§
それからというもの、僕は天月さんを描くようになっていた。
最初は、あの日に起きた現象を再現する為だった。
美術室で天月さんを見ながら、クロッキー帳を開く。
するとやっぱり、白紙の上には天月さんの姿が浮かんでいた。
僕はそれをなぞる。
翌日も、その翌日も同じだった。
ただ、毎回全く同じ天月さんの姿が現れる訳じゃなくて、筆を洗う時の横顔であったり、キャンバスから一歩離れて全体を眺める姿や、考え込むように少し首を傾げる仕草など、色んな様子がクロッキー帳に浮かび上がる。
そこで僕は気付く。
ただ、天月さんが見えるだけじゃなくて、僕がよく見ていた部分が鮮明に輪郭としてクロッキー帳に浮き上がるのでは?
現に、クロッキー帳に浮かび上がってくる線は、天月さんの全貌が見える訳じゃなく、部分的だ。
袖から覗く手首、肩まで流れ落ちる髪、細められた目元なんかは鮮明に浮かび上がる。けれど僕があまり意識していない部分の輪郭は曖昧で、ほとんど見えなかった。
だったら、もっとよく観察すれば全体像まで範囲を拡大できるんだろうか?
ふと、僕の中で仮定が浮かび上がり、そんな事が気になった。
――この謎の現象がなんなのか、気になる。確かめてみたい。
だから僕は、天月さんに向ける視線の方向を変えた。
気付けば僕は、天月さんから絵の手がかりを得る為ではなく、天月さんを描く為に見るようになっていた。
§
絵の手がかりを得る為でないなら、美術室という制約もない。
僕の観察の活動範囲は美術室だけに留まらず、日常生活にまで範囲を広げた。
授業中、休み時間、そして部活の時間など色んなところで天月さんを確認する。
それだけ言えば、なんだかストーカーじみているけれど、これは観察であり、謎の現象の究明だ。
僕はそう大義名分をぶら下げる事で自分を正当化した。勿論、天月さんには黙っている。
授業中、天月さんは考え事をしている時、よくペンの尻を唇の下に当てる癖がある。
僕はノートに視線を落とす。すると白紙の部分に、ペンを当てる天月さんの顔が薄く浮かんでいた。
唇に触れたペン先や、その周りにある指の形や、僅かに伏せられた目元もそこには浮かび上がっていた。
僕は一度、教卓を確認してからシャーペンを持ち直し、ノートの白紙に線を描き込む。
頬の輪郭を取り、目元を置き、ペンを持った手の形を追っていく。
端から見れば、ただ真剣に板書をしている風に見えるだろう。けれどその実態は全く違い、僕は授業などそっちのけで天月さんの輪郭をノートに立ち上がらせていく。
板書の文字の隣に、授業内容とはまるで関係ない天月さんの姿が少しずつ出来上がっていく。
なんだか、魔方陣を描き込んで天月さんを召喚している儀式のような気分だった。
でも、そんな摩訶不思議な現象を前に、しかし僕は不思議とズルをしているような気持ちにはならなかった。
見えている線をなぞっているだけなら、そこに僕の技術なんてあるのだろうかとは思う。けれど、ペンを動かす指の感覚は確かに僕のものだった。
だからなのか、これを魔法だとは思えなかった。
描いてる途中で、先生の声が近くなり、反射的に顔を上げ、ノートのページを板書の書かれているところに戻す。
しばらく板書を写しながら、さっきの余白が気になって仕方なかった。
数分してからもう一度、天月さんを描いているページを開くと、描きかけの天月さんは当然そこにいる。それとは別に、さっきまで浮かんでいた輪郭もまだ薄く残っていた。
消えてない。
よかった。と思いながら、僕は再び天月さんの輪郭をなぞる。
そんな風に、授業などそっちのけで天月さんを描く日々が続く。
ある時は、授業など上の空で頬杖をつく天月さん。またある時は、先生に指名され、猫背気味の立ち姿勢で音読する天月さん。休み時間、コーヒー牛乳に刺さったストローを甘噛みする天月さん、眠そうに欠伸を噛み殺す天月さん。
どれも美術室で絵を描いている時には見せない姿だ。
珍しい光景を目にするたび、僕はその瞬間を逃さないよう、すかさず制服のポケットに手を伸ばす。いつの間にか、移動の際には小さなクロッキー帳と鉛筆を持ち歩くのが当たり前になっていた。
最初は、この現象がなんなのかを知りたかった。けれど今は、「この瞬間の天月さん」を見つけるたびに描き残したい、描き逃したくないという思いに変わっていった。
この現象が起きてからというもの、僕の目に映る天月さんは、その瞬間ごとに期間限定になっていた。
気付けば授業中はノートの余白に、それ以外の時間はクロッキー帳やスケッチブックに天月さんが少しずつ増えていった。
そんな風に天月さんを描く日が続くうちに、少しずつ僕自身の得にも変化が出始めた。
最初に気付いたのは、筆を置く前だった。いつものように描きかけのキャンバスを見ていると、これまでなら少し考えてから手を入れていたのに、不意に引っ掛かるものがあった。
――奥の木立が、手前に飛び出している。
言葉にするより先に、視界の隅で違和感がそれを捉えた。
遠くの木にしては色が重過ぎたせいか、奥行きが崩れ、画面の前へと押し出されていた。
以前なら、そこに気付くまでにもう少し時間を要していたような気がする。けれど今は、見た瞬間に違和感が立ち上がった。
僕は筆を取り、その部分へほんの少しだけ色を重ねた後、一歩引いてキャンバスを見てみると、さっきまで主張し過ぎていた奥の木立が、今は景色に馴染んでいた。
息を吐きながら、僕は自分でも驚いていた。
なにかが変だ、と立ち止まって悩む時間が、今はなかった。どこを見るべきかが以前より分かる気がする。
僕はその後も絵を眺めながら気になった箇所を修正を加えつつ、描き進めていくと、不意に後ろから声がした。
「見上くん」
振り返ると、俯見先生が僕のキャンバスを見ていた。
「今日は迷いが少ないね」
「・・・・・・僕も、今ちょっとそう思ってました」
「筆を置くまでが早いもんね」
俯見先生に言われて、僕はもう一度キャンバスを見る。どうやら、自分だけがそう感じていた訳じゃないらしい。
「なにかあった?」
「え?」
「前よりよく見えてる気がするから。なにかキッカケでもあったのかなって」
そう訊ねられて、僕は少し考えてしまう。
