§
『本当に、絵は好きだよ』
天月さんの言葉が、ずっと頭から離れない。
部活が終わって家に帰った後も、僕はずっと天月さんの言葉の意味を考えていた。
あの時の天月さんの言葉は、決して僕の絵を否定している訳ではなかった。けれど、胸に引っ掛かるものがあった。
『でも、あっちの方が私っぽかった』
「・・・・・・・・・・・・」
自室のベッドに伏せながら、天井を見つめる。当然、そこに答えなんて書いてる訳もない。
僕はふと、ベッドから起き上がり、床に直で詰んでいたスケッチブックの中から一冊を取り出した。
ページを開くと、最初に出てきたのは授業中の天月さんだった。
頬杖をつきながら現代文の教科書を眺めている。
次のページでは机に突っ伏して眠っていて、その次には体育の後なのか、火照った身体で制服の襟元をぱたぱたと動かしている。
さらにめくると、髪に寝癖が付いていたり、お菓子を食べていたり、頬を押されて変な顔をしていたり、眉を寄せて不満げな表情をしていたり、
「・・・・・・本当に、色々描いてるな」
自分で見ても節操がないと思う。
本当、僕は監視カメラかというくらい、色々な天月さんを描き連ねている。でも公認をもらったのだから、その権利を行使しないと勿体ない。
さらにページをめくると、日常生活の天月さんだけでなく、絵を描いている天月さんも描いている。
筆を持つ横顔や、前屈みにキャンバスに筆を落とす姿や、眉を寄せ考え込む表情、髪を耳に掛ける瞬間、気が抜けて僅かに顔が呆けているものまである。
同じ天月さんなのに、一つとして同じ表情がない。
「・・・・・・・・・・・・」
そこで僕はふと、思う。
僕が描き上げた超大作の天月さんの油絵はどうだっただろう。
静かな横顔、真っ直ぐキャンバスへ向けられた視線、伸ばされた腕、筆を持つ手。
あれも、ちゃんと僕が見て描いた天月さんだった。
でも――。
もう一度スケッチブックに視線を戻す。
ここにも、全部僕が見た天月さんがいる。
「・・・・・・・・・・・・」
僕はもう一度、最初からページをめくってみた。
不機嫌な顔を描こうと決めていた訳じゃない。マヌケな顔を描こうと決めていた訳じゃない。寝癖も、欠伸する瞬間も、友達にからかわれた時の顔も、最初から探していた訳じゃなく、見た瞬間に描きたくなった。
スケッチブックには他にも真剣な横顔や珍しく口元を綻ばせている天月さん。かと思えば眠そうな天月さんなど、そこに統一感も順序もなにもない。
今、目の前にいる天月さんを見て、僕の目が留まったものをその瞬間に描いている。
対して、三十号のキャンバスに描かれた天月さんは一人だけだった。
勿論、一枚お作品として一つの場面にまとめているのだから、それ自体は当然だ。
でもそうではなくて、油絵の中では、絵を描く天月さんという一つの姿が、最初から最後まで崩れていなかった。
考え込んでも、疲れていても、欠伸をしていても、変な顔をしていても、気を引き締め直していても、僕はただ一つ、静かにキャンバスへ向かう天月さんを描いていた。
――でも、こういう私ばっかり残ってる。
天月さんの言葉が蘇る。直接、天月さんが声にしたみたいに鮮明な声だった。
・・・・・・僕は、綺麗な天月さんばかりを選んで描いていた。
美化していた訳じゃない。だって、綺麗な天月さんだって、見て描いたものだから――でも。
それだけじゃなかった。
僕が見ていた間で、天月さんはずっと綺麗な顔だけしていた訳じゃなかった。
でも僕は、一枚の絵として完成させる為に少しずつ削っていた。
欠伸する天月さん、眉を寄せる天月さん、寝癖を気にも留めず筆を動かす天月さん、頬についた絵の具を指でこする天月さん。
そんな色んな彼女を、僕はしかしキャンバスには反映しなかった。
あれだけスケッチブックでは色んな表情を描いていたのに・・・・・・。
でも、それは悪い事だろうか?
僕はキャンバスに向かう天月さんを描こうと決めた。なら、そのテーマに合わないものを外すのは当たり前だ。
なのに、
『でも、あっちの方が私っぽかった』
スケッチブックに描かれた色んな表情を見せる天月さんの絵から、目が離せなかった。
§
次の日、部室に入ると天月さんは既に自分のイーゼルの前に座っていた。
僕は荷物を置きながら、なんとなく彼女を見る。
昨日までなら、それだけで終わっていたと思う。
けれど今日は、妙に目が離れなかった。
天月さんは筆を持ったままキャンバスを睨むように見つめ、しばらくすると眉間に皺が寄り、ほんの少しだけ首を傾げた。
それから一度筆を置き、目を細めながら大きく息を吐いた。
「・・・・・・・・・・・・」
疲れているんだろうか。
あまり捗っている様子ではない。
そう思った直後、今度は欠伸を漏らした。
口元を手で隠してはいるけれど、途中から隠すのも面倒になったのか、欠伸が終わるより先に手を下げていた。
随分と無防備な様子を見せていた。
「・・・・・・なに」
「あ」
すると僕の気配に気付いたのか、天月さんが振り返り、眉間に皺を寄せたまま、僕を睨んだ。
睨まれた。
「見てたよね」
「たまたま見えただけだよ」
「それを見たって言うんだよ」
言い訳は聞いてくれなかった。厳しい。
天月さんはまたキャンバスに向き直ると、不満げな表情はすぐには解かれず、眉を寄せたまま筆を持ち直す。
けれど、数分もしないうちに、今度はなにかを思いついたのか、表情がフッと緩んだ。
僕はその姿を見ながら、昨日のスケッチブックを思い出していた。
眉を寄せる天月さん、欠伸をする天月さん、少し不機嫌な天月さん、気が抜けて顔が緩んだ天月さん。
どれも昨日、ページの中にいた。
そして、目の前にも。
「・・・・・・・・・・・・」
僕はそこで、ふと引っ掛かった。
昨日は、こういう天月さんをキャンバスに残さなかったのはテーマに合わないからだと思っていた。
僕が描きたかったのは、キャンバスに向かう天月さんだった。
なら、眠そうな顔や不機嫌そうな顔よりも、真剣な眼差しをする天月さんを選ぶのは当然だ。
でも、今僕の目の前で欠伸をした天月さんは、絵を描いている最中だった。
眉を寄せた顔も、気の緩んだ顔も、全部キャンバスに向かっている時の天月さんだった。
「・・・・・・あれ」
「なに?」
僕の声に気付いて、天月さんが振り返る。
「いや・・・・・・なんでもない」
「変なの」
そう言って、また前を向く。
僕はその姿を見る。
今は静かな表情だ。視線は真っ直ぐキャンバスに向いていて、伸ばした腕の先で筆がゆっくり動いている。
僕がキャンバスに描いた天月さんとよく似ている。
――確かに、この天月さんもいる。嘘じゃない。
でも、その数分前まで同じ人が欠伸をして、眉を寄せて、僕を睨んでいた。
それらも全部、同じ時間の中にある。
僕は昨日まで、どこかでそれを別のものとして考えていたのかもしれない。
絵を描いている時の天月さん、そう一言で括った中にも、こんなにも色んな表情があるのに、僕のキャンバスに残ったのは、その中のたった一つだけだった。
静かで、綺麗で、真剣に絵と向き合っている天月さん。
「・・・・・・・・・・・・」
キャンバスに向き合うだけでも、ただ真剣な表情だけじゃない、色々な天月さんがいる。
なのになぜ僕は真剣な天月さんばかりを選んだんだろう。
天月さんは僕など気にも留めず、キャンバスに集中している。
僕は一瞬、自分の席に戻ろうとしたけれど、どうしても視線が天月さんの方に吸い寄せられる。
分からない。
僕は天月さんのなにを見て、あの絵を描いたんだろう。
僕は答えを探すように、天月さんを見つめる。
すると天月さんはパレットの上で色を作り始める。
その手元をなんとなく見ていた時だった。
「・・・・・・・・・・・・」
パレットの上に、見覚えのある色があった。
青とも緑とも寄り切らないあの色。
天月さんの絵を観察し始めてから何度も見つけた色だ。
風景にも、人物にも現れた。形を変えながら何度も。
本人に聞いた時、天月さんはその事について気付いていなかった。
別に、毎回同じ色を作ろうとしていた訳じゃない。その時その時で必要な色を選び、混ぜ、絵の中に置いた結果、現れ続けた。
僕はそれを、天月さんの好みなんじゃないかと思った。
けれど本人は好きかどうか考えた事はないという。
最初から作ろうとして作った色じゃない、その時々の絵を見て、その時に必要だと思ったものを選んだ過程で生まれる色。
彼女自身も気付いていないなにかが、あの色として作品に残っていた。
なら――僕にも、そうしたものはあるんだろうか?
