§
春から描き続けていた風景画も夏の展覧会へ送り出し、美術室から大きなキャンバスが一つ消えた。
作品を描き上げた達成感の余韻に浸りつつも、僕はいつもと変わらぬ日常を過ごし、放課後の美術室へと向かう。
すると部屋の中央に白い石膏像が置かれていた。
ブルータス。
短く波打った髪に、深く窪んだ目元と、固く結ばれた口元。美術室の隅で埃を被っていた石膏像に、ようやく出番が回ってきたようだ。
「今日は久しぶりにデッサンやろっか」
俯見先生がそう言うと、既に来ていた部員たちが石膏像を囲むように椅子を並べ始める。
「ずっと自分の絵ばっかり描いてると目も慣れちゃうから、たまには石膏像のデッサンもいいでしょ」
僕も空いている場所に椅子を置き、スケッチブックと鉛筆を用意する。少し離れた斜め向かいには天月さんも座っていて、同じように紙を広げていた。
けれど今回は石膏像に集中だ。
僕は改めてブルータスと向かい合う。
まず、紙の中にどのくらいの大きさで収めるかを決める。頭部と肩の位置を薄く取り、首から頭へ伸びる軸と、左右の肩を繋いだ傾きを見比べながら全体の輪郭を大まかに置いていく。
そこから額、頬、顎へ続く形を追い、顔がどこで膨らみ、どこで奥に向かうのか、面がどこで切り替わっていくのかを探していく。
「・・・・・・・・・・・・」
思っていたより描ける。
以前は描いてから一旦離れて見て、悩みながら狂いに気付いていたのが、今は鉛筆を構えた時点で、画面の狂いが先に目に飛び込んでくるようになっていた。
頭部が僅かに大きい、肩の位置が低い、顎から首へ繋がる千賀、実物よりも真っ直ぐ落ち過ぎている。
一つ直せば、正しい位置に引っ張られるように、周りのズレが次々と浮き彫りになっていく。
僕は何度もブルータスと紙の間で視線を往復させながら、少しずつ形を整えていった。
さらに描き進めると、今度は輪郭だけじゃなく、石膏像の中にある大きな明暗のまとまりが見えてくる。
額から鼻筋にかけて光が当たり、その反対側では目元から頬へ影が落ちている。
細かな凹凸を一つずつ追うよりも、まず明るい面と暗い面を大きく分けた方が頭部の立体が見えやすい。
そうやって全体を見ながら手を動かしているうちに、いつの間にか随分と時間が経っていた。
僕は一度、鉛筆を置き、少し身体を引いて絵を見てみる。
「結構描けてるな・・・・・・」
自画自賛するほどではないけれど、少なくとも一年の頃よりは明らかに見えているものが増えていた。
細かな違いに気付くのも早くなったし、部分を直した時に全体がどう変わるのかも、以前より分かる。
天月さんを描き続けていた事と、関係があるんだろうか。あれだけ毎日のように人の顔や身体を目で追っていれば、見る力くらいは嫌でも鍛えられるかもしれない。
しばらく描き続けていると、区切りのいいところまで来たので、今度はもう一枚、別角度から描いてみようと思い、次のページを開いた。
すると、真っ白な紙が現れる。
「・・・・・・・・・・・・」
そこで、僕の手が止まった。
――白い。
当然だ、まだなにも描いていないのだから。
なのに、その当たり前に妙な違和感がある。
僕は顔を上げて、もう一度ブルータスを見る。
頭部の形も、肩の傾きも、額から頬へ続く面も、さっきまで何十分も見続けてきた――なのに、なにか浮かばない。
天月さんを描く時は、白紙を見れば彼女が浮かび上がってきた。
手首を見ていれば手首が、目元を見ていれば目元が鮮明になり、逆に意識していなかった部分ほど曖昧になる。
だから僕は、観察したものが頭に残り、それが白紙の上に見えているのではないかと思った。
だったら、ブルータスだって見えてもいい筈だ。
僕はもう一度、ブルータスを見る。
今度は描く為ではなく、覚えるつもりで。
身体のパーツを一つひとつ視線で追った後、再び白紙に目を落とした。
「・・・・・・ない」
白紙にブルータスの輪郭が浮かび上がる事はなかった。
でも決して見えていない訳ではない。以前よりは確実に観察眼は上がって、デッサンの描き込みは出来ていた。
それでも、白紙には現れなかった。
「・・・・・・なんで?」
小さく呟きながら顔を上げる。
その時、視界の端でなにかが動いた。
天月さんだった。
少し離れたところで同じブルータスの絵を描いていた天月さんが、頬に落ちてきた紙を指で掬い、そのまま指に掛ける。
ほんの数秒の出来事だった。
天月さんはすぐに視線をブルータスに戻し、何事もなかったように鉛筆を動かし始める。
僕はもう一度、白紙に視線を落とした。
「・・・・・・・・・・・・」
――いた。
白紙に、さっき髪を耳に掛けた天月さんの顔が薄く浮かび上がっていた。
頬に沿って流れる髪と、それを耳に掛ける指の仕草、僅かに傾いた首、伏し目がちの瞳。
何十分も見続けたブルータスよりも、ほんの数秒しか見ていない天月さんの方が、ずっと鮮明だった。
僕は顔を上げ、ブルータスと天月さんを交互に見比べる。
そしてもう一度、白紙に視線に戻すと、そこには相変わらず天月さんだけがいた。
「・・・・・・なんで、」
天月さんだけなんだ?
