桜の下で君を待つ


 扉を開けると、昨日と同じ静かな空気が広がっていた。本の匂い。窓から差し込む柔らかな光。そして、窓の外に見える桜。私は無意識に足を止めた。

 私たちは窓側の席についた。
 少し空いた窓の隙間からは暖かい春の風が入ってくる。
 図書館の大きな時計が1秒、また1秒と刻んでいる。
 桜の花びらが風に揺れている。綺麗だと思う。
 なのに――胸の奥が、少しだけ苦しくなる。理由は分からない。昔からそうだった。桜を見ると、どうしてか落ち着かない。

 春が来ると、少しだけ憂鬱になる。誰かに理由を聞かれても、答えられない。

 視線を元に戻すと外の桜を眺めている彼がいる。

 「桜、綺麗だね…小春」
 「……ん?」
 彼が私の方に向き直した。
 「桜、嫌い?」

 その言葉に、私は少し驚いた。

 「……なんで?」
 「いや…なんとなく」
 彼は窓の外を見る。『なんとなく…』というちょっとした言葉が私の中で違和感を覚えた。

 「いつも桜を見ると、ちょっと寂しそうだから」
 「……そう見える?」
 「うん」
 私はしばらく黙った。そして、小さく頷いた。

 「……好きじゃないかな」
 「桜が?」
 「うん」
 「どうして?」

 その問いに、私は答えられなかった。

 「分からないの」
 「分からない?」
 「うん。昔から。春になると、なんか嫌な感じがするっていうか……」

 自分でも変だと思う。嫌いになるような出来事があったわけでもない。桜が嫌いな理由なんて、何も思い当たらない。それなのに。

 「春が来ると、胸がざわざわするの」
 そう言った瞬間だった。彼の表情が、ほんの少しだけ変わった。

 「……そう」
 「?」
 「いや、なんでもない」

 いつもの優しい笑顔。けれど、今の一瞬だけ。その笑顔の奥に、何かを隠しているように見えた。

 少しの沈黙。彼は窓の外へ視線を向けた。

 「湊くんって、桜好きなの?」

 何気なく尋ねると、彼は窓の外に視線を向けたまま答えた。

 「……好きだよ」

 そう言ったあと、ほんの少しだけ笑う。

 「どうして?」
 「……大切な思い出があるから」
 「思い出?」

 私が聞き返すと、彼はようやくこちらを向いた。

 「待ってる時間も、好きだから」
 「……待ってる時間?」

 私が聞き返すと、彼は一瞬だけ目を見開いた。
 けれどすぐに、「なんでもない」と、笑った。

 「今は、今はまだ秘密」
 そう言って彼は少し笑った。その笑顔を見て、私はなぜか胸の奥がざわついた。大切な思い出。彼にとって、桜は特別なものなのだろうか。

 私はもう一度、窓の外に目を向けた。風に揺れる桜の花びら。綺麗だと思うのに、どうしてか見ていると胸が苦しくなる。まるで、忘れてはいけない何かを忘れてしまっているような。

 そんな気がした…

 そして…どうして彼は、私の名前を知っていたんだろう。どうして初めて話したはずなのに、ずっと前から知っているような目で私を見るんだろう。

 そしてさっきの言葉の意味…その言葉の意味が分からなくて、気になって仕方がなかった。そして私は意を決して口を開いた。

 「ねえ、湊くん」
 「ん?」
 「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 「ん?何?」

 私は一度、息を吸った。
口にしたいのに言葉が詰まって出てこない。ふぅとため息をつき昨日からずっと気になっていた違和感を、ようやく私は口にした。

 「……私たちって、前に会ったことある?」
 湊の足が、一瞬だけ止まった。私はその変化を見逃さなかった。けれど彼は、すぐにいつもの表情に戻る。

 「……どうして?」
 「だって……」

 私は少し迷ってから続けた。

 「昨日、図書館で私の名前呼んだでしょ?それにさっきのも…」

 湊は何も言わなかった。
 ただ、私を見つめている。

 その目が――

 ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。

 「……小春はどう思う?」
 「え?」
 私の質問に質問で返され胸が小さく跳ねた。

 「分からない」
 「……そう」

 彼は少し悲しそうな顔をした。
 「じゃあ、それでいいよ」

 「今はね」とボソッと彼はつぶやいたのを聞き逃さなかった。
 そしてそれ以上、彼は何も言わなかった。私も、それ以上聞けなかった。

 でも――
 その瞬間、確かに思った。この人は、何かを知っている。私が知らない何かを。それが何なのかは、まだ分からない。

 ただ一つだけ。
 昨日よりもずっと、白河湊という人のことが気になっていた。