図書室で会って以来、美術室以外でも天月さんをたびたび目にする機会が増えた気がする。
朝、登校して教室に入ると丁度そこには窓際の席に座り、空を見上げる彼女がいたり、昼休みには自販機でコーヒー牛乳を買っている。
廊下を歩いていると天月さんの寝癖がぴょこぴょこ弾んでいた。隣を歩くクラスメイトがそれに触れてからかうと、天月さんは無表情のままその手を払い除ける。
僕の日常には僕が思ってる以上に天月さんがいるらしい。
今までそれに気付かず通り過ぎていただけで、一度気付いてしまうと、余計に目に入るようになった。
天月さんは歩く時、意外と速い。別になにを急いでいる訳でもないのに、次々と前を行く生徒を追い抜いていく。
雨の日には、傘をくるくる回して水滴を落としてから畳む。体育の時だけ髪を結って、いつもと別人に見えた。
どれも、絵とは関係ないのに、気付けば僕の目に映り込んでくる。
そしてある日の昼休み。
廊下の向かうから天月さんが歩いてくるのが見えた。手にはいちご牛乳を持っていた。
僕はそれを見て、今日はコーヒー牛乳じゃないんだなと思った。いつも彼女は同じものを買っているから自然と目を引いた。
けれど次の瞬間、自分で少し引っ掛かった。
・・・・・・なんでそんな事まで覚えてるんだろう。
そんな僕に気付く事もなく、天月さんはそのまますれ違っていく。
別に、絵の描き方とはなんの関係もないのに、なぜか僕は天月さんをよく見ている。
筆の動きや色の選び方を追いかけて、僕と天月さんを分けているものを見つける為に見ているのとは訳が違う。
コーヒー牛乳を買っている事や、歩くのが速い事、寝癖が跳ねてクラスメイトにいじられている。
そのどれもが僕の絵とは繋がっていない。
なんだか、僕の観測している範囲がいつの間にか広がっている気がする。
まぁ、天月さんがどんな人かを知る事は、絵のルーツを知る上で大切な事ではあると思うし、別におかしな事ではない。
僕はそう結論付けて、それ以上深く考える事はなかった。
§
放課後、美術室へ入ると天月さんはあの山の風景画をイーゼルに立てかけて向かい合っていた。
僕は今日も、近くにイーゼルを立てて天月さんを観察する。
前なら、、どの色を重ねたとかどこを塗り直したかを見ていたけれど、今日は違った。
天月さんが見ているのは、窓の外に映る山々の風景だ。それは僕にも見る事が出来る。けれど、その景色の中から天月さんが拾っているのは、きっと僕と同じじゃない。
図書室で聞いた言葉を思い出す。
『雨の匂いとか、夕方の空気感とか。そういうのを感じられるのが好きなの』
雨の匂いや、夕方の空気感。それは言葉にすると曖昧で、感覚的なもの。
その感覚はきっと僕には分からない。
なら、同じものを見ながら天月さんは今、なにを感じているんだろう。
天月さんのキャンバスを見てみる。描かれているのは窓辺から見える山の風景。だけど、この山をどう感じるかは天月さんが今まで見てきた体験によって別のものに変わる筈。
そう思うと、僕が今まで見てきた、この色をどう作ったのか、どうしてここに色を置いたのかといったものよりも前にある筆を置く理由が気になった。
天月さんの握る絵筆には、絵の具だけじゃない彼女の人生も含まれている筈なのだ。
天月さんは、これまでに一体どんな景色を見てきたんだろう。
気付けば僕はキャンバスではなく、天月さんの横顔を見ていた。
§
それは体育終わりの事。僕は教室に戻る途中の廊下を歩いているところだった。
「あ」
少し先に天月さんが歩いているのが見えた。
丁度その時、彼女が結っていた髪を解いている最中だった。普段は下ろしたままなのに、体育の時だけポニーテールにする髪が元の状態に戻るのを、僕は後ろから何気なく眺めていた。
天月さんはゴムを外すと、まとめられていた髪が肩へ落ちる。
すると、ぴょこんと寝癖が立った。