観察すればよく見える。それ自体は間違っていない。
でも、どうやらそれだけではこの現象を説明出来ないらしい。
「見上くん」
と、その時だった。
名前を呼ばれ、顔を上げると隣に俯見先生がいた。
「はい?」
そこで僕は考えを止めて、返事をすると、俯見先生はなぜかニヤニヤしながら僕を見ていた。
「さっきからブルータスより、天月さんの方見てない?」
「・・・・・・見てませんけど」
「今、間があったけど?」
「気のせいです」
「そっかそっか」
全然信じてない顔だった。
僕は逃げるようにブルータスに視線を戻した。
その時だった。
『・・・・・・で、天月さんの事、好きなの?』
以前、俯見先生に言われた言葉が不意に頭の中で蘇った。
・・・・・・なんで今思い出すんだ。
いや、俯見先生が変な事言うからだ。
僕は小さくかぶりを振り、目の前のブルータスを見る。
何十分も見て、頭の形や額のなだらかな曲線も、頬に落ちる影も、首から肩へ続く線もよく見えるのに、白紙にはブルータスの輪郭は浮かび上がってこない。
反対に天月さんは数秒見ただけですぐに白紙に浮かび上がってくる。
この両者の違いは、なんなんだ?
「・・・・・・・・・・・・」
俯見先生の声がまた蘇る。
『天月さんの事、好きなの?』
・・・・・・好きだから?
自分で浮かべた言葉なのに、妙に引っ掛かった。
でも、確かに。
ブルータスは描こうと思えば描ける。実際、今もこうして描いている訳だし。けれど、もし今日の課題がブルータスじゃなかったら、自ら進んで描こうとは思わなかっただろう。
でも、天月さんは違う。
彼女を見ると、自然と描きたいと思う。気付けば何枚も描いていたし、それでもまだ描き足りないくらいだった。
授業中でも、美術室でも、ふとした仕草を見れば鉛筆を握っていた。
・・・・・・好きだから、描きたい?
そうかもしれない。
天月さんを見ていると、次から次へと意欲を掻き立てられる。
もっと見たいし、もっと知りたい。そして見れば見るほど、まだ知らない天月さんが出てくる。
だから僕は、何度でも天月さんを描きたくなる。
僕は改めてブルータスの絵を見つめる。
何十分も向き合って描いた絵は、細かいところまで描き込まれている。
でも、それだけだ。
課題だから描いているだけで、自分から進んで描いた訳じゃない。
――天月さんとブルータスの違いは、そこなのかもしれない。
白紙に浮かぶのは、ただ長い時間見たものじゃない――僕の中に強く残ったもの。
もっと見たい、もっと知りたい、そしてもっと描きたい。
そう思わせる魅力が、天月さんにはあり、僕の瞳に棲み着いたまま離れない――だから、白紙の上には天月さんだけが残る。
僕はようやく腑に落ちて、改めて天月さんを見た。
スケッチブックに目を落とし、時折ブルータスに視線を向ける真剣な眼差しを見つめながら、僕は改めて君を描きたいと思った。
§
七月半ば、期末テストの返却を終え、学業に一段落付くと、学校は三者面談期間に入った。
そしてその頃、美術部では俯見先生から十一月の県総文に出す作品について話があった。
題材も画材も自由で、風景を選ぶ部員もいれば、既に構図を考えたり下描きを始めている部員もいた。
かくいう僕も、描くものは決めていた。
「天月さん」
「なに?」
僕が改まると、天月さんは怪訝そうな顔を向けた。
構わず僕は二の句を継いだ。
「十一月に出す作品なんだけど、天月さんを描こうと思ってる」
すると天月さんは一度、瞬きをした。
「私?」
「うん。ちゃんと一枚の作品として描きたい。油絵で」
「それはいいけど、変なの描くのはやめてね」
「今回はそういうのじゃないから」
「今回は?」
「・・・・・・いつも真面目に描いてます」
「・・・・・・・・・・・・」
ものすごく疑わしげな眼差しを向けてくる。
前科があるだけに視線が厳しい・・・・・・。
「まぁ、別にいいけど」
と、素っ気ない反応だったけれど、それはいつもの事なので、ひとまず許可をもらえた事に僕は安堵した。
