天才観測

§

 天月さんから公認を得てからというもの、僕はもう隠れてコソコソと描く事はなくなった。

 ある日の休み時間。僕は机の中から一冊のスケッチブックを取り出す。

 今まで使っていた小さなクロッキー帳ではない。あれは制服のポケットに入れて、天月さんを見つけた時にすぐに取り出せるように持ち歩いていたけれど、もう隠れて描く必要もなくなったし、普段美術部で使っている少し大きめのスケッチブックを机の上に広げ、斜め前を見る。

 天月さんは自分の席に座りながら、友達の女の子が差し出すお菓子の袋に手を伸ばし、なにかをひと摘まみして口へ放り込む。

 そのまま何度か咀嚼した後、指についたお菓子のカスを舌で舐めた。

 それを見て、自然と筆が動く。

 僕は鉛筆を握る。

 いつもなら、ここから天月さんに気付かれないようにたびたび視線を動かしては白紙に浮かんだ輪郭を追っていくけれど、今は堂々と描ける。

 それを認めてくれたのは天月さんだ。

 なら、僕も遠慮はしない。

 けれど・・・・・・。

「・・・・・・・・・・・・」

 視線を向けた瞬間、天月さんと目が合った。

 反射的に、スケッチブックに視線を落とす。

 改めて、もう一度顔を上げると、まだ見られていた。

「・・・・・・な、なに?」

 先に聞いたのは僕だった。

「別に」

 天月さんはそう答えてから、僕の机に視線を落とす。

「今から描くの?」

「・・・・・・そのつもりだけど」

「私?」

「そうだよ」

「ふーん」

「だ、ダメ・・・・・・?」

 公認してもらったのだから描いていい筈だけれど、僕は思わず訊ねる。

 すると天月さんは相変わらず素っ気ない。

「別に」

 と、塩対応だ。

 でも、

「好きにして」

 と、拒否はしなかった。

 それだけ言うと、天月さんはあっさりと友達の方へと向き直った。

 それを聞いて、僕はホッと胸を撫で下ろす。身構えていた身体から緊張が抜けていく。

 どうやら気にはなった様子だけど、気にしてはないらしい。

 僕は改めてスケッチブックを見る。

 そこには振り返った天月さんの輪郭がうっすらと浮かんでいた。

 もう本人は友達の方へと向き直っているけれど、紙の上にはほんの数秒前の天月さんの輪郭があった。

 友達との会話の途中でこちらへ顔だけを向けたせいか、身体は斜め前を向いたまま、首だけが僕の方へ返っている。

 僕はその捻れを、スケッチブックに描き写していく。

 不意に、視線を感じて顔を上げると、また天月さんと目が合った。

「・・・・・・・・・・・・」

 またしても僕は視線を逸らしてしまう。

 今までは天月さんに気付かれないように描いていたけれど、それはそれで難しかったものの、相手がこちらを意識していないという点では描きやすかった。

 でも今、天月さんは見ている。

 僕を意識的に見ている。

 正直、すごく描きづらかった。

 盲点だった。

 本人から公認を得るという事は、相手も僕を意識しているし、見ている可能性があるという事だ。見られていると分かりながら描くのは、思ってるよりも難しい。

「見上くん」

「な、なに・・・・・・?」

 気付けば、天月さんは僕の目の前に立っていた。

 思わず身体が仰け反ると、天月さんは相変わらず無表情のまま言った。

「描くなら、ちゃんと見たら?」

「み、見てるけど・・・・・・」

「さっきから目が合うと逸らすよね?」

「・・・・・・気のせいじゃない?」

 じゃない・・・・・・。

「なになに見上くん、早速彩葉描いてんの?」

 と、そこへ天月さんの隣にいた友達までやって来て僕と天月さんを交互に見た後、面白そうに口元を緩めた。

「・・・・・・まぁ」

「てか全然描けてないじゃん」

 そう言って天月さんの友達は僕のスケッチブックに目を落とした。

「描こうとすると、天月さんがチラチラこっち見るから」

「なにそれ私が悪いの?」

