§
天月さんとの会話が終わった後、僕は自分のイーゼルへと戻った。
改めて、描きかけの自分のキャンバスと向かい合う。
構図に大きな破綻はなく、色の繋がりもおかしくないし遠近感もある。少なくとも、絵として見れば以前よりはずっと上手く描けている。
でも今は、その「上手く描けている」という事について改めて考えさせられる。
天月さんの絵には、僕には選び方の癖のように見えるものがあった。
色が一方向へ寄り過ぎた時に少し戻すような選択をする事が多いし、その結果なのか、青とも緑とも寄り切らない色に何度も辿り着いている。少なくとも、あの青緑については、本人もそれを繰り返している事に気付いていなかった。
それでも、違う絵を描けばその選択の積み重ねでどこかに天月さんらしさが滲んでいた。
――なら、僕は?
僕は筆を置いたまま、自分のキャンバスをしばらく眺める。
今描いている絵だけでは分からないと思い、作品棚へ向かい、自分の作品を何枚か引き出した。
山を描いたもの、教室を描いたもの、リンゴや瓶などの静物。
一年間で描いたものを思い返してみても、それぞれ題材は違うし、その時に学んでいた事も違うけれど、天月さんの絵に青緑を見つけたみたいに、僕にもなにか共通する自分の癖や特徴みたいなものが見つかるんじゃないか?
例えば、構図はどうだろう。
僕は画面全体を先に決めてから描く事が多い。
入部する前、美術の授業で俯見先生が最初に面白いと言ったのもそこだった。
でも、それは僕自身の癖ではあるにしても、今の僕が探しているものとは少し違った気がした。
構図を先に考えるのは、癖というよりも画面を破綻させない為でもあるし、一年間学んできた中でさらに強くなった習慣でもある。
じゃあ、色使いはどうだろう。
作品を見てみると、暖かい光なら暖色を、奥行きを出したい時には、遠くを少し青くしている。補色が必要なら、その関係を利用する。明度差が足りないなら調整しているし、画面全体の主張が強ければ彩度を落として纏めている。
「・・・・・・・・・・・・」
どれも、理由がある。
いや、理由しかない。
この色が好きだから、この形が気持ちいいから、なんとなくこっちの方がいいと思ったから。
そういう説明出来ない選択が、僕にはない。どれも「その方が正しいと思ったから」という答えばかり返ってくる。
天月さんは違う絵を描いていても、気付けば同じようなところへ戻っていたけれど、僕はどうだ。違う絵を描くたび、その題材に最も合う答えを選んでいる。
「・・・・・・いや」
そこで僕は、ある気付きを得る。
僕の絵に共通しているものがない訳じゃない。むしろずっと、同じ事を繰り返している。
正しい構図を選んで。
正しい色を選んで。
正しい明暗を選んで。
その時の僕が知っている範囲で、出来るだけ正しい答えへ近付こうとしている。
・・・・・・また、これか。
一年前、初めて自分の絵を天月さんのものと見比べた時、僕は自分の絵を模範解答だと思った。
あの時は単純に、知識通りに描いているから個性がないのだと思っていたけれど、でも今なら少しだけ分かる。
知識を使って描いている事は別に問題なんかじゃない。
ただ僕は、絵を描く時に自分の好みで選んでいないのだ。
そんな風な事が頭を過って、僕は少しだけ眉を寄せた。
・・・・・・自分の好み。
僕はイーゼルに戻り、キャンバスに向き直ると、丁度手を入れようとしていた場所があったので、実際に自分の好みを探ってみる事にした。
少しくすませて周囲に馴染ませるか、それとも鮮やかさを残して少し目立たせるか。
どちらを選んでも、絵として大きくおかしくなる訳じゃない。
だったら正しさではなく、自分の好みで選べばいい。
僕はキャンバスとパレットを交互に見比べる。
僕は、どっちが好きなんだ?