思い当たるものならある。天月さんだ。けれど、彼女について話すのは憚られる。
だから、
「・・・・・・最近、よく見るようにはしてるので」
「見る?」
「細かいところまでちゃんと見るっていうか」
「へぇ」
俯見先生は短い相槌を打つ。
「それならいい傾向だね」
「え?」
僕は思わず聞き返すと、俯見先生は僕のキャンバスに視線を向ける。
「絵って、手より先に目が育つからね」
「それはどういう」
「見えてないものは描けないでしょ?」
そう言って、僕に向き直る。
あぁ、なるほど。
「確かに、そうですね」
「前よりよく見えるようになったなら、そのうち手もついてくるよ」
そう言い残すと、俯見先生は別の部員のところへと歩いて行った。
僕はその背中を見送ってから、ふと天月さんの方へ目を向ける。
彼女はいつもと変わらず、キャンバスに向かって筆を動かしていた。
僕はなにも言わず、自分のキャンバスに向き直って筆を持ち直した。
§
ある日、それは休み時間の事だった。
僕は自分の席に座りながら、クロッキー帳を机の上に開いていた。
少し離れた先では天月さんが友達と話している。頭には、いつもの寝癖がついて、また友達の女の子にパンチングマシンみたいに遊ばれながら、鬱陶しそうに睨み付けていた。
僕はその光景を眺めてから、クロッキー帳に視線を落とした。白紙の上には、さっきまで見ていた天月さんの輪郭が浮かんでいる。
友達のちょっかいを払い除ける手と、頭部でぴょこぴょこ揺れる寝癖を白紙の上で線にする。
ペンを動かしながら、もう一度だけ天月さんを見る。
と、その時だった。
「見上、なに描いてんの?」
「・・・・・・っ」
突然、すぐ後ろから声がして、僕は反射的にクロッキー帳を閉じた。
振り返ると、クラスメイトの男子が僕の肩越しから机を覗き込んでいた。
「な、なに?」
「いや、今なんか描いてただろ」
「・・・・・・別に」
そう答えながら、閉じたクロッキー帳の上に手を置く。
僕の中ではすっかり日常になっていたけれど、それを事情の知らない他人に見られればどう思われるかは容易に察しがつく。
まして、クロッキー帳には何枚もの天月さんの絵が描かれているのだ。こんなのがバレたらひとたまりもない・・・・・・のだけど、どうやら閉じるのが少しだけ遅かったらしい。
「今の、天月じゃなかった?」
「・・・・・・・・・・・・」
一瞬、言葉に詰まる。
「天月だよな?」
二度目の聞き方には確信が混じっていた。
「・・・・・・気のせいじゃない?」
「いや、そんな事ないと思うけど」
「・・・・・・・・・・・・」
「天月の事、好きなの?」
「は・・・・・・?」
単刀直入に言われて、僕は戸惑う。
あまりに安直な憶測だと思う。でも、そう関連付けてしまうのも分からない訳ではないから、ぞんざいに否定する事も出来ない。
「・・・・・・そういうんじゃない」
「じゃあなんで天月描いてんの?」
「なんでって・・・・・・」
答えかけて、言葉に詰まった。
最初は、奇妙な現象が気になって、何度も白紙を確かめていた。けれど今となってはその現象自体にはすっかり慣れてしまって、それを確かめる為に描く事はほとんどなくなっていた。
それでも天月さんを描く事だけはやめなかった。
授業中で頬杖をつく姿も、コーヒー牛乳のストローを甘噛みする姿も、さっきみたいに寝癖をいじられて鬱陶しそうに睨む姿も、なぜか妙に目が留まる。
一度気になると、そのまま通り過ぎるのが惜しくなって、気付けばクロッキー帳を開いていた。
「・・・・・・絵の練習だよ、ただの」
ややあって、僕はそう答えた。
「ふーん」
すると、クラスメイトはどこまで納得したのか分からない顔で、相槌を打つと、もう一度、僕の手元に視線を戻した。
「でも、さっきの絵かなり上手かったよな」
「・・・・・・そう?」
「あぁ、パッと見で天月だって分かったもん」
だから、こうしてバレてしまった訳だ。嬉しいけれど、素直に喜べない・・・・・・。
「なぁ、もっかい見せてよ」
「え? やだよ」
「なんで、いいじゃん。上手いんだし」
「や、そういう問題じゃなくて・・・・・・」
「一枚くらいいいじゃん」
「一枚でもダメ」
てゆうか、一枚でも見たら次見せてとか言いそうだし、最初のキッカケを与えてしまったらなし崩し的に色々見られそうで怖い。
僕は机の上に置いていたクロッキー帳を手に取り、自分の方に引き寄せる。
「そんな風に隠されると余計気になるんだけど」
「気にしなくていいよ」
「いや、気になるものは気になるから」
そう言いながら、クラスメイトが僕の持つクロッキー帳に手を伸ばしてくるので、僕は咄嗟に身体ごと少し後ろに引いた。
「だからダメだって」
「なにやってんのー?」
と、そこへ別の声が加わった。
見れば、近くの席にいた女子がこちらにやって来る。
「見上がなんか絵隠してんの」
クラスメイトの男子が新たに加わった女子に事情を話し、加勢を促してくる。
「隠してないって」
「いや、めっちゃ隠してるじゃん」
「見上くん、絵描いてるんだ。なに描いてんの?」
「天月」
「おい」
「いいだろ別に、上手いんだし」
「そういう問題じゃないから」
あっさりとバラされ、僕は慌てた。
名前を出されたせいで女子の目の色が変わる。とくに好奇の色が露骨に浮き上がる。
「見上くん、天月さん描いてるの?」
「・・・・・・・・・・・・一枚だけ」
僕は渋々答える。けれど嘘だ。いや、一枚しか見られていないから僕が一枚だけと言えば彼らにとってはそれが事実になる。
いや、そんな理屈は今はどうでもよくて、それよりこの窮地をどう脱するかだ。
「え、天月さんの事好きなの?」
「だから、そういうのじゃないって」
皆、すぐに恋愛に結び付けようとしたがるな・・・・・・。
「ねぇ、見上くんの絵見せてよ」
「だから、ダメ」
「なんで?」
「だから・・・・・・」
答えに困っている間にも、気付けば僕の机の周りには三、四人生徒が集まり始めていた。
まずい・・・・・・一悶着したせいで騒ぎになってる。
僕はクロッキー帳を抱え直す。
「そんなに見せたくないの? ますますやましいな。じゃなくて怪しいな」
「・・・・・・どっちでもないから」
「どっちでもないなら見せられるでしょ?」
