桜の下で君を待つ


 図書館で出会い、クラスメイトになったこと。
 帰りに一緒に帰ったこと。その全てが、頭から離れない。ベッドに横になりながら、私は今日一日の出来事を何度も思い返していた。

 新しいクラス。
 新しい教室。
 そして――白河湊。

 たった一日なのに、どうしてこんなにも彼のことが気になってしまうんだろう。
 私は布団の中で寝返りを打った。
 「……変なの」
 小さく呟いて、枕に顔を埋める。別に、今日初めて話しただけの男の子だ。それなのに、頭の中には彼の顔が浮かんでくる。図書館でぶつかったときのこと。心配そうに私を見つめていたこと。
 そして、一緒に帰ったときのこと。
 何気ない会話だったはずなのに、思い出すたびに胸の奥が少しだけくすぐったくなる。

 「……なんでこんなに気になるんだろう」
 その理由を考えようとして――ふと、別のことを思い出した。私はゆっくりと顔を上げる。
 「あ……」そうだ。まだ一つ、気になっていることがある。
 あの日、図書館でぶつかった私を見て、彼は「小春……?」と確かに、そう呼んだ。一瞬、聞き間違いかと思った。
 けれど、何度思い返しても間違いじゃない。彼は確かに、私の名前を呼んでいた。

 「……なんで、私の名前知ってたんだろう」
 同じ学校なんだから、名前を知っていてもおかしくはない。私だって、顔と名前が一致していないだけで、同じ学年の人をなんとなく知っていることはある。

 でも――

 彼と話したのは、あの日が初めてだったはずだった。
 少なくとも、私はそう思っている。
 それなのに、彼はどうしてあんなにも自然に私の名前を呼んだんだろう。
 考えれば考えるほど、分からなくなる。

 それに――。

 「……なんであんなに、気になるんだろう」
 今日一緒に帰ったときのことを思い出す。

 隣を歩く彼の横顔。
 低く落ち着いた声。
 時々見せる、あの優しい笑顔。

 思い出した瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。私は慌てて布団を頭までかぶる。
 もう寝よう…そう決めて、目を閉じる。今日のことを考えるのは、もうやめよう。そう思った。

 けれど――

 眠りにつく直前。頭の中に、ふっと知らない景色が浮かんだ。
 満開の桜。風に揺れる枝。ひらひらと舞い落ちる花びら。

 そして――小さな手。
 誰かの手を握っている。その手は、とても小さくて。温かくて。どこか懐かしい。

 「……え?」
 思わず目を開けた。
 けれど、そこにあるのは見慣れた自分の部屋だけだった。時計の秒針が、静かに音を刻んでいる。

 「……今の、何?」
 胸の奥に、妙な違和感が残っている。夢だったのだろうか。

 それとも――
 私はしばらく天井を見つめていた。でも、どれだけ考えても思い出せない。 胸の奥に残った小さな違和感を抱えたまま、私はゆっくりと目を閉じそのまま眠りについた。

 *

 翌朝。
 目覚ましの音で目を覚ます。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋を明るく照らしていた。

 「……眠い」
 昨日は色々考えすぎたせいか、少しだけ寝不足だった。顔を洗って、制服に着替える。鏡を見ると、少しぼんやりした自分の顔が映っていた。

 「……大丈夫、大丈夫」
 自分に言い聞かせるように呟く。そして鞄を持って、家を出た。

 学校へ向かう道を歩きながら、昨日のことを思い出す。
 図書館。湊。帰り道。

 そして――

 『小春……?』
 また、その声が頭の中に蘇った。

 「……もう」私は小さく息を吐いた。今日聞いてみようかな。どうして私の名前を知っていたのか。

 そう決めて、教室へ向かった。教室の扉を開ける。まだ朝早いからか、教室には数人しかいない。
 私は自分の席へ向かおうとして――

 「おはよう、小春」
 声が聞こえた。思わず足が止まる。振り向くと、湊がいた。

 「……お、おはよう」
 昨日と同じ、落ち着いた声。たったそれだけの言葉なのに、なぜか少し緊張する。

 「眠そう」
 「え?」
 「昨日、ちゃんと寝た?」
 「……まあ、一応」
 そう答えると、湊が少し笑った。

 「そっか」
 「……湊くんは?」
 「俺?」
 「うん」
 「普通かな」
 そう言って、彼は自分の席に座る。その何気ない会話が、妙に心地よかった。昨日までは、ほとんど話したこともなかったのに。

 今では、朝に「おはよう」と言葉を交わす。
 それだけのことなのに――少しだけ、昨日とは違う気がした。
 授業が始まる。先生の話を聞きながらノートを取っていると、隣の席から小さな声が聞こえた。

 「小春」
 「ん?」

 顔を向ける。湊が自分のノートを指差していた。

 「ここ、先生なんて言ってた?」
 「えっと……」

 私は黒板を見る。

 「たぶん、ここまで書いておけばいいと思う」
 「ありがとう」
 「どういたしまして」

 それだけの会話。なのに、なんだか少し嬉しかった。昨日まで知らなかった人と、少しずつ言葉を交わしていく。その感覚が、不思議だった。

 昼休み。
 私は友達と話しながらお弁当を食べていた。ふと教室の後ろを見る。湊は友達と話していた。時々笑っている。

 その姿を見ていると…なぜか、胸の奥が少しだけざわついた。

 「……?」

 私は慌てて視線を戻す。 どうして今、彼を見ていたんだろう。自分でもよく分からなかった。

 放課後。

 帰りの支度をしながら、私は昨日のことを思い出していた。

 ――聞こう。
 今日こそ。私は鞄を持って、教室を出る。
 廊下を歩いていると、後ろから声がした。

 「小春」

 振り返るとそこには湊が立っていた。

 「……帰る?」
 「うん」
 「じゃあ、一緒に帰ろ」
 「うん」
 私たちは並んで歩き始めた。

 昨日と同じ通学路。
 一年生の頃から、毎日のように通ってきた道。

 そのはずなのに――
 昨日から彼と一緒に歩くようになったことで、いつもの道が少しだけ違って見える。
 隣を歩く彼を意識するたびに、なぜか胸がドキドキしてしまう。

 「……あのさ」
 先に口を開いたのは、彼だった。

 「ん? どうしたの?」
 私は少しドキッとしながら、横を向く。
 すると、ちょうど彼もこちらを見ていて――目が合った。

 「今日、図書館行く?」

 湊が前を向いたまま聞いてくる。
 「……図書館?んー、行こうかな」
 「じゃあ、俺も行く」
 「……毎日行くの?」
 「小春が行くなら」
 「え?」

 思わず彼を見る。けれど湊は、何でもないことのように笑っていた。

 「図書館、静かだから」
 「……そっか」

 なんとなく誤魔化されたような気もしたけれど、それ以上は聞かなかった。