二度目の春が来て、僕は二年に進級した。
けれど、僕の日常はさして変わらない、絵を描き続ける日々だ。
ある日、僕はいつものように美術室で一枚の絵を描いていた。
それは窓の外に見える山の風景だ。地平線の位置を決め、山の重なりを意識して遠近を取り、空と山の色が馴染むような色を選び、光の当たる場所と影になる場所を考えながら筆を動かしていく。
以前なら、これらを意識して描くのに相当な労力と時間を費やした割に形の狂った絵しか描けなかったけれど、今は随分と上達したし、違和感があれば修正して、小さな綻びを潰し、破綻のない絵が描けるようになってきた。
一年近く描いてきて、僕の中に絵を描く手順や見るべきポイントなどが身に染みているのを感じる。
僕は筆を置き、少し離れた位置でキャンバスを眺める。
上手く描けたと思う。構図に大きな破綻はないし、遠近感もある。色も調和が取れているし、光の当たり方だって自然な筈だ。
少なくとも、一年前の僕には描けなかった絵だ。
けれど、絵を眺めながらほんの僅かに引っ掛かるものがあった。
僕はそんな事を考えながら、ふと隣のキャンバスが目に入った。そこに描かれていたのは、僕と同じ風景だった。
それは、天月さんの作品だった。
彼女の絵を見て、僕は立ち尽くす。
同じモチーフの筈なのに、僕のとは全然違う、風に見える。
・・・・・・上手い。けれど、それだけじゃない。
僕はジッと彼女の絵に目を凝らす。
彼女の絵には僕にはないものが描かれていた。同じ山なのに、僕が見た山とは違うものに見える。
上手いだけじゃなくて、そこには彼女が描いた意味を感じた。彼女にしか描けない世界があり、温度があり、そこに込められた感情が僕の胸を温める。
彼女の絵を真正面から向き合った時、まるで間違い探しのように僕と彼女の違いを指摘されたような気持ちにさせられた。
端的に、僕の絵は正しかった。
けれど、正しいだけだった。
学んだ知識を組み合わせ、決められた法則に従って綺麗に整えただけの絵。
――模範解答。
という言葉が、僕の頭の中によぎった。その絵には、僕が描く必要性が全くと言っていいほど反映されていない。
僕が描いたのは作品ではなく、誰でも辿り着ける答えだった。
――違う、そうじゃない。
僕は心の中で呟く。
僕が描きたかったのは上手い絵じゃない、僕にしか描けない絵だ。
特別になりたくて絵を描いた筈なのに、辿り着いた場所は誰にでも代わりが利く正解の中だったなんて、皮肉にも程がある。
なら、どうすればいい?
どうすれば僕だけの絵が描ける?
僕は視線を上げる。そこには天月彩葉さんの絵があった。
僕と君とでは、一体なにが違うんだ?
同じものを見ているのに、見えているものが違う。同じ知識を持っているのに、描かれるものが違う。
その時、僕はふと思った。
――きっと天才とは、こういう人間の事を言うのだろう。
§
それから僕は、天月さんの絵を意識して見るようになった。
窓の外に広がる山々、何気なく置かれた花瓶、美術室に並ぶ石膏像。
同じものを見ている筈なのに、彼女が描くと、僕の知っている景色とは少し違って見えた。
使っている技法なら僕にも分かる。僕が学んできた知識から大きく外れている訳ではない。
それなのに僕の絵にはないものが、彼女の絵にはあった。
僕にはそれが何なのか、分からなかった。けれど、だからそれで諦めたくはなかった。
天才だから。
才能があるから。
これらの言葉で片付けるのは簡単だ。自分の努力ではどうする事も出来ない、生まれ持った才能や性質であれば容易に諦めがつく――けれど、僕にはそれが出来なかった。
僕がするべき事は、彼女と僕との間にある差を受け入れる事ではなく、その差がどこから生まれるのか、考える事だった。
彼女には描けて、なぜ僕には描けないのか。もしそこに明確な理由があるのなら、僕はそれを知りたい。