「それとこれとは話が別」
「なにが別なの」
「なんでも」
ダメだ、否定すればするほど面白がられている気がする。
最初の一人だけなら適当に誤魔化してやり過ごせたかもしれない。けれど人数が増えれば、それだけ声も大きくなる。
「てゆうか天月描いてるって、やっぱ好きなんじゃないの?」
「だから違うって」
思わず少し強めに返した。
その時だった。
「なにが違うの?」
聞き慣れた声が、集まったクラスメイトの向こうからした。
「・・・・・・っ」
僕は思わず目を見開く。
そこにいたのは天月さんだった。
人の隙間から顔を覗かせた天月さんは、さっきまで友達にいじられていた寝癖をそのまま頭に残しながら、不思議そうにこちらを見ていた。
「天月さん・・・・・・」
「今、私の名前聞こえたんだけど」
天月さんはそう言いながら集まっているクラスメイトの顔を順に見ていく。
こういう時、気を遣って黙ってくれればいいのに、口の軽いクラスメイトがあっさり告げ口する。
「見上が天月描いてた」
「おい」
「私を?」
天月さんの視線が僕に向く。僕は固まって動けなくなる。
「そうなの?」
「・・・・・・それは」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
言い淀む僕に、天月さんは言葉を続ける代わりに無言の圧力を向けてくる。
いや、天月さん自身は圧力をかけているつもりはないのかもしれないけれど、無表情だから僕が勝手に圧力を感じる。
「・・・・・・はい」
ここまで来ると、もう完全に否定するのは無理だった。
僕は肩を落とし、力なく答えると、天月さんは手を差し出した。
それは救いの手――などでは決してなく、
「見せて」
「え・・・・・・」
催促の手だった。
お手を要求するように僕の前に右の手のひらを見せる。あ、天月さんますかけ線ある。流石だなぁ。
「いや、それはちょっと・・・・・・」
「なんで?」
「なんでって・・・・・・」
さっきからこのやりとり何回したんだ・・・・・・。
ただ、相手が張本人になっただけで断る難易度は比べものにならないくらい上がっていた。
「いいから。見せて」
有無を言わせない雰囲気に、僕は息を吞む。
躊躇っていると、不意に天月さんの手が伸びる。
僕は咄嗟にクロッキー帳を引こうとしたけれど、一瞬の隙を突かれて反応が遅れ、そのままスルリと手元から抜き取られてしまった。
「て、天月さんっ」
呼び止めても、彼女はもう表紙を開いていた。
終わった。
天月さんは最初のページに目を落とす。すると彼女の眉がほんの僅かに動く。
「・・・・・・私?」
そこに描かれていたのは授業中、考え事をしながらペンの尻を唇の下に当てている天月さんだった。
天月さんはしばらくそれを見た後、なにも言わずに次のページに指を掛ける。
「あ、ちょっと」
僕は咄嗟に手を伸ばしたけれど、天月さんはクロッキー帳に目を落としたまま片手で払い落とされてしまう。
彼女は次のページをめくると当然、そこには天月さんがいる。
今度は頬杖をつきながら窓の外を眺める天月さん。いつもの表情より少し眠そうに見える横顔。
「一枚だけじゃなかったのかよ」
便乗して一緒にクロッキー帳を覗いていたクラスメイトの男子が、僕の嘘を突きつける。
「一枚だけ見られたから・・・・・・」
「ただの屁理屈かよ」
周囲から小さな笑い声が聞こえるが、笑われる程度ならまだよかった。
天月さんはまたさらにページに指を掛ける。
「・・・・・・・・・・・・」
もう一枚。また天月さん。
猫背気味の立ち姿勢で音読する天月さん。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
次のページ。
休み時間、コーヒー牛乳に刺さったストローを甘噛みする天月さん。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
次のページ、眠そうに欠伸を噛み殺す天月さん。
「あ、天月さん、も、もう・・・・・・」
僕は冷や汗を掻きながら再びクロッキー帳を取り戻そうと声を掛けるも、天月さんは身体を捻って僕の手を躱す。
天月さんはクロッキー帳をジッと眺めながら一ページ、また一ページとめくり続ける。
また天月さん。その次も、さらにその次も。
ページをめくるたびに違う姿の天月さんが現れる。
廊下を歩いている時、授業の合間に机に突っ伏している時、友達に呼ばれて振り返った時、コーヒー牛乳のストローを甘噛みしながら、ぼんやり相手の話を聞いている時。
僕がその都度、目に留まった瞬間を描いたものが、時系列ごとに天月さんに知れ渡る。
いわばそれは、天月さん観察日記のようなものだった。
「・・・・・・なぁ」
天月さんが黙ってページをめくる横で、さっき僕に「好きなのか」と聞いてきた男子が、こちらに顔を寄せてきた。
「なに・・・・・・」
「お前やっぱ天月さんの事、好きなんじゃね?」
声を潜めて改めて訊ねる男子に、僕も釣られて声を落とす。
「・・・・・・だから違うって」
「いや、一枚ならまだしも・・・・・・これはもう、無理あるだろ」
「・・・・・・・・・・・・」
反論しようとしたけれど、目の前では今もページをめくるたびに天月さんが現れる。
それを見ながら否定するのは、あまりに自分の言葉の方が頼りなく思えてくる。
「でも普通に上手いよな」
今度は別のクラスメイトが少し感心したように言う。
「分かる。これとかめっちゃ天月っぽい」
「顔だけじゃなくて、姿勢とかも」
「この量は引くけどな」
「余計な一言・・・・・・」
「いや、そこは引くだろ」
褒められているのか、呆れられているのか分からない。
どうやら周囲の評価は、上手いけれど怖い、という妙なところで一致しつつあるらしい。
天月さんはなにも言わない、けれど最初よりも少しだけ早いペースでページをめくり続けている。
やがて、キリがないと思ったのか、天月さんはクロッキー帳の端に親指を掛け、そのまま何枚かまとめるようにページを弾いた。
紙がパラパラと流れていく。
クロッキー帳の中の天月さんが高速で流れていく。そこだけ時の早さが加速し、まるで走馬灯のように見えた。
僕の。
