天才観測

§

 翌日も、僕は天月さんの絵を観察する。

 昨日までそこにあった筈の色が、今日にはもう別の色へと変わっている。それでも、気まぐれに塗り替えているようには、どうしても見えなかった。

 絵を描く過程でそうした判断を下す事自体は、なにも珍しい事じゃない。描いてる途中で微調整を繰り返すのはよくある事だ。

 僕も描く途中で修正を加える事はよくしてきた。

 だから最初は、天月さんも同じように考えていると思っていたけれど、僕が知識を頼りに「この色が必要だ」と結論付けるのに対して、天月さんはキャンバス自身に答えを求めるように、僕の理屈に合わない色を選択する。

 理屈に合わない選択に、どうしてその色を選んだのか分からなかった。

 勿論、全てがすべて理屈から外れる訳じゃない。けれど、腑に落ちない瞬間が確かに存在する。

 なぜ今、あえてその色を選んだのか。なぜ、馴染んでいたその色を変えてしまうのか。そして――一度、塗り替えた筈の色を、なぜまた元に戻すのか。

 僕には天月さんの考えている事が分からない。けれど、分からないからこそ、知りたいと思った。

 僕が理解したと思って彼女の背中を掴んだかと思うと、天月さんは身を翻してあっさりと予想を裏切る。虚空を掴む手のひらの感触に、けれど不思議と悔しさはなかった。

 むしろ簡単に掴ませてくれないからこそ、彼女の奥深さに惹かれる。

 きっとなにか彼女なりの道理がある筈だ。

 それを一つも見落としたくなくて、僕は瞬きすら惜しんで彼女に目を凝らした。

 そんな僕の熱の帯びた視線に、彼女は全く気付きもしないで、食い入るようにキャンバスを見つめていた。

 天月さんはふと、筆を止めた。

 キャンバスの右側にある木々を見つめ、それから少しだけ身体を引いた。それからしばらくして、キャンバスとの距離を詰める。

 パレットに視線を落とすと、いくつかの色を見比べ、筆先で絵の具を少しだけ混ぜてから、またキャンバスを見つめた。

 今度は空を見つめる。そして山へ、木々へと視線を移していく。

 なにを見ているのかまでは僕は分からない。けれど、少なくとも目の前の絵を見ずに色を選んでい訳ではない事だけは分かった。

 やがて天月さんは作った色を筆先に取り、木々の一部分へ置いた。すぐに筆が離れる。

 彼女はすぐに一歩後ろへ下がり、置いたばかりの色を眺めた。

 それから今度は山を見る。

 先程まで木々と山の間にあった僅かな違和感が少しだけ薄れているように見えた。

 僕がそう気付いた直後、天月さんはまたパレットに戻り、別の色を筆に乗せると空へ筆を伸ばし、色を塗る。

 すると今度は山の色が少し違って見える。

 天月さんはそれを見て、また山に目を向ける。山に筆を置く。今度は手前の木々が気になって、彼女の視線がそちらに向かう。

 僕は黙って彼女を見つめる。

 その繰り返しの中に、彼女だけのなにかが息づいているような気がした。

 そう思った時、ふと昨日の彼女の言葉が頭に浮かんだ。

『絵が変わったから』

 あの時は、それ以上の意味を考える事が出来なかったけれど、改めて放課後の美術室で彼女のキャンバスを見つめているうちに、ふと気付いた。

 もしかすると、彼女の言った「絵が変わった」というのは、文字通りの意味なんじゃないか?