くすませた方が画面全体は纏まりやすい。でも鮮やかさを残せば、そこへ視線を誘導出来る。
・・・・・・違う。
自問自答した瞬間、頭に浮かんだのは好みじゃなかった。
僕が考えたいのは、どちらがこの絵に合ってるかじゃなく、どちらを選びたいかだ。
僕は気を取り直して、もう一度考える。
けれど、出てくるのはまた理由だった。好きかどうかを考えている筈なのに、気付けばいつも通りどちらを選ぶべきか考えている。
天月さんの絵を見ている時は、本人すら気付いていなかった癖を見つけられたのに、なのに自分はなにが好きなのかを考えると、途端に分からなくなる。
僕は筆を持ったまま固まる。
そして、頭の中で大きな疑問が頭をもたげる。
・・・・・・僕って、なにが好きなんだろう。
そう思ってから、ふと気付いた。
天月さんの事だって、最初から本人に答えを聞いた訳じゃない。何度も見て、選び方を追って、それでようやく少しずつ分かってきた。
なら、自分にも同じ事をすればいい。
僕はみたび、作品棚へ向かった。
さっきは色ばかり見ていたけれど、今度は一枚の絵として、自分がなにを選んできたのかを見る。
まずは去年描いた瓶と果物を置いた静物画。これはモチーフ同士の間隔が均等になり過ぎない程度に整えられていて、画面のどこか一カ所だけが極端に重くならないようになっていた。
次に僕は教室を描いた絵を見てみる。教室に端に寄せられた机と椅子をモチーフにしており、画面のどこに配置するのかかなり意識している。
三枚目の山の風景画についても、山だけを大きく描く事はせず、空と木々と地面まで含めて全体の比率を先に決めている。
「・・・・・・これ」
僕は少しだけ身を引いて、それら三枚の絵を壁に立てかけ並べてみる。
題材、色、描いた時期も違う。
なのに、どの絵も一部分だけを押し出すというより、画面全体の釣り合いを取ろうとしている。なにかを目立たせる時でさせ、その周囲との関係まで考えてから決めている。
ふと、一年前の美術の授業を思い出した。
僕が最初、描き始める前にアタリを取ってから描いているのを知って、俯見先生が面白いと言った。
あの時は単純に描き方の順番を見られたんだと思っていたけれど、もしかすると、あれも僕なりの選び方の癖が出ていたんじゃないのか?
一部分だけを見るより、先に全体を見る。
なにか一つを突出させるよりも、それが周囲とどう繋がっているのかを考える。
それが正しいからそうしているつもりだったけれど、まだ絵の知識なんてほとんどなかった頃から、僕はそうしていた。
「あった・・・・・・」
思わず、小さな声が漏れた。
好きな色はまだ分からない。どういう形が好きなのかも。
それでも、僕がなにも選んでこなかった訳じゃない。少なくとも僕は、絵の中の一つだけを見るより、全体がどう繋がっているのかを見る方が選びやすいらしい。
それが個性なのかと言われたら、まだ分からないけれど、でもずっと「正しい描き方」だと思っていたものの中にも僕自身の癖が混じっていた。
それに気付いた瞬間、さっきまでなにもないように見えていた自分の絵が、ほんの少しだけ違って見えた。
僕は自分のイーゼルに戻り、もう一度キャンバスに向き直る。
知識を用いて描く事は個性とはまた違うと思っていたけれど、正しく描く事の中にもこだわりがあると考えると、その知識を捨てる必要はない。むしろ、色の関係や構図などを考えない方が難しい。色を一つ変えればその隣との関係が変わるし、そこを整えれば今度は別の場所が気になってくる。
構図も、明暗も、遠近も、どれか一つだけを切り離して考える事は出来ない。
知ってしまった以上、途中で見ないフリをする事の方が、僕には気持ち悪かった。
遠近を知ったなら、それが最後まで画面の奥行きとして成立して欲しい。色の関係を知ったなら、一カ所だけではなくその影響まで含めて絵の中に収まっていて欲しい。構図を考えたなら、最後までその中にあるものが繋がっていて欲しい。