前にも寝癖が付いていた事があったけれど、髪を結った後でも元に戻るんだ。と、僕は妙なところに感心してしまう。
天月さんは指先で軽く髪を整え、それでも直らなかった寝癖はもう触れなかった。
隣を歩いていたクラスメイトが寝癖を見つけると、軽くグーで毛先をパンチし、そのたびに寝癖がぴょこぴょこ跳ねる。
「彩葉の寝癖、パンチングマシンみたい。おもろ」
「やめてくれる?」
隣でボクシングを始めるクラスメイトの手を無表情のまま払い除ける。
「えー、いいじゃん」
「よくない」
「彩葉のいけずー」
淡々とした返事に、隣の子が笑う。
天月さんは相変わらずほとんど表情を変えないけれど、もう一度寝癖に伸びてきた手だけは、今度は少し早めに叩き落とした。
その光景に、僕は思わず笑ってしまう。
意外と天月さんっていじられ役なんだな。
天月さんの知らない一面を見て、僕は新鮮な気持ちになるのと同時に、人間らしさに安心感を覚えた。
その後、天月さんの姿が見えなくなった後も、彼女の寝癖が頭の中で何度も揺れていた。
さらには翌日の昼休み。
購買から教室へ戻る途中で、僕は階段の踊り場に人がしゃがみ込んでいるのを見つけた。
と言っても騒ぎというほどの事ではなく、一年生らしき女子生徒が散らばったプリントを拾っているところだった。
僕は手伝おうと声を掛けようとして、それより先に少し離れたところにいた天月さんが足を止めた。
あ。と思った時には天月さんは一年生の元に近付き、無言のまましゃがみ込み、床に散らばるプリントを拾っていく。
僕は階段を上りながらその様子をんとなく見ていた。
「すみません、ありがとうございます・・・・・・」
一年生が天月さんの上靴の色を確認した後、顔を上げて彼女に声を掛けると、天月さんは表情を変えないまま「大丈夫」と短く返事して、拾ったプリントの端を揃える。
全部拾い終えると、逆さだったプリントの向きを変えて一年生に返す。
「あ、ありがとうございます・・・・・・助かりました」
「ん」
天月さんは短く返事をした後、立ち上がり、そのままその場を離れていく。
僕は天月さんの後ろ姿を見ながら、さっきの場面を思い返していた。
別に大した事じゃないと言えばそう。ただ困っている人がいたから手伝った――けれど。
最後にプリントの向きを変えて渡した事だけが妙に頭に残っていた。
そう言えば、部活の時も絵の具の並びは色相環の順を死守していたし、鉛筆の芯の長さは測ったように同じ長さだし、マスキングテープを使い終わったら必ず端を折り返し、ツマミを作っていた。
天月さんって結構、几帳面だよな。
そこで一度、思考が止まる。そしてハタと気付く。
――また。
僕は絵とは関係ないところで天月さんを観察してる。
僕はふと、顔を上げる。すると視界の奥で天月さんの背中を捉える。少し目を離しただけで、もうさっきより随分と向こうにいた。
そう、天月さんは歩くのが速い。
これ。絵を描く事と関係ないよな。なのに僕はそんな事を知識として収集していた。僕の記憶の容量をわざわざ割いてまで彼女が歩くのが速い事を記憶している。
不思議だ。
僕も教室へ戻ろうと、階段を上る。手摺りに手を置いた時、ふと、さっき天月さんが指先を滑らせながら上っていたのを思い出した。
・・・・・・ああいう歩き方するんだな。
別に、覚えておくような事でもない。それなのに、妙に頭に残っていた。
§
放課後、美術室の扉を開けると、天月さんが一足先にキャンバスの前に腰を下ろしていた。
僕に気付いた様子もなくキャンバスをジッと見つめている。
僕は荷物を置いて、自分のイーゼルを立て、昨日まで描いていた絵を確認してから斜め前に座る天月さんに視線を向ける。
今日も、しばらく絵を見つめたまま筆を持たない。
キャンバス全体をゆっくり見渡し、視線を一度パレットに落として、それからまたキャンバスに戻る。
以前なら、天月さんの視線がどこを辿り、どこで止まり、その後どんな選択に繋がるのかを追っていた。
