天才観測

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 翌日の放課後、いつものように美術室へと向かう。

 昨日までなら、天月さんがどんな色を作るのか、その色をどこへ置くのかを追っていたけれど、今日はそこを見るつもりはない。見るのは、その一つ前だ。

 彼女がキャンバスを見てなにを感じ取り、その結果として色を選ぶのか――勿論、考えている事そのものが見える訳じゃないけれど、どこを見た後に筆を止め、どんな状態の時に別の色に手を伸ばすのか、それを何度も追っていけば、少しくらいは共通するものが見えてくるかもしれない。

 僕は今日やるべき事を頭の中で整理しながら、美術室の扉をくぐり抜け、中へと入る。

 するとすぐに天月さんに目が留まった。

 室内には数人の部員たちが既に作業を始めていたけれど、僕の目は美術室の奥で作業していた天月さんをいの一番に見つけ出した。

 天月さんは既にリンゴと白い布の絵をイーゼルに立て、キャンバスの前で筆を動かしていた。

 僕も荷物を置き、いつものように彼女の斜め後ろへ腰を下ろす。

 天月さんは白い布の一部へ明るい色を置くと、しばらくそこを見つめていた。

 光を受けている場所だから、明るくする事自体は僕にも理解出来る。けれど、そのまま描き始めるのかと思った直後、彼女は筆を止め、今塗った場所と、その隣にある影を交互に見比べた。そしてパレットに視線を落とす。

 僕は反射的に彼女が作ろうとしている色へ目を向けそうになり、すぐ止めた。

 違う、見るのは色そのものじゃない。どうして今、別の色が必要になったのかだ。

 もう一度キャンバスに視線を戻す。

 さっきまで白い布の明るい部分は周囲と自然に繋がっていた筈なのに、色を一つ置いた事でそこだけが少し明るく浮き、その隣にある影との境目まで以前より強く見えるようになっていた。

 天月さんは明るい部分はそのままに、その隣の影を僅かに暖かい色を重ねた。

 すると影の冷たさが少しだけ和らぎ、明るい部分との境目もさっきより強く感じなくなった。

 僕はその変化を見ながら、頭の中で今の選択を頭の中に留めた。

 けれど別に、その選択自体が珍しいという訳でもないので、今はまだなにも言えない。

 しばらくすると、天月さんは今度はリンゴへ筆を伸ばした。

 赤い表面に色を重ねるたびに、光を受けた部分の赤みが少しずつ鮮やかになっていく。僕の目には十分綺麗に見えたし、そのままでも問題はなさそうだったけれど、天月さんはまた筆を止めた。

 少し距離を取り、リンゴを見て、白い布を見る。またリンゴを見る。

 その視線を追っていくうちに、僕にも僅かな違和感が見えてきた。

 赤が綺麗過ぎる。

 周囲には白い布の鈍い影や机の影があるのに、リンゴの一部分だけが鮮やかな赤だった。

 天月さんはパレットから別の色を取り、色の強い赤に薄く重ねると、鮮やかな赤が僅かに控えめになる。

 でも、それはただ暗くなっただけじゃなく、さっきまで浮いて見えていた赤が周囲と調和して、全体の一部として馴染んでいるように見えた。

 僕は眉を寄せる。

 さっきは明るく浮いた布に対して、その隣の影の色を変えた。そして今度は鮮やかになり過ぎた赤に別の色を重ねた。

 やり方は違うけれど、どちらも一つの要素が強くなり過ぎた時に、そのまま押し切らず、少しだけ色味を引き下げ、調和を取ったように見えた。

 と、考えるのは考え過ぎだろうか?

 まだ決め手に欠けるので、僕は引き続き天月さんの手元を追った。

 次に彼女が筆を入れたのは、白い布の皺が深くなっている部分だった。

 青みのある影が重なり、少しずつ冷たい色へ寄っていく。

 僕なら、その冷たさを使って皺の深さを強調するところかもしれない。

 けれど、天月さんは何度か全体を見た後、その影の中にごく僅かに暖かい色を重ねた。

 青が残ったまま、その中に僅かに暖かい色が混ざると、冷たいとも暖かいとも言えない影が出来上がる。

 ・・・・・・また。

 明るくなれば、その明るさを前面に出さない。鮮やかになれば鮮やかなままにしない。

 冷たくなれば、そこへ僅かに温かさを混ぜる。

 勿論、毎回そういう訳じゃない。

 それでも、何度か選択を追っているうちに、僕の中に一つの仮説が立ち上る――天月さんは、一つの方向へ色が決まり過ぎた時、そのまま完成させようとしない事が多いんじゃないか?