 最初に置いた色が間違いではなかった。その時は、その色が一番よかった。

 けれど、別の色を置いた事で絵が変われば今度は別の色の方がよくなる――だから天月さんは塗り直す。

 そう考えてから僕は、天月さんが色を選ぶ瞬間だけではなく、その前後のキャンバスも見るようになった。

 天月さんは色を決めてから絵を描いている訳じゃなく、絵が変わるから次に必要な色も変わっている。

 一つの色を変えるたびに絵そのものが少しずつ姿を変えていく。彼女はその変化を見ていた。そしてその時の絵に合うと思った色を選んでいる。

 まるでイタチごっこのような絵の描き方だ。

 一つの場所をよくしようと色を変えれば、また別のところが気になり、そうやって絵の中を行ったり来たりしながら天月さんは一枚の絵を描き続けている――でもそれは、終わらない修正を繰り返しているというより、変化し続ける絵に合わせて、常にその時々の答えを選び続けているという見方をすべきなのだろう。

 そう考えながら僕は、再び天月さんの手元に視線を戻した。

 丁度、彼女は画面の左側に筆を入れようとしていた。けれどすぐにはキャンバスには置かず、画面全体を眺める。山や空、木々を見比べてから、そして筆を置く。

 するとキャンバスに淡い青が広がった。

 僕はその色を見てから、天月さんの表情を見る。

 彼女は無表情のままジッとキャンバスを見つめると、今度はパレットに筆を伸ばす。

 ・・・・・・また変えるのか。

 天月さんはそうして、パレット上で絵の具を混ぜて色を作り始めた。

 さっき置いた色によって、今度は別の場所が変わって見えたのだろう。

 ハッキリ言って、僕にはその変化、違いが全く分からなかった。

 でも、彼女にはハッキリと見えているのだろう。

 僕はその様子をジッと見つめながら、一つだけ確かな事を胸に刻む。

 彼女にとって絵は、逆算して描くものではなく、常に目の前を切り拓いて描くものなのだ。筆を置くたびに変化する絵を見て、そのたびに正解を選んでいく。

 そう考えると、昨日までそこにあった色を塗り替えた事も、そこへまた同じ色を戻した事も、少しだけ分かる気がした。

 最初の色が間違っていた訳じゃない。その時は、それがそれが一番よかった――。

 僕はそんな事を考えながら、彼女の手元に視線を戻す。

 天月さんはパレットで絵の具を混ぜ合わせ、それを木々に塗っていく。それから彼女は筆を離し、少しだけ身体を引くとキャンバス全体を眺める。

 視線がゆっくりとキャンバスに移ろうと、やがて天月さんはまたパレットに手を伸ばした。

 今度はさっきとは違う色を作っている。

 僕にはその色が必要な理由までは分からないけれど、天月さんは混ぜ合わせた色を、画面の端に置く。

 筆先の色が、下に残っていた色と重なる。

 すると、そこにあった色が少しだけ沈み、青でも緑でもない、どちらにも寄り切らない少し鈍い色が浮かび上がった。

 ・・・・・・この色。

 なんだろう。なんとなく、よく見るような気がする。

 その色自体は別段、珍しい訳じゃない。キャンバスを見れば、山の陰に沈んだ部分、空と山の境目、奥にある木立の隙間などにも似たような色は塗られていた。

 それでも、なぜかその色から自然と目が離せなかった。

 僕はもう一度、キャンバスを眺めながら、煮え切らない思いが胸の内に残る。

 どうして僕は、その色が気になったんだろう?