「や、悪いというか、見られてると描きづらいっていうか・・・・・・」

「ははは、なにそれ見上くん。自分は彩葉の事、意識して見てたのに自分は意識されるの嫌なんだ」

「・・・・・・そ、それは」

 図星だった。

 そして自分の身勝手な考えが天月さんに晒される。

「そうなの?」

「・・・・・・まぁ、見られてると思うと緊張して」

「今まで散々見といて?」

「それとこれとは・・・・・・」

 僕はしどろもどろに答えながら、恐るおそる天月さんを見上げる。

 まるで叱られた子供が情けをかけてもらおうとするみたいに。

「・・・・・・・・・・・・」

 視線の先には無表情の天月さんの顔が映った。

 相変わらずなにを考えているか分からない、こちらに想像力を委ねてくる。

 いつもなら自然と姿全体を捉えられていた視線が、今は天月さんの表情と、視線を向ける目元に集中していた。

 ややあって、天月さんは自分の席を戻っていくので、僕はもう一度スケッチブックに視線を落とす。

 すると、余白のスペースにさっき振り返り様の天月さんではなく、今しがた見た僕を見下ろす能面の天月さんのどアップの顔がうっすらと浮かび上がっていた。

 とくに目元の表情が鮮明だ。

 いつもなら、もっと全体が見えていた筈なのに、今は一部分だけやたらと解像度が高い。

 視野が狭くなっている。

 でもそれは見ていない訳じゃなく、見る場所が狭くなっている。そして、一部分だけはいつも以上に見ている。

 天月さんの目元にだけ意識過剰に見たせいで、他の部分が上手く拾えなくなっていた。

 ・・・・・・これは、慣れるまでに時間が掛かるかもしれない。

 想像していなかった・・・・・・公認を得たらもっと堂々と、スムーズに筆が進むと思っていたのに、むしろ前よりも描けなくなるなんて。

 天月さんを覗いている時、天月さんもまた、こちらを覗いているとはこの事だ・・・・・・。

§

 けれど、そのぎこちなさも次第に薄れていく。

 最初の数日は、天月さんと目が合うたびに余計なところに意識が向いて、そのたびに鉛筆の動きが鈍っていたけれど、何度か繰り返しているうちに、僕は見られながら描く事に段々と慣れていった。

 また、天月さんの方も僕がスケッチブックを開いている事をいちいち気にしなくなった。

 休み時間、僕が鉛筆を持っていても、最初のようにこちらを見てくる事はない。

 僕が天月さんを描いているという事実そのものが天月さんの日常のお中へと馴染んでいった。

 そうなれば、僕の方も以前の調子を取り戻す――いや、以前よりもずっと調子ついている。

 隠れて描いていた頃は、バレないようにと配慮や制限があった中で鉛筆を動かしていたけれど、今は天月さん自身から公認をもらっている。

 その安心感が、僕の中から別の遠慮まで一緒に取り払っていた。

 授業中、舟を漕ぐ天月さんや、静まり返る教室で不意にお腹が鳴り、恥ずかしそうにお腹を抱える姿。

 休み時間、スナック菓子を頬張りながら口元にカスを付けて、ペロリと舌で掬い取る天月さん。

 昼休み、パンの袋がなかなか開かず眉間に皺を寄せながら格闘し、勢い余って開封して床にパンを落として呆然とする天月さん。

 放課後、美術室で作業中、不意に大きな欠伸をし、途中で僕と目が合った途端、顔を逸らす天月さん。

 今まで、そういう瞬間は何度も目にしてきたけれど、以前までならカ描こうかと考えている間に過ぎ去ってしまったり、気付かれそうだから諦めた事も少なくなかった。

 でも今は違う。

 目に留まった瞬間、迷う事なくスケッチブックを開く。

 白紙に浮かび上がる天月さんに鉛筆を重ね、その一瞬が消えてしまう前に紙の上に残していく。

 それが次第に当たり前になっていた。

 僕自身、それまで描きたいという気持ちを抑えていたつもりはなかったけれど、いざ抑える必要がなくなると、どうやら思っていた以上に色々な天月さんを描き逃している事に気付く。