 僕は天月さんのキャンバスを見つめる。

 青なら青のまま、赤なら赤のまま。明るいなら明るいまま。

 そうやって一つの性質だけを強くしていくのではなく、どこかで別の要素を混ぜ込み、完全には一方向へ寄り切らせない。

 ――ふと、僕の頭にあの色が浮かんだ。

 青とも緑とも寄り切らない、少し鈍い色。

 もしかして――。

 僕は思わず、天月さんのキャンバスの中に、あの色を探した。

 けれど、以前白い布の皺の奥に浮かんでいた青とも緑とも寄り切らない色は、その後に重ねられた絵の具に紛れたのか、もう同じ形では残っていなかった。

 前の僕なら、きっとそこで少し焦っていたと思う。あの色がどこへ消えたのか、別の場所に残っていないか、キャンバスの中を探し回っていた筈だ。

 でも、今は少し違う。

 あの青緑が気にならなくなった訳じゃない。むしろ、違う絵の中に何度も現れたからこそ、今でも天月さんの絵を考える上で無視出来ない色だと思っている。

 ただ、あの色そのものを見つける事が、もう目的ではなくなっていた。

 僕が知りたいのは、天月さんがどうして何度もあの色へ辿り着くのかだ。

 青緑を使おうと決めている訳でも、最初からあの色を作ろうとしている訳でもない。それなのに、同じモチーフを描き、違う色を重ね、その時々で違う答えを選び続けた先に、似た色が何度も現れる。

 だとしたら、あの青緑は天月さんの選択の中にあるなにかが偶然、目に見える形になったものなのかもしれない。

 そして今、僕はその「なにか」に少しだけ触れた気がしていた。

 一つの色が強く出過ぎた時、そのまま押し切らずに別の要素を混ぜて少しだけ混ぜる。明る過ぎれば色を落とし、鮮やか過ぎれば鈍らせ、冷たくなり過ぎれば僅かな暖かさを加える。

 そうやって一方向へ寄り切らせない選択を重ねていけば、どちらとも言い切れない曖昧な色が生まれやすくなる?

 あの青緑もその一つなのだろうか。

 けれど、そう考えたところで、今度は別の疑問が残った。

 中間にある色なんて、他にいくらでもある。なのに、僕がこれまで天月さんの絵を見てきて、何度も目に留めたのは、青とも緑とも寄り切らないあの鈍い色だった。

 勿論、一度気にしたせいで余計に目に入りやすくなっている可能性は考えられる。

 でも、それだけだろうか?

 一つの方向へ寄り切らせないという選び方とは別に、天月さん自身が無意識に寄せやすい色の方向があるんじゃないか?

 僕はもう一度、天月さんのキャンバスへ視線を戻す。

 今はまだ、答えは出ない。

 それでも、あの青緑がただ偶然そこに現れているだけではないという感覚は、以前より少しだけ強くなっていた。

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 それからというもの、僕は天月さんが色を「戻す」時に、どの方向へ戻すのかを意識して見るようになった。

 明るくなり過ぎた場所を落とす時、鮮やかになり過ぎた色を鈍らせる時、冷たくなり過ぎた影へ僅かな暖かさを足す時など、やっている事だけを見れば、どれも珍しい事じゃない。

 けれど、何度も見ているうちに少しずつ引っ掛かるものも出てきた。

 天月さんは、その戻し方が毎回同じではなく、出来上がる色も当然、それぞれ違う。

 赤紫に近い鈍い色になる事もあれば、黄と緑の間のオリーブのような色、赤と茶の間のレンガのような色になる事もあった。

 けれど、何度も青とも緑とも寄り切らないあの色が出てくる。

「・・・・・・・・・・・・」

 以前の僕なら、その色が現れた事だけに目を奪われていたと思う。

 でも今は、その直前にどんな色があって、天月さんがそこからどちらへ色を寄せたかの方が気になった。

 出発点も、選び方も、その時々で違うのに、その先ではなぜか何度も青とも緑とも寄り切らない色が現れる。

 僕はそこで、少し考え込んだ。

 一方向へ寄り切らせない事が天月さんの選び方の癖だとしても、戻し先まで一つに決まっている訳じゃない。

 曖昧な色はいくつも選択肢があるし、実際、彼女は青緑以外の中間色だって何度も作っている。

 なのに、完成した作品まで含めて思い出してみると、妙に青緑だけが何度も残されていた。

 僕はふと、作品棚の方へと視線を向ける。

 前に見つけた完成した作品にもあった。そして山の風景画にも、そしてリンゴと白い布の絵にもあった。

 場所も、題材も、そこへ至るまでに選ばれた色も違うのに、なぜか最後に青緑が選ばれる事が多い。

 ただ、中間に色を戻そうとした結果として片付けるには、少し偏り過ぎているような気がした。

 そう考えた時、あの青緑が他の色とは少し違う意味があるように思えた。

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 あの青緑には、他の色とは少し違う意味があるような気がした。

 ただ、それが天月さん自身にとってもそうなのかは分からない。

 僕が勝手に彼女の絵を見比べ、勝手に共通点を見つけているだけで、本人は全く別の理由で色を選んでいる可能性だってある。

 そう考えると、無性に本人に聞いてみたくなった。

 けれど天月さんはまだキャンバスに向かっている最中だ。

 前に色について質問した時、制作の途中で無理矢理、現実に引き戻してしまったような気がした事を思い出して、僕は声を掛けるのをやめて、そのまま彼女が筆を動かす様子を眺めていた。