――僕は知識に縛られているんじゃない。むしろ、知っている事を出来るだけ描き切りたかったのかもしれない。
だから一つが突出して、他との繋がりが崩れている状態が落ち着かない。
全部が噛み合って、一枚の絵の中でちゃんと釣り合ったところまで持っていきたい。
それが正しいからではなく、そうなっている状態が、僕は好きなんだ。
今まで僕は知識通りに描いているから自分の絵には個性がないと思っていたけれど、同じ知識を持っていたとしても、それをどこまで使いたいと思うのか、どこが崩れていると気になるのか、どの状態を気持ちいいと思って筆を止めるのかまで、誰もが同じとは限らない。
僕は全部を知って、全部を繋げて、出来るだけ最後まで描き切りたい――これが、僕の好みなのかもしれない。
僕はしばらく自分のキャンバスを眺めていた。
さっきまでと同じ絵なのに、少しだけ見え方が違う気がする。
上手くなった訳じゃないし、急に自分だけの絵になった訳でもないけれど、今まで正しさだと思っていた選択の中にも、自分の好みみたいなものが混じっていたのかもしれないと思うと、なんだか感慨深い気持ちにさせられた。
「――へぇ」
不意に背後から声がして、僕は振り返る。
いつの間に来たのか、俯見先生が少し離れたところから僕のキャンバスを見ていた。
「いつからいたんですか?」
「ちょっと前から」
「声掛けて下さいよ」
「だって集中してたし、邪魔するのも悪いかなって」
俯見先生は言いながら僕の隣まで来ると、キャンバスの端から端までゆっくりと視線を動かした。
「今日はよく筆が止まるね」
「え?」
「今日は先に決めてから筆を置いてる感じがしたんだけど」
「分かりますか?」
「なんとなくね」
僕は改めてキャンバスを見る。
確かに、今日はいつもより意識してキャンバスを俯瞰していたと思う。普段から全体の構図を考えて描いてはいたけれど、より注意深く見て描いた。
ふと、天月さんを見つめる。
僕はずっと天月さんを見続けていた筈なのに、気付けば少しだけ、自分の描き方が見えていた。
§
昼休み、僕は課題図書の本を返しに図書室に足を運んだ。
中に入ると、静謐とした雰囲気が漂う。
すると窓際の席に、見覚えのある横顔があった。
天月さんだ。こんなところで出会すのは珍しい。
そう言えば昼休み、フラッと姿を消すけれど、図書室で過ごしているのだろうか。
絵を描く事以外に興を持つイメージが湧かないので、なんとなく新鮮な印象を抱く。
天月さんは文庫本を開き、ページに視線を落としていた。
一瞬、素通りしようかとも思ったけれど、ふと――なにを読んでいるんだろう。
天月さんがページをめくる姿に、自然と興味が惹かれた。
ゆっくりとページをめくる彼女の姿に、目を逸らせない。僕の足は自然と、彼女の元へと向かっていた。
「天月さん」
気付けば僕は名前を呼んでいた。
すると、ページからゆっくりと顔を上げ、僕と目が合った。
「・・・・・・見上くん」
名前を呼ばれ、僕は少しだけ背筋が伸びる。
美術室以外で話しかけてもいいものか、天月さんとの距離がまだ掴み切れていない。それでも僕は自然と訊ねていた。
「天月さん本読むんだね」
「うん」
「どんな本読んでるの?」
すると天月さんは「これ」と言って表紙を僕に見せた。知らない小説だったけれど、なんとなく小難しそうな本だ。
「小説とか読むんだ」
「うん」
「・・・・・・そうなんだ」
天月さんは全く話を広げようという歩み寄りがなかった。
別に、僕と特別親しい訳ではないし、親切にする理由もないけれど、同じ美術部員としてもう少しだけ歩み寄って欲しいと思わなくもない。
「ちなみに、どんな内容なの?」
「色んなところに旅する話」
「なるほど・・・・・・」
要約が十文字しかない・・・・・・。
「そういう話が好きなの?」
「景色が書いてるのが好きなの」
――景色。
僕は一瞬、キャンバスの風景画を連想した。
「絵を描く時の参考にしてる?」
「ううん、違う」
「あ、そう・・・・・・」