さて、という訳で方針も決まったところで僕はイーゼルを立てて、キャンバスと向き合う――のはまだ先の話で。
それより先に、やるべき事がある。
僕は標準装備とも言えるスケッチブックと鉛筆を手に、椅子を持ち上げ、天月さんから少し離れた場所に腰を下ろした。
まず描く事にしたのは、『目』だった。
これまでに幾度となく天月さんを描いていた筈なのに、目だけを取り出して描いた事は一度もなかった。
今まで全体の一部として目を描いてはいたけれど、一部だけを描くと新たな発見も少なくない。
瞼の膨らみや目尻へ続く線、眼球を覆う皮膚の厚みも、見る角度によって少しずつ形を変える。
一枚描き終えると、僕は椅子を持って少し横に移動する。
今度は別角度から観察する。
同じ目なのに、正面に近い場所から見た時にはなかった線が現れる。反対に、さっきまで見えていた線がまた違って見えた。
僕はページをめくるたびに、違う角度から同じ目を描いていった。
二枚目までは気にする様子もなかった天月さんだったけれど、三枚目に取り掛かる頃には、キャンバス越しに何度かこちらを見るようになっていた。
「さっきから、よく動くね」
「うん」
僕はそれだけ答えると、天月さんは不思議そうな顔をしつつ、また自分の絵へと戻った。
僕も新しいページに移る。
今まで僕が描いてきたのはその瞬間、目に映った天月さんだったけれど、今回は一枚のキャンバスに天月さんを描く。
それは今までで一番の大作だ。
だから天月さんの事をもっと知りたかった。
僕は一部分だけを切り取って天月さんを観察する。
目であれば、どんな形をして皮膚の膨らみがあって、皺の重なりがあるのか、もっとちゃんと深くまで知りたかった。
僕の目の行き届かないところなんてないくらい、君を描き込みたいのだ。
鉛筆を持ち直して、今度は横顔に近い角度からその目を紙の上に描き込んでいく。
それから何枚もページを消費していき、気付けばスケッチブックには天月さんの目ばかりが並んでいった。
端から見れば狂気じみているけれど、他人の目など気にならない。
ただ一つ例外なのは天月さんの目、それだけだ。
「見上くん」
「ん?」
「もうお昼だけど」
顔を上げ、時計を確認すると十二時を少し過ぎていた。
「・・・・・・もう?」
「ずっと描いてたね」
九時からぶっ通しで描いていたようだ。
でもここまであっと言う間で、時間を全く長く感じなかった。
僕は鉛筆を置き、スケッチブック観てみると、紙の上に描かれたのは全て目だった。
「うわ、気持ち悪っ・・・・・・」
近くで片付けをしていた部員がたまたま通りかかると、僕のスケッチブックを覗き込んで思わず声を上げた。
「失礼な」
「や、なんで目ばっか描いてんの?」
「ちゃんと知る為だよ」
「いや、それにしても・・・・・・」
「なになに、どうしたのー?」
一人の部員の騒ぎを聞きつけ、他の部員も集まってくると、最初にやって来た部員が僕のスケッチブックを指差して言う。
「見上が、目ばっか描いてんの」
「目? ・・・・・・うわっ、なにこれキモっ」
「本当だ・・・・・・なにこれ、全部天月さん?」
「そうだよ」
「もしかして他のページも全部?」
「うん」
「ちょっと見せて」
そう言って女子部員がスケッチブックを手に取ると、女子を囲むように周りに人が集まる。
そしてページをめくるたびに軽く悲鳴が上がる。
「やばい、狂気すら感じる・・・・・・」
「一周回ってこれが芸術って気もする」
「見上、天月の事好き過ぎるだろ」
「好きっていうか、執着だよね」
「見上って前から変な奴だとは思ってたけど、マジの変態なんだな」
「失礼な。誰が変態だ」
皆口々に好き勝手言ってくれる。
「てゆうか、三時間ずっと目ばっか描いてたの? 飽きない?」
「飽きないよ。角度も表情も違うし」
「変態にはこれが全部違ってみえるんだもんなー」
「だから、変態じゃないって」
「「「いや、変態だよ」」」
異口同音だった。
満場一致で変態扱いするのやめてくれない?