僕も、天月さんを綺麗に描こうと決めていた訳じゃない。静かな横顔だけ探していた訳ではない。
ただ、目の前にいる天月さんを見て、その時その時でこっちの方がいいと思った。
この表情を残したい、この姿勢がいい。
その時はどれも、ただその瞬間に一番いいと思っただけだった。
でも、全部終わってから一枚の絵を見れば、そこには静かで、綺麗で、絵に向かう真剣な様子の天月さんだけが残っていた。
天月さんの絵に、本人も気付いていなかったあの青緑が残ったように、僕の絵にも、僕自身が気付いていなかったなにかが残っている?
それが、あの天月さんの絵なんだろうか?
そんな考えが浮かぶと、僕は自然と完成した油絵の方へと視線を向けた。
描いている間は何度も見た絵だ。
でも今は、少しだけ違って見えた。
真っ直ぐキャンバスに向けられた天月さんの視線。
その視線を追うように顔の向きを決め、肩から腕、筆を持つ手までが自然に繋がるように配置している。
長い髪も身体の流れを邪魔しないように落ち、背景は天月さんより目立たないように抑えていた。
どこか一つを直そうとした訳じゃない。
全部だ。
身体のパーツ全てが調和するように何度も調整した。
それは僕がずっとやって来た事だった。
初めて美術の授業で風景を描いた時も、目に付いた山や建物から描き始めるのではなく、先に全体の配置を決めた。
絵を学び始めてからも、全体が噛み合うようにして描ける事でようやく自分の中で納得が出来た。
一つのものを突出させるのではなく、全体のバランスを取る。
それが僕の描き方だった。
天月さんにとっての青緑は、本人が狙ったものじゃなかった。
本人も気付いてない無意識的に選んだ結果、作品の中に自然と残っていた。
僕も同じだとしたら。
この絵に残っているのは、綺麗な天月さんだけじゃない。
僕がなにを見て、なにを残して、どう一枚にしたいと思う人間なのか、その選び方まで残っている筈だ。
僕はもう一度、キャンバス全体を見た。
顔から腕へ、腕から筆へ、筆からキャンバスへ。
色も形も背景も、一つの画面の中で綺麗に繋がっている。
なにも引っ掛かるところがない。
だから、完成したと思った。
「・・・・・・・・・・・・」
そこで、なぜか昨日見たスケッチブックが頭に浮かんだ。
ページをめくるたびに違う天月さんが顔が出てきた。
でも、この絵は違う。
何ヶ月も天月さんを見続けて、色んな表情を知った筈なのに、一枚の中ではそれらが綺麗に一つに収まっている。
僕はその事に、初めて違和感を覚えた。
昨日、スケッチブックを見返した時には気付かなかった。
あの中にも僕が選んだ天月さんしかいない。
居眠りしているところ、眉を寄せた顔、変な顔、それを見た時、描き残したいと思った。全部、僕が選んでいる。
でも、ページをめくるほど、天月さんは枝分かれするように増えていった。
でもこの油絵はどうだろう。
夏休みに入ってから何ヶ月も天月さんを見てきた。
でもスケッチブックと比べるとキャンバスの中の天月さんは、枝分かれする事なく、むしろ反対に一つの方向へ向かって絞られているような印象を受けた。
静かにキャンバスに向かう横顔、真っ直ぐな視線、筆を持つ手。
確かにそれらはこの作品を飾るのに調和し、一つの作品として纏まっていた。
でも、これを描く過程で僕は欠伸をする姿や、眉を寄せる表情や、ぼんやりしているところも、絵の具のついた頬を指で掻く仕草も、色んな天月さんを見てきたけれど、全て選ばなかった。
それらよりも、今ここに描いてある表情の方が、この絵には合うと思ったから。
でもそうやって選ぶたびに別の天月さんが一つ、また一つと画面の外に落ちていく。
「・・・・・・・・・・・・」
だから、この絵はこんなにも綺麗なのかもしれない。
どこを見ても同じ方向を見ている。
全てが噛み合っている。
引っ掛かるところなんてなにもない。
むしろなさ過ぎるくらいに、キャンバスの天月さんは隙がなかった。
そこでふと、昔の自分の絵を思い出した。
美術室の窓から見える山を描いた風景画。
人体もパースも、色も、構図も勉強して、その知識を出来る限り詰め込んだ。
間違っていない。むしろ正しい。
でもだからこそ、僕はあの絵を見て思った――『模範解答』
胸の奥で、嫌な感覚が重なった。
今度の絵は、あの頃とは違い、知識だけじゃなくて天月さんを何ヶ月も見て、描いた。
何枚も何枚も、彼女を知ろうと、その都度新しいものを見つけた。
それでも僕は最後に、この絵に一番合うものを選んで、選んだ結果――色んな天月さんを画面から取り除いて、綺麗な天月さんだけを残した。
僕はもう一度、油絵を見る。
そこにいる天月さんは綺麗だった。
でも今は、その綺麗さが少し怖い。
あれだけ色んな天月さんを見てきたのに――僕は最後に、一人の天月さんへ纏めてしまった。
なら、どうすればよかったんだろう。
完成した油絵から目を離し、自分の席に戻ると、僕はスケッチブックを取り出して中を開く。
そして僕は鉛筆を握り、目の前で眉を寄せてキャンバスに向き合う天月さんを視界に収めて、白紙に鉛筆を置く。
少し丸まった背中、前に出た肩。考え込むように伏せられた目元。
それらを数分ほどで描き終えると、もう既に天月さんは体勢を変えて、今度はキャンバスを見ながら首を傾げていた。
それも描く。
悩ましげに首を傾げ、少し唇を尖らせる。
僕が油絵で残した天月さんの表情とは違うけれど、これも天月さんだ。
すると今度は納得した様子を浮かべ、僅かに口元が緩む天月さん。
その表情も新たなページに描き加えた。
そして何枚か描いたところで一旦、手を止める。
そしてページを戻して最初に描いた天月さんの絵から見てみる。
姿勢の崩れた天月さん、考え込む天月さん、表情が緩む天月さん。
どれも間違いなく彼女だ。
しかもこれらは、僕がちゃんと描こうとした『絵を描いている天月さん』の中にいる。
けれどもし、これらの絵を大きなキャンバスに描いていたとしたら――果たして天月さんは「私っぽい」と言っただろうか?