 それはスケッチブックの消費するペースから明らかだった。

 一枚描けば、また別の姿が留まる。それを描き終えれば今度は違う表情が気になる。

 笑っている時も、退屈そうにしている時も、考え込んでいる時も、ぼんやりしている時も、その時々で少しずつ違ってみえた。

 この感じ、思えば前にもあったな。

 天月さんの絵に使われている色が気になって、必死になって工程を見つめていたあの時と同じだ。

 今は見ている方向性は違うけれど、見つめる熱量は同じ、いやむしろ今はもっとかもしれない。

 そうして天月さんを描き続けていると、ある日の放課後。

 支度の途中、机にスケッチブックを置いていると、天月さんがたまたま側を通りかかり、スケッチブックに目を向ける。

「結構、描けた?」

「え? あぁ、うん。お陰様で」

 進捗状況を聞かれ、僕は答える。

 天月さんはさらに付け加えて、「見てもいい?」と訊ねるので、僕は頷いた。

「いいよ」

 描く事自体は公認を得ているので、隠す必要はない。

 天月さんはスケッチブックを手に取ると、机の上に広げた。

 まず一枚目をめくると、そこに描かれていたのは授業中に頬杖をつく天月さんだった。

 なんだろう、天月さんの絵を天月さんが見ている。

 なんとも奇妙な感覚だ。

「ふーん」

 しばらく絵を眺めなてから、天月さんは意味深な相槌を打った。

「これ、いつの?」

「この前の現代文の時」

「授業も聞かずに描いてたんだ」

 その言い方だと、授業にうつつを抜かしてるみたいだけど、全くもってその通りだった。

 夏目漱石の『こころ』よりも、僕の心は天月さんに向いていた。

 『精神的に向上心のないものは、ばかだ』なんて言葉も出てくるけれど、僕の場合、向上心の向かう先が授業ではなかっただけだ。

「ちゃんと授業も聞いた方がいいよ」

「はい」

 普通に窘められた。

 どうやら文学的な言い訳は通用しないらしい。

 それからも、天月さんは一枚ずつページをめくり、そのたびにゆっくりと絵を見つめる。

 友達と話している横顔を見て、「私こんな顔してる?」と首を傾げたり、教科書を読んでいる自分を見て、「猫背」と呟いたり、僕の描く『天月さん』に彼女は物珍しそうに眺めていた。

 その間、決して上手いとか下手とか、好きとかそういった感想をくれる事はなかったけれど、天月さんが僕の絵に関心を示し、時間を掛けて見てくれるだけで十分に嬉しく、有意義な時間だった。

 そう思っていた。

「・・・・・・・・・・・・」

 あるページで、天月さんが固まる。

 最初は普通に絵を見ているだけかと思っていたけれど、眉間が僅かにピクリと動いて、僕は首を傾げた。

「どうしたの?」

「・・・・・・これ、なに?」

「ん?」

 天月さんがスケッチブックを僕に向けるので、覗き見る。

 そこに描かれていたのは休み時間に、机に突っ伏し、片腕を枕代わりにして横向きに眠っている天月さんだった。

 頬は腕に押されてぐにょりと押しつぶされいた。

 普段、ほとんど動かない口元も緩み切っていて、本人が意識して見せる事はまずないであろう顔だった。

「あぁ、これ」

「あぁ、じゃないんだけど」

 天月さんはいつもの能面とは違い、僅かに眉間に皺が寄った。

 けれど、それ以上はなにも言わず、次のページに指を掛ける。

「・・・・・・・・・・・・」

 次に出てきたのは、体育の授業を終えた後、まだ火照りの残った顔で制服の襟を摘まみ、パタパタと風邪を送り込んでいる天月さんだった。

 髪も少し乱れていて、普段より随分と気の抜けた姿をしている。

「・・・・・・こんなところまで」

 今度はページを眺める時間が明らかに短かった。

 そのまますぐに次をめくる。

「・・・・・・・・・・・・」

 今度は休み時間。

 友達から差し出された一口サイズのお菓子を食べようとしている姿。

 少しだけ首を前に伸ばして、口を開けたままお菓子が入ってくるのを待っている。

「・・・・・・私こんな顔してない」

「してたよ」

「してない」

 否定する声が、さっきより少しだけ早い。

「こんなの、鯉みたいじゃん」

「そのつもりで描いた訳じゃないよ?」

「じゃなきゃ怒ってる」

「天月さんが?」

「他に誰がいるの?」

 睨まれた。

 どうやらこれは、本当に気に入らなかったらしい。

 しかし天月さんは決してスケッチブックから目を離さなかった。

 そして次のページをめくった天月さんの指が止まった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 長い沈黙が挟まれ、僕は一瞬、時が止まったのかと錯覚した。