「・・・・・・・・・・・・」
やがて、最後のページに辿り着くと、天月さんはなにも言わずクロッキー帳をパタリと閉じた。
それを合図にしたように、周囲の笑い声もやみ、僕だけでなく、周囲のクラスメイトまで一斉に天月さんを見る。
「見上くん」
「・・・・・・はい」
「これ、いつ描いたの?」
「いつって・・・・・・授業中とか、休み時間とか」
「廊下のもあったよね?」
「・・・・・・ありました」
「教室だけじゃないんだ」
「・・・・・・・・・・・・はい」
「じゃあ、これ持って歩いてたって事?」
「・・・・・・・・・・・・」
僕は答えられなかった。
教室のみならず、廊下にいる天月さんまで見つけて描こうとした。その為にクロッキー帳まで持ち歩いて。
自分ではただ、目に留まった瞬間を残したかっただけのつもりだったけれど、本人の口から順番に確かめられると、自分の行動に含まれていた執着心の濃さが急に浮き彫りになっていく。
「・・・・・・持ち歩いていました」
ようやく答えると、横で聞いていたクラスメイトが呆れたように息を漏らす。
「移動中も持ち歩いてたのかよ。お前すごいな」
それは皮肉というより、呆れを通り越して感心したような物言いだった。
けれど、その間も天月さんは笑わなかった。
天月さんはクロッキー帳に目を落としながら、ポツリと言った。
「私、描かれてたなんて知らなかった」
「・・・・・・うん」
「しかもこんなに沢山」
「・・・・・・ごめん」
「クロッキー帳まで持ち歩いて」
「・・・・・・それも、すみません」
問い詰められるたびに、自分がいかにおかしな事をしているのか、今になって自覚する。
今までが本当に冷静じゃなかった。僕は今になってようやく我に返ったような気持ちになる。
「いつから描いてたの?」
天月さんは僕に視線を戻すと、端的に訊ねる。
「・・・・・・ここ最近」
「それでこんなに?」
答えるたびに自分の異常さを突きつけられる。
「・・・・・・ごめん、もう描いたりしないから」
質問の答えにはなっていなかった。
これ以上、一つずつ確認されるたびに自分の行動を突きつけられるのがしんどくなって、僕は一刻も早く話を終わらせたかった。
「別に、描いちゃダメなんて言ってないけど」
「・・・・・・そうだよね、ごめん」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ん?
「え、今なんて?」
「だから、描いちゃダメなんて言ってないけど」
「・・・・・・え?」
予想していた答えとは違い、僕は思わず聞き返した。
「なに?」
「・・・・・・イヤじゃないの?」
「なにが?」
「だから、描かれる事」
「別に。減るもんじゃないし」
「・・・・・・そうなの?」
「うん」
あまりにあっさりした返事だった。
「でも、私の知らないところで描かれるのは嫌」
「・・・・・・それは、はい」
そこは一線を引かれた。
僕の全てが許される訳じゃない。でも本人に隠れてコソコソ描いたり、わざわざクロッキー帳まで持ち歩いている事まで知られた以上、流石に気味悪がられると思っていたし、少なくとももう描かないで欲しいと言われるくらいの覚悟はしていたから、むしろこれくらいで許されるとは思っていなかった。
けれど、天月さんはそこで少しだけ眉を寄せる。
「ただ、描くなら堂々と描いて。そっちの方がフェアだから」
「・・・・・・フェア?」
思わず言葉を繰り返すと、天月さんは淡々とした口調で返す。
「私だけなにも知らないで描かれるって一方的でしょ? だから描くなら、私が知ってるところで描いて。それなら別にいいよ」
その言葉を聞いてから、僕はようやくフェアの意味を理解した。
僕が見る事も、描く事も止めない。ただし、天月さんも僕が見ている事を知っている。そういう事らしい。
するとそこへ、今まで黙って成り行きを見守っていた周囲から、一斉に声が飛んだ。
「公認じゃん」
「よかったな、見上」
「天月専属絵師」
「公認ストーカー」
「これで二冊目描けるな」
「天月描き放題じゃん」
「天月サブスク解禁」
「・・・・・・・・・・・・」
他人事だからって好き勝手言ってくれる。
僕は一通り聞き流した後、ふと別の疑問が頭によぎった。
「・・・・・・てゆうか、なんで描くのを認めてくれるの?」
天月さんの寛大な心には深くお詫びと感謝を申し上げたいところだけど、でもそもそもなんで描く事を認めてくれるのだろう。
普通、もう描かせてくれないと思うけれど。
すると天月さんは肩を竦め、言った。
「だって、嫌じゃなかったから」
「・・・・・・え、でもさっき嫌って」
「それは黙って描かれるのがって事」
「じゃあ、」
なにが嫌じゃなかったのか。
天月さんは持っていたクロッキー帳に視線を落とす。
「ここに描かれていた絵は、ちゃんと私だったから」
「・・・・・・・・・・・・」
思いがけない言葉に、僕は黙る。
「頬杖ついてるのも、眠そうなのも、コーヒー牛乳飲んでるのも。自分じゃ覚えてないのもあるけど、見たら、私ってこんな感じだなって思ったから」
「それは・・・・・・」
「ちゃんと見て描いたって分かるから。なら別にいいよ」
そう言って天月さんは、クロッキー帳を机に置き、返してくれる。
僕は帰ってきたクロッキー帳を手に取りながら、さっきより胸の奥が軽くなるのを感じる。
そして、僕は改めて天月さんの言葉を思い出す。
どうやら僕は許されたらしい。そして、もう次から隠れて描く必要はないらしい。
それからというもの、僕は天月さんを描くようになっていた。
最初は、あの日に起きた現象を再現する為だった。
美術室で天月さんを見ながら、クロッキー帳を開く。
するとやっぱり、白紙の上には天月さんの姿が浮かんでいた。
僕はそれをなぞる。
翌日も、その翌日も同じだった。
ただ、毎回全く同じ天月さんの姿が現れる訳じゃなくて、筆を洗う時の横顔であったり、キャンバスから一歩離れて全体を眺める姿や、考え込むように少し首を傾げる仕草など、色んな様子がクロッキー帳に浮かび上がる。
そこで僕は気付く。
ただ、天月さんが見えるだけじゃなくて、僕がよく見ていた部分が鮮明に輪郭としてクロッキー帳に浮き上がるのでは?