部員たちはスケッチブックから、今度は天月さんを見る。
「天月は怖くないの? これ見て」
「うん、怖い」
即答された・・・・・・。
部員たちも「だよな」とコクコク頷いている。
「でも、もう諦めてる。見上くんは前から変だし」
「天月さんまで・・・・・・」
もう、僕の創作意欲を認めてくれる人は誰もいなかった。
「天月、なにかあったら俺たちいつでも相談に乗るからな」
部員たちは最後まで失礼な事を言いながらお弁当を持って去って行く。
天月さんはとくに気にした様子もなく、鞄からお弁当を取り出している。
「行かないの?」
ふと、天月さんが声を掛けるので、僕もお弁当を持って美術室を出た。
別に、一緒にお弁当を食べようと言われた訳ではないけれど、なんとなく一緒に付いて行く。
それについて天月さんもなにも言わない。
曲がり角を曲がると、屋上に続く登り階段のところで天月さんは腰を下ろした。
ここなら影で覆われているし、壁際からコンクリートのひんやりした冷気もある。目の前には渡り廊下窓から風が通ってお昼を過ごすには快適だった。
僕は少し距離を離して天月さんの隣に座り、お弁当を広げた。
三時間、ほぼ休まずに描いていたせいか、この時間が妙にゆっくりに感じられた。
開け放たれた窓から、僅かに運動部の掛け声と、吹奏楽の演奏、セミの鳴き声が聞こえた。
お弁当を食べながら、ふと思い出す。
「そう言えば、天月さん三者面談いつ?」
期末考査が終わり、通常授業もなく平日は三者面談が組まれており、美術部ではその間、活動に充てられる。
部活中、部員が面談で出入りしているのをよく見かけるも、天月さんはまだの筈だ。
「明日」
天月さんはごはんを頬張りながら淡々と答える。
「そっか。僕は明後日」
「そっか」
そこで一度、会話が途切れるも、気にせず僕は続ける。
「ちなみに天月さんって、もう進路とか決めてるの?」
すると、箸を動かしていた天月さんの動きが止まる。
「たぶん美大だと思う」
「天月さんなら、武蔵美とか多摩美とか狙えそうだよね」
「そんなの分かんないよ」
天月さんはそう言って、とくに気負った様子もなく弁当に視線を戻した。
その淡々とした返しに、僕はなんと返したらいいのか分からなかった。
具体的にビジョンを思い描いている感じの返しではない事に意外と言ったらいいのか、むしろ天月さんらしいのか。
でも天月さんのように絵を描く才能があって、筆が身体の一部みたいな人は、進路について一直線に繋がっているような気がして、だから具体的なビジョンはなくとも、きっと大局観では目指す方向にブレはないのだろうと思う。
「見上くんは?」
「え?」
「進路」
今度はこっちに話が返ってきた。
てっきり話は打ち切られたかと思って、聞かれたのが意外で反応が遅れる。
「僕は・・・・・・まだ決めてない」
「美大じゃないの?」
「それこそ分からないよ。絵を描き始めたのだって高校からだし」
「時間は関係ないと思うけど」
「それはそうだろうけど。でも、分からない。今はまだ、描きたいから描いてるって感じだから」
「ふーん」
天月さんはそれ以上なにも言わなかった。
相変わらず無表情で感情が読めない。僕の進路について興味があるのかないのか・・・・・・。
しばらくお弁当を食べ進めながら、ふと天月さんのお弁当に卵焼きが一つだけ残されていた。
「食べないの?」
「食べるけど?」
「じゃあなんで残してるの?」
「好きだから最後に取ってるの」
「好きなものは最後に食べる派なんだ」
「うん。見上くんは?」
「僕はバランスよく食べる派」
「そっか」
そう言って天月さんは最後の一切れの卵焼きを頬張った。
今まで天月さんの事はよく見てきたけれど、好きなものは最後に取っておくとか知らなかったな。
ふと、渡り廊下に風が抜ける。
そこで何気なく、天月さんが「ふぁぁ」と小さく欠伸を溢した。
僕はなんともなしにそれを眺める。
いつもならその一場面も描きたいと思っていた筈だけど、その時は不思議とその横顔を眺めているだけだった。
遠くではまだ運動部の声が聞こえる。
学校にいる事には変わりないのに、ここだけ少し、その喧噪から切り離されているみたいだった。
春から描き続けていた風景画も夏の展覧会へ送り出し、美術室から大きなキャンバスが一つ消えた。
作品を描き上げた達成感の余韻に浸りつつも、僕はいつもと変わらぬ日常を過ごし、放課後の美術室へと向かう。
すると部屋の中央に白い石膏像が置かれていた。
ブルータス。
短く波打った髪に、深く窪んだ目元と、固く結ばれた口元。美術室の隅で埃を被っていた石膏像に、ようやく出番が回ってきたようだ。