筆を置く前になにを見て、一歩離れた時には画面のどこを確かめていたのか、その一つひとつから彼女の判断を探ろうとしていた。
今だって天月さんの判断を辿っていた。
そのつもりだった。
けれど今日は視線の行き先を追っている途中で、いつもなら通り過ぎていた細かな動きに妙に目が止まった。
キャンバスの右側を見た時には僅かにアゴが上がり、手前に視線を落とす時には睫毛の影が濃くなる。筆を置く直前には僅かに息を止め、置き終えた頃には唇の力が少し抜けるように見えた。
そこで僕は・・・・・・あれ、と思う。
なんだか今日は、やけに細かな動きばかりが気になる。
天月さんは一度、作業を止めると筆を洗う為に右手を伸ばす。
制服の袖が僅かにズレて手首が覗き、容器の中で筆を回す細い指の動きはまるで筆を遊ばせるように軽やかに動いている。
その横顔を、僕はしばらく見ていた。
やがて天月さんが筆を持ち直し、キャンバスに向き直ったところで僕の意識も戻ってきた。
・・・・・・今、僕はなにを見ていたんだ?
意識が戻ると、ふとそんな事が思い浮かぶ。
これまで、天月さんの手や視線、身体の動きは見てきたけれど、それは彼女がどんな判断かを知る為だった。
でも今の僕は、そうじゃなかった。
僕は少しだけ視線を逸らし、自分のキャンバスへと向き直った。
筆を持ち直し、さっきから手を入れようとしていた場所を見る。けれど今は、上手く考えが働かない。別のものが頭に浮かんでしまう。
天月さんの横顔が浮かぶ。
少し伏せた目元も、頬からアゴへ続く線も、目の前の絵とはなんら関係がない。なのに、僕の頭にはハッキリと残っている。
僕は一度、筆を置いて斜め前を見た。
天月さんは何事もなく絵を描いている。
少し離れて全体を見て、また近付いて筆を入れる。その動きはいつもと同じで、何度も見てきた筈なのに、いつもと見え方が違っていた。
筆を動かす手だけじゃない、前に身体を傾けた時に方から流れる髪や、キャンバスを見る時に僅かに細くなる目元なんかが自然と視界に入ってくる。
別に、意図して見ようとしている訳じゃない。ただ、自然と目がいく。
――僕は天月さんを、絵の手がかりとして見ているんじゃなく、彼女自身を見ている。
そう気付いた時、僕は自分の変化に困惑してしまう。
一体、いつからだ。
思い返せば、図書室で天月さんがどんな本を読んでいたのか、廊下で友達と話していた時の様子、落としたプリントを拾い、渡す時に紙の向きを正したり、絵とは直接関係ない事に興味を持ったり、覚えていたりした。
別に覚えようとして覚えているんじゃなく、その時その時に目に入ったものが気付けば頭の中に残っていた。
なんで?
僕は再び天月さんの方を見る。
すると今度は、キャンバスまで含めて天月さんを見るのではなく、まるで画角いっぱいに彼女を収めるように、僕の視線が彼女を追っていた。
・・・・・・切り取り方がおかしい。
気を取り直そうと、首を振って気持ちを切り替えると、ふと偶然、視界に手元に置いていたクロッキー帳の白いページが目に留まる。
「・・・・・・え」
僕は思わず声が漏れ、動きを止めた。
僕はジッと白紙を見つめる。
すると、なにも描かれていない筈の紙の上に、天月さんの横顔があった。
勿論、本当の線が引かれている訳じゃないけれど、頬の輪郭も、耳の位置も、その後ろに流れる紙もそこには描かれていた。
いやだから、描かれていないのだけど、描かれているとしか思えないほどくっきり見えた。
僕は何度か瞬きをするも、クロッキー帳に天月さんの横顔は残ったままだった。
・・・・・・なんだこれ。
目を擦っても、しばらく目を閉じても白紙の上には天月さんが浮かび続ける。
さっきまで頭の中だけにあった筈の形が、白紙の上で輪郭を描いていた。
僕はしばらく固まって、その像を見つめた。
するとふと、僕の中で一つ確かめたい事が浮かぶ。
――もし、この見えている線をそのままなぞったら?