天才という言葉の中に隠されたものを、僕は確かめたかった。
だから僕は彼女の絵を注意深く観察するのだ。
僕と彼女の分けているものが一体何なのかを知るまで。
§
それから僕は、放課後になると天月さんの絵を注意深く観察するようになった。
最初の頃はあまり近付き過ぎて不自然に思われないように彼女から少し離れた場所にイーゼルを置いていたけれど、何日か経つうちに彼女の手元をもっと近くで見たいという欲求に抗えず、次第にイーゼルを近づけていき、気付けば僕はいつも彼女の斜め後ろにいるようになった。
ここなら彼女のキャンバスも、パレットも、筆を持つ手もよく見える。
「見上くんって、よく天月さんの事見てるよね」
突然、耳元から声が聞こえてきて、思わず肩が跳ねる。
振り返ると、俯見先生が僕と天月さんを交互に眺めながら妙に楽しそうな顔をしていた。
「・・・・・・なんですか急に」
「あはは、だっていつも近くで見てるから」
「近くの方が手元までよく見えるので」
「そっかそっか」
俯見先生はそう言って頷くけれど、その口元にはどう見ても面白がっている笑みが浮かんでいた。
そこで会話は終わったかと思いきや、俯見先生は一度だけ天月さんの様子を窺うと、なぜか僕の耳元へ顔を寄せてきた。
「・・・・・・で、天月さんの事、好きなの?」
「・・・・・・は?」
藪から棒になにを言い出すんだこの人は。
思わず面喰らって俯見先生の顔を見返すと、先生は声を潜めているくせに表情だけは隠す気がないらしく、ニコニコと楽しそうに笑っている。
「いや、なんでそうなるんですか?」
「だって天月さんの事、よく見てるから」
「だから、そういう意味で見てるんじゃないです」
「じゃあ、どういう意味?」
「・・・・・・絵を描いてるところを見てるんですよ。どうやって筆を入れるのかとか、どの色を選ぶのかとか。そういうのを」
「天月さんが描いてるところを?」
「・・・・・・そうですけど」
「じゃあ、やっぱり天月さんの事、見てるじゃん」
「そういう意味じゃないって言ってるでしょ」
俯見先生はそこで少しだけ目を細めると、僕の反論なんて最初から聞く気がなかったみたいに、ますます楽しそうに笑った。
「そっかぁ。青春だねぇ」
「話聞いてました?」
俯見先生は満足そうな笑みを浮かべたまま僕の側を離れていったので、僕は小さな溜め息を吐いてから改めて天月さんへと視線を移した。
別に、俯見先生が考えているような意味で見ている訳じゃない。
僕が知りたいのは、彼女がどうやって描いているのか、その一点だけだ。
思わぬ邪魔が入ったけれど気を取り直して僕は天月さんに視線を向けた。
彼女がキャンバスに向かう時、他の部員にはない空気が漂う。
美術室には筆を洗う音や椅子を引く音、誰かの話し声も聞こえているのに、彼女の周りだけが静寂のようにシンとしていて、それは彼女だけが纏える空気感だった。
僕はイーゼルを形だけセットして、キャンバスの影から彼女の一挙手一投足を観察する。
僕が観察していたのは、天月さんそのものではなく、彼女が絵を描く時の一つひとつの手順だった。
筆を入れる順番、色を選ぶ基準、構図を決める瞬間の判断など、彼女が当たり前のように行っている選択の一つひとつ、天才という言葉で片付けられているものには必ず理由がある筈で、僕はその理由が知りたかった。
彼女がなにを見て、なにを考え、どうしてその一手を選んだのか、僕はそれらを一つずつ確かめたかった。
だから、彼女が絵を描いている間、僕はその手元をジッと見つめるようになった。
ジッと目を凝らして見てみると、彼女の技法は特段変わったものではなく当たり前のものだった。
彼女にしかない特別な技術を用いて描いている訳じゃなく、僕が知っている絵の基礎から説明できる事で、僕はそれを見て少し安心した。
天月さんの絵は素晴らしい、けれどそれは自分には到底理解できない魔法で描かれている訳じゃなく、僕が知っている理屈の上で成り立っている。