「今日は久しぶりにデッサンやろっか」
俯見先生がそう言うと、既に来ていた部員たちが石膏像を囲むように椅子を並べ始める。
「ずっと自分の絵ばっかり描いてると目も慣れちゃうから、たまには石膏像のデッサンもいいでしょ」
僕も空いている場所に椅子を置き、スケッチブックと鉛筆を用意する。少し離れた斜め向かいには天月さんも座っていて、同じように紙を広げていた。
けれど今回は石膏像に集中だ。
僕は改めてブルータスと向かい合う。
まず、紙の中にどのくらいの大きさで収めるかを決める。頭部と肩の位置を薄く取り、首から頭へ伸びる軸と、左右の肩を繋いだ傾きを見比べながら全体の輪郭を大まかに置いていく。
そこから額、頬、顎へ続く形を追い、顔がどこで膨らみ、どこで奥に向かうのか、面がどこで切り替わっていくのかを探していく。
「・・・・・・・・・・・・」
思っていたより描ける。
以前は描いてから一旦離れて見て、悩みながら狂いに気付いていたのが、今は鉛筆を構えた時点で、画面の狂いが先に目に飛び込んでくるようになっていた。
頭部が僅かに大きい、肩の位置が低い、顎から首へ繋がる千賀、実物よりも真っ直ぐ落ち過ぎている。
一つ直せば、正しい位置に引っ張られるように、周りのズレが次々と浮き彫りになっていく。
僕は何度もブルータスと紙の間で視線を往復させながら、少しずつ形を整えていった。
さらに描き進めると、今度は輪郭だけじゃなく、石膏像の中にある大きな明暗のまとまりが見えてくる。
額から鼻筋にかけて光が当たり、その反対側では目元から頬へ影が落ちている。
細かな凹凸を一つずつ追うよりも、まず明るい面と暗い面を大きく分けた方が頭部の立体が見えやすい。
そうやって全体を見ながら手を動かしているうちに、いつの間にか随分と時間が経っていた。
僕は一度、鉛筆を置き、少し身体を引いて絵を見てみる。
「結構描けてるな・・・・・・」
自画自賛するほどではないけれど、少なくとも一年の頃よりは明らかに見えているものが増えていた。
細かな違いに気付くのも早くなったし、部分を直した時に全体がどう変わるのかも、以前より分かる。
天月さんを描き続けていた事と、関係があるんだろうか。あれだけ毎日のように人の顔や身体を目で追っていれば、見る力くらいは嫌でも鍛えられるかもしれない。
しばらく描き続けていると、区切りのいいところまで来たので、今度はもう一枚、別角度から描いてみようと思い、次のページを開いた。
すると、真っ白な紙が現れる。
「・・・・・・・・・・・・」
そこで、僕の手が止まった。
――白い。
当然だ、まだなにも描いていないのだから。
なのに、その当たり前に妙な違和感がある。
僕は顔を上げて、もう一度ブルータスを見る。
頭部の形も、肩の傾きも、額から頬へ続く面も、さっきまで何十分も見続けてきた――なのに、なにか浮かばない。
天月さんを描く時は、白紙を見れば彼女が浮かび上がってきた。
手首を見ていれば手首が、目元を見ていれば目元が鮮明になり、逆に意識していなかった部分ほど曖昧になる。
だから僕は、観察したものが頭に残り、それが白紙の上に見えているのではないかと思った。
だったら、ブルータスだって見えてもいい筈だ。
僕はもう一度、ブルータスを見る。
今度は描く為ではなく、覚えるつもりで。
身体のパーツを一つひとつ視線で追った後、再び白紙に目を落とした。
「・・・・・・ない」
白紙にブルータスの輪郭が浮かび上がる事はなかった。
でも決して見えていない訳ではない。以前よりは確実に観察眼は上がって、デッサンの描き込みは出来ていた。
それでも、白紙には現れなかった。
「・・・・・・なんで?」
小さく呟きながら顔を上げる。
その時、視界の端でなにかが動いた。
天月さんだった。
少し離れたところで同じブルータスの絵を描いていた天月さんが、頬に落ちてきた紙を指で掬い、そのまま指に掛ける。
ほんの数秒の出来事だった。
天月さんはすぐに視線をブルータスに戻し、何事もなかったように鉛筆を動かし始める。
僕はもう一度、白紙に視線を落とした。
「・・・・・・・・・・・・」
――いた。
白紙に、さっき髪を耳に掛けた天月さんの顔が薄く浮かび上がっていた。
頬に沿って流れる髪と、それを耳に掛ける指の仕草、僅かに傾いた首、伏し目がちの瞳。
何十分も見続けたブルータスよりも、ほんの数秒しか見ていない天月さんの方が、ずっと鮮明だった。
僕は顔を上げ、ブルータスと天月さんを交互に見比べる。
そしてもう一度、白紙に視線に戻すと、そこには相変わらず天月さんだけがいた。
「・・・・・・なんで、」
天月さんだけなんだ?