そこまで考えたところで、机の上に置かれた鉛筆が目に止まる。
僕は少し迷ってから、それを手に取った。
鉛筆を握り、クロッキー帳を手に取る。
そこには以前として天月さんの横顔が浮かび上がっている。頬からアゴへと続く線はさっきより薄れる気配もなく、むしろ鉛筆を持った事で、その輪郭ばかりが余計にハッキリと意識されるようになった。
僕は半信半疑のまま、鉛筆の先を頬の当たりに近づける。
輪郭と鉛筆の先が重なる。そこからアゴに向かって線が続いているので、僕はそこに沿って鉛筆をゆっくりと走らせた。
そこで一度、鉛筆を離して改めて紙の上を見てみると輪郭の上に一本の黒い線が重なっていた。
合ってる。
僕は緊張しながら、もう一度、輪郭に沿って鉛筆を走らせる。
見えている形をただなぞっていく。だから迷う事はない。正解を探している感覚がない――そりゃそうだ、たった一つの正解は既に浮かび上がっているのだから。
線を引くたびに白紙の上に浮かんでいた天月さんが少しずつ鉛筆の線に置き換わっていく。
僕はもう一度、鉛筆を離すと、クロッキー帳には順調に天月さんの横顔が描かれていた。
――ちゃんと、描けてる。
それを見て僕は、手応えよりもなんだか怖くなってきた。
でも、鉛筆を動かすのは怖いのと同時に、なにか不思議な力に導かれているような感覚もあって、僕はまた線を加える。
慎重に輪郭を引いていき、キリのいいところで鉛筆を止めた。
改めてクロッキー帳を見てみると、一人の女の子の横顔があった。
僕はしばらくそれを見つめた。
「・・・・・・天月さんだ」
似せようとして描いた訳じゃないのに、見た瞬間に誰だか分かる。
頬からアゴに続く線も、少し伏せられた目元も、耳の後ろへ流れた髪も、さっき僕の目に止まったものがそのまま紙の上に描かれていた。
自分で描いた筈なのに、手応えを感じない。ただただ不思議な気持ちで一杯だった。
僕は鉛筆を持ったまま、もう一度クロッキー帳に目を落とす。
白紙の上に浮かんでいた輪郭はもうほとんど見えず、代わりに僕が引いた線だけが残っていた。
僕は鉛筆を置き、クロッキー帳を少し離して見てみる。
描かれているのは横顔だけで、色もなく、細かな陰影までは描き込んではいないけれど、誰を描いたのかは一目瞭然だった。
「・・・・・・・・・・・・」
僕は上手く描けた事実より、なぜこんなにも迷わず描けたのかが気になった。
僕はクロッキー帳の端に指を掛ける。
もう一度なら、どうなるんだろう。
ページをめくると、新しい白紙が現れる。僕は卵の殻を破るようにして慎重に視線を落とした。
すると、いた。
白紙の上に、天月さんが浮かび上がる。
「・・・・・・やっぱり見える」
一度目とは違い、驚きで手が止まる事はなく、僕は自然と鉛筆を持ち直し、その輪郭に線を重ねていた。
さっきは戸惑いながら描いていたけれど、今はもう迷いなく手を動かす。もとより、迷う要素がない。ただ、なぞるだけ。
しばらくして手を止めると、二枚目の紙にも天月さんの横顔があった。
一度目だけならまだしも、二度も続くとなると偶然として片付けるのは憚られる。
なんでこんな事が起きたんだ?
