
ベタはふり向いてくれなかった。毅然としていて清々しい。
――倫理準備室でベタを見る。この密やかな時間が、奈央のホームルームだった。
水族館は小ぶりな水槽だったけれど、倫理準備室の水槽は両手で抱えるほど大きい。せっかく広いのに、ベタは水草に埋まっていた。
「青が青すぎて隠せてないよ」
撫でるように水槽を撫でる。すると、奈央の手は水槽に吸い付いて離れなくなった。
「……あ、そっか。これが欲しいんだね」
餌のプラスチックカップに手を伸ばす。一匹しかいないベタには、専用の餌が用意されていた。
「贅沢者め」
蓋を開けると、大きな影が奈央を包んだ。うしろから餌を取り上げられる。
「やったばっかりだから駄目」
「ともちゃん」
深爪の指を躍らせたのは、黒いジャケットの男性だった。持っている出席簿には『倫理 黒瀬智明』と書いてあった。
「二十八で『ちゃん』付けは無理がある。というか、教師を愛称で呼ぶな。先生と呼べ」
「親近感は大事よ。今日も寝ぐせヤバいね。遅刻ギリギリ?」
飛び跳ねた黒瀬の髪を梳いてから、曲がっているネクタイを締め直してやる。けれど、黒瀬はすぐに緩めてしまった。
「お前よりは早くに来てるよ。コーヒー、ホットにするか?」
つんと指先をつつかれた。セーターの袖を引っ張り、手を温めている。それだけだ。
「もう。そういうとこよ?」
「なにが。飲むの、飲まないの」
「アイスでいい。あ、うしろシャツ出てるよ」
「出してるんだよ。マグカップ持ってきて」
「はあい」
戸棚に手を伸ばすと、取っ手にアクリルキーホルダーがぶら下がっていた。冷蔵庫の扉には、マグネットが幾つも貼ってある。どれも魚のイラストだ。
「ねえ。これ、校外学習で行った水族館の?」
「そうだよ。生徒たちがお土産でくれた」
「へ~。偉いね。ちゃんと使ってあげてるんだ」
「当然だろ。少ない小遣いで買ってくれたんだから。ほら、カップ」
「ん」
名も知らぬ魚のキーホルダーを揺らし、棚に手を突っ込んだ。
中には奈央のマイカップが置いてある。駅前の百円ショップで買った、シンプルな白一色だ。倫理準備室へ通うようになって、黒瀬が持ってこいと言ってくれた。
「二年生になったし、新しいのにしようかなぁ」
「できれば白無地はやめてくれ。他と見分けをつけにくい」
黒瀬はマグネットを一撫でして、冷蔵庫からコーヒーのボトル缶を取り出した。缶のままでいいと言ったのに、毎回、必ずカップに入れ直してくれる。
(こういうとこよね)
戸棚を閉めると、カチャンと音がした。複数のアクリルキーホルダーがぶつかっている。一つ一つは綺麗だけれど、群れを見ていると喉の奥が焼けた。
「……アクキーはガチャだよ。いらないのを渡されただけだと思うけど」
イラストは鯵だ。食卓に並ぶ魚は、水族館のガチャとしては、ハズレとしか思えない。
けれど黒瀬は、大切そうにキーホルダーを撫でた。
「彼女たちは『お土産』だと言って、僕にくれた。それがすべてだよ」
かすかに微笑むと、奈央のマグカップにコーヒーを注いでくれる。八分目までくると、両手で支えて渡してくれた。きっと、これならカップが割れることはない。
「こういうとこなのよ……」
「だから、なにが?」
「不登校児が倫理準備室に集まる理由」
奈央が授業を受けなくなったのは、高一の二学期のことだ。きっかけは覚えていない。いじめはなかったし、成績は平均点にプラス十点は取っている。
それでも教室へ入るのは、出席日数に必要な最低限だった。
「逃げてくる生徒、保健室登校より多いんじゃない?」
「保健室は他の生徒も出入りするからな。隠れ家には向かん」
「倫理準備室のほうが、生徒は来るでしょ」
それでも奈央は、最終下校時間まで倫理準備室にいる。気になることがあるからだ。
「……ねえ。どうしてベタにしたの? 熱帯魚は、他にもいたでしょ」
倫理準備室のベタに気づいたのは、高二の一学期だった。奈央は、初めて選択した倫理の授業を、初っ端から三回欠席している。補習をすると呼び出され、出会ってしまった。
「こんなに大きい水槽、必要ある? 洗うだけでも一苦労よ」