なら、こうして一つひとつを丁寧に分解して見れば、きっと理解出来るんじゃないか――最初はそんな風に思っていた。
天月さんは筆を止め、キャンバスを見つめた後、パレットに視線を落とし、いくつかの色を見比べる。
筆先が僅かに動いて、でもすぐには絵の具には触れないのを見て、彼女は頭の中で思考を巡らせているのだと知れる。
なにも考えず、ただ直感に任せて描いてる訳じゃない。目の前の絵を見て、次になにをするべきかを考えている。迷いがない訳じゃないのだ。
けれどやがて、彼女はパレットから色を選び、筆を落とす。
迷った末の選択、その一手にはもうさっきまでの迷いは消え、堂々とした手付きでキャンバスに筆を走らせていた。
その一連の動きは、さながら棋士が次の一手を考え、納得のいく答えを指しているように見えた。
どの色を選ぶのか、どこに筆を置くのか、どんな強さで線を引くのか。
彼女は一つひとつの選択を重ねながら、絵を完成へと近づけていく。
彼女の選択の一つひとつに彼女たらしめているなにかがある。
ならば僕は、それを一つずつ拾っていこう。そうすれば、彼女の才能に肉薄できるかもしれない。
そうして僕は観察を続けていく。
最初の頃は彼女の行動を一つひとつ追っていくだけでも精一杯だったけれど、分かる事も増えていった。
僕の知識から外れる奇想天外な事はなく、ちゃんと理解できる事で構成されているのを見て、天月さんの描き方には、僕がまだ知らないだけでちゃんと一つの道筋、理屈が通っているのだろうと思った。
ところが、ある日の事だった。
僕が以前から見ていた一枚の絵に、天月さんが筆を入れた。
昨日まで画面の左側に淡い青があった場所に、彼女は別の色を重ねた。
油絵なのだから重ね塗りをする事自体は珍しくないけれど、僕が驚いたのはその次だった。
天月さんが筆先に取った色は、今までそこに重ねていた色とはまるで違っていた。
「・・・・・・え?」
思わず、声が漏れた。
キャンバスに置かれたその淡い青は以前から何度か色を重ね、下の色を透かして深みを出す事に成功しており、それでもう十分、完成しているように見えた。
なのに天月さんはそこに全く違う色を躊躇う様子もなく、筆を動かしていく。
淡い青に、別の色が広がっていく。
塗り替えられていくキャンバスを前に、僕はただそれを見つめる事しか出来なかった。
でも僕が完成したと思っていただけで、彼女の中ではなにか違和感や気になる点があって修正したのかもしれない。
そう考えて、その日は納得した。
それからも僕は、天月さんの絵を観察し続ける。
数日後、次は右側に描かれた木々の色が塗り替えられていた。その翌日には山の稜線に置かれていた色が薄く削られ、別の色が重ねられていた。
描き進めながら全体を見て、必要なら修正する。
僕はそれを『修正』だと思っていた。
けれど、少しずつおかしな事に気付き始めた。
山を塗り替えたと思ったら今度は空の色が変わる。空が変わると、今度は山の影が変わる。山の影が変われば、木々の色が変わる。
そしてある日、天月さんはまたあの場所に筆を置いた。
画面左側。
最初に僕が見た、あの淡い青が置かれていた場所にあの時と同じ淡い青を塗っていく。
「・・・・・・え?」
僕は一瞬、目を疑った。
それは、前に彼女が塗り替えた色じゃなかったのか?
なぜ、もう一度同じ色を塗り重ねたんだ?
僕はキャンバスと、彼女の手元を交互に見つめた。
一度消えた筈の色が、今度は別の色を重ねた上から戻ってきている。
けれど、天月さんの筆に迷いはない。
だから余計に分からなかった。
最初に淡い青を見た時、僕はそれを完成した色だと思っていたけれど、天月さんはその上から別の色を重ね、僕の考えを否定した。
なのに、塗り替えた場所に、また最初と同じ淡い青に戻している。
だったら最初の色は間違いじゃなかったのか?