「・・・・・・いや」
考えてみても、どうにも腑に落ちない。
綺麗に整い過ぎた絵を見て天月さんが違和感を覚えたのなら、こんな無防備な姿を描けば彼女らしくなる。
単純に考えればそういう話にも思える。
でも、それでは結局、綺麗な天月さんの変わりに別の天月さんを選び直しているだけだ。
綺麗な天月さんを選んだ事自体が、問題なのではない気がした。
「・・・・・・・・・・・・」
僕はスケッチブックから顔を上げると、天月さんはまだキャンバスに向かっている。
長い時間、同じ姿勢でいたからか、背中は少し丸まり、髪も一房だけ頬に落ちていた。
さらに頬には小さく絵の具が付いていた。
けれど、気に留める様子もなくキャンバスに集中している。
筆を動かしながら、納得するように小さく頷き、表情が柔らかくなる。
僕はその姿になぜだか目が離せなかった。
「・・・・・・あ」
そこで僕は、ようやく引っ掛かった。
僕は今まで、キャンバスに向かう天月さんを描くと決めた時、その姿をどこかで一つの形にしていた。
でも、疲れて背が丸まっているのも、髪が乱れているのも、頬に絵の具を付けているのも、眉を寄せて悩んでいるのも、その途中でなにか閃いたように表情を緩めるのも――全部、キャンバスに向かっている天月さんだ。
「・・・・・・・・・・・・」
僕は改めて完成した油絵を見てみる。
静かな表情と整った姿勢、綺麗に流れる髪、真っ直ぐな瞳、その全てが同じ方向へ向いているような印象がある。
それら全ての要素が一枚の絵として噛み合うように、互いに調和し合うような関係で構成されていた。
だから見ていて違和感がなく、引っかかりがない。
でも、これだって決して間違ってはいない。これも僕が見た天月さんだ。
ただ、僕は『キャンバスに向かう天月さん』というテーマに合わせるつもりで、そのテーマそのものを自分で狭くし過ぎていたんじゃないだろうか。
「・・・・・・そっか」
変な顔を描けばいい訳じゃない、綺麗な絵を描いちゃいけない訳でもない。
僕が間違えたのはそこじゃない。
僕は一枚の絵を綺麗に纏めようとするあまり、天月さんまでその絵に都合のいい形へと纏め過ぎてしまったのだ。
顔も、髪も、姿勢も、指先も、全部が同じ方向を向くように。
だから油絵で描いた天月さんは綺麗だった。
そしてたぶん、綺麗過ぎた。
僕は改めて天月さんを見ると、少し丸まった背中のまま、真剣な表情でキャンバスに向かっている。
そう、それだけでよかった。
僕はただ、『キャンバスに向かう天月さん』を、自分の都合で外さずに、ありのまま見ればいい。
僕はスケッチブックを片付け、完成した三十号の油絵を両手で持ち上げ、イーゼルへと戻す。
「なにしてるの?」
近くで声がして振り返ると、天月さんが筆を持ったままこちらを見ていた。
「もう一回描こうと思って」
「・・・・・・描き直すの?」
「うん」
短く答えて、僕はキャンバスに向かうと、まだ天月さんから視線を感じた。
「私、描き直せって言った訳じゃないよ?」
「分かってる。ただ、僕が直したくなっただけだから」
「県総文、もうすぐだけど」
「それも分かってる」
「間に合うの?」
聞かれて、僕は少しだけ考える。
考えてから、
「分からない。でも、このまま出す方が嫌だから」
夏休みから描き始めて、もう十月も終わりに近いというのに、何ヶ月も掛けてようやく完成させたものを今になってもう一度触ろうとしている。
僅かな時間で、ちゃんと描き直せるかも分からない。
でも、僕はもう一度キャンバスに向き直る。
僕は椅子を引き寄せ、完成した絵の前に座ると、改めて見てもやっぱりよく描けてると思う。
でも、その顔を描いていた時のことも思い返してみると、決してこういう顔だけじゃない。
もっと眉間に皺が寄っていた時もあったし、考え込んで唇が少し尖っている事もあった。
頬に絵の具を付けたまま気付かない時もあった。
他にも、長時間描いて少し力が抜けて脱力する天月さんも見たけれど、それは描かずに、スッと背筋を伸ばした天月さんを描いた。
僕は無意識に選別していた。
「・・・・・・・・・・・・」
僕は筆を取り、どこを描き直すのかをちゃんと見る。
今度は逆に、全部を崩せばいい訳じゃない。
眉を寄せるだとか、髪を乱すだとか、そういう事をしても、また僕が「天月さんらしさ」に絵を合わせているだけになる。
そうじゃなく。
僕はキャンバスから一度視線を外して、実際の天月さんを見る。
特別、姿勢は崩れていないけれど、頬には絵の具が付いたままで、髪も一房だけまだ頬に垂れている。
それでも、キャンバスを見る目は真剣だった。
天月さんを確認してから、僕はいよいよ筆を動かした。
顔の輪郭が綺麗に見えるよう外していた髪の一房を、ほんの少しだけ頬に垂らす。
それだけで、整っていた横顔に小さな乱れが生まれた。
次に眉間に、ごく薄く陰を置く。
険しい顔にしたい訳じゃなく、ただ、考え込む僅かな皺を描きたかった。
そして最後に、頬に小さく絵の具を付けた。
僕は筆を置くと、数歩離れて全体を見てみる。
さっきまでより少しだけ綺麗に揃っていない。
けれど、だから直したいとは思わなかった。
今までなら、その小さな乱れをなくして、全体が纏まる方向へと持っていった筈だけど、それではまた同じ絵に戻ってしまう。
僕が描きたいのはそういう絵じゃない。
僕はまたキャンバスへと向かい、今度は筆を持つ指先に注目する。
肩から腕、手首、指先へと続く形は自分で見ても綺麗な流れで描かれていると思う。
でも、少しだけ綺麗過ぎる気もする。
実際の天月さんを見てみると、キャンバスに色を塗ろうとする直前、筆を支える指先に僅かに力が入る。
手首も完全に滑らかに伸びている訳ではなく、筆先を狙った場所に運ぶ為、ほんの少しだけ角度が付いていた。
そこにも手を加える。
綺麗に伸びていた指に僅かな曲がりを加えて、少しだけ力を持たせる。
もう一度離れて見てみる。
悪くない。
むしろ、目が自然と手元に止まるようになった。
そんな風に、僕はまた別の箇所を見直しては少しずつ手を加えていった。
すると、最初に完成させた絵と比べると、綺麗に一本の線で繋がるような印象はなくなっていた。
でも、バラバラになった訳でもなかった。
僕はまたキャンバスに向き合い、次はどこを修正しようか探す。
頬の絵の具をもう少し目立たせるのか、髪を少し乱すか、姿勢をもう少し前傾にするか・・・・・・いや。
そこで筆が止まった。
違う。
今度は『整っていない天月さん』を作ろうとしている。
そうじゃない。
必要なのは、前と反対の天月さんにする事じゃない。
今まで僕が、この絵に合わないと思って消していたものをもう一度見直す事だった。
僕は改めてキャンバスと向き直る。
§
それから次の日、また次の日と僕はキャンバスで修正を加える。
そして数日後、僕は筆を置きキャンバスから数歩離れた。
そこにいたのはキャンバスに向かう天月さん。
静かで、真剣で。
やっぱり綺麗だ。
でも、それだけじゃない。
考え込んだ表情の皺、長時間同じ姿勢で丸まった背中、気付かないま頬に残した絵の具も、その綺麗さから浮かずに残っていた。
前の絵にはなかった引っかかりがこの絵にはいくつもある。
それなのに、それを直したいとは思わなかった。
僕はしばらくその絵を見つめ、前の絵との違いを見比べた。
最初に完成させた時は、もう直すところがないから完成だと思った。
でも今は、直そうと思えば触れるところはある。
でも、そこを整えてしまったら整然とした絵に戻ってしまう。
僕は手に持っていた筆をゆっくりと置いた。
――これでいい。
僕はそう呟いて、ようやくこの絵から手を離した。
§
その日の部活が終わる少し前、僕はようやく筆を置く。
「終わったの?」
すると、背後から声がして振り返ると天月さんが僕のイーゼルの前まで来ていた。
「うん、なんとか間に合った」
「ギリギリだったね」
言ってから、天月さんは描き直した僕のキャンバスに向き直った。