「読んでると、前に見た景色を思い出すんだ」
ここでようやく、天月さんは二回目のラリーに応じてくれた。さらに続けて、彼女は答える。
「雨の匂いとか、夕方の空気感とか。そういうのが感じられるのが好きなの」
「へぇ」
僕は思わず感嘆の声が漏れる。
天月さんの事は、絵を通してでしか内面を推し量る事が出来なかったけれど、彼女自ら腹の内を見せてくれている、それだけで僕は感無量だった。
「ちなみに天月さんは、その本を読んでなにを思い出したの?」
今ならもう少し彼女は親身になって答えてくれるかもしれないという期待を持って訊ねる。
「おばあちゃん家の近くのあぜ道」
おばあちゃん家、というくだけた言い回しをする天月さんが妙に新鮮で親近感を覚える。
「なに?」
「や、別に」
怪訝そうな顔をする天月さんに、僕はかぶりを振った。
「でも意外だったよ。絵以外、興味ないと思ってた」
「別に、そんな事ないけど」
「そっか」
そこで一度、会話が途切れた。
天月さんは、再び本へ視線を戻しかけて、それから少し顔を上げた。
「てゆうか」
「ん?」
「なんで急にそんな事聞くの?」
「え」
僕は言葉に詰まった。
「美術室でもたまに、話しかけてくるよね?」
「それは、ごめん・・・・・・嫌だった?」
「そうじゃなくて、最近よく声掛けてくるから気になって」
「まぁ、それは絵の参考に」
「じゃあ今声かけたのは?」
「え、と・・・・・・」
天月さんは無表情で淡々と訊ねてくる。別に怒ってる訳じゃないと思う。でも表情が乏しいから勝手に憶測を働かせてしまい、僕は冷や汗が出る。
「・・・・・・本読んでるのが珍しかったから、気になっただけ」
「ふーん」
その相槌はどんな意味があるのだろう。絵の中にはあれだけ情緒があるのに、天月さん自身の顔からはなにも読み取れない。顔がキャンバスだとすれば、天月さんはいつも白紙みたいだった。
もしかすると天月さんは、自分の表情を顔とは切り離して、キャンバスが独立した表情になっているのかもしれない。
と、そこで昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
天月さんはページに栞を挟み、本を閉じるとおもむろに立ち上がった。
「じゃあ、戻るから」
「あ、うん。ごめんね、邪魔しちゃって」
「別に」
素っ気ない返しだ。彼女にとって素っ気なくした気はないだろうけれど。
そのまま図書室を出て行く背中をなんとなく目で追いながら、さっきの会話を思い出す。
絵の中の天月さんなら、以前よりは分かるようになってきたけれど、絵を描いていない天月さんの事は、まだ全然知らない。
僕はそんな事を、なんとなく思った。
天月さんとの会話が終わった後、僕は自分のイーゼルへと戻った。
改めて、描きかけの自分のキャンバスと向かい合う。
構図に大きな破綻はなく、色の繋がりもおかしくないし遠近感もある。少なくとも、絵として見れば以前よりはずっと上手く描けている。
でも今は、その「上手く描けている」という事について改めて考えさせられる。
天月さんの絵には、僕には選び方の癖のように見えるものがあった。
色が一方向へ寄り過ぎた時に少し戻すような選択をする事が多いし、その結果なのか、青とも緑とも寄り切らない色に何度も辿り着いている。少なくとも、あの青緑については、本人もそれを繰り返している事に気付いていなかった。
それでも、違う絵を描けばその選択の積み重ねでどこかに天月さんらしさが滲んでいた。
――なら、僕は?
僕は筆を置いたまま、自分のキャンバスをしばらく眺める。
今描いている絵だけでは分からないと思い、作品棚へ向かい、自分の作品を何枚か引き出した。
山を描いたもの、教室を描いたもの、リンゴや瓶などの静物。
一年間で描いたものを思い返してみても、それぞれ題材は違うし、その時に学んでいた事も違うけれど、天月さんの絵に青緑を見つけたみたいに、僕にもなにか共通する自分の癖や特徴みたいなものが見つかるんじゃないか?