 そこに描かれていたのは、背後から友達に両側から頬を挟まれた天月さんの変顔だった。

 両手で頬を押し込まれて、唇が少し前に突き出した気の抜けるような表情。

 我ながら、このシーンをよく描き逃さなかったと思う。

 これは本当にレアな一面だ。

 このシーンに遭遇した時の僕の脳内ではドーパミンが溢れ出していたと思う。

「・・・・・・ねぇ」

「なに?」

「なんで、こういうところばっか描くの?」

 天月さんが、語気を強めて言った。

 そしてよく見ると、顔がほんのり上気しているように見えた。

「いや、こういうのばっかりじゃないよ。むしろレアだよこれは」

「レアとか言うな」

 天月さんは気に入らなさそうに一蹴した。

「寝てるところとか、変な顔してるところとか、なんでいちいち描くのって聞いてるの」

「だって、描きたかったから」

「・・・・・・・・・・・・」

 答えると、天月さんの眉間の皺が深くなった。

 僕としてはそれ以外に説明のしようがない。

 普段通りの天月さんも描きたいし、珍しい表情も逃したくない。

 全ての天月さんが一点物で、期間限定なのだ。

 図鑑を埋めるように、刻一刻と刻まれる天月さんの表情をスケッチブックに収めたかった。

 公認を得てからというもの、僕の欲求は留まるところを知らない。

「こんなの描いていいなんて許可してないよね」

「いや、描いていいって言ってたよ」

「こういう事じゃない、バカ」

 そう言って天月さんはスケッチブックを僕の頬にぐいぐい押しつけるという可愛らしい抗議の形を採用するけれど、スケッチブックの角で頬を突くという陰湿さが彼女の怒り加減を現していた。

「痛いって!」

「痛い方が反省するでしょ?」

 痛みが多いほど反省を促せるなんて考えは、それはあまりに危険思想だ・・・・・・!

「もうしない?」

「しないからっ」

「本当に?」

「本当です、神に誓って」

「私に誓って」

「天月さんに誓って、変なところは描きません」

「絶対?」

「・・・・・・絶対」

 僕が答えると、天月さんはようやくスケッチブックを頬から離した。

 まだ完全に納得していないのか、不服そうな表情で僕を睨み、唇も僅かに尖っていた。

 ・・・・・・・・・・・・。

 あぁ、反省したばかりだというのに、僕は思ってしまった。

 ――この顔も描きたい。

 こんな風に思っちゃいけないのは分かっているけれど、でもそう思ってしまった。

 ・・・・・・これは、僕が悪いのか?

 いや、悪いんだろう。

 たった今、もう変なところは描かないと約束したばかりなのに、欲求を抑え切れないでいる。

 こんなにも欲求に忠実だなんて僕はなんて浅ましい人間なんだろう。

 でも、描きたいものは描きたいのだ。

 それに、この表情は別に変な顔でもなんでもないし、天月さんの言う変な顔には該当しないのでは?

 などと己を正当化させてしまう僕はやっぱり反省なんてこれっぽっちもしていないのだろう。

「・・・・・・・・・・・・」

 僕の内心を見透かして、という訳ではないだろうけれど、天月さんが最後まで疑わしそうに視線を向けてくる。

 けれどやがて、天月さんはなにも言わずに荷物を持って先に部室へと向かった。

 僕は小さく溜め息を吐きながら、なんとなく返されたスケッチブックの新しいページを開いた。

「・・・・・・・・・・・・」

 白紙の上には、さっきまで僕を睨んでいた天月さんが浮かんでいた。

 僅かに寄った眉。

 尖った唇。

 まだ赤みの残る頬。

 ・・・・・・いや。これは変な顔ではない。

 そんな言い訳をしている間にも、僕の手はもう鉛筆に伸びていた。