現に、クロッキー帳に浮かび上がってくる線は、天月さんの全貌が見える訳じゃなく、部分的だ。
袖から覗く手首、肩まで流れ落ちる髪、細められた目元なんかは鮮明に浮かび上がる。けれど僕があまり意識していない部分の輪郭は曖昧で、ほとんど見えなかった。
だったら、もっとよく観察すれば全体像まで範囲を拡大できるんだろうか?
ふと、僕の中で仮定が浮かび上がり、そんな事が気になった。
――この謎の現象がなんなのか、気になる。確かめてみたい。
だから僕は、天月さんに向ける視線の方向を変えた。
気付けば僕は、天月さんから絵の手がかりを得る為ではなく、天月さんを描く為に見るようになっていた。
§
絵の手がかりを得る為でないなら、美術室という制約もない。
僕の観察の活動範囲は美術室だけに留まらず、日常生活にまで範囲を広げた。
授業中、休み時間、そして部活の時間など色んなところで天月さんを確認する。
それだけ言えば、なんだかストーカーじみているけれど、これは観察であり、謎の現象の究明だ。
僕はそう大義名分をぶら下げる事で自分を正当化した。勿論、天月さんには黙っている。
授業中、天月さんは考え事をしている時、よくペンの尻を唇の下に当てる癖がある。
僕はノートに視線を落とす。すると白紙の部分に、ペンを当てる天月さんの顔が薄く浮かんでいた。
唇に触れたペン先や、その周りにある指の形や、僅かに伏せられた目元もそこには浮かび上がっていた。
僕は一度、教卓を確認してからシャーペンを持ち直し、ノートの白紙に線を描き込む。
頬の輪郭を取り、目元を置き、ペンを持った手の形を追っていく。
端から見れば、ただ真剣に板書をしている風に見えるだろう。けれどその実態は全く違い、僕は授業などそっちのけで天月さんの輪郭をノートに立ち上がらせていく。
板書の文字の隣に、授業内容とはまるで関係ない天月さんの姿が少しずつ出来上がっていく。
なんだか、魔方陣を描き込んで天月さんを召喚している儀式のような気分だった。
でも、そんな摩訶不思議な現象を前に、しかし僕は不思議とズルをしているような気持ちにはならなかった。
見えている線をなぞっているだけなら、そこに僕の技術なんてあるのだろうかとは思う。けれど、ペンを動かす指の感覚は確かに僕のものだった。
だからなのか、これを魔法だとは思えなかった。
描いてる途中で、先生の声が近くなり、反射的に顔を上げ、ノートのページを板書の書かれているところに戻す。
しばらく板書を写しながら、さっきの余白が気になって仕方なかった。
数分してからもう一度、天月さんを描いているページを開くと、描きかけの天月さんは当然そこにいる。それとは別に、さっきまで浮かんでいた輪郭もまだ薄く残っていた。
消えてない。
よかった。と思いながら、僕は再び天月さんの輪郭をなぞる。
そんな風に、授業などそっちのけで天月さんを描く日々が続く。
ある時は、授業など上の空で頬杖をつく天月さん。またある時は、先生に指名され、猫背気味の立ち姿勢で音読する天月さん。休み時間、コーヒー牛乳に刺さったストローを甘噛みする天月さん、眠そうに欠伸を噛み殺す天月さん。
どれも美術室で絵を描いている時には見せない姿だ。
珍しい光景を目にするたび、僕はその瞬間を逃さないよう、すかさず制服のポケットに手を伸ばす。いつの間にか、移動の際には小さなクロッキー帳と鉛筆を持ち歩くのが当たり前になっていた。
最初は、この現象がなんなのかを知りたかった。けれど今は、「この瞬間の天月さん」を見つけるたびに描き残したい、描き逃したくないという思いに変わっていった。
この現象が起きてからというもの、僕の目に映る天月さんは、その瞬間ごとに期間限定になっていた。
気付けば授業中はノートの余白に、それ以外の時間はクロッキー帳やスケッチブックに天月さんが少しずつ増えていった。
そんな風に天月さんを描く日が続くうちに、少しずつ僕自身の得にも変化が出始めた。
最初に気付いたのは、筆を置く前だった。いつものように描きかけのキャンバスを見ていると、これまでなら少し考えてから手を入れていたのに、不意に引っ掛かるものがあった。
――奥の木立が、手前に飛び出している。
言葉にするより先に、視界の隅で違和感がそれを捉えた。
遠くの木にしては色が重過ぎたせいか、奥行きが崩れ、画面の前へと押し出されていた。
以前なら、そこに気付くまでにもう少し時間を要していたような気がする。けれど今は、見た瞬間に違和感が立ち上がった。
僕は筆を取り、その部分へほんの少しだけ色を重ねた後、一歩引いてキャンバスを見てみると、さっきまで主張し過ぎていた奥の木立が、今は景色に馴染んでいた。
息を吐きながら、僕は自分でも驚いていた。
なにかが変だ、と立ち止まって悩む時間が、今はなかった。どこを見るべきかが以前より分かる気がする。
僕はその後も絵を眺めながら気になった箇所を修正を加えつつ、描き進めていくと、不意に後ろから声がした。
「見上くん」
振り返ると、俯見先生が僕のキャンバスを見ていた。
「今日は迷いが少ないね」
「・・・・・・僕も、今ちょっとそう思ってました」
「筆を置くまでが早いもんね」
俯見先生に言われて、僕はもう一度キャンバスを見る。どうやら、自分だけがそう感じていた訳じゃないらしい。
「なにかあった?」
「え?」
「前よりよく見えてる気がするから。なにかキッカケでもあったのかなって」
そう訊ねられて、僕は少し考えてしまう。
思い当たるものならある。天月さんだ。けれど、彼女について話すのは憚られる。
だから、
「・・・・・・最近、よく見るようにはしてるので」
「見る?」
「細かいところまでちゃんと見るっていうか」
「へぇ」
俯見先生は短い相槌を打つ。
「それならいい傾向だね」
「え?」
僕は思わず聞き返すと、俯見先生は僕のキャンバスに視線を向ける。