なら、なんで一度塗り替えたんだ?
塗り替えた色が思っていたイメージと違ったから?
途中で気が変わったから?
そんな行き当たりばったりで塗っているのか?
・・・・・・いや、そんな筈はない。
彼女の手には迷いがないように、僕は見えた。
なら、彼女なりの基準があって、そうしたと言うのだろうか?
じゃあ、その基準って?
僕は改めて彼女のキャンバスを見つめる。
彼女の絵を観察する事を日課にしてきて、筆の種類を選ぶ理由や、色を置く理由なんかも少しずつ分かるようになってきたと思っていたけれど、それを本当に「理解出来た」と言っていいのだろか。
今日まで正しいと思っていた僕の理解が、明日には彼女の一手によって覆されるかもしれない。まるで七面鳥の寓話だ。
彼女の絵を見れば見るほどに、僕の中に積み上げてきた答えが、少しずつ揺らいでいく。
僕は混乱した。
そして堪らず彼女に訊ねた。
「・・・・・・天月さん」
すると彼女の筆がピタリと止まる。
「・・・・・・なに?」
ゆっくりと振り返った彼女と目が合って、僕は一瞬だけ呼吸を忘れた。
彼女の瞳は静かで、まだ半分以上キャンバスの中の世界に心を残しているような目の色をしていた。
聞きたい事は決まっていた筈なのに、なにから言葉にすればいいのか分からなくなる。
「・・・・・・その色って」
僕は絞り出すように言って、彼女のキャンバスの左側を指で差した。
「前にも、そこに色を塗ってたよね?」
「うん」
「でも、その後に別の色で塗りつぶしたよね?」
「うん」
「なのに、どうしてまた前と同じ色を塗ったの?」
天月さんは僕の問い掛けに無表情で淡々と相槌を打つと、僕が指差した場所へと視線を戻した。
少しだけ間が空いた後、彼女はポツリと溢した。
「こっちの色の方が、今はいいと思ったから」
「今は?」
「うん」
その答えでは、僕にはなに一つ分からなかった。
「でも、前は違う方がいいと思って塗り直したんだよね?」
「そうだね」
「じゃあ、どうして今はこっちなの?」
論理の通らない数式を見せられているような苛立ち。
僕の切実な問いに、天月さんは無表情で僕を見つめるので、僕は少しだけ居心地が悪くなった。
普段それほど話す訳ではないのに突然、僕がこんな事を聞いて訝しんでいるかもしれない、と今になって気付いた。
僕はこれまで彼女の絵を見続けてきたけれど、それを彼女に知られてしまうのは少し気まずい気がした。
「ご、ごめん・・・・・・たまたま気付いたから、気になって・・・・・・変な事聞いた?」
少し言い訳がましくなったかもしれないけれど、天月さんは小さく首を横に振り、そして答えてくれた。
「絵が変わったから」
「・・・・・・絵が?」
「うん」
「え、と・・・・・・変わったっていうのは」
「前とは違うから」
「・・・・・・・・・・・・」
それ以上、僕はなにも聞けなかった。
天月さんはもう、僕から興味を失ったようにキャンバスへ向き直り、再び筆を動かし始めていた。
僕も自分のイーゼルへと戻るけれど、筆を握る気になれなかった。
頭の中では、彼女の短い返事が何度も響く。
彼女の返答は、決して僕の求める『論理的な答え』ではなかった。
天月さんにとっては、それで十分な理由なのだろう。けれど、僕が理解するには言葉足らずだった。
改めて自分のキャンバスを見てみる。
天月さんの話を聞いてから、妙に自分の絵が平坦に感じられた。
僕なら、きっと一度決めた色をそう簡単には変えない。正しいと思った色なら、その色を使う理由や、なぜそこに置いたのか説明出来る。
僕の絵にはそうした答えがある。
なのに天月さんにはそうした明確な答えがないように思えた。その都度、答えが変わる。
一体、彼女にはなにが見えている?