僕は原因の理由を天月さんに求めるようにして、みたび彼女に視線を向ける。
すると彼女は僕の困惑など知る由もなく、いつも通りキャンバスに向かい、筆を動かしている。
その光景も、それを見る事もいつもと変わらない。
別に意識して見ている訳じゃないのに、どうしてか白紙に天月さんが浮かび上がる。
結局。その日は答えらしい答えを見つける事は出来なかった。
朝、登校して教室に入ると丁度そこには窓際の席に座り、空を見上げる彼女がいたり、昼休みには自販機でコーヒー牛乳を買っている。
廊下を歩いていると天月さんの寝癖がぴょこぴょこ弾んでいた。隣を歩くクラスメイトがそれに触れてからかうと、天月さんは無表情のままその手を払い除ける。
僕の日常には僕が思ってる以上に天月さんがいるらしい。
今までそれに気付かず通り過ぎていただけで、一度気付いてしまうと、余計に目に入るようになった。
天月さんは歩く時、意外と速い。別になにを急いでいる訳でもないのに、次々と前を行く生徒を追い抜いていく。
雨の日には、傘をくるくる回して水滴を落としてから畳む。体育の時だけ髪を結って、いつもと別人に見えた。
どれも、絵とは関係ないのに、気付けば僕の目に映り込んでくる。
そしてある日の昼休み。
廊下の向かうから天月さんが歩いてくるのが見えた。手にはいちご牛乳を持っていた。
僕はそれを見て、今日はコーヒー牛乳じゃないんだなと思った。いつも彼女は同じものを買っているから自然と目を引いた。
けれど次の瞬間、自分で少し引っ掛かった。
・・・・・・なんでそんな事まで覚えてるんだろう。
そんな僕に気付く事もなく、天月さんはそのまますれ違っていく。
別に、絵の描き方とはなんの関係もないのに、なぜか僕は天月さんをよく見ている。
筆の動きや色の選び方を追いかけて、僕と天月さんを分けているものを見つける為に見ているのとは訳が違う。
コーヒー牛乳を買っている事や、歩くのが速い事、寝癖が跳ねてクラスメイトにいじられている。
そのどれもが僕の絵とは繋がっていない。
なんだか、僕の観測している範囲がいつの間にか広がっている気がする。
まぁ、天月さんがどんな人かを知る事は、絵のルーツを知る上で大切な事ではあると思うし、別におかしな事ではない。
僕はそう結論付けて、それ以上深く考える事はなかった。
§
放課後、美術室へ入ると天月さんはあの山の風景画をイーゼルに立てかけて向かい合っていた。
僕は今日も、近くにイーゼルを立てて天月さんを観察する。
前なら、、どの色を重ねたとかどこを塗り直したかを見ていたけれど、今日は違った。
天月さんが見ているのは、窓の外に映る山々の風景だ。それは僕にも見る事が出来る。けれど、その景色の中から天月さんが拾っているのは、きっと僕と同じじゃない。
図書室で聞いた言葉を思い出す。
『雨の匂いとか、夕方の空気感とか。そういうのを感じられるのが好きなの』
雨の匂いや、夕方の空気感。それは言葉にすると曖昧で、感覚的なもの。
その感覚はきっと僕には分からない。
なら、同じものを見ながら天月さんは今、なにを感じているんだろう。
天月さんのキャンバスを見てみる。描かれているのは窓辺から見える山の風景。だけど、この山をどう感じるかは天月さんが今まで見てきた体験によって別のものに変わる筈。
そう思うと、僕が今まで見てきた、この色をどう作ったのか、どうしてここに色を置いたのかといったものよりも前にある筆を置く理由が気になった。
天月さんの握る絵筆には、絵の具だけじゃない彼女の人生も含まれている筈なのだ。
天月さんは、これまでに一体どんな景色を見てきたんだろう。
気付けば僕はキャンバスではなく、天月さんの横顔を見ていた。
§
それは体育終わりの事。僕は教室に戻る途中の廊下を歩いているところだった。
「あ」
少し先に天月さんが歩いているのが見えた。
丁度その時、彼女が結っていた髪を解いている最中だった。普段は下ろしたままなのに、体育の時だけポニーテールにする髪が元の状態に戻るのを、僕は後ろから何気なく眺めていた。
天月さんはゴムを外すと、まとめられていた髪が肩へ落ちる。
すると、ぴょこんと寝癖が立った。
前にも寝癖が付いていた事があったけれど、髪を結った後でも元に戻るんだ。と、僕は妙なところに感心してしまう。
天月さんは指先で軽く髪を整え、それでも直らなかった寝癖はもう触れなかった。
隣を歩いていたクラスメイトが寝癖を見つけると、軽くグーで毛先をパンチし、そのたびに寝癖がぴょこぴょこ跳ねる。
「彩葉の寝癖、パンチングマシンみたい。おもろ」
「やめてくれる?」