そしてゆっくりと新たに描き直した絵を眺める。
その間、僕は固唾を飲んで待つ。
前に見てもらった時よりも緊張していた。
正直、迷いで言えば前に完成させた時の方がなかった。
描き直して、二回目描き直した時は、本当にこれでいいのだろうかと思いはしたけれど、でも最後は自分が納得したところで筆を置いた。
「前と変わったね」
しばらくして天月さんは言った。
「うん。でも、大きく変えた訳じゃない」
「そうだね」
頬に掛かった髪、皺の寄った眉、筆を握る指先、頬に付いた絵の具。
どれも大きく修正を加えた訳じゃない。
「こんなところまで描いてる」
天月さんは頬に付いた絵の具を指差した。
「うん、印象に残ったからさ」
「また変なところ描いてるじゃん」
「変じゃないよ」
「真面目な顔して誤魔化してる」
「いや、本当に言ってるんだってば」
「どうだか」
そう言って天月さんは取り合ってくれない。
でも、
「じゃあ、消した方がいい?」
「・・・・・・・・・・・・」
僕は訊ねると、天月さんは少し考えてから、首を横に振った。
「いい。見上くんは残した方がいいと思って残したんでしょ?」
「うん」
「ならいい」
そう言って、天月さんは肩を竦めた。
完全には納得している感じではない。
そりゃあ、絵の具を消した方が天月さんは綺麗に見える。
でも、作品として残すべきだと思って作品ファーストで受け入れてくれた。
それはなんだか、天月さんらしい。
「ちなみに、この絵はどう? 天月さんから見て」
僕は訊ねると、天月さんはまた考え込む。
でも今度は、その横顔から前みたいな浮かない感じはなかった。
「前の絵はすごく綺麗だったし、いい絵だと思ったけど、私はこっちの方が好き」
その言葉を聞いて、僕は胸の内から喜びが込み上げてくる。
「前の絵は、綺麗だったけど、綺麗過ぎて詰まってる感じがしたの」
「詰まってる?」
「ぎっしりしてるっていうか。余白がない感じ。でもこの絵はゆとりがある」
「言ってる事は分かる」
綺麗に整え過ぎたのだ、前の絵は。
僕はふと、以前の風景画の事を思い出す。
前に描いた風景画と天月さんの絵を見比べた時、僕は自分の絵が模範解答だと思った。
知識を破綻なくキャンバスで詰め込んでいく。
巡り巡って、僕は天月さんの絵でも同じ事を繰り返していた。
でも、天月さんの言葉を受けて、改めて自分の絵と向き合って、描き直してみると、こっちの絵の方が完璧ではないけれど、でもだからこそ生が息づいているような気がした。
「・・・・・・でも、この絵はちょっと困る」
「なにが?」
「眉間に皺あるし、髪も整ってないし、絵の具付いてるし」
「やっぱりそこ気になるんだ」
「見上くんが変なところ見てるのが気になるの」
「僕にとっては変じゃないから」
抜けてるところも、天月さんだ。
絵を描いている彼女を見れば、その時々で色んな表情が現れる。
でも僕は、前の絵でその中から同じ方向に向かうものばかりを選び過ぎた。
綺麗で、真剣で、隙がない。
そういうものばかり選んでいた。
でもそうじゃない。
絵を描いていれば疲れるし、眠たくなるし、気を抜く時もある。
それでもまた、絵を見る。
「そういうのも全部、最初からこのテーマの中にあったんだと思う」
天月さんは少し考え込んでから、
「そっか」
と、短く答えた。
眉間には、少し不満げなのが見て取れたけれど、でも、消せとは言わなかった。
すると天月さんは、改めてキャンバスを見て、言う。
「これ、県総文に出すんだよね」
「うん、その為に間に合わせたんだし」
「結果悪くても私のせいにしないでね?」
「しないよ。描き直すって決めたのは僕だから」
「ならいいけど」
「そこ気にしてたんだ」
「だって、私があんな事言ったから描き直してるんだから」
「いや、天月さんは描き直せって言った訳じゃないし。最終的にこれで出すって決めたのは僕だから」
「そうだけど」
「なんか意外」
「なにが?」
「天月さんも、そういう事気にするんだね」
「そりゃ思うよ。展覧会に出す作品なんだから」
ぶっきらぼうな口調だけど、そこは真剣に考えてくれていたようだ。
「なに、悪い?」
「別に。ただ意外だなって」
「バカにしてる?」
「してないよ」
「絶対してる」
天月さんは不服そうに眉を寄せた。
「・・・・・・・・・・・・」
何気なく、天月さんのその表情が気になった。
「なに?」
「いや、別に」
「・・・・・・また、見てたよね?」
「そりゃ、話してるんだから見てるよね?」
「そういう意味じゃない」
とぼける僕に、天月さんは不満げだ。
いい、その表情も。
僕の視線はつい、天月さんの顔を追ってしまう。
別に描きたいから見ている訳じゃない。
ただ、天月さんは見るたびに違って見える。
そしてそれを見るたびに目が離せなくなるのだ。
きっとこれからも、僕は天月さんから目が離せないと思う。
§
数日後、県総文へ出す作品が美術室からなくなると随分と広く、すっきりした印象を受けた。
美術室は少しゆったりした空気の中で今日も活動が行われていた。
けれど天月さんはいつものような真剣な目つきでスケッチブックに向かっている。
プリントアウトした写真を広げ、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。
僕はなんとなく、そんな天月さんを見ていた。
「・・・・・・・・・・・・」
高校に入った頃の僕は、自分にしかない『なにか』を探していた。
勉強も運動も人付き合いもそれなりで、可もなく不可もなく当たり障りない凡人だった。
だから誰にも代わる事の出来ないものが欲しかった。
そして、俯見先生の誘いをキッカケに美術部に入り、そこで活路を乱そうとした。
でも、現実はどこまでも地続きで、美術の世界においても、僕は何者でもないのだと思い知らされた。
天月さんの絵を目の当たりにした時、彼女のような人が天才なのだと思った。
そして反対に、僕が凡人である事を再確認も出来た。
でも現実を突きつけられて心が折れた訳じゃなかった。
今にして思えば、天月さんの才能を目の当たりにして、僕は諦めてもよかったのに、でもそうはならなかった。
むしろ君に心惹かれた。
どうしたらこんな風に描けるのかと。
多分、二年に進級して天月さんの風景画を見て圧倒されたあの日が分岐点だったと思う。
あそこで心折れて、絵を描く事を諦めるか、それとも描き続けるか。
そして僕は後者を選んだ。
その後は、ずっと天月さんを観察し続けた。
飽きもせず、ただひたすら君を見続けた。
最初は天才の正体を知りたかった。
でも、いつからか僕は天月さん自身を見ていた。
そして見続けた先で、白紙に君が現れるようになった。
何十分も掛けて見た石膏像は全く残らないのに、天月さんだけはほんの一瞬でも鮮明に残った。
不思議な現象に出会ってからというもの、僕はひたすら君を見続け、描き続けた。
最初は謎を解き明かす為だったけれど、途中からはただただ君を描きたかった。
観察するたび、色んな天月さんが見られて、僕は楽しかったし、新鮮だった。
そしてもっと知りたいと思った。
君を描き留めたいと思った。
描き逃したくないと思った。
だからひたすら君を描いた。
そして描いているうちに、僕の中で『なにか』が形になっていた。
ほんの僅かな表情の変化に気付く事、一瞬しか見ていない姿を鮮明に覚えている事、本人さえ意識していない仕草まで自然と目で追ってしまう事。
最初から僕にそんな特別な目があった訳じゃなかった。
ただ、君への執着心が僕の目を育てた。
僕はずっと、自分にしかない『なにか』を探していた。
そしてようやく分かった。
君だ。
天月さん、君が僕の『才能』だ。
誰よりも君を見て、誰よりも君を描こうとする。このどうしようもない執着心が僕の才能なんだ。
だから僕は、これからも君を見る。
そして僕は、君を描き続けるよ。
きっと変な顔も描いてしまうと思う。
そしたら君は怒るかな?