例えば、構図はどうだろう。
僕は画面全体を先に決めてから描く事が多い。
入部する前、美術の授業で俯見先生が最初に面白いと言ったのもそこだった。
でも、それは僕自身の癖ではあるにしても、今の僕が探しているものとは少し違った気がした。
構図を先に考えるのは、癖というよりも画面を破綻させない為でもあるし、一年間学んできた中でさらに強くなった習慣でもある。
じゃあ、色使いはどうだろう。
作品を見てみると、暖かい光なら暖色を、奥行きを出したい時には、遠くを少し青くしている。補色が必要なら、その関係を利用する。明度差が足りないなら調整しているし、画面全体の主張が強ければ彩度を落として纏めている。
「・・・・・・・・・・・・」
どれも、理由がある。
いや、理由しかない。
この色が好きだから、この形が気持ちいいから、なんとなくこっちの方がいいと思ったから。
そういう説明出来ない選択が、僕にはない。どれも「その方が正しいと思ったから」という答えばかり返ってくる。
天月さんは違う絵を描いていても、気付けば同じようなところへ戻っていたけれど、僕はどうだ。違う絵を描くたび、その題材に最も合う答えを選んでいる。
「・・・・・・いや」
そこで僕は、ある気付きを得る。
僕の絵に共通しているものがない訳じゃない。むしろずっと、同じ事を繰り返している。
正しい構図を選んで。
正しい色を選んで。
正しい明暗を選んで。
その時の僕が知っている範囲で、出来るだけ正しい答えへ近付こうとしている。
・・・・・・また、これか。
一年前、初めて自分の絵を天月さんのものと見比べた時、僕は自分の絵を模範解答だと思った。
あの時は単純に、知識通りに描いているから個性がないのだと思っていたけれど、でも今なら少しだけ分かる。
知識を使って描いている事は別に問題なんかじゃない。
ただ僕は、絵を描く時に自分の好みで選んでいないのだ。
そんな風な事が頭を過って、僕は少しだけ眉を寄せた。
・・・・・・自分の好み。
僕はイーゼルに戻り、キャンバスに向き直ると、丁度手を入れようとしていた場所があったので、実際に自分の好みを探ってみる事にした。
少しくすませて周囲に馴染ませるか、それとも鮮やかさを残して少し目立たせるか。
どちらを選んでも、絵として大きくおかしくなる訳じゃない。
だったら正しさではなく、自分の好みで選べばいい。
僕はキャンバスとパレットを交互に見比べる。
僕は、どっちが好きなんだ?
くすませた方が画面全体は纏まりやすい。でも鮮やかさを残せば、そこへ視線を誘導出来る。
・・・・・・違う。
自問自答した瞬間、頭に浮かんだのは好みじゃなかった。
僕が考えたいのは、どちらがこの絵に合ってるかじゃなく、どちらを選びたいかだ。
僕は気を取り直して、もう一度考える。
けれど、出てくるのはまた理由だった。好きかどうかを考えている筈なのに、気付けばいつも通りどちらを選ぶべきか考えている。
天月さんの絵を見ている時は、本人すら気付いていなかった癖を見つけられたのに、なのに自分はなにが好きなのかを考えると、途端に分からなくなる。
僕は筆を持ったまま固まる。
そして、頭の中で大きな疑問が頭をもたげる。
・・・・・・僕って、なにが好きなんだろう。
そう思ってから、ふと気付いた。
天月さんの事だって、最初から本人に答えを聞いた訳じゃない。何度も見て、選び方を追って、それでようやく少しずつ分かってきた。
なら、自分にも同じ事をすればいい。
僕はみたび、作品棚へ向かった。
さっきは色ばかり見ていたけれど、今度は一枚の絵として、自分がなにを選んできたのかを見る。
まずは去年描いた瓶と果物を置いた静物画。これはモチーフ同士の間隔が均等になり過ぎない程度に整えられていて、画面のどこか一カ所だけが極端に重くならないようになっていた。
次に僕は教室を描いた絵を見てみる。教室に端に寄せられた机と椅子をモチーフにしており、画面のどこに配置するのかかなり意識している。
三枚目の山の風景画についても、山だけを大きく描く事はせず、空と木々と地面まで含めて全体の比率を先に決めている。
「・・・・・・これ」
僕は少しだけ身を引いて、それら三枚の絵を壁に立てかけ並べてみる。
題材、色、描いた時期も違う。
なのに、どの絵も一部分だけを押し出すというより、画面全体の釣り合いを取ろうとしている。なにかを目立たせる時でさせ、その周囲との関係まで考えてから決めている。
ふと、一年前の美術の授業を思い出した。
僕が最初、描き始める前にアタリを取ってから描いているのを知って、俯見先生が面白いと言った。
あの時は単純に描き方の順番を見られたんだと思っていたけれど、もしかすると、あれも僕なりの選び方の癖が出ていたんじゃないのか?