観察すればよく見える。それ自体は間違っていない。
でも、どうやらそれだけではこの現象を説明出来ないらしい。
「見上くん」
と、その時だった。
名前を呼ばれ、顔を上げると隣に俯見先生がいた。
「はい?」
そこで僕は考えを止めて、返事をすると、俯見先生はなぜかニヤニヤしながら僕を見ていた。
「さっきからブルータスより、天月さんの方見てない?」
「・・・・・・見てませんけど」
「今、間があったけど?」
「気のせいです」
「そっかそっか」
全然信じてない顔だった。
僕は逃げるようにブルータスに視線を戻した。
その時だった。
『・・・・・・で、天月さんの事、好きなの?』
以前、俯見先生に言われた言葉が不意に頭の中で蘇った。
・・・・・・なんで今思い出すんだ。
いや、俯見先生が変な事言うからだ。
僕は小さくかぶりを振り、目の前のブルータスを見る。
何十分も見て、頭の形や額のなだらかな曲線も、頬に落ちる影も、首から肩へ続く線もよく見えるのに、白紙にはブルータスの輪郭は浮かび上がってこない。
反対に天月さんは数秒見ただけですぐに白紙に浮かび上がってくる。
この両者の違いは、なんなんだ?
「・・・・・・・・・・・・」
俯見先生の声がまた蘇る。
『天月さんの事、好きなの?』
・・・・・・好きだから?
自分で浮かべた言葉なのに、妙に引っ掛かった。
でも、確かに。
ブルータスは描こうと思えば描ける。実際、今もこうして描いている訳だし。けれど、もし今日の課題がブルータスじゃなかったら、自ら進んで描こうとは思わなかっただろう。
でも、天月さんは違う。
彼女を見ると、自然と描きたいと思う。気付けば何枚も描いていたし、それでもまだ描き足りないくらいだった。
授業中でも、美術室でも、ふとした仕草を見れば鉛筆を握っていた。
・・・・・・好きだから、描きたい?
そうかもしれない。
天月さんを見ていると、次から次へと意欲を掻き立てられる。
もっと見たいし、もっと知りたい。そして見れば見るほど、まだ知らない天月さんが出てくる。
だから僕は、何度でも天月さんを描きたくなる。
僕は改めてブルータスの絵を見つめる。
何十分も向き合って描いた絵は、細かいところまで描き込まれている。
でも、それだけだ。
課題だから描いているだけで、自分から進んで描いた訳じゃない。
――天月さんとブルータスの違いは、そこなのかもしれない。
白紙に浮かぶのは、ただ長い時間見たものじゃない――僕の中に強く残ったもの。
もっと見たい、もっと知りたい、そしてもっと描きたい。
そう思わせる魅力が、天月さんにはあり、僕の瞳に棲み着いたまま離れない――だから、白紙の上には天月さんだけが残る。
僕はようやく腑に落ちて、改めて天月さんを見た。
スケッチブックに目を落とし、時折ブルータスに視線を向ける真剣な眼差しを見つめながら、僕は改めて君を描きたいと思った。
§
七月半ば、期末テストの返却を終え、学業に一段落付くと、学校は三者面談期間に入った。
そしてその頃、美術部では俯見先生から十一月の県総文に出す作品について話があった。
題材も画材も自由で、風景を選ぶ部員もいれば、既に構図を考えたり下描きを始めている部員もいた。
かくいう僕も、描くものは決めていた。
「天月さん」
「なに?」
僕が改まると、天月さんは怪訝そうな顔を向けた。
構わず僕は二の句を継いだ。
「十一月に出す作品なんだけど、天月さんを描こうと思ってる」
すると天月さんは一度、瞬きをした。
「私?」
「うん。ちゃんと一枚の作品として描きたい。油絵で」
「それはいいけど、変なの描くのはやめてね」
「今回はそういうのじゃないから」
「今回は?」
「・・・・・・いつも真面目に描いてます」
「・・・・・・・・・・・・」
ものすごく疑わしげな眼差しを向けてくる。
前科があるだけに視線が厳しい・・・・・・。
「まぁ、別にいいけど」
と、素っ気ない反応だったけれど、それはいつもの事なので、ひとまず許可をもらえた事に僕は安堵した。