「絵って、手より先に目が育つからね」
「それはどういう」
「見えてないものは描けないでしょ?」
そう言って、僕に向き直る。
あぁ、なるほど。
「確かに、そうですね」
「前よりよく見えるようになったなら、そのうち手もついてくるよ」
そう言い残すと、俯見先生は別の部員のところへと歩いて行った。
僕はその背中を見送ってから、ふと天月さんの方へ目を向ける。
彼女はいつもと変わらず、キャンバスに向かって筆を動かしていた。
僕はなにも言わず、自分のキャンバスに向き直って筆を持ち直した。
§
ある日、それは休み時間の事だった。
僕は自分の席に座りながら、クロッキー帳を机の上に開いていた。
少し離れた先では天月さんが友達と話している。頭には、いつもの寝癖がついて、また友達の女の子にパンチングマシンみたいに遊ばれながら、鬱陶しそうに睨み付けていた。
僕はその光景を眺めてから、クロッキー帳に視線を落とした。白紙の上には、さっきまで見ていた天月さんの輪郭が浮かんでいる。
友達のちょっかいを払い除ける手と、頭部でぴょこぴょこ揺れる寝癖を白紙の上で線にする。
ペンを動かしながら、もう一度だけ天月さんを見る。
と、その時だった。
「見上、なに描いてんの?」
「・・・・・・っ」
突然、すぐ後ろから声がして、僕は反射的にクロッキー帳を閉じた。
振り返ると、クラスメイトの男子が僕の肩越しから机を覗き込んでいた。
「な、なに?」
「いや、今なんか描いてただろ」
「・・・・・・別に」
そう答えながら、閉じたクロッキー帳の上に手を置く。
僕の中ではすっかり日常になっていたけれど、それを事情の知らない他人に見られればどう思われるかは容易に察しがつく。
まして、クロッキー帳には何枚もの天月さんの絵が描かれているのだ。こんなのがバレたらひとたまりもない・・・・・・のだけど、どうやら閉じるのが少しだけ遅かったらしい。
「今の、天月じゃなかった?」
「・・・・・・・・・・・・」
一瞬、言葉に詰まる。
「天月だよな?」
二度目の聞き方には確信が混じっていた。
「・・・・・・気のせいじゃない?」
「いや、そんな事ないと思うけど」
「・・・・・・・・・・・・」
「天月の事、好きなの?」
「は・・・・・・?」
単刀直入に言われて、僕は戸惑う。
あまりに安直な憶測だと思う。でも、そう関連付けてしまうのも分からない訳ではないから、ぞんざいに否定する事も出来ない。
「・・・・・・そういうんじゃない」
「じゃあなんで天月描いてんの?」
「なんでって・・・・・・」
答えかけて、言葉に詰まった。
最初は、奇妙な現象が気になって、何度も白紙を確かめていた。けれど今となってはその現象自体にはすっかり慣れてしまって、それを確かめる為に描く事はほとんどなくなっていた。
それでも天月さんを描く事だけはやめなかった。
授業中で頬杖をつく姿も、コーヒー牛乳のストローを甘噛みする姿も、さっきみたいに寝癖をいじられて鬱陶しそうに睨む姿も、なぜか妙に目が留まる。
一度気になると、そのまま通り過ぎるのが惜しくなって、気付けばクロッキー帳を開いていた。
「・・・・・・絵の練習だよ、ただの」
ややあって、僕はそう答えた。
「ふーん」
すると、クラスメイトはどこまで納得したのか分からない顔で、相槌を打つと、もう一度、僕の手元に視線を戻した。
「でも、さっきの絵かなり上手かったよな」
「・・・・・・そう?」
「あぁ、パッと見で天月だって分かったもん」
だから、こうしてバレてしまった訳だ。嬉しいけれど、素直に喜べない・・・・・・。
「なぁ、もっかい見せてよ」
「え? やだよ」
「なんで、いいじゃん。上手いんだし」
「や、そういう問題じゃなくて・・・・・・」
「一枚くらいいいじゃん」
「一枚でもダメ」
てゆうか、一枚でも見たら次見せてとか言いそうだし、最初のキッカケを与えてしまったらなし崩し的に色々見られそうで怖い。
僕は机の上に置いていたクロッキー帳を手に取り、自分の方に引き寄せる。
「そんな風に隠されると余計気になるんだけど」
「気にしなくていいよ」
「いや、気になるものは気になるから」
そう言いながら、クラスメイトが僕の持つクロッキー帳に手を伸ばしてくるので、僕は咄嗟に身体ごと少し後ろに引いた。
「だからダメだって」
「なにやってんのー?」
と、そこへ別の声が加わった。
見れば、近くの席にいた女子がこちらにやって来る。
「見上がなんか絵隠してんの」
クラスメイトの男子が新たに加わった女子に事情を話し、加勢を促してくる。
「隠してないって」
「いや、めっちゃ隠してるじゃん」
「見上くん、絵描いてるんだ。なに描いてんの?」
「天月」
「おい」
「いいだろ別に、上手いんだし」
「そういう問題じゃないから」
あっさりとバラされ、僕は慌てた。
名前を出されたせいで女子の目の色が変わる。とくに好奇の色が露骨に浮き上がる。
「見上くん、天月さん描いてるの?」
「・・・・・・・・・・・・一枚だけ」
僕は渋々答える。けれど嘘だ。いや、一枚しか見られていないから僕が一枚だけと言えば彼らにとってはそれが事実になる。
いや、そんな理屈は今はどうでもよくて、それよりこの窮地をどう脱するかだ。
「え、天月さんの事好きなの?」
「だから、そういうのじゃないって」
皆、すぐに恋愛に結び付けようとしたがるな・・・・・・。
「ねぇ、見上くんの絵見せてよ」
「だから、ダメ」
「なんで?」
「だから・・・・・・」
答えに困っている間にも、気付けば僕の机の周りには三、四人生徒が集まり始めていた。
まずい・・・・・・一悶着したせいで騒ぎになってる。
僕はクロッキー帳を抱え直す。
「そんなに見せたくないの? ますますやましいな。じゃなくて怪しいな」
「・・・・・・どっちでもないから」
「どっちでもないなら見せられるでしょ?」