分からない・・・・・・でも、ただ一つだけ確かな事は、僕の常識が彼女には通用しないという事だ。
その事実だけが、僕の頭から離れなかった。
けれど、僕の日常はさして変わらない、絵を描き続ける日々だ。
ある日、僕はいつものように美術室で一枚の絵を描いていた。
それは窓の外に見える山の風景だ。地平線の位置を決め、山の重なりを意識して遠近を取り、空と山の色が馴染むような色を選び、光の当たる場所と影になる場所を考えながら筆を動かしていく。
以前なら、これらを意識して描くのに相当な労力と時間を費やした割に形の狂った絵しか描けなかったけれど、今は随分と上達したし、違和感があれば修正して、小さな綻びを潰し、破綻のない絵が描けるようになってきた。
一年近く描いてきて、僕の中に絵を描く手順や見るべきポイントなどが身に染みているのを感じる。
僕は筆を置き、少し離れた位置でキャンバスを眺める。
上手く描けたと思う。構図に大きな破綻はないし、遠近感もある。色も調和が取れているし、光の当たり方だって自然な筈だ。
少なくとも、一年前の僕には描けなかった絵だ。
けれど、絵を眺めながらほんの僅かに引っ掛かるものがあった。
僕はそんな事を考えながら、ふと隣のキャンバスが目に入った。そこに描かれていたのは、僕と同じ風景だった。
それは、天月さんの作品だった。
彼女の絵を見て、僕は立ち尽くす。
同じモチーフの筈なのに、僕のとは全然違う、風に見える。
・・・・・・上手い。けれど、それだけじゃない。
僕はジッと彼女の絵に目を凝らす。
彼女の絵には僕にはないものが描かれていた。同じ山なのに、僕が見た山とは違うものに見える。
上手いだけじゃなくて、そこには彼女が描いた意味を感じた。彼女にしか描けない世界があり、温度があり、そこに込められた感情が僕の胸を温める。
彼女の絵を真正面から向き合った時、まるで間違い探しのように僕と彼女の違いを指摘されたような気持ちにさせられた。
端的に、僕の絵は正しかった。
けれど、正しいだけだった。
学んだ知識を組み合わせ、決められた法則に従って綺麗に整えただけの絵。
――模範解答。
という言葉が、僕の頭の中によぎった。その絵には、僕が描く必要性が全くと言っていいほど反映されていない。
僕が描いたのは作品ではなく、誰でも辿り着ける答えだった。
――違う、そうじゃない。
僕は心の中で呟く。
僕が描きたかったのは上手い絵じゃない、僕にしか描けない絵だ。
特別になりたくて絵を描いた筈なのに、辿り着いた場所は誰にでも代わりが利く正解の中だったなんて、皮肉にも程がある。
なら、どうすればいい?
どうすれば僕だけの絵が描ける?
僕は視線を上げる。そこには天月彩葉さんの絵があった。
僕と君とでは、一体なにが違うんだ?
同じものを見ているのに、見えているものが違う。同じ知識を持っているのに、描かれるものが違う。
その時、僕はふと思った。
――きっと天才とは、こういう人間の事を言うのだろう。
§
それから僕は、天月さんの絵を意識して見るようになった。
窓の外に広がる山々、何気なく置かれた花瓶、美術室に並ぶ石膏像。
同じものを見ている筈なのに、彼女が描くと、僕の知っている景色とは少し違って見えた。
使っている技法なら僕にも分かる。僕が学んできた知識から大きく外れている訳ではない。
それなのに僕の絵にはないものが、彼女の絵にはあった。
僕にはそれが何なのか、分からなかった。けれど、だからそれで諦めたくはなかった。
天才だから。
才能があるから。
これらの言葉で片付けるのは簡単だ。自分の努力ではどうする事も出来ない、生まれ持った才能や性質であれば容易に諦めがつく――けれど、僕にはそれが出来なかった。
僕がするべき事は、彼女と僕との間にある差を受け入れる事ではなく、その差がどこから生まれるのか、考える事だった。
彼女には描けて、なぜ僕には描けないのか。もしそこに明確な理由があるのなら、僕はそれを知りたい。