 重ね塗りの過程で、そうした濁りを含んだ中間色が生まれる事はよくある。

 だから、引っ掛かりを覚える事に違和感があったけれど、僕はすぐに気のせいだと、その時は結論付けた。

 けれど、その後も天月さんが筆を動かすたびに僕は何度かその色を目にした。

 ・・・・・・まただ。

 でも、そう思うだけだった。

 やがて天月さんは筆を置いた。今日の制作はそこまでらしい。

 彼女は少し離れた場所からキャンバスを眺め、しばらく黙っていたけれど、やがて何事もなかったように筆を洗い始めた。

 僕はその横顔を見ながら、もう一度だけ彼女の絵を見る。

 さっき気になった色は、別の色と重なったせいか、もうハッキリとは見えなかった。あるいは最初から、僕が勝手に気にしていただけなのかもしれない。

 そう思って僕は、気に留めるのをやめた。

 けれど翌日。

 放課後、美術室に入った僕は、天月さんのイーゼルを見て足を止めた。

 そこには、昨日まで描かれていた山の風景ではなく、別のキャンバスが立てかけられていた。

 あの絵は壁に立てかけられている。まだ絵の具が乾き切っていないのだろう、ところどころ表面に濡れたような艶が残っていた。

「昨日の絵は?」

 僕は気になって天月さんに訊ねると、彼女は僅かに髪を揺らして、振り返った。

 表情はなく、ただ僕の問い掛けを受け取っただけの必要最低限のリアクションだった。

「まだ触らない」

「乾いてないから?」

「それもある」

 短く答えると、それ以上答える気はないようで、天月さんはすぐにキャンバスへと向き直った。

 相変わらず言葉足らずだけど、僕もそれ以上は聞かず、彼女の前にあるキャンバスへ視線を移す。

 そこに描かれていたのは机の上に置かれたリンゴと、その下に敷かれた白い布だった。

 それを見た瞬間、少し懐かしい気持ちになる。

 僕が美術部に入って、最初に描いたリンゴだ。赤くて、丸くて、少し窪んでいて、そこから細い軸が伸びている。

 あの時の僕は、それを見たまま描く事しか出来なくて、出来上がったのは見ればリンゴと分かる程度の、どこにでもあるリンゴだった。

 けれど、天月さんのキャンバスに描かれたリンゴは、ただ赤く塗られている訳ではなかった。

 光の当たる場所には薄い黄色が混じり、影になる部分には赤とは違う深い色が沈んでいる。白い布も、ただ白く描かれている訳じゃなく、皺の奥や、リンゴの影が落ちた場所には灰色だけじゃない色がいくつも重なっていた。