でも、その顔も見てみたいし、描きたい。
君の全てが、僕が筆を握る原動力なんだ。
『本当に、絵は好きだよ』
天月さんの言葉が、ずっと頭から離れない。
部活が終わって家に帰った後も、僕はずっと天月さんの言葉の意味を考えていた。
あの時の天月さんの言葉は、決して僕の絵を否定している訳ではなかった。けれど、胸に引っ掛かるものがあった。
『でも、あっちの方が私っぽかった』
「・・・・・・・・・・・・」
自室のベッドに伏せながら、天井を見つめる。当然、そこに答えなんて書いてる訳もない。
僕はふと、ベッドから起き上がり、床に直で詰んでいたスケッチブックの中から一冊を取り出した。
ページを開くと、最初に出てきたのは授業中の天月さんだった。
頬杖をつきながら現代文の教科書を眺めている。
次のページでは机に突っ伏して眠っていて、その次には体育の後なのか、火照った身体で制服の襟元をぱたぱたと動かしている。
さらにめくると、髪に寝癖が付いていたり、お菓子を食べていたり、頬を押されて変な顔をしていたり、眉を寄せて不満げな表情をしていたり、
「・・・・・・本当に、色々描いてるな」
自分で見ても節操がないと思う。
本当、僕は監視カメラかというくらい、色々な天月さんを描き連ねている。でも公認をもらったのだから、その権利を行使しないと勿体ない。
さらにページをめくると、日常生活の天月さんだけでなく、絵を描いている天月さんも描いている。
筆を持つ横顔や、前屈みにキャンバスに筆を落とす姿や、眉を寄せ考え込む表情、髪を耳に掛ける瞬間、気が抜けて僅かに顔が呆けているものまである。
同じ天月さんなのに、一つとして同じ表情がない。
「・・・・・・・・・・・・」
そこで僕はふと、思う。
僕が描き上げた超大作の天月さんの油絵はどうだっただろう。
静かな横顔、真っ直ぐキャンバスへ向けられた視線、伸ばされた腕、筆を持つ手。
あれも、ちゃんと僕が見て描いた天月さんだった。
でも――。
もう一度スケッチブックに視線を戻す。
ここにも、全部僕が見た天月さんがいる。
「・・・・・・・・・・・・」
僕はもう一度、最初からページをめくってみた。
不機嫌な顔を描こうと決めていた訳じゃない。マヌケな顔を描こうと決めていた訳じゃない。寝癖も、欠伸する瞬間も、友達にからかわれた時の顔も、最初から探していた訳じゃなく、見た瞬間に描きたくなった。
スケッチブックには他にも真剣な横顔や珍しく口元を綻ばせている天月さん。かと思えば眠そうな天月さんなど、そこに統一感も順序もなにもない。
今、目の前にいる天月さんを見て、僕の目が留まったものをその瞬間に描いている。
対して、三十号のキャンバスに描かれた天月さんは一人だけだった。
勿論、一枚お作品として一つの場面にまとめているのだから、それ自体は当然だ。
でもそうではなくて、油絵の中では、絵を描く天月さんという一つの姿が、最初から最後まで崩れていなかった。
考え込んでも、疲れていても、欠伸をしていても、変な顔をしていても、気を引き締め直していても、僕はただ一つ、静かにキャンバスへ向かう天月さんを描いていた。
――でも、こういう私ばっかり残ってる。
天月さんの言葉が蘇る。直接、天月さんが声にしたみたいに鮮明な声だった。
・・・・・・僕は、綺麗な天月さんばかりを選んで描いていた。
美化していた訳じゃない。だって、綺麗な天月さんだって、見て描いたものだから――でも。
それだけじゃなかった。
僕が見ていた間で、天月さんはずっと綺麗な顔だけしていた訳じゃなかった。
でも僕は、一枚の絵として完成させる為に少しずつ削っていた。
欠伸する天月さん、眉を寄せる天月さん、寝癖を気にも留めず筆を動かす天月さん、頬についた絵の具を指でこする天月さん。
そんな色んな彼女を、僕はしかしキャンバスには反映しなかった。
あれだけスケッチブックでは色んな表情を描いていたのに・・・・・・。
でも、それは悪い事だろうか?