天才という言葉の中に隠されたものを、僕は確かめたかった。
だから僕は彼女の絵を注意深く観察するのだ。
僕と彼女の分けているものが一体何なのかを知るまで。
§
それから僕は、放課後になると天月さんの絵を注意深く観察するようになった。
最初の頃はあまり近付き過ぎて不自然に思われないように彼女から少し離れた場所にイーゼルを置いていたけれど、何日か経つうちに彼女の手元をもっと近くで見たいという欲求に抗えず、次第にイーゼルを近づけていき、気付けば僕はいつも彼女の斜め後ろにいるようになった。
ここなら彼女のキャンバスも、パレットも、筆を持つ手もよく見える。
「見上くんって、よく天月さんの事見てるよね」
突然、耳元から声が聞こえてきて、思わず肩が跳ねる。
振り返ると、俯見先生が僕と天月さんを交互に眺めながら妙に楽しそうな顔をしていた。
「・・・・・・なんですか急に」
「あはは、だっていつも近くで見てるから」
「近くの方が手元までよく見えるので」
「そっかそっか」
俯見先生はそう言って頷くけれど、その口元にはどう見ても面白がっている笑みが浮かんでいた。
そこで会話は終わったかと思いきや、俯見先生は一度だけ天月さんの様子を窺うと、なぜか僕の耳元へ顔を寄せてきた。
「・・・・・・で、天月さんの事、好きなの?」
「・・・・・・は?」
藪から棒になにを言い出すんだこの人は。
思わず面喰らって俯見先生の顔を見返すと、先生は声を潜めているくせに表情だけは隠す気がないらしく、ニコニコと楽しそうに笑っている。
「いや、なんでそうなるんですか?」
「だって天月さんの事、よく見てるから」
「だから、そういう意味で見てるんじゃないです」
「じゃあ、どういう意味?」
「・・・・・・絵を描いてるところを見てるんですよ。どうやって筆を入れるのかとか、どの色を選ぶのかとか。そういうのを」
「天月さんが描いてるところを?」
「・・・・・・そうですけど」
「じゃあ、やっぱり天月さんの事、見てるじゃん」
「そういう意味じゃないって言ってるでしょ」
俯見先生はそこで少しだけ目を細めると、僕の反論なんて最初から聞く気がなかったみたいに、ますます楽しそうに笑った。
「そっかぁ。青春だねぇ」
「話聞いてました?」
俯見先生は満足そうな笑みを浮かべたまま僕の側を離れていったので、僕は小さな溜め息を吐いてから改めて天月さんへと視線を移した。
別に、俯見先生が考えているような意味で見ている訳じゃない。
僕が知りたいのは、彼女がどうやって描いているのか、その一点だけだ。
思わぬ邪魔が入ったけれど気を取り直して僕は天月さんに視線を向けた。
彼女がキャンバスに向かう時、他の部員にはない空気が漂う。
美術室には筆を洗う音や椅子を引く音、誰かの話し声も聞こえているのに、彼女の周りだけが静寂のようにシンとしていて、それは彼女だけが纏える空気感だった。
僕はイーゼルを形だけセットして、キャンバスの影から彼女の一挙手一投足を観察する。
僕が観察していたのは、天月さんそのものではなく、彼女が絵を描く時の一つひとつの手順だった。
筆を入れる順番、色を選ぶ基準、構図を決める瞬間の判断など、彼女が当たり前のように行っている選択の一つひとつ、天才という言葉で片付けられているものには必ず理由がある筈で、僕はその理由が知りたかった。
彼女がなにを見て、なにを考え、どうしてその一手を選んだのか、僕はそれらを一つずつ確かめたかった。
だから、彼女が絵を描いている間、僕はその手元をジッと見つめるようになった。
ジッと目を凝らして見てみると、彼女の技法は特段変わったものではなく当たり前のものだった。
彼女にしかない特別な技術を用いて描いている訳じゃなく、僕が知っている絵の基礎から説明できる事で、僕はそれを見て少し安心した。
天月さんの絵は素晴らしい、けれどそれは自分には到底理解できない魔法で描かれている訳じゃなく、僕が知っている理屈の上で成り立っている。