さて、という訳で方針も決まったところで僕はイーゼルを立てて、キャンバスと向き合う――のはまだ先の話で。
それより先に、やるべき事がある。
僕は標準装備とも言えるスケッチブックと鉛筆を手に、椅子を持ち上げ、天月さんから少し離れた場所に腰を下ろした。
まず描く事にしたのは、『目』だった。
これまでに幾度となく天月さんを描いていた筈なのに、目だけを取り出して描いた事は一度もなかった。
今まで全体の一部として目を描いてはいたけれど、一部だけを描くと新たな発見も少なくない。
瞼の膨らみや目尻へ続く線、眼球を覆う皮膚の厚みも、見る角度によって少しずつ形を変える。
一枚描き終えると、僕は椅子を持って少し横に移動する。
今度は別角度から観察する。
同じ目なのに、正面に近い場所から見た時にはなかった線が現れる。反対に、さっきまで見えていた線がまた違って見えた。
僕はページをめくるたびに、違う角度から同じ目を描いていった。
二枚目までは気にする様子もなかった天月さんだったけれど、三枚目に取り掛かる頃には、キャンバス越しに何度かこちらを見るようになっていた。
「さっきから、よく動くね」
「うん」
僕はそれだけ答えると、天月さんは不思議そうな顔をしつつ、また自分の絵へと戻った。
僕も新しいページに移る。
今まで僕が描いてきたのはその瞬間、目に映った天月さんだったけれど、今回は一枚のキャンバスに天月さんを描く。
それは今までで一番の大作だ。
だから天月さんの事をもっと知りたかった。
僕は一部分だけを切り取って天月さんを観察する。
目であれば、どんな形をして皮膚の膨らみがあって、皺の重なりがあるのか、もっとちゃんと深くまで知りたかった。
僕の目の行き届かないところなんてないくらい、君を描き込みたいのだ。
鉛筆を持ち直して、今度は横顔に近い角度からその目を紙の上に描き込んでいく。
それから何枚もページを消費していき、気付けばスケッチブックには天月さんの目ばかりが並んでいった。
端から見れば狂気じみているけれど、他人の目など気にならない。
ただ一つ例外なのは天月さんの目、それだけだ。
「見上くん」
「ん?」
「もうお昼だけど」
顔を上げ、時計を確認すると十二時を少し過ぎていた。
「・・・・・・もう?」
「ずっと描いてたね」
九時からぶっ通しで描いていたようだ。
でもここまであっと言う間で、時間を全く長く感じなかった。
僕は鉛筆を置き、スケッチブック観てみると、紙の上に描かれたのは全て目だった。
「うわ、気持ち悪っ・・・・・・」
近くで片付けをしていた部員がたまたま通りかかると、僕のスケッチブックを覗き込んで思わず声を上げた。
「失礼な」
「や、なんで目ばっか描いてんの?」
「ちゃんと知る為だよ」
「いや、それにしても・・・・・・」
「なになに、どうしたのー?」
一人の部員の騒ぎを聞きつけ、他の部員も集まってくると、最初にやって来た部員が僕のスケッチブックを指差して言う。
「見上が、目ばっか描いてんの」
「目? ・・・・・・うわっ、なにこれキモっ」
「本当だ・・・・・・なにこれ、全部天月さん?」
「そうだよ」
「もしかして他のページも全部?」
「うん」
「ちょっと見せて」
そう言って女子部員がスケッチブックを手に取ると、女子を囲むように周りに人が集まる。
そしてページをめくるたびに軽く悲鳴が上がる。
「やばい、狂気すら感じる・・・・・・」
「一周回ってこれが芸術って気もする」
「見上、天月の事好き過ぎるだろ」
「好きっていうか、執着だよね」
「見上って前から変な奴だとは思ってたけど、マジの変態なんだな」
「失礼な。誰が変態だ」
皆口々に好き勝手言ってくれる。
「てゆうか、三時間ずっと目ばっか描いてたの? 飽きない?」
「飽きないよ。角度も表情も違うし」
「変態にはこれが全部違ってみえるんだもんなー」
「だから、変態じゃないって」
「「「いや、変態だよ」」」
異口同音だった。
満場一致で変態扱いするのやめてくれない?