僕はキャンバスに向かう天月さんを描こうと決めた。なら、そのテーマに合わないものを外すのは当たり前だ。
なのに、
『でも、あっちの方が私っぽかった』
スケッチブックに描かれた色んな表情を見せる天月さんの絵から、目が離せなかった。
§
次の日、部室に入ると天月さんは既に自分のイーゼルの前に座っていた。
僕は荷物を置きながら、なんとなく彼女を見る。
昨日までなら、それだけで終わっていたと思う。
けれど今日は、妙に目が離れなかった。
天月さんは筆を持ったままキャンバスを睨むように見つめ、しばらくすると眉間に皺が寄り、ほんの少しだけ首を傾げた。
それから一度筆を置き、目を細めながら大きく息を吐いた。
「・・・・・・・・・・・・」
疲れているんだろうか。
あまり捗っている様子ではない。
そう思った直後、今度は欠伸を漏らした。
口元を手で隠してはいるけれど、途中から隠すのも面倒になったのか、欠伸が終わるより先に手を下げていた。
随分と無防備な様子を見せていた。
「・・・・・・なに」
「あ」
すると僕の気配に気付いたのか、天月さんが振り返り、眉間に皺を寄せたまま、僕を睨んだ。
睨まれた。
「見てたよね」
「たまたま見えただけだよ」
「それを見たって言うんだよ」
言い訳は聞いてくれなかった。厳しい。
天月さんはまたキャンバスに向き直ると、不満げな表情はすぐには解かれず、眉を寄せたまま筆を持ち直す。
けれど、数分もしないうちに、今度はなにかを思いついたのか、表情がフッと緩んだ。
僕はその姿を見ながら、昨日のスケッチブックを思い出していた。
眉を寄せる天月さん、欠伸をする天月さん、少し不機嫌な天月さん、気が抜けて顔が緩んだ天月さん。
どれも昨日、ページの中にいた。
そして、目の前にも。
「・・・・・・・・・・・・」
僕はそこで、ふと引っ掛かった。
昨日は、こういう天月さんをキャンバスに残さなかったのはテーマに合わないからだと思っていた。
僕が描きたかったのは、キャンバスに向かう天月さんだった。
なら、眠そうな顔や不機嫌そうな顔よりも、真剣な眼差しをする天月さんを選ぶのは当然だ。
でも、今僕の目の前で欠伸をした天月さんは、絵を描いている最中だった。
眉を寄せた顔も、気の緩んだ顔も、全部キャンバスに向かっている時の天月さんだった。
「・・・・・・あれ」
「なに?」
僕の声に気付いて、天月さんが振り返る。
「いや・・・・・・なんでもない」
「変なの」
そう言って、また前を向く。
僕はその姿を見る。
今は静かな表情だ。視線は真っ直ぐキャンバスに向いていて、伸ばした腕の先で筆がゆっくり動いている。
僕がキャンバスに描いた天月さんとよく似ている。
――確かに、この天月さんもいる。嘘じゃない。
でも、その数分前まで同じ人が欠伸をして、眉を寄せて、僕を睨んでいた。
それらも全部、同じ時間の中にある。
僕は昨日まで、どこかでそれを別のものとして考えていたのかもしれない。
絵を描いている時の天月さん、そう一言で括った中にも、こんなにも色んな表情があるのに、僕のキャンバスに残ったのは、その中のたった一つだけだった。
静かで、綺麗で、真剣に絵と向き合っている天月さん。
「・・・・・・・・・・・・」
キャンバスに向き合うだけでも、ただ真剣な表情だけじゃない、色々な天月さんがいる。
なのになぜ僕は真剣な天月さんばかりを選んだんだろう。
天月さんは僕など気にも留めず、キャンバスに集中している。
僕は一瞬、自分の席に戻ろうとしたけれど、どうしても視線が天月さんの方に吸い寄せられる。
分からない。
僕は天月さんのなにを見て、あの絵を描いたんだろう。
僕は答えを探すように、天月さんを見つめる。
すると天月さんはパレットの上で色を作り始める。
その手元をなんとなく見ていた時だった。
「・・・・・・・・・・・・」
パレットの上に、見覚えのある色があった。
青とも緑とも寄り切らないあの色。
天月さんの絵を観察し始めてから何度も見つけた色だ。
風景にも、人物にも現れた。形を変えながら何度も。
本人に聞いた時、天月さんはその事について気付いていなかった。
別に、毎回同じ色を作ろうとしていた訳じゃない。その時その時で必要な色を選び、混ぜ、絵の中に置いた結果、現れ続けた。
僕はそれを、天月さんの好みなんじゃないかと思った。
けれど本人は好きかどうか考えた事はないという。
最初から作ろうとして作った色じゃない、その時々の絵を見て、その時に必要だと思ったものを選んだ過程で生まれる色。
彼女自身も気付いていないなにかが、あの色として作品に残っていた。
なら――僕にも、そうしたものはあるんだろうか?
僕も、天月さんを綺麗に描こうと決めていた訳じゃない。静かな横顔だけ探していた訳ではない。
ただ、目の前にいる天月さんを見て、その時その時でこっちの方がいいと思った。
この表情を残したい、この姿勢がいい。
その時はどれも、ただその瞬間に一番いいと思っただけだった。
でも、全部終わってから一枚の絵を見れば、そこには静かで、綺麗で、絵に向かう真剣な様子の天月さんだけが残っていた。
天月さんの絵に、本人も気付いていなかったあの青緑が残ったように、僕の絵にも、僕自身が気付いていなかったなにかが残っている?
それが、あの天月さんの絵なんだろうか?
そんな考えが浮かぶと、僕は自然と完成した油絵の方へと視線を向けた。
描いている間は何度も見た絵だ。
でも今は、少しだけ違って見えた。
真っ直ぐキャンバスに向けられた天月さんの視線。
その視線を追うように顔の向きを決め、肩から腕、筆を持つ手までが自然に繋がるように配置している。
長い髪も身体の流れを邪魔しないように落ち、背景は天月さんより目立たないように抑えていた。
どこか一つを直そうとした訳じゃない。
全部だ。
身体のパーツ全てが調和するように何度も調整した。
それは僕がずっとやって来た事だった。
初めて美術の授業で風景を描いた時も、目に付いた山や建物から描き始めるのではなく、先に全体の配置を決めた。
絵を学び始めてからも、全体が噛み合うようにして描ける事でようやく自分の中で納得が出来た。
一つのものを突出させるのではなく、全体のバランスを取る。
それが僕の描き方だった。
天月さんにとっての青緑は、本人が狙ったものじゃなかった。
本人も気付いてない無意識的に選んだ結果、作品の中に自然と残っていた。
僕も同じだとしたら。
この絵に残っているのは、綺麗な天月さんだけじゃない。
僕がなにを見て、なにを残して、どう一枚にしたいと思う人間なのか、その選び方まで残っている筈だ。
僕はもう一度、キャンバス全体を見た。
顔から腕へ、腕から筆へ、筆からキャンバスへ。
色も形も背景も、一つの画面の中で綺麗に繋がっている。
なにも引っ掛かるところがない。
だから、完成したと思った。
「・・・・・・・・・・・・」
そこで、なぜか昨日見たスケッチブックが頭に浮かんだ。
ページをめくるたびに違う天月さんが顔が出てきた。
でも、この絵は違う。
何ヶ月も天月さんを見続けて、色んな表情を知った筈なのに、一枚の中ではそれらが綺麗に一つに収まっている。
僕はその事に、初めて違和感を覚えた。
昨日、スケッチブックを見返した時には気付かなかった。
あの中にも僕が選んだ天月さんしかいない。
居眠りしているところ、眉を寄せた顔、変な顔、それを見た時、描き残したいと思った。全部、僕が選んでいる。
でも、ページをめくるほど、天月さんは枝分かれするように増えていった。
でもこの油絵はどうだろう。
夏休みに入ってから何ヶ月も天月さんを見てきた。
でもスケッチブックと比べるとキャンバスの中の天月さんは、枝分かれする事なく、むしろ反対に一つの方向へ向かって絞られているような印象を受けた。
静かにキャンバスに向かう横顔、真っ直ぐな視線、筆を持つ手。
確かにそれらはこの作品を飾るのに調和し、一つの作品として纏まっていた。
でも、これを描く過程で僕は欠伸をする姿や、眉を寄せる表情や、ぼんやりしているところも、絵の具のついた頬を指で掻く仕草も、色んな天月さんを見てきたけれど、全て選ばなかった。
それらよりも、今ここに描いてある表情の方が、この絵には合うと思ったから。
でもそうやって選ぶたびに別の天月さんが一つ、また一つと画面の外に落ちていく。
「・・・・・・・・・・・・」
だから、この絵はこんなにも綺麗なのかもしれない。
どこを見ても同じ方向を見ている。
全てが噛み合っている。
引っ掛かるところなんてなにもない。
むしろなさ過ぎるくらいに、キャンバスの天月さんは隙がなかった。
そこでふと、昔の自分の絵を思い出した。
美術室の窓から見える山を描いた風景画。
人体もパースも、色も、構図も勉強して、その知識を出来る限り詰め込んだ。
間違っていない。むしろ正しい。
でもだからこそ、僕はあの絵を見て思った――『模範解答』
胸の奥で、嫌な感覚が重なった。
今度の絵は、あの頃とは違い、知識だけじゃなくて天月さんを何ヶ月も見て、描いた。
何枚も何枚も、彼女を知ろうと、その都度新しいものを見つけた。
それでも僕は最後に、この絵に一番合うものを選んで、選んだ結果――色んな天月さんを画面から取り除いて、綺麗な天月さんだけを残した。
僕はもう一度、油絵を見る。
そこにいる天月さんは綺麗だった。
でも今は、その綺麗さが少し怖い。
あれだけ色んな天月さんを見てきたのに――僕は最後に、一人の天月さんへ纏めてしまった。
なら、どうすればよかったんだろう。
完成した油絵から目を離し、自分の席に戻ると、僕はスケッチブックを取り出して中を開く。
そして僕は鉛筆を握り、目の前で眉を寄せてキャンバスに向き合う天月さんを視界に収めて、白紙に鉛筆を置く。
少し丸まった背中、前に出た肩。考え込むように伏せられた目元。
それらを数分ほどで描き終えると、もう既に天月さんは体勢を変えて、今度はキャンバスを見ながら首を傾げていた。
それも描く。
悩ましげに首を傾げ、少し唇を尖らせる。
僕が油絵で残した天月さんの表情とは違うけれど、これも天月さんだ。
すると今度は納得した様子を浮かべ、僅かに口元が緩む天月さん。
その表情も新たなページに描き加えた。
そして何枚か描いたところで一旦、手を止める。
そしてページを戻して最初に描いた天月さんの絵から見てみる。
姿勢の崩れた天月さん、考え込む天月さん、表情が緩む天月さん。
どれも間違いなく彼女だ。
しかもこれらは、僕がちゃんと描こうとした『絵を描いている天月さん』の中にいる。
けれどもし、これらの絵を大きなキャンバスに描いていたとしたら――果たして天月さんは「私っぽい」と言っただろうか?