 昨日まで見ていた山の絵とは違い、空も山も木々もない。それでも天月さんは今までと変わらぬ眼差しでキャンバスを見つめる。

 真っ直ぐ見つめる彼女の瞳は底まで見えそうなほど澄んでいるのに、どこまで深いのは分からない。

 天月さんはパレットに視線を落とし、筆先でいくつかの色を混ぜる。

 リンゴの影が落ちた布辺りを見て、それからキャンバス全体を見つめる。

 そして、やがて布の皺の奥へと筆を置いた。

 筆先の色が下に残っていた色と重なる。

 その瞬間、白い布の影が少しだけ沈み、別の色がフッと浮かび上がった。

 青とも緑とも言い切れない、どちらにも寄り切らない鈍い色。

 僕は思わず、息を止めた。

 ・・・・・・また。

 昨日の絵で見たものと、全く同じ色ではない。でも、どこか似ていた。

 風景画であればこの色が生まれる事もあるだろう。でも、これはリンゴと白い布だ。昨日まで見ていた風景画とは全く異なる。

 なのに、似た色がそこにはあった。

 ――いや、これだって有り得ない事じゃない。

 白いものを描く時、影をただ灰色で濡ればいい訳じゃない。周りの色を拾えば、影にも色は混じる。下に塗った色がが透ければ思いがけない中間色が生まれる事もある。

 だから、これもきっと偶然だ。

 そう思った、けれど。

 僕の視線はなぜかその色から目が離れなかった。

 そんな僕には構わず、天月さんはまた次の色を選んでいる。彼女にとってはきっと、その時に必要な色を置いただけなのだろう。

 昨日の絵にもあった。そして今日の絵にも。それだけなら、まだなにも言えない。

 けれど、僕の頭の片隅には、青とも緑とも寄り切らないあの色が残り続けていた。

§

 それから数日、僕は以前よりも天月さんの絵の色を見るようになった。

 意識して探しているつもりはなかったけれど、ただ、一度気になってしまうと不思議と目に入ってしまう。カラーバス効果というやつだ。

 天月さんは乾き切っていない山の風景画には触れず、その間はリンゴと白い布を描いたキャンバスに筆を入れていた。

 白い布の皺の奥、リンゴの影が落ちた場所、机の端で布が折れ、そのまま暗がりへ沈んでいるところ。

 それらにあの色が現れた――青とも緑とも寄り切らない鈍い色が。

 けれど、どれも全く同じ色という訳ではなく、青に近いものもあれば、緑に寄ったものもある。明るさも、濁り方も違っていた。

 でも別に、白い布の影に青や緑で表現するのはよくある事。赤いリンゴの隣だから余計に冷たい色が目に付いているだけなのかもしれない。

 そうして僕は、一応の説明を付ける。

 やがて、山の風景画の表面から濡れたような艶が消え始めると、天月さんは再びそちらのキャンバスへと戻った。

 久しぶりにイーゼルへ立てられた風景画を見て、僕はなんとなく懐かしい気持ちになる。

 なぜ僕が感傷的な気分に浸っているのか分からないけれど、ともかく。数日しか離れていない筈なのに、以前とは少し違う絵のように感じられた。

 別の絵を挟んだからだろう。

 同じキャンバスを見続ければ目も慣れてくるし、一度離れて戻れば、それまで気付かなかった違和感が見える事もある。

 それは制作する上でのあるあるだ。天月さんもそうした気分転換や目の慣れをリセットしたかったのかもしれない。

 そう思いながら天月さんを見ると、彼女はしばらくなにもせず風景画を眺めていた。

 キャンバスのあちこちに視線を巡らせる。まるで初めて見るものを確かめるように、画面の中をゆっくり辿っていった。

 やがて天月さんは筆を取ると、山の裾に色を置く。

「・・・・・・・・・・・・」

 また、目が留まる。

 発現した。青とも緑とも寄り切らない、あの鈍い色が。

 前にこの風景画で別の場所で塗られた色とも、リンゴと布の絵の中にあった色とも違う――それでも、どこか似ている。

 また――僕は無意識にその色を愛で追っていた。

 モチーフや場所が違っても、天月さんの絵を見れば、気付けば何度も似た色に出会う。

 そのたびに僕は「偶然」だと思う。

 けれど、最初に感じた小さな引っかかりは、もう完全には消えてはくれなかった。

 それから数日後、僕は使っていた絵の具を取り替えようと、備品が並ぶ美術室の壁際の棚へと向かった。

 棚の横には部員たちが描き終えたキャンバスを保管している作品棚があり、一番手前に見覚えのある絵があった。

 天月さんの作品だ。

 僕が彼女の絵を観察する前のもので、その時はとくに意識していなかったけれど、改めて見てみると少しだけ違って見えた。

 僕はキャンバスへと視線を滑らせる。

 そして、画面の端へ視線が移ったところで、不意に視線が止まる。

「・・・・・・あれ」

 そこに、見覚えのあった色があった。

 青とも緑とも寄り切らない、鈍い色。

 今まで見てきたものと全く同じじゃない。明るさも、濁り方も。でも、どこか似てる・・・・・・。

 この絵は、今描いている風景画とは関係がない。リンゴと白い布の絵とも違う。

 描かれた時期も、モチーフも構成している色も違う。

 でも、ここにもある。

 僕は気になって、ラックに掛けられた別の絵も探してみると、天月さんの別の絵も見つける。

 僕はそれを引き出し、画面の中にあの色を探す。すると、

「・・・・・・あった」

 目立つ場所じゃないけれど、青とも緑とも寄り切らない色味が静かに置かれていた。

 全く異なるこの絵の中にもこの色が含まれている。

 天月さんはその時々のキャンバスを見て、その絵に必要だと思った色を選んでいる事は、ここしばらくの観察で知っている。

 空を変えれば山を変えるし、山を変えれば木々を変えるし、木々を変えればまた空も変わる。

 絵が変わるたびに次に選ぶ答えも変わる。

 なら当然、違う絵を描けば選ばれる色も違う筈だ。

 ――なのに。どうして、違う絵の中に何度も似た色が現れるんだ?