なら、こうして一つひとつを丁寧に分解して見れば、きっと理解出来るんじゃないか――最初はそんな風に思っていた。
天月さんは筆を止め、キャンバスを見つめた後、パレットに視線を落とし、いくつかの色を見比べる。
筆先が僅かに動いて、でもすぐには絵の具には触れないのを見て、彼女は頭の中で思考を巡らせているのだと知れる。
なにも考えず、ただ直感に任せて描いてる訳じゃない。目の前の絵を見て、次になにをするべきかを考えている。迷いがない訳じゃないのだ。
けれどやがて、彼女はパレットから色を選び、筆を落とす。
迷った末の選択、その一手にはもうさっきまでの迷いは消え、堂々とした手付きでキャンバスに筆を走らせていた。
その一連の動きは、さながら棋士が次の一手を考え、納得のいく答えを指しているように見えた。
どの色を選ぶのか、どこに筆を置くのか、どんな強さで線を引くのか。
彼女は一つひとつの選択を重ねながら、絵を完成へと近づけていく。
彼女の選択の一つひとつに彼女たらしめているなにかがある。
ならば僕は、それを一つずつ拾っていこう。そうすれば、彼女の才能に肉薄できるかもしれない。
そうして僕は観察を続けていく。
最初の頃は彼女の行動を一つひとつ追っていくだけでも精一杯だったけれど、分かる事も増えていった。
僕の知識から外れる奇想天外な事はなく、ちゃんと理解できる事で構成されているのを見て、天月さんの描き方には、僕がまだ知らないだけでちゃんと一つの道筋、理屈が通っているのだろうと思った。
ところが、ある日の事だった。
僕が以前から見ていた一枚の絵に、天月さんが筆を入れた。
昨日まで画面の左側に淡い青があった場所に、彼女は別の色を重ねた。
油絵なのだから重ね塗りをする事自体は珍しくないけれど、僕が驚いたのはその次だった。
天月さんが筆先に取った色は、今までそこに重ねていた色とはまるで違っていた。
「・・・・・・え?」
思わず、声が漏れた。
キャンバスに置かれたその淡い青は以前から何度か色を重ね、下の色を透かして深みを出す事に成功しており、それでもう十分、完成しているように見えた。
なのに天月さんはそこに全く違う色を躊躇う様子もなく、筆を動かしていく。
淡い青に、別の色が広がっていく。
塗り替えられていくキャンバスを前に、僕はただそれを見つめる事しか出来なかった。
でも僕が完成したと思っていただけで、彼女の中ではなにか違和感や気になる点があって修正したのかもしれない。
そう考えて、その日は納得した。
それからも僕は、天月さんの絵を観察し続ける。
数日後、次は右側に描かれた木々の色が塗り替えられていた。その翌日には山の稜線に置かれていた色が薄く削られ、別の色が重ねられていた。
描き進めながら全体を見て、必要なら修正する。
僕はそれを『修正』だと思っていた。
けれど、少しずつおかしな事に気付き始めた。
山を塗り替えたと思ったら今度は空の色が変わる。空が変わると、今度は山の影が変わる。山の影が変われば、木々の色が変わる。
そしてある日、天月さんはまたあの場所に筆を置いた。
画面左側。
最初に僕が見た、あの淡い青が置かれていた場所にあの時と同じ淡い青を塗っていく。
「・・・・・・え?」
僕は一瞬、目を疑った。
それは、前に彼女が塗り替えた色じゃなかったのか?
なぜ、もう一度同じ色を塗り重ねたんだ?
僕はキャンバスと、彼女の手元を交互に見つめた。
一度消えた筈の色が、今度は別の色を重ねた上から戻ってきている。
けれど、天月さんの筆に迷いはない。
だから余計に分からなかった。
最初に淡い青を見た時、僕はそれを完成した色だと思っていたけれど、天月さんはその上から別の色を重ね、僕の考えを否定した。
なのに、塗り替えた場所に、また最初と同じ淡い青に戻している。
だったら最初の色は間違いじゃなかったのか?
なら、なんで一度塗り替えたんだ?