「・・・・・・いや」
考えてみても、どうにも腑に落ちない。
綺麗に整い過ぎた絵を見て天月さんが違和感を覚えたのなら、こんな無防備な姿を描けば彼女らしくなる。
単純に考えればそういう話にも思える。
でも、それでは結局、綺麗な天月さんの変わりに別の天月さんを選び直しているだけだ。
綺麗な天月さんを選んだ事自体が、問題なのではない気がした。
「・・・・・・・・・・・・」
僕はスケッチブックから顔を上げると、天月さんはまだキャンバスに向かっている。
長い時間、同じ姿勢でいたからか、背中は少し丸まり、髪も一房だけ頬に落ちていた。
さらに頬には小さく絵の具が付いていた。
けれど、気に留める様子もなくキャンバスに集中している。
筆を動かしながら、納得するように小さく頷き、表情が柔らかくなる。
僕はその姿になぜだか目が離せなかった。
「・・・・・・あ」
そこで僕は、ようやく引っ掛かった。
僕は今まで、キャンバスに向かう天月さんを描くと決めた時、その姿をどこかで一つの形にしていた。
でも、疲れて背が丸まっているのも、髪が乱れているのも、頬に絵の具を付けているのも、眉を寄せて悩んでいるのも、その途中でなにか閃いたように表情を緩めるのも――全部、キャンバスに向かっている天月さんだ。
「・・・・・・・・・・・・」
僕は改めて完成した油絵を見てみる。
静かな表情と整った姿勢、綺麗に流れる髪、真っ直ぐな瞳、その全てが同じ方向へ向いているような印象がある。
それら全ての要素が一枚の絵として噛み合うように、互いに調和し合うような関係で構成されていた。
だから見ていて違和感がなく、引っかかりがない。
でも、これだって決して間違ってはいない。これも僕が見た天月さんだ。
ただ、僕は『キャンバスに向かう天月さん』というテーマに合わせるつもりで、そのテーマそのものを自分で狭くし過ぎていたんじゃないだろうか。
「・・・・・・そっか」
変な顔を描けばいい訳じゃない、綺麗な絵を描いちゃいけない訳でもない。
僕が間違えたのはそこじゃない。
僕は一枚の絵を綺麗に纏めようとするあまり、天月さんまでその絵に都合のいい形へと纏め過ぎてしまったのだ。
顔も、髪も、姿勢も、指先も、全部が同じ方向を向くように。
だから油絵で描いた天月さんは綺麗だった。
そしてたぶん、綺麗過ぎた。
僕は改めて天月さんを見ると、少し丸まった背中のまま、真剣な表情でキャンバスに向かっている。
そう、それだけでよかった。
僕はただ、『キャンバスに向かう天月さん』を、自分の都合で外さずに、ありのまま見ればいい。
僕はスケッチブックを片付け、完成した三十号の油絵を両手で持ち上げ、イーゼルへと戻す。
「なにしてるの?」
近くで声がして振り返ると、天月さんが筆を持ったままこちらを見ていた。
「もう一回描こうと思って」
「・・・・・・描き直すの?」
「うん」
短く答えて、僕はキャンバスに向かうと、まだ天月さんから視線を感じた。
「私、描き直せって言った訳じゃないよ?」
「分かってる。ただ、僕が直したくなっただけだから」
「県総文、もうすぐだけど」
「それも分かってる」
「間に合うの?」
聞かれて、僕は少しだけ考える。
考えてから、
「分からない。でも、このまま出す方が嫌だから」
夏休みから描き始めて、もう十月も終わりに近いというのに、何ヶ月も掛けてようやく完成させたものを今になってもう一度触ろうとしている。
僅かな時間で、ちゃんと描き直せるかも分からない。
でも、僕はもう一度キャンバスに向き直る。
僕は椅子を引き寄せ、完成した絵の前に座ると、改めて見てもやっぱりよく描けてると思う。
でも、その顔を描いていた時のことも思い返してみると、決してこういう顔だけじゃない。
もっと眉間に皺が寄っていた時もあったし、考え込んで唇が少し尖っている事もあった。
頬に絵の具を付けたまま気付かない時もあった。
他にも、長時間描いて少し力が抜けて脱力する天月さんも見たけれど、それは描かずに、スッと背筋を伸ばした天月さんを描いた。
僕は無意識に選別していた。
「・・・・・・・・・・・・」
僕は筆を取り、どこを描き直すのかをちゃんと見る。
今度は逆に、全部を崩せばいい訳じゃない。
眉を寄せるだとか、髪を乱すだとか、そういう事をしても、また僕が「天月さんらしさ」に絵を合わせているだけになる。
そうじゃなく。
僕はキャンバスから一度視線を外して、実際の天月さんを見る。
特別、姿勢は崩れていないけれど、頬には絵の具が付いたままで、髪も一房だけまだ頬に垂れている。
それでも、キャンバスを見る目は真剣だった。
天月さんを確認してから、僕はいよいよ筆を動かした。
顔の輪郭が綺麗に見えるよう外していた髪の一房を、ほんの少しだけ頬に垂らす。
それだけで、整っていた横顔に小さな乱れが生まれた。
次に眉間に、ごく薄く陰を置く。
険しい顔にしたい訳じゃなく、ただ、考え込む僅かな皺を描きたかった。
そして最後に、頬に小さく絵の具を付けた。
僕は筆を置くと、数歩離れて全体を見てみる。
さっきまでより少しだけ綺麗に揃っていない。
けれど、だから直したいとは思わなかった。
今までなら、その小さな乱れをなくして、全体が纏まる方向へと持っていった筈だけど、それではまた同じ絵に戻ってしまう。
僕が描きたいのはそういう絵じゃない。
僕はまたキャンバスへと向かい、今度は筆を持つ指先に注目する。
肩から腕、手首、指先へと続く形は自分で見ても綺麗な流れで描かれていると思う。
でも、少しだけ綺麗過ぎる気もする。
実際の天月さんを見てみると、キャンバスに色を塗ろうとする直前、筆を支える指先に僅かに力が入る。
手首も完全に滑らかに伸びている訳ではなく、筆先を狙った場所に運ぶ為、ほんの少しだけ角度が付いていた。
そこにも手を加える。
綺麗に伸びていた指に僅かな曲がりを加えて、少しだけ力を持たせる。
もう一度離れて見てみる。
悪くない。
むしろ、目が自然と手元に止まるようになった。
そんな風に、僕はまた別の箇所を見直しては少しずつ手を加えていった。