 しばらくすると、天月さんは息を吐くと筆を止め、手元の筆洗器に筆を浸した。

 今ならいいだろうか。

「天月さん」

 声を掛けると、水の中で筆を揺らしていた手が止まり、天月さんがこちらを見る。

「なに?」

「あのさ、ちょっと聞きたい事があるんだけど」

「うん」

 相変わらず淡々としてる。

 僕は一度、天月さんのキャンバスへ目を向け、その中の影になっている部分を指差した。

「天月さんって、こういう色よく使うよね」

「こういう色?」

「青とも緑ともつかない、ちょっとくすんだ色というか」

 天月さんは僕の指先を追い、しばらくその場所を見つめた。

「・・・・・・そう?」

「え?」

「よく使ってる?」

「使ってると思うけど・・・・・・」

 予想していなかった返事に、今度は僕の方が作品を見返す。そして、別の作品も引き合いに出して反応を窺ってみる。

「山の風景画にもあったし、前に描いた絵にもあったよ」

「前の絵?」

「うん。ちょっと来てくれる?」

 僕はそう言うと、天月さんは無表情ながら腰を上げたので、彼女を引き連れ作品棚へ向かうと、以前見つけた天月さんの絵を引き出して見せる。

「ほら、ここ」

 僕が画面の端を指差すと天月さんは少し身を寄せて覗き込んだ。

「ほんとだ」

「気付いてなかったの?」

「うん」

 あまりにもあっさり認められて、僕は言葉を失った。

 僕が何日も気にして、作品棚まで漁り、挙げ句の果てにパレットを青緑だらけにしていた色を、本人は気にした事すらなかった。

「・・・・・・マジか」

「変?」

「いや、変というか・・・・・・」

 なんとも言えない。

 僕が一人、大事件みたいに追いかけていたものを、事件の中心人物だけが「知らない」と言ってるようなものだ。

 天月さんは、そんな僕を気にする様子もなく、僕が引き出した絵を見つめる。

 その横顔を見つめながら、僕は少し考えた。

「この色、好きなの?」

「・・・・・・・・・・・・」

 今度はすぐに答えが返ってこなかった。

 天月さんは作品の中にある青緑を見つめ、それから僅かに首を傾げる。

「分からない」

「分からない?」

「好きかどうか、考えた事ないし」

「でも、何回も使ってるよね?」

「そうみたい」

 まるで他人の絵について話してるみたいで、他人事のような反応に、僕は呆気に取られる。

 けれど、一つ腑に落ちた。

 やっぱり天月さんは、この色を使おうと決めて使っている訳じゃないんだ。

 もし青緑が好きで、意識的に作品に取り込んでいるなら、何度も使っている自覚はある筈だ。

 でも本人に自覚がないならそれは、あの色は無意識に近いところから現れているのかもしれない。

「見上くん」

「ん?」

「そんなに私の絵、見てたの?」

「・・・・・・え」

 不意に名前を呼ばれたと思ったら、虚を突く質問だった。

 天月さんは別段、怒っている訳でもなく、嫌そうにしてる訳でもなく、ただ純粋に不思議そうな顔で僕を見ていた。

「前の絵まで引っ張り出してきてるし」

「いや、それは・・・・・・」

 そこで脳裏に、以前の俯見先生のニヤニヤした顔が蘇った。

『・・・・・・で、天月さんの事、好きなの?』

 なんで今、思い出すんだ・・・・・・。

 僕は首を横に振ってフラッシュバックを払い除ける。

「最近、天月さんがどうやって描いてるのか気になってて。それで色とか筆の入れ方とか、色々見てただけ」

「ふうん?」

 天月さんはそうとだけ言って僕を見つめる。

 相変わらずの無表情で、内心が読み取れない。こういう時、無表情というのは少し困る。

「そういう意味じゃないからね・・・・・・?」

「そういう意味?」

「・・・・・・いや、なんでもない」

 しまった、余計な事を言った。

 先回りして弁解したつもりが、勝手に深読みし過ぎた。

 僕は居たたまれない気持ちになると、天月さんは少しだけ首を傾げたけれど、追及する事なくもう一度、作品に視線を戻した。

 そしてしばらくして、ポツリと言った。

「見上くんの方が、私の絵の事知ってるね」

「・・・・・・それはないでしょ」

「でもこの色、私は知らなかったよ」

「それは・・・・・・」

 反論しようとして、言葉が止まる。

 確かに、彼女自身も気付いていないものを僕は見つけた。

 それがなんなのか、まだ全部分かってる訳じゃない。それでも、ずっと遠くから眺めていた彼女の中に、本人すら意識していないなにかを一つだけ見つけられたような気がして、僕は少しだけ誇らしいというか、優越感に似たような気持ちが少しだけ胸を熱くした。

 天月さんは絵の中にある青緑を見ながら言う。

「面白いね」

「え?」

「自分じゃ気付かなかったから」

 そう言って、ほんの僅かに口元を緩めた。

 ――笑った、と気付いた時には、もういつもの無表情へ戻っていた。

 僕はその横顔を見つめながら、なぜかさっきまで考えていた青緑の事を、一瞬だけ忘れていた。