 僕はラックに立てかけられた二枚のキャンバスをもう一度見返した。

 一方では画面の端に。もう一方は色と色の境目に。

 胸の奥にあった小さな引っかかりは、もう押し返す事は出来なかった。明確な疑問として、朽ちた大木のように僕の心に横臥していた。

 たまたま似た色が出来た――それだけではないのかもしれない。

 違う絵を描き、違う選択を重ねているのに、その先でなぜか似た色へ辿り着く。

 ・・・・・・この色は、一体なんなんだろう。

 僕はしばらく、二枚の絵を見比べる。けれど、眺めているだけでは答えなんて出そうにない。

 違う絵の中に何度も似た色が現れるなら、この色そのものが天月さんの絵を天月さんらしく見せている要素の一つなのかもしれない。

 だとしたら、同じような色を自分の絵に置いてみれば、どんな印象になるのか。それくらなら確かめられる筈だ。

 僕は踵を返し、自分のイーゼルへと戻ると、パレットの空いた場所に青と緑を出す。

 天月さんがどうやってこの色へ辿り着いたかは分からないけれど、見えている色を似せるだけなら思ったほど難しくなかった。

「・・・・・・近い」

 完全に同じではないけれど、青の寄り方も緑の残り方も近いように見えた。

 なら、この色そのものになにか特別な秘密がある訳ではないのかもしれない。

 そう考えながら僕は自分のイーゼルまで戻ると、キャンバスに改めて視線を向けた。

 パレットの上で似せただけではまだなにも分からない。実際の絵の中に置いてみて、それでも同じように見えるのか確かめなければ意味がないだろう。

 僕は画面の中から影になっている場所を一つ選び、さっき作った色を筆先で取ると、周囲の色を崩さないよう慎重にキャンバスに置いた。

 すると、

「・・・・・・違う」

 色だけを見れば、確かに近い筈だった。なのに、キャンバスに置かれた色はそこだけ後から別の絵の具を貼り付けたみたいに、僅かに浮いて見えた。

 なにが違うんだ・・・・・・。

 僕はパレットの色とキャンバス、それから作品棚にある天月さんの絵を見比べる。

 色そのものが極端に違う訳じゃない。

 ・・・・・・黒を混ぜたせいか?

 鮮やかさを落とすのには手っ取り早いけれど、黒を加えれば当然、色は暗く重くなる。

 天月さんの絵にある色も鈍く沈んでいるけれど、ちゃんと絵の中に馴染んでいた。

 僕はパレットの別の場所へ、新しく青と緑を出し、今度は黒を使わず別の色を混ぜて彩度を落としていった。

 少しずつ混ぜていくと、先程のように色全体が暗く沈むのではなく、青と緑の気配を残したまま鮮やかさだけが削られていき、僕が求めていた鈍い中間色へともう一段近付いていく。

 うん、こっちの方が近い。

 今度こそと思いながら筆先に色を取り、さっきとは少し離れた場所へ置いてから、一歩下がって全体を見ると、確かに最初に作った色よりは周囲への馴染みがよくなっていた。

 けれど、それでも天月さんの絵にある色とは違う。

 黒を使った時ほど重たくはないし、色味だけを取り出せばむしろこっちの方が似ている筈なのに、画面の中では依然として僕が「この色を置いた」という痕跡だけが妙にハッキリと残っていた。

 僕はその後、何度も配合を変えてはキャンバスへ置いていった。

 気付けばパレットの端には、青寄りのものから緑寄りのもの、明るいもの、暗いもの、濁り方の強いものまで、似ているようで少しずつ違う青緑が幾つも並び、一つの色を調べる為だけの実験場みたいになっていた。