隣でボクシングを始めるクラスメイトの手を無表情のまま払い除ける。
「えー、いいじゃん」
「よくない」
「彩葉のいけずー」
淡々とした返事に、隣の子が笑う。
天月さんは相変わらずほとんど表情を変えないけれど、もう一度寝癖に伸びてきた手だけは、今度は少し早めに叩き落とした。
その光景に、僕は思わず笑ってしまう。
意外と天月さんっていじられ役なんだな。
天月さんの知らない一面を見て、僕は新鮮な気持ちになるのと同時に、人間らしさに安心感を覚えた。
その後、天月さんの姿が見えなくなった後も、彼女の寝癖が頭の中で何度も揺れていた。
さらには翌日の昼休み。
購買から教室へ戻る途中で、僕は階段の踊り場に人がしゃがみ込んでいるのを見つけた。
と言っても騒ぎというほどの事ではなく、一年生らしき女子生徒が散らばったプリントを拾っているところだった。
僕は手伝おうと声を掛けようとして、それより先に少し離れたところにいた天月さんが足を止めた。
あ。と思った時には天月さんは一年生の元に近付き、無言のまましゃがみ込み、床に散らばるプリントを拾っていく。
僕は階段を上りながらその様子をんとなく見ていた。
「すみません、ありがとうございます・・・・・・」
一年生が天月さんの上靴の色を確認した後、顔を上げて彼女に声を掛けると、天月さんは表情を変えないまま「大丈夫」と短く返事して、拾ったプリントの端を揃える。
全部拾い終えると、逆さだったプリントの向きを変えて一年生に返す。
「あ、ありがとうございます・・・・・・助かりました」
「ん」
天月さんは短く返事をした後、立ち上がり、そのままその場を離れていく。
僕は天月さんの後ろ姿を見ながら、さっきの場面を思い返していた。
別に大した事じゃないと言えばそう。ただ困っている人がいたから手伝った――けれど。
最後にプリントの向きを変えて渡した事だけが妙に頭に残っていた。
そう言えば、部活の時も絵の具の並びは色相環の順を死守していたし、鉛筆の芯の長さは測ったように同じ長さだし、マスキングテープを使い終わったら必ず端を折り返し、ツマミを作っていた。
天月さんって結構、几帳面だよな。
そこで一度、思考が止まる。そしてハタと気付く。
――また。
僕は絵とは関係ないところで天月さんを観察してる。
僕はふと、顔を上げる。すると視界の奥で天月さんの背中を捉える。少し目を離しただけで、もうさっきより随分と向こうにいた。
そう、天月さんは歩くのが速い。
これ。絵を描く事と関係ないよな。なのに僕はそんな事を知識として収集していた。僕の記憶の容量をわざわざ割いてまで彼女が歩くのが速い事を記憶している。
不思議だ。
僕も教室へ戻ろうと、階段を上る。手摺りに手を置いた時、ふと、さっき天月さんが指先を滑らせながら上っていたのを思い出した。
・・・・・・ああいう歩き方するんだな。
別に、覚えておくような事でもない。それなのに、妙に頭に残っていた。
§
放課後、美術室の扉を開けると、天月さんが一足先にキャンバスの前に腰を下ろしていた。
僕に気付いた様子もなくキャンバスをジッと見つめている。
僕は荷物を置いて、自分のイーゼルを立て、昨日まで描いていた絵を確認してから斜め前に座る天月さんに視線を向ける。
今日も、しばらく絵を見つめたまま筆を持たない。
キャンバス全体をゆっくり見渡し、視線を一度パレットに落として、それからまたキャンバスに戻る。
以前なら、天月さんの視線がどこを辿り、どこで止まり、その後どんな選択に繋がるのかを追っていた。
筆を置く前になにを見て、一歩離れた時には画面のどこを確かめていたのか、その一つひとつから彼女の判断を探ろうとしていた。
今だって天月さんの判断を辿っていた。
そのつもりだった。
けれど今日は視線の行き先を追っている途中で、いつもなら通り過ぎていた細かな動きに妙に目が止まった。
キャンバスの右側を見た時には僅かにアゴが上がり、手前に視線を落とす時には睫毛の影が濃くなる。筆を置く直前には僅かに息を止め、置き終えた頃には唇の力が少し抜けるように見えた。
そこで僕は・・・・・・あれ、と思う。
なんだか今日は、やけに細かな動きばかりが気になる。
天月さんは一度、作業を止めると筆を洗う為に右手を伸ばす。
制服の袖が僅かにズレて手首が覗き、容器の中で筆を回す細い指の動きはまるで筆を遊ばせるように軽やかに動いている。
その横顔を、僕はしばらく見ていた。
やがて天月さんが筆を持ち直し、キャンバスに向き直ったところで僕の意識も戻ってきた。
・・・・・・今、僕はなにを見ていたんだ?
