終焉選択ゲームAGARIの噂

 オフィスに戻ると、空気は午前中から全く変わっていなかった。
 野苅も樋渡も昼食は取らないつもりなのだろうか。会社を出たときと変わらず、黙々と作業をしている。俺より先に昼に出た見附はまだ帰ってきていない。
「戻りましたー」
 誰に言うでもなく挨拶をして席につく。そこで初めて気がついた。キーボードの横に、缶コーヒーが一本置いてある。
 何だと思いながらパソコンを立ち上げると、野苅からメッセージが届いていた。「空気悪くしてごめんね、とりあえずのお詫びのコーヒー」だそうだ。ちらりと見附のデスクを見ると、濃厚さで有名なぶどうジュースが置いてある。見附への「とりあえずのお詫び」だろう。
 見附の性格上、火に油を注いでいるような気もする。しかし、俺にはどうしようもないことだ。「ありがとうございます、いただきます」と野苅へ簡単に返信すると、タイケンガタドットコムの管理画面へと目を移した。
 午前中にレビューの審査をかなりやっつけたので、午後はユーザーから届いている問い合わせ類への返信からはじめることにした。  
 あらかじめ複雑な問い合わせや、アルバイトでは判断できなさそうな内容は、樋渡と野苅が午前中にチェックしてくれている。俺の業務は、ほとんどがテンプレの返信で対応可能な内容だ。
 少し気になって、すでにチェックされている問い合わせを確認してみると、こちらにもAGARIに関する問い合わせが複数隔離されてあった。もしかすると、プチ炎上、といっても過言ではないような状況にはなっているのかもしれない。
 気を取り直して、対応しなければならないメールに向き直る。
 「レビューを投稿したのですが反映されません」「不適切なレビューの報告」「掲載内容とイベント内容が異なります」など、よくある問い合わせが並んでいる。どれもよくある問い合わせばかりだ。サクサク進めよう、と古いものを開こうとしたその時、ちょうど新しい問い合わせのメールが届いた。
 タイトルは「ご確認ください」。
 スパムメールだろうか、と思い送信元を確認してみる。そこには「桂木望」と、そうあった。

お問い合わせ種類: その他
お名前:桂木望
メールアドレス:n.katsuragi@xxxx.com
タイトル:ご確認ください
お問い合わせ内容:
AGARIについて、ご確認いただけていますか?
このメッセージを読んでいるのが誰かわかりませんが、
もし、本当に世界の終焉を選択するゲームに興味があれば、
今日の20時に初兎珈琲店まで来てください。

 しばらく、画面を見たまま動けなかった。例の企画書を作った、張本人からのメール。
 普通に考えれば、すぐに樋渡か野苅に報告をすべきだろう。そんなこと、もちろん自分でもわかっている。けれど、なぜかそんな気持ちになれなかった。午前中の野苅たちの態度のせい――ではない。AGARIに起きている謎を、自分自身の目と耳で確かめたい、そんな欲求が生まれていた。
 アルバイトとして半年ほどタイケンガタドットコムで働いてきて、業務内容も会社の環境も、文句のつけようがないほど満足していた。大学を中退してプラプラしていた自分が、朝起きて出社し、夕方退勤して、それなりの給与をもらえている。安定している。しかし、言ってしまえばそれだけだ。
 重要な判断をすることも、大きく感情を揺さぶられることも、ない。
 それは、とても恵まれていることなんだと、頭ではわかっている。
 しかし――
「尾崎さん、どうかしましたか?」
 いつの間にかオフィスに戻ってきていた見附に声を掛けられる。手には小分けされた焼き菓子のようなものを持っている。
「え?いや、なんかパソコン見てたら意識飛んでたかもです……」
 誤魔化すような笑みを浮かべると、見附は呆れたようにため息をつく。
「しっかりしてくださいね。これ、昼休みに駅ビルに行ったら衝動買いしっちゃったので、おすそわけです」
 そう言うと、持っていた焼き菓子――どうやらフィナンシェのようだ――を押し付けてくる。「あ、ありがとうございます」と、軽く頭を下げてそれを受けとる。もしかして、と思い周りを見て見ると、野苅のデスクにも樋渡のデスクにも同じお菓子が置いてある。これは見附からの「とりあえずのお詫び」なのだろう。
 受け取ったフィナンシェを早速齧りながら、見附がパソコンを付ける前に桂木望の問い合わせを「対応不要」フォルダの中へ移動させた。
 
 指定された喫茶店は、何の因果か昼にも訪れた細い路地にある例の古びた店だった。「初兎珈琲店」なんてメルヘンな店名だったとは、全く気付かなかった。昼間はまるで気にも留めなかった、色褪せた黄色い文字の看板に確かに「初兎珈琲店」と書かれていた。
 約束の時間よりも少し遅れてしまった。
 ――本当に、一人で来てよかったのだろうか。野苅か樋渡に相談するべきだったのではないか。
 会社を出てからずっとそんなことを考えていて、会社と駅のあいだを何度もぐるぐると歩き回ってしまっていた。どうして相談しなかったのだろう。野苅や樋渡に報告したとしても「もし行くなら、自分も連れて行ってほしい」とそう言えば、無碍にするような人たちでないのはわかっているのに。
 自分でも、自分の行動の理由が説明できない。
 しかし、ここまで来てしまったのだ。桂木の話を聞かずに帰るわけにはいかない。
 意を決してドアをゆっくりと開けると、昼間と同じカラコロと言うやけに心地よいベルの音が鳴った。しかし店内の空気はまるで違って感じられる。
 昼はまばらとはいえ他の客もいたが、今はカウンターの向こうにいる店主らしき老人以外、誰もいないように見えた。老人は俺を一瞥すると、また黙って洗い物に戻る。
 いたずらメールだったのだろうか、とそう思いながら店内を進んでいくと、窓際の――昼間、俺が座っていたのと同じ席に、男が一人座っているのに気がついた。
 煙草を吸っている。年齢はよくわからない。三十代にも、四十代にも見える。特徴らしい特徴のない、どこにでもいそうな男だった。テーブルの上には、すでにタバコの吸い殻が何本か入っている灰皿と、飲みかけのコーヒーが一つ。
 男はこちらを見ていなかった。窓の外を、ただじっと眺めている。
 なのに、店に入ってきたのが俺だと、最初からわかっていたかのような、そんな空気を纏っていた。
「桂木さん、ですか?」
 そう声をかけると、男はゆっくりと顔を上げる。薄暗い店内でもわかるほどに青白い肌に、白目がやけに多い三白眼。その下には真っ黒に見える程深い隈が刻まれている。だが、不快な感情が湧き上がるような感じではなく、病的な美男子のようにも見える。
 男は吸っていた煙草を灰皿に押し付けると、にこりともせずに向かいに座るように手で促す。
 失礼します、とだけ言って向かいの椅子に腰を下ろす。昼も座ったソファは、古びているのにやけに座り心地が良く、こんな状況での再訪がなんだか恨めしくなってしまう。桂木であろう男性は、近くで見ると目が離せなくなるような、そんな魅力的な男に思えた。目の下の隈はまるで肌そのものに染みついているようで、不健康そうな男にすぎないはずなのに。
 水を運んできた店主に、男は視線も向けずに「同じものを追加で」とだけ告げる。少し迷ってから、俺もアイスコーヒーを頼んだ。
 注文が終わると、狭い店内に沈黙が落ちる。
 先に口を開いたのは、男の方だった。
「これから、終焉を選んでもらうから」
 思っていたよりも低く、落ち着いた声だった。