「見上、さっきからなにしてんの?」

 不意に横から声を掛けられて顔を上げると、少し離れた場所で絵を描いていた男子部員が、いつの間にか僕のパレットを覗き込みながら怪訝そうに眉を寄せていた。

「色を作ってて」

「いや、それは見れば分かるけど、さっきから同じような色ばっか作ってね?」

「同じじゃない」

「俺には全部、一緒に見えるけど」

 そう言いながらパレットを覗き込んでくると、その声を聞きつけた近くの部員が数人、関心を向けてこちらに寄ってくる。

「なになに、どうしたのー?」

「こいつ、さっきから同じ色ばっか作ってんの」

「あ、本当だ。青緑ばっか」

「ちょっとずつ違くない?」

「えー、私にはどれも一緒に見えるけど」

 気付けば僕のパレットを囲むように何人かが集まり、勝手に品評会みたいなものが始まっていた。

 皆、一様に同じような色だと言うけれど、僕はかぶりを振る。

「・・・・・・全部違うんだけど」

「見上くんには違って見えるんだ」

「うん・・・・・・」

 部員たちからは共感を得られなかったけれど、僕の試み自体はこだわりのようなものとして受け取ってもらえたらしく、感心した声も重なる。

 さっきまで静かだった部室が、僕の周りだけ一時的に賑やかになる。

 その時、ふと視線を感じた。

 少し離れたところでキャンバスに向かっていた天月さんが、筆を持ったままこちらを見ている――いや、正確には僕というより、僕を囲んでいる部員たちと、その中心にあるパレットを見ているようだった。

 けれど、それもほんの一瞬の事で、僕が気付いた時にはもう、天月さんは視線をキャンバスへ戻し、何事もなかったかのように筆を動かし始めていた。

 彼女が周りに関心を示すのは珍しい、と思ったけれど、でもこれだけ騒がしくなれば気にもなるか。

 僕はそう結論付けると、部員たちを適当に追い払い、もう一度パレットへ視線を戻した。

 思いつく範囲では少しずつ色味を変えているし、その中には天月さんの絵と見比べてもかなり近いと思えるものもある。

 なのにキャンバスへ置いた途端、どうしても違ってしまう。

 僕は一度、色を配合するのを止めて、今度はパレットに並んだ色ではなく、作品棚から少しだけ覗いている天月さんの絵そのものへと目を向けた。

 これまでは青とも緑つもつかないあの色をばかりを見ていたけれど、改めてその周辺まで視線を広げてみると、すぐ隣には別の色があり、その境目にも僕が置いた色のようにハッキリとは切れておらず、さらに目を凝らせば青緑に見えている部分の下からも別の色が薄く覗いている。

 下の色が透けて見えるけれど、その下にはさらに別の色がある。

 僕はその重ね塗りの工程を何度も見てきた。

「あれ・・・・・・」

 それなのに僕は、そこで最後に見えた色だけを一つの完成品みたいに切り取って、パレットの上で同じものを作ろうとしていた。

 天月さんの絵に何度も現れるあの色が彼女の絵を彼女らしく見せている一つの要素なんじゃないかと思って、そこだけを取り出して自分の絵へ置こうとしていた。

 けれど、この色は最初からここにあった訳じゃない。

 別の色があって、その上からまた別の色が重なり、さらに絵が変わるたびに新しい色が加えられた結果として、あの色が現れてる。

 そこで初めて、自分がずっと別のところを見ていたような感覚に襲われた。

 ・・・・・・そもそも、僕が再現しようとしているのは、本当にこの色だけでよかったんだろうか。

 僕はもう一度、天月さんの絵を見てみる。

 青緑に見える場所だけを見れば、僕がパレットで作った色とそこまで大きく違っているようには見えない。

 けれど、その周囲まで含めて見れば、隣には別の色があり、その境目では互いの色が僅かに混ざり合い、さらに下から覗いている色まで加わる事で、一つの場所なのに見る位置によって少しずつ表情が違っている。