意識が戻ると、ふとそんな事が思い浮かぶ。
これまで、天月さんの手や視線、身体の動きは見てきたけれど、それは彼女がどんな判断かを知る為だった。
でも今の僕は、そうじゃなかった。
僕は少しだけ視線を逸らし、自分のキャンバスへと向き直った。
筆を持ち直し、さっきから手を入れようとしていた場所を見る。けれど今は、上手く考えが働かない。別のものが頭に浮かんでしまう。
天月さんの横顔が浮かぶ。
少し伏せた目元も、頬からアゴへ続く線も、目の前の絵とはなんら関係がない。なのに、僕の頭にはハッキリと残っている。
僕は一度、筆を置いて斜め前を見た。
天月さんは何事もなく絵を描いている。
少し離れて全体を見て、また近付いて筆を入れる。その動きはいつもと同じで、何度も見てきた筈なのに、いつもと見え方が違っていた。
筆を動かす手だけじゃない、前に身体を傾けた時に方から流れる髪や、キャンバスを見る時に僅かに細くなる目元なんかが自然と視界に入ってくる。
別に、意図して見ようとしている訳じゃない。ただ、自然と目がいく。
――僕は天月さんを、絵の手がかりとして見ているんじゃなく、彼女自身を見ている。
そう気付いた時、僕は自分の変化に困惑してしまう。
一体、いつからだ。
思い返せば、図書室で天月さんがどんな本を読んでいたのか、廊下で友達と話していた時の様子、落としたプリントを拾い、渡す時に紙の向きを正したり、絵とは直接関係ない事に興味を持ったり、覚えていたりした。
別に覚えようとして覚えているんじゃなく、その時その時に目に入ったものが気付けば頭の中に残っていた。
なんで?
僕は再び天月さんの方を見る。
すると今度は、キャンバスまで含めて天月さんを見るのではなく、まるで画角いっぱいに彼女を収めるように、僕の視線が彼女を追っていた。
・・・・・・切り取り方がおかしい。
気を取り直そうと、首を振って気持ちを切り替えると、ふと偶然、視界に手元に置いていたクロッキー帳の白いページが目に留まる。
「・・・・・・え」
僕は思わず声が漏れ、動きを止めた。
僕はジッと白紙を見つめる。
すると、なにも描かれていない筈の紙の上に、天月さんの横顔があった。
勿論、本当の線が引かれている訳じゃないけれど、頬の輪郭も、耳の位置も、その後ろに流れる紙もそこには描かれていた。
いやだから、描かれていないのだけど、描かれているとしか思えないほどくっきり見えた。
僕は何度か瞬きをするも、クロッキー帳に天月さんの横顔は残ったままだった。
・・・・・・なんだこれ。
目を擦っても、しばらく目を閉じても白紙の上には天月さんが浮かび続ける。
さっきまで頭の中だけにあった筈の形が、白紙の上で輪郭を描いていた。
僕はしばらく固まって、その像を見つめた。
するとふと、僕の中で一つ確かめたい事が浮かぶ。
――もし、この見えている線をそのままなぞったら?