一部分だけを見るより、先に全体を見る。
なにか一つを突出させるよりも、それが周囲とどう繋がっているのかを考える。
それが正しいからそうしているつもりだったけれど、まだ絵の知識なんてほとんどなかった頃から、僕はそうしていた。
「あった・・・・・・」
思わず、小さな声が漏れた。
好きな色はまだ分からない。どういう形が好きなのかも。
それでも、僕がなにも選んでこなかった訳じゃない。少なくとも僕は、絵の中の一つだけを見るより、全体がどう繋がっているのかを見る方が選びやすいらしい。
それが個性なのかと言われたら、まだ分からないけれど、でもずっと「正しい描き方」だと思っていたものの中にも僕自身の癖が混じっていた。
それに気付いた瞬間、さっきまでなにもないように見えていた自分の絵が、ほんの少しだけ違って見えた。
僕は自分のイーゼルに戻り、もう一度キャンバスに向き直る。
知識を用いて描く事は個性とはまた違うと思っていたけれど、正しく描く事の中にもこだわりがあると考えると、その知識を捨てる必要はない。むしろ、色の関係や構図などを考えない方が難しい。色を一つ変えればその隣との関係が変わるし、そこを整えれば今度は別の場所が気になってくる。
構図も、明暗も、遠近も、どれか一つだけを切り離して考える事は出来ない。
知ってしまった以上、途中で見ないフリをする事の方が、僕には気持ち悪かった。
遠近を知ったなら、それが最後まで画面の奥行きとして成立して欲しい。色の関係を知ったなら、一カ所だけではなくその影響まで含めて絵の中に収まっていて欲しい。構図を考えたなら、最後までその中にあるものが繋がっていて欲しい。
――僕は知識に縛られているんじゃない。むしろ、知っている事を出来るだけ描き切りたかったのかもしれない。
だから一つが突出して、他との繋がりが崩れている状態が落ち着かない。
全部が噛み合って、一枚の絵の中でちゃんと釣り合ったところまで持っていきたい。
それが正しいからではなく、そうなっている状態が、僕は好きなんだ。
今まで僕は知識通りに描いているから自分の絵には個性がないと思っていたけれど、同じ知識を持っていたとしても、それをどこまで使いたいと思うのか、どこが崩れていると気になるのか、どの状態を気持ちいいと思って筆を止めるのかまで、誰もが同じとは限らない。
僕は全部を知って、全部を繋げて、出来るだけ最後まで描き切りたい――これが、僕の好みなのかもしれない。
僕はしばらく自分のキャンバスを眺めていた。
さっきまでと同じ絵なのに、少しだけ見え方が違う気がする。
上手くなった訳じゃないし、急に自分だけの絵になった訳でもないけれど、今まで正しさだと思っていた選択の中にも、自分の好みみたいなものが混じっていたのかもしれないと思うと、なんだか感慨深い気持ちにさせられた。
「――へぇ」
不意に背後から声がして、僕は振り返る。
いつの間に来たのか、俯見先生が少し離れたところから僕のキャンバスを見ていた。
「いつからいたんですか?」
「ちょっと前から」
「声掛けて下さいよ」
「だって集中してたし、邪魔するのも悪いかなって」
俯見先生は言いながら僕の隣まで来ると、キャンバスの端から端までゆっくりと視線を動かした。
「今日はよく筆が止まるね」
「え?」
「今日は先に決めてから筆を置いてる感じがしたんだけど」
「分かりますか?」
「なんとなくね」
僕は改めてキャンバスを見る。
確かに、今日はいつもより意識してキャンバスを俯瞰していたと思う。普段から全体の構図を考えて描いてはいたけれど、より注意深く見て描いた。
ふと、天月さんを見つめる。
僕はずっと天月さんを見続けていた筈なのに、気付けば少しだけ、自分の描き方が見えていた。
§
昼休み、僕は課題図書の本を返しに図書室に足を運んだ。
中に入ると、静謐とした雰囲気が漂う。
すると窓際の席に、見覚えのある横顔があった。
天月さんだ。こんなところで出会すのは珍しい。
そう言えば昼休み、フラッと姿を消すけれど、図書室で過ごしているのだろうか。
絵を描く事以外に興を持つイメージが湧かないので、なんとなく新鮮な印象を抱く。
天月さんは文庫本を開き、ページに視線を落としていた。