 僕がキャンバスで見ていた青緑は、最初から最後まで青緑だった。

 けれど、天月さんの絵にある色は違う。

 最初からそこに青緑があった訳ではなく、別の色があり、その上からまた違う色が重なり、絶えず変化した末に、僕にはあの色として見えている。

 勿論、隣り合う色の影響や絵の具の厚み、筆の運び方も関係しているかもしれない。

 ただ、少なくとも一つだけ試していない事がある。

 僕は自分のキャンバスへ向き直ると、今まで作った青緑には手を伸ばさず、パレットの空いている場所へ別の色を取った。

 今度は最初からあの色を作らない。

 天月さんがそうしていたように、まず別の色を置いて、その上からまた違う色を重ねてみる。

 全く同じ工程なんて覚えていないし、そもそも作品ごとに重ね方だって違っていた筈だけれど、一つの色として置く場合と、複数の色が重なり合った結果として同じような色味が現れる場合で、なにが変わるのかくらいなら確かめられる。

 僕は画面の端に青みを含んだ色を薄く置き、下地が完全に隠れない程度に伸ばしてから、その上へ少し緑に寄せた色を重ねていく。

 筆を動かすたびに、下に残った青と、新しく置いた緑がところどころで重なり、一色に混ぜ切った時とは違う、僅かなムラを含んだ色味が画面の中に現れた。

「・・・・・・あ」

 僕は筆を止め、一歩だけ後ろへ下がる。

 パレットの上で作った色よりも、さっきまで天月さんの絵を見て感じていたものに少し近い。

 青緑という一つの色が置かれているというより、青く見える場所と緑に見える場所があり、それらかは完全には混ざり切らず、見る場所によって僅かに色味を変えながら、全体として青とも緑とも寄り切らない色に見せている。

 僕はさらに別の色をごく薄く重ねてみた。

 すると、また見え方が変わった。

 さっきまで青みの強かった場所が、少しだけ沈み、緑が目立っていたところには別の色が混じり、一つの色として説明しようとすると言葉にしづらい曖昧さがあった。

 それを見て、僕は少しだけ天月さんに近づけた気がした。

 パレットで青緑を作ってキャンバスに塗った時のような、一色をそのまま貼り付けたような浮き方は薄れ、色の中に僅かな奥行きが出ている。

 やっぱり、パレットの上で完成した色を作るだけでは足りなかったのかもしれない。

 僕は改めて天月さんの絵を見てみる。

 すると、

「・・・・・・・・・・・・」

 またしても、僕の胸にわだかまる感情が渦巻く。

 天月さんの絵を見てから、僕の絵を見てみると、確かに色は近い。一色を貼り付けたような感じはなく、複雑な色の見え方になった筈だ。

 なのに、それでも天月さんの絵にある色ほど自然には見えない。

 比較してみて、その違いをハッキリと感じる。

 そもそも僕の絵は、ここにあの青緑を作ろうとして色を重ねた、という意図がハッキリ残っているように見えた。

 当然だ、僕は最初からこの色へ辿り着く事を目指して色を重ねていたのだから。

 だから、僕の作った青緑にはどこからどこまでがその色なのかが分かりやすいように見える。

 青を置き、その上から緑を重ねて作った場所だけが一つのまとまりとして残り、周囲の色とは僅かに境目が出来ている。

 けれど、天月さんはそうじゃない。。

 青に見えるところから少しずつ緑へ寄り、その途中には下の色が薄く覗き、隣にある別の色まで境目へ入り込んでいるせいで、どこからあの青緑が始まって、どこで別の色へ変わっているのかを探そうとしてもハッキリとは分からない。

 同じような青緑に見えるのに、僕の方は一つの色としてそこにあり、天月さんの方は周りの色の中から浮かび上がっているように見えた。

 僕は、あまりにあの色を作ろうとし過ぎていた。

 でもそうじゃない。

 天月さんの青緑は作ろうとして作るものではない筈だ。

 なら、僕が見るべきは天月さんがどんな色を選んだのかでも、どう重ねたのかでもなく、その時の絵のなにが、彼女にその色を選ばせたのか、じゃないだろうか。