「それとこれとは話が別」
「なにが別なの」
「なんでも」
ダメだ、否定すればするほど面白がられている気がする。
最初の一人だけなら適当に誤魔化してやり過ごせたかもしれない。けれど人数が増えれば、それだけ声も大きくなる。
「てゆうか天月描いてるって、やっぱ好きなんじゃないの?」
「だから違うって」
思わず少し強めに返した。
その時だった。
「なにが違うの?」
聞き慣れた声が、集まったクラスメイトの向こうからした。
「・・・・・・っ」
僕は思わず目を見開く。
そこにいたのは天月さんだった。
人の隙間から顔を覗かせた天月さんは、さっきまで友達にいじられていた寝癖をそのまま頭に残しながら、不思議そうにこちらを見ていた。
「天月さん・・・・・・」
「今、私の名前聞こえたんだけど」
天月さんはそう言いながら集まっているクラスメイトの顔を順に見ていく。
こういう時、気を遣って黙ってくれればいいのに、口の軽いクラスメイトがあっさり告げ口する。
「見上が天月描いてた」
「おい」
「私を?」
天月さんの視線が僕に向く。僕は固まって動けなくなる。
「そうなの?」
「・・・・・・それは」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
言い淀む僕に、天月さんは言葉を続ける代わりに無言の圧力を向けてくる。
いや、天月さん自身は圧力をかけているつもりはないのかもしれないけれど、無表情だから僕が勝手に圧力を感じる。
「・・・・・・はい」
ここまで来ると、もう完全に否定するのは無理だった。
僕は肩を落とし、力なく答えると、天月さんは手を差し出した。
それは救いの手――などでは決してなく、
「見せて」
「え・・・・・・」
催促の手だった。
お手を要求するように僕の前に右の手のひらを見せる。あ、天月さんますかけ線ある。流石だなぁ。
「いや、それはちょっと・・・・・・」
「なんで?」
「なんでって・・・・・・」
さっきからこのやりとり何回したんだ・・・・・・。
ただ、相手が張本人になっただけで断る難易度は比べものにならないくらい上がっていた。
「いいから。見せて」
有無を言わせない雰囲気に、僕は息を吞む。
躊躇っていると、不意に天月さんの手が伸びる。
僕は咄嗟にクロッキー帳を引こうとしたけれど、一瞬の隙を突かれて反応が遅れ、そのままスルリと手元から抜き取られてしまった。
「て、天月さんっ」
呼び止めても、彼女はもう表紙を開いていた。
終わった。
天月さんは最初のページに目を落とす。すると彼女の眉がほんの僅かに動く。
「・・・・・・私?」
そこに描かれていたのは授業中、考え事をしながらペンの尻を唇の下に当てている天月さんだった。
天月さんはしばらくそれを見た後、なにも言わずに次のページに指を掛ける。
「あ、ちょっと」
僕は咄嗟に手を伸ばしたけれど、天月さんはクロッキー帳に目を落としたまま片手で払い落とされてしまう。
彼女は次のページをめくると当然、そこには天月さんがいる。
今度は頬杖をつきながら窓の外を眺める天月さん。いつもの表情より少し眠そうに見える横顔。
「一枚だけじゃなかったのかよ」
便乗して一緒にクロッキー帳を覗いていたクラスメイトの男子が、僕の嘘を突きつける。
「一枚だけ見られたから・・・・・・」
「ただの屁理屈かよ」
周囲から小さな笑い声が聞こえるが、笑われる程度ならまだよかった。
天月さんはまたさらにページに指を掛ける。
「・・・・・・・・・・・・」
もう一枚。また天月さん。
猫背気味の立ち姿勢で音読する天月さん。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
次のページ。
休み時間、コーヒー牛乳に刺さったストローを甘噛みする天月さん。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
次のページ、眠そうに欠伸を噛み殺す天月さん。
「あ、天月さん、も、もう・・・・・・」
僕は冷や汗を掻きながら再びクロッキー帳を取り戻そうと声を掛けるも、天月さんは身体を捻って僕の手を躱す。
天月さんはクロッキー帳をジッと眺めながら一ページ、また一ページとめくり続ける。
また天月さん。その次も、さらにその次も。
ページをめくるたびに違う姿の天月さんが現れる。
廊下を歩いている時、授業の合間に机に突っ伏している時、友達に呼ばれて振り返った時、コーヒー牛乳のストローを甘噛みしながら、ぼんやり相手の話を聞いている時。
僕がその都度、目に留まった瞬間を描いたものが、時系列ごとに天月さんに知れ渡る。
いわばそれは、天月さん観察日記のようなものだった。
「・・・・・・なぁ」
天月さんが黙ってページをめくる横で、さっき僕に「好きなのか」と聞いてきた男子が、こちらに顔を寄せてきた。
「なに・・・・・・」
「お前やっぱ天月さんの事、好きなんじゃね?」
声を潜めて改めて訊ねる男子に、僕も釣られて声を落とす。
「・・・・・・だから違うって」
「いや、一枚ならまだしも・・・・・・これはもう、無理あるだろ」
「・・・・・・・・・・・・」
反論しようとしたけれど、目の前では今もページをめくるたびに天月さんが現れる。
それを見ながら否定するのは、あまりに自分の言葉の方が頼りなく思えてくる。
「でも普通に上手いよな」
今度は別のクラスメイトが少し感心したように言う。
「分かる。これとかめっちゃ天月っぽい」
「顔だけじゃなくて、姿勢とかも」
「この量は引くけどな」
「余計な一言・・・・・・」
「いや、そこは引くだろ」
褒められているのか、呆れられているのか分からない。
どうやら周囲の評価は、上手いけれど怖い、という妙なところで一致しつつあるらしい。
天月さんはなにも言わない、けれど最初よりも少しだけ早いペースでページをめくり続けている。