塗り替えた色が思っていたイメージと違ったから?
途中で気が変わったから?
そんな行き当たりばったりで塗っているのか?
・・・・・・いや、そんな筈はない。
彼女の手には迷いがないように、僕は見えた。
なら、彼女なりの基準があって、そうしたと言うのだろうか?
じゃあ、その基準って?
僕は改めて彼女のキャンバスを見つめる。
彼女の絵を観察する事を日課にしてきて、筆の種類を選ぶ理由や、色を置く理由なんかも少しずつ分かるようになってきたと思っていたけれど、それを本当に「理解出来た」と言っていいのだろか。
今日まで正しいと思っていた僕の理解が、明日には彼女の一手によって覆されるかもしれない。まるで七面鳥の寓話だ。
彼女の絵を見れば見るほどに、僕の中に積み上げてきた答えが、少しずつ揺らいでいく。
僕は混乱した。
そして堪らず彼女に訊ねた。
「・・・・・・天月さん」
すると彼女の筆がピタリと止まる。
「・・・・・・なに?」
ゆっくりと振り返った彼女と目が合って、僕は一瞬だけ呼吸を忘れた。
彼女の瞳は静かで、まだ半分以上キャンバスの中の世界に心を残しているような目の色をしていた。
聞きたい事は決まっていた筈なのに、なにから言葉にすればいいのか分からなくなる。
「・・・・・・その色って」
僕は絞り出すように言って、彼女のキャンバスの左側を指で差した。
「前にも、そこに色を塗ってたよね?」
「うん」
「でも、その後に別の色で塗りつぶしたよね?」
「うん」
「なのに、どうしてまた前と同じ色を塗ったの?」
天月さんは僕の問い掛けに無表情で淡々と相槌を打つと、僕が指差した場所へと視線を戻した。
少しだけ間が空いた後、彼女はポツリと溢した。
「こっちの色の方が、今はいいと思ったから」
「今は?」
「うん」
その答えでは、僕にはなに一つ分からなかった。
「でも、前は違う方がいいと思って塗り直したんだよね?」
「そうだね」
「じゃあ、どうして今はこっちなの?」
論理の通らない数式を見せられているような苛立ち。
僕の切実な問いに、天月さんは無表情で僕を見つめるので、僕は少しだけ居心地が悪くなった。
普段それほど話す訳ではないのに突然、僕がこんな事を聞いて訝しんでいるかもしれない、と今になって気付いた。
僕はこれまで彼女の絵を見続けてきたけれど、それを彼女に知られてしまうのは少し気まずい気がした。
「ご、ごめん・・・・・・たまたま気付いたから、気になって・・・・・・変な事聞いた?」
少し言い訳がましくなったかもしれないけれど、天月さんは小さく首を横に振り、そして答えてくれた。
「絵が変わったから」
「・・・・・・絵が?」
「うん」
「え、と・・・・・・変わったっていうのは」
「前とは違うから」
「・・・・・・・・・・・・」
それ以上、僕はなにも聞けなかった。
天月さんはもう、僕から興味を失ったようにキャンバスへ向き直り、再び筆を動かし始めていた。
僕も自分のイーゼルへと戻るけれど、筆を握る気になれなかった。
頭の中では、彼女の短い返事が何度も響く。
彼女の返答は、決して僕の求める『論理的な答え』ではなかった。
天月さんにとっては、それで十分な理由なのだろう。けれど、僕が理解するには言葉足らずだった。
改めて自分のキャンバスを見てみる。
天月さんの話を聞いてから、妙に自分の絵が平坦に感じられた。
僕なら、きっと一度決めた色をそう簡単には変えない。正しいと思った色なら、その色を使う理由や、なぜそこに置いたのか説明出来る。
僕の絵にはそうした答えがある。
なのに天月さんにはそうした明確な答えがないように思えた。その都度、答えが変わる。
一体、彼女にはなにが見えている?
分からない・・・・・・でも、ただ一つだけ確かな事は、僕の常識が彼女には通用しないという事だ。
その事実だけが、僕の頭から離れなかった。