けれど、黒瀬はなにも答えなかった。はみ出したシャツを尻にして、ソファへ座ってコーヒーを一口飲む。
「富田先生が困ってたよ。進路調査票、あとは芹沢だけだって」
「もう! すぐ話逸らすんだから! なんで誤魔化すの!?」
「教師として、必要な指導を優先してるんだ。あんまり、富田先生を困らすなよ」
「富ジィめ。すぐ、ともちゃんにチクるんだから。担任のくせに」
マグカップをテーブルに置き、スカスカのスクールバッグを膝に乗せる。教科書一つ入っていない鞄から、孤独に佇む紙をつまみ上げた。
紙の上部には『進路調査票』と印刷されている。退出期日は、二週間前だった。
「大学なんて、高三になってからでいいじゃない」
「それじゃ遅いんだよ。親御さんは、なんて言ってるんだ。三者面談あったろ」
「やってない。北海道から行くのは大変だって、意向をLINEで送信された」
スマートフォンのLINEを立ち上げる。
母親からのメッセージは『好きなとこへ行きなさい』だけだった。黒瀬へ見せると、「なるほど」と小さく頷く。賛否のほどは読めなかった。
「北海道の大学は? もう落ち着いたんだろう? お父さんの仕事」
「そう言って、いつも数か月後に転勤してる」
奈央の父親は転勤が多い。小学校の間で三回、中学で二回も転校している。慌ただしいのが嫌で、寮のある高校を選んだ。入学からずっと、学校に併設の寮で生活をしている。
おかげで静かな生活を送れた。授業へ出ろと、日々言われることもない。
「どこが故郷か、わかりゃしないわ。出身地を聞かれるのが一番キライ」
「全国に友だちがいるのも、悪くないと思うけど」
「転勤族になったことのない人のセリフね。私の友だちは、SNSのフォロワーよ」
吐き捨てて、奈央はスマートフォンで愛用のSNSアプリを立ち上げた。五分に一回はチェックしている。
「ネットは物理的な距離をゼロにしてくれる。絆に顔は必要ないのよ」
画面にはさまざまな投稿が並んでいた。画像もあれば、うっぷんを晴らすようなテキストも多い。通勤通学をする朝は、学生にも社会人にも憎むべき敵だ。
同じく不満を投降しようと思ったけれど、黒瀬にスマホを取り上げられる。
「授業出ないなら、進路でも考えろ。勉強してたことにしてやるから」
「え~……」
ぶすくれたけれど、名案を思い付き笑みが浮かんだ。
鞄からペンケースを取り出し、ボールペンをつかみ取る。水族館で買ったボールペンだ。柄の部分に水が入っていて、ベタの絵が浮いている。動かすたびに、ベタは狭い狭い水槽の中で上下した。
「ともちゃんの母校って、なんてとこ?」
「先生と呼べ。ここの卒業生だよ、俺は」
「え!? そうなの!? あ、じゃなくて、大学!」
奈央は進路調査票に向かってボールペンを構えた。なにを目論んだか、察したのだろう。黒瀬は声を漏らして笑った。
「駄目だって。ちゃんと、行きたい大学を探しなよ」
「寮があればどこでもいいって言ったら、真面目に考えろって言われた。富ジィに」
「富田『先生』だ」
「はいはい。富田」
ベタの泳ぐボールペンを、指先で回して乱暴に弄ぶ。
「私の『真面目』を、どうして他人が決めるのかしら。真面目に答えたのに」
不器用な指先に絡まり、ボールペンは落下した。黒瀬は微笑みながら、ボールペンを拾い上げてくれる。
「富田先生は、生徒と向き合ってくれる人だよ。芹沢を心配してるんだ」
「どうかしらね。だって、私と関わってもいいことないでしょ? 授業には出ない、進路指導しても『真面目』に答えない、三者面談でも親は来ない」
学校指定のセーターを脱ぎ、黒瀬に放り投げた。奈央はベタの水槽に頬を寄せる。
「私一人いなくたって、世界は回るのよ」
水槽はひんやりしていて、急激に体温が下がったように感じた。すると、黒瀬はセーターを奈央の肩に乗せてくる。
「ベタときみは、『孤独』の意味が違う」
「……なにそれ。どういう意味?」
「ああいうことさ」
黒瀬は薄らと浮かべた。すると、ドスドスと廊下を踏み鳴らす音がする。足音は近づいてきて、勢いよく扉は開かれた。