やがて、キリがないと思ったのか、天月さんはクロッキー帳の端に親指を掛け、そのまま何枚かまとめるようにページを弾いた。
紙がパラパラと流れていく。
クロッキー帳の中の天月さんが高速で流れていく。そこだけ時の早さが加速し、まるで走馬灯のように見えた。
僕の。
「・・・・・・・・・・・・」
やがて、最後のページに辿り着くと、天月さんはなにも言わずクロッキー帳をパタリと閉じた。
それを合図にしたように、周囲の笑い声もやみ、僕だけでなく、周囲のクラスメイトまで一斉に天月さんを見る。
「見上くん」
「・・・・・・はい」
「これ、いつ描いたの?」
「いつって・・・・・・授業中とか、休み時間とか」
「廊下のもあったよね?」
「・・・・・・ありました」
「教室だけじゃないんだ」
「・・・・・・・・・・・・はい」
「じゃあ、これ持って歩いてたって事?」
「・・・・・・・・・・・・」
僕は答えられなかった。
教室のみならず、廊下にいる天月さんまで見つけて描こうとした。その為にクロッキー帳まで持ち歩いて。
自分ではただ、目に留まった瞬間を残したかっただけのつもりだったけれど、本人の口から順番に確かめられると、自分の行動に含まれていた執着心の濃さが急に浮き彫りになっていく。
「・・・・・・持ち歩いていました」
ようやく答えると、横で聞いていたクラスメイトが呆れたように息を漏らす。
「移動中も持ち歩いてたのかよ。お前すごいな」
それは皮肉というより、呆れを通り越して感心したような物言いだった。
けれど、その間も天月さんは笑わなかった。
天月さんはクロッキー帳に目を落としながら、ポツリと言った。
「私、描かれてたなんて知らなかった」
「・・・・・・うん」
「しかもこんなに沢山」
「・・・・・・ごめん」
「クロッキー帳まで持ち歩いて」
「・・・・・・それも、すみません」
問い詰められるたびに、自分がいかにおかしな事をしているのか、今になって自覚する。
今までが本当に冷静じゃなかった。僕は今になってようやく我に返ったような気持ちになる。
「いつから描いてたの?」
天月さんは僕に視線を戻すと、端的に訊ねる。
「・・・・・・ここ最近」
「それでこんなに?」
答えるたびに自分の異常さを突きつけられる。
「・・・・・・ごめん、もう描いたりしないから」
質問の答えにはなっていなかった。
これ以上、一つずつ確認されるたびに自分の行動を突きつけられるのがしんどくなって、僕は一刻も早く話を終わらせたかった。
「別に、描いちゃダメなんて言ってないけど」
「・・・・・・そうだよね、ごめん」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ん?
「え、今なんて?」
「だから、描いちゃダメなんて言ってないけど」
「・・・・・・え?」
予想していた答えとは違い、僕は思わず聞き返した。
「なに?」
「・・・・・・イヤじゃないの?」
「なにが?」
「だから、描かれる事」
「別に。減るもんじゃないし」
「・・・・・・そうなの?」
「うん」
あまりにあっさりした返事だった。
「でも、私の知らないところで描かれるのは嫌」
「・・・・・・それは、はい」
そこは一線を引かれた。
僕の全てが許される訳じゃない。でも本人に隠れてコソコソ描いたり、わざわざクロッキー帳まで持ち歩いている事まで知られた以上、流石に気味悪がられると思っていたし、少なくとももう描かないで欲しいと言われるくらいの覚悟はしていたから、むしろこれくらいで許されるとは思っていなかった。
けれど、天月さんはそこで少しだけ眉を寄せる。
「ただ、描くなら堂々と描いて。そっちの方がフェアだから」
「・・・・・・フェア?」
思わず言葉を繰り返すと、天月さんは淡々とした口調で返す。
「私だけなにも知らないで描かれるって一方的でしょ? だから描くなら、私が知ってるところで描いて。それなら別にいいよ」
その言葉を聞いてから、僕はようやくフェアの意味を理解した。
僕が見る事も、描く事も止めない。ただし、天月さんも僕が見ている事を知っている。そういう事らしい。
するとそこへ、今まで黙って成り行きを見守っていた周囲から、一斉に声が飛んだ。
「公認じゃん」
「よかったな、見上」
「天月専属絵師」
「公認ストーカー」
「これで二冊目描けるな」
「天月描き放題じゃん」
「天月サブスク解禁」
「・・・・・・・・・・・・」
他人事だからって好き勝手言ってくれる。
僕は一通り聞き流した後、ふと別の疑問が頭によぎった。
「・・・・・・てゆうか、なんで描くのを認めてくれるの?」
天月さんの寛大な心には深くお詫びと感謝を申し上げたいところだけど、でもそもそもなんで描く事を認めてくれるのだろう。
普通、もう描かせてくれないと思うけれど。
すると天月さんは肩を竦め、言った。
「だって、嫌じゃなかったから」
「・・・・・・え、でもさっき嫌って」
「それは黙って描かれるのがって事」
「じゃあ、」
なにが嫌じゃなかったのか。
天月さんは持っていたクロッキー帳に視線を落とす。
「ここに描かれていた絵は、ちゃんと私だったから」
「・・・・・・・・・・・・」
思いがけない言葉に、僕は黙る。
「頬杖ついてるのも、眠そうなのも、コーヒー牛乳飲んでるのも。自分じゃ覚えてないのもあるけど、見たら、私ってこんな感じだなって思ったから」
「それは・・・・・・」
「ちゃんと見て描いたって分かるから。なら別にいいよ」
そう言って天月さんは、クロッキー帳を机に置き、返してくれる。
僕は帰ってきたクロッキー帳を手に取りながら、さっきより胸の奥が軽くなるのを感じる。
そして、僕は改めて天月さんの言葉を思い出す。
どうやら僕は許されたらしい。そして、もう次から隠れて描く必要はないらしい。