部員たちはスケッチブックから、今度は天月さんを見る。
「天月は怖くないの? これ見て」
「うん、怖い」
即答された・・・・・・。
部員たちも「だよな」とコクコク頷いている。
「でも、もう諦めてる。見上くんは前から変だし」
「天月さんまで・・・・・・」
もう、僕の創作意欲を認めてくれる人は誰もいなかった。
「天月、なにかあったら俺たちいつでも相談に乗るからな」
部員たちは最後まで失礼な事を言いながらお弁当を持って去って行く。
天月さんはとくに気にした様子もなく、鞄からお弁当を取り出している。
「行かないの?」
ふと、天月さんが声を掛けるので、僕もお弁当を持って美術室を出た。
別に、一緒にお弁当を食べようと言われた訳ではないけれど、なんとなく一緒に付いて行く。
それについて天月さんもなにも言わない。
曲がり角を曲がると、屋上に続く登り階段のところで天月さんは腰を下ろした。
ここなら影で覆われているし、壁際からコンクリートのひんやりした冷気もある。目の前には渡り廊下窓から風が通ってお昼を過ごすには快適だった。
僕は少し距離を離して天月さんの隣に座り、お弁当を広げた。
三時間、ほぼ休まずに描いていたせいか、この時間が妙にゆっくりに感じられた。
開け放たれた窓から、僅かに運動部の掛け声と、吹奏楽の演奏、セミの鳴き声が聞こえた。
お弁当を食べながら、ふと思い出す。
「そう言えば、天月さん三者面談いつ?」
期末考査が終わり、通常授業もなく平日は三者面談が組まれており、美術部ではその間、活動に充てられる。
部活中、部員が面談で出入りしているのをよく見かけるも、天月さんはまだの筈だ。
「明日」
天月さんはごはんを頬張りながら淡々と答える。
「そっか。僕は明後日」
「そっか」
そこで一度、会話が途切れるも、気にせず僕は続ける。
「ちなみに天月さんって、もう進路とか決めてるの?」
すると、箸を動かしていた天月さんの動きが止まる。
「たぶん美大だと思う」
「天月さんなら、武蔵美とか多摩美とか狙えそうだよね」
「そんなの分かんないよ」
天月さんはそう言って、とくに気負った様子もなく弁当に視線を戻した。
その淡々とした返しに、僕はなんと返したらいいのか分からなかった。
具体的にビジョンを思い描いている感じの返しではない事に意外と言ったらいいのか、むしろ天月さんらしいのか。
でも天月さんのように絵を描く才能があって、筆が身体の一部みたいな人は、進路について一直線に繋がっているような気がして、だから具体的なビジョンはなくとも、きっと大局観では目指す方向にブレはないのだろうと思う。
「見上くんは?」
「え?」
「進路」
今度はこっちに話が返ってきた。
てっきり話は打ち切られたかと思って、聞かれたのが意外で反応が遅れる。
「僕は・・・・・・まだ決めてない」
「美大じゃないの?」
「それこそ分からないよ。絵を描き始めたのだって高校からだし」
「時間は関係ないと思うけど」
「それはそうだろうけど。でも、分からない。今はまだ、描きたいから描いてるって感じだから」
「ふーん」
天月さんはそれ以上なにも言わなかった。
相変わらず無表情で感情が読めない。僕の進路について興味があるのかないのか・・・・・・。
しばらくお弁当を食べ進めながら、ふと天月さんのお弁当に卵焼きが一つだけ残されていた。
「食べないの?」
「食べるけど?」
「じゃあなんで残してるの?」
「好きだから最後に取ってるの」
「好きなものは最後に食べる派なんだ」
「うん。見上くんは?」
「僕はバランスよく食べる派」
「そっか」
そう言って天月さんは最後の一切れの卵焼きを頬張った。
今まで天月さんの事はよく見てきたけれど、好きなものは最後に取っておくとか知らなかったな。
ふと、渡り廊下に風が抜ける。
そこで何気なく、天月さんが「ふぁぁ」と小さく欠伸を溢した。
僕はなんともなしにそれを眺める。
いつもならその一場面も描きたいと思っていた筈だけど、その時は不思議とその横顔を眺めているだけだった。
遠くではまだ運動部の声が聞こえる。
学校にいる事には変わりないのに、ここだけ少し、その喧噪から切り離されているみたいだった。