そこまで考えたところで、机の上に置かれた鉛筆が目に止まる。
僕は少し迷ってから、それを手に取った。
鉛筆を握り、クロッキー帳を手に取る。
そこには以前として天月さんの横顔が浮かび上がっている。頬からアゴへと続く線はさっきより薄れる気配もなく、むしろ鉛筆を持った事で、その輪郭ばかりが余計にハッキリと意識されるようになった。
僕は半信半疑のまま、鉛筆の先を頬の当たりに近づける。
輪郭と鉛筆の先が重なる。そこからアゴに向かって線が続いているので、僕はそこに沿って鉛筆をゆっくりと走らせた。
そこで一度、鉛筆を離して改めて紙の上を見てみると輪郭の上に一本の黒い線が重なっていた。
合ってる。
僕は緊張しながら、もう一度、輪郭に沿って鉛筆を走らせる。
見えている形をただなぞっていく。だから迷う事はない。正解を探している感覚がない――そりゃそうだ、たった一つの正解は既に浮かび上がっているのだから。
線を引くたびに白紙の上に浮かんでいた天月さんが少しずつ鉛筆の線に置き換わっていく。
僕はもう一度、鉛筆を離すと、クロッキー帳には順調に天月さんの横顔が描かれていた。
――ちゃんと、描けてる。
それを見て僕は、手応えよりもなんだか怖くなってきた。
でも、鉛筆を動かすのは怖いのと同時に、なにか不思議な力に導かれているような感覚もあって、僕はまた線を加える。
慎重に輪郭を引いていき、キリのいいところで鉛筆を止めた。
改めてクロッキー帳を見てみると、一人の女の子の横顔があった。
僕はしばらくそれを見つめた。
「・・・・・・天月さんだ」
似せようとして描いた訳じゃないのに、見た瞬間に誰だか分かる。
頬からアゴに続く線も、少し伏せられた目元も、耳の後ろへ流れた髪も、さっき僕の目に止まったものがそのまま紙の上に描かれていた。
自分で描いた筈なのに、手応えを感じない。ただただ不思議な気持ちで一杯だった。
僕は鉛筆を持ったまま、もう一度クロッキー帳に目を落とす。
白紙の上に浮かんでいた輪郭はもうほとんど見えず、代わりに僕が引いた線だけが残っていた。
僕は鉛筆を置き、クロッキー帳を少し離して見てみる。
描かれているのは横顔だけで、色もなく、細かな陰影までは描き込んではいないけれど、誰を描いたのかは一目瞭然だった。
「・・・・・・・・・・・・」
僕は上手く描けた事実より、なぜこんなにも迷わず描けたのかが気になった。
僕はクロッキー帳の端に指を掛ける。
もう一度なら、どうなるんだろう。
ページをめくると、新しい白紙が現れる。僕は卵の殻を破るようにして慎重に視線を落とした。
すると、いた。
白紙の上に、天月さんが浮かび上がる。
「・・・・・・やっぱり見える」
一度目とは違い、驚きで手が止まる事はなく、僕は自然と鉛筆を持ち直し、その輪郭に線を重ねていた。
さっきは戸惑いながら描いていたけれど、今はもう迷いなく手を動かす。もとより、迷う要素がない。ただ、なぞるだけ。
しばらくして手を止めると、二枚目の紙にも天月さんの横顔があった。
一度目だけならまだしも、二度も続くとなると偶然として片付けるのは憚られる。
なんでこんな事が起きたんだ?
僕は原因の理由を天月さんに求めるようにして、みたび彼女に視線を向ける。
すると彼女は僕の困惑など知る由もなく、いつも通りキャンバスに向かい、筆を動かしている。
その光景も、それを見る事もいつもと変わらない。
別に意識して見ている訳じゃないのに、どうしてか白紙に天月さんが浮かび上がる。
結局。その日は答えらしい答えを見つける事は出来なかった。