一瞬、素通りしようかとも思ったけれど、ふと――なにを読んでいるんだろう。
天月さんがページをめくる姿に、自然と興味が惹かれた。
ゆっくりとページをめくる彼女の姿に、目を逸らせない。僕の足は自然と、彼女の元へと向かっていた。
「天月さん」
気付けば僕は名前を呼んでいた。
すると、ページからゆっくりと顔を上げ、僕と目が合った。
「・・・・・・見上くん」
名前を呼ばれ、僕は少しだけ背筋が伸びる。
美術室以外で話しかけてもいいものか、天月さんとの距離がまだ掴み切れていない。それでも僕は自然と訊ねていた。
「天月さん本読むんだね」
「うん」
「どんな本読んでるの?」
すると天月さんは「これ」と言って表紙を僕に見せた。知らない小説だったけれど、なんとなく小難しそうな本だ。
「小説とか読むんだ」
「うん」
「・・・・・・そうなんだ」
天月さんは全く話を広げようという歩み寄りがなかった。
別に、僕と特別親しい訳ではないし、親切にする理由もないけれど、同じ美術部員としてもう少しだけ歩み寄って欲しいと思わなくもない。
「ちなみに、どんな内容なの?」
「色んなところに旅する話」
「なるほど・・・・・・」
要約が十文字しかない・・・・・・。
「そういう話が好きなの?」
「景色が書いてるのが好きなの」
――景色。
僕は一瞬、キャンバスの風景画を連想した。
「絵を描く時の参考にしてる?」
「ううん、違う」
「あ、そう・・・・・・」
「読んでると、前に見た景色を思い出すんだ」
ここでようやく、天月さんは二回目のラリーに応じてくれた。さらに続けて、彼女は答える。
「雨の匂いとか、夕方の空気感とか。そういうのが感じられるのが好きなの」
「へぇ」
僕は思わず感嘆の声が漏れる。
天月さんの事は、絵を通してでしか内面を推し量る事が出来なかったけれど、彼女自ら腹の内を見せてくれている、それだけで僕は感無量だった。
「ちなみに天月さんは、その本を読んでなにを思い出したの?」
今ならもう少し彼女は親身になって答えてくれるかもしれないという期待を持って訊ねる。
「おばあちゃん家の近くのあぜ道」
おばあちゃん家、というくだけた言い回しをする天月さんが妙に新鮮で親近感を覚える。
「なに?」
「や、別に」
怪訝そうな顔をする天月さんに、僕はかぶりを振った。
「でも意外だったよ。絵以外、興味ないと思ってた」
「別に、そんな事ないけど」
「そっか」
そこで一度、会話が途切れた。
天月さんは、再び本へ視線を戻しかけて、それから少し顔を上げた。
「てゆうか」
「ん?」
「なんで急にそんな事聞くの?」
「え」
僕は言葉に詰まった。
「美術室でもたまに、話しかけてくるよね?」
「それは、ごめん・・・・・・嫌だった?」
「そうじゃなくて、最近よく声掛けてくるから気になって」
「まぁ、それは絵の参考に」
「じゃあ今声かけたのは?」
「え、と・・・・・・」
天月さんは無表情で淡々と訊ねてくる。別に怒ってる訳じゃないと思う。でも表情が乏しいから勝手に憶測を働かせてしまい、僕は冷や汗が出る。
「・・・・・・本読んでるのが珍しかったから、気になっただけ」
「ふーん」
その相槌はどんな意味があるのだろう。絵の中にはあれだけ情緒があるのに、天月さん自身の顔からはなにも読み取れない。顔がキャンバスだとすれば、天月さんはいつも白紙みたいだった。
もしかすると天月さんは、自分の表情を顔とは切り離して、キャンバスが独立した表情になっているのかもしれない。
と、そこで昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
天月さんはページに栞を挟み、本を閉じるとおもむろに立ち上がった。
「じゃあ、戻るから」
「あ、うん。ごめんね、邪魔しちゃって」
「別に」
素っ気ない返しだ。彼女にとって素っ気なくした気はないだろうけれど。
そのまま図書室を出て行く背中をなんとなく目で追いながら、さっきの会話を思い出す。
絵の中の天月さんなら、以前よりは分かるようになってきたけれど、絵を描いていない天月さんの事は、まだ全然知らない。
僕はそんな事を、なんとなく思った。