すると、最初に完成させた絵と比べると、綺麗に一本の線で繋がるような印象はなくなっていた。
でも、バラバラになった訳でもなかった。
僕はまたキャンバスに向き合い、次はどこを修正しようか探す。
頬の絵の具をもう少し目立たせるのか、髪を少し乱すか、姿勢をもう少し前傾にするか・・・・・・いや。
そこで筆が止まった。
違う。
今度は『整っていない天月さん』を作ろうとしている。
そうじゃない。
必要なのは、前と反対の天月さんにする事じゃない。
今まで僕が、この絵に合わないと思って消していたものをもう一度見直す事だった。
僕は改めてキャンバスと向き直る。
§
それから次の日、また次の日と僕はキャンバスで修正を加える。
そして数日後、僕は筆を置きキャンバスから数歩離れた。
そこにいたのはキャンバスに向かう天月さん。
静かで、真剣で。
やっぱり綺麗だ。
でも、それだけじゃない。
考え込んだ表情の皺、長時間同じ姿勢で丸まった背中、気付かないま頬に残した絵の具も、その綺麗さから浮かずに残っていた。
前の絵にはなかった引っかかりがこの絵にはいくつもある。
それなのに、それを直したいとは思わなかった。
僕はしばらくその絵を見つめ、前の絵との違いを見比べた。
最初に完成させた時は、もう直すところがないから完成だと思った。
でも今は、直そうと思えば触れるところはある。
でも、そこを整えてしまったら整然とした絵に戻ってしまう。
僕は手に持っていた筆をゆっくりと置いた。
――これでいい。
僕はそう呟いて、ようやくこの絵から手を離した。
§
その日の部活が終わる少し前、僕はようやく筆を置く。
「終わったの?」
すると、背後から声がして振り返ると天月さんが僕のイーゼルの前まで来ていた。
「うん、なんとか間に合った」
「ギリギリだったね」
言ってから、天月さんは描き直した僕のキャンバスに向き直った。
そしてゆっくりと新たに描き直した絵を眺める。
その間、僕は固唾を飲んで待つ。
前に見てもらった時よりも緊張していた。
正直、迷いで言えば前に完成させた時の方がなかった。
描き直して、二回目描き直した時は、本当にこれでいいのだろうかと思いはしたけれど、でも最後は自分が納得したところで筆を置いた。
「前と変わったね」
しばらくして天月さんは言った。
「うん。でも、大きく変えた訳じゃない」
「そうだね」
頬に掛かった髪、皺の寄った眉、筆を握る指先、頬に付いた絵の具。
どれも大きく修正を加えた訳じゃない。
「こんなところまで描いてる」
天月さんは頬に付いた絵の具を指差した。
「うん、印象に残ったからさ」
「また変なところ描いてるじゃん」
「変じゃないよ」
「真面目な顔して誤魔化してる」
「いや、本当に言ってるんだってば」
「どうだか」
そう言って天月さんは取り合ってくれない。
でも、
「じゃあ、消した方がいい?」
「・・・・・・・・・・・・」
僕は訊ねると、天月さんは少し考えてから、首を横に振った。
「いい。見上くんは残した方がいいと思って残したんでしょ?」
「うん」
「ならいい」
そう言って、天月さんは肩を竦めた。
完全には納得している感じではない。
そりゃあ、絵の具を消した方が天月さんは綺麗に見える。
でも、作品として残すべきだと思って作品ファーストで受け入れてくれた。
それはなんだか、天月さんらしい。
「ちなみに、この絵はどう? 天月さんから見て」
僕は訊ねると、天月さんはまた考え込む。
でも今度は、その横顔から前みたいな浮かない感じはなかった。
「前の絵はすごく綺麗だったし、いい絵だと思ったけど、私はこっちの方が好き」
その言葉を聞いて、僕は胸の内から喜びが込み上げてくる。
「前の絵は、綺麗だったけど、綺麗過ぎて詰まってる感じがしたの」
「詰まってる?」
「ぎっしりしてるっていうか。余白がない感じ。でもこの絵はゆとりがある」
「言ってる事は分かる」
綺麗に整え過ぎたのだ、前の絵は。
僕はふと、以前の風景画の事を思い出す。
前に描いた風景画と天月さんの絵を見比べた時、僕は自分の絵が模範解答だと思った。
知識を破綻なくキャンバスで詰め込んでいく。
巡り巡って、僕は天月さんの絵でも同じ事を繰り返していた。
でも、天月さんの言葉を受けて、改めて自分の絵と向き合って、描き直してみると、こっちの絵の方が完璧ではないけれど、でもだからこそ生が息づいているような気がした。
「・・・・・・でも、この絵はちょっと困る」
「なにが?」
「眉間に皺あるし、髪も整ってないし、絵の具付いてるし」
「やっぱりそこ気になるんだ」
「見上くんが変なところ見てるのが気になるの」
「僕にとっては変じゃないから」
抜けてるところも、天月さんだ。
絵を描いている彼女を見れば、その時々で色んな表情が現れる。
でも僕は、前の絵でその中から同じ方向に向かうものばかりを選び過ぎた。
綺麗で、真剣で、隙がない。
そういうものばかり選んでいた。
でもそうじゃない。
絵を描いていれば疲れるし、眠たくなるし、気を抜く時もある。
それでもまた、絵を見る。
「そういうのも全部、最初からこのテーマの中にあったんだと思う」
天月さんは少し考え込んでから、
「そっか」
と、短く答えた。
眉間には、少し不満げなのが見て取れたけれど、でも、消せとは言わなかった。
すると天月さんは、改めてキャンバスを見て、言う。
「これ、県総文に出すんだよね」
「うん、その為に間に合わせたんだし」
「結果悪くても私のせいにしないでね?」
「しないよ。描き直すって決めたのは僕だから」
「ならいいけど」
「そこ気にしてたんだ」
「だって、私があんな事言ったから描き直してるんだから」
「いや、天月さんは描き直せって言った訳じゃないし。最終的にこれで出すって決めたのは僕だから」
「そうだけど」
「なんか意外」
「なにが?」
「天月さんも、そういう事気にするんだね」
「そりゃ思うよ。展覧会に出す作品なんだから」
ぶっきらぼうな口調だけど、そこは真剣に考えてくれていたようだ。
「なに、悪い?」
「別に。ただ意外だなって」
「バカにしてる?」
「してないよ」
「絶対してる」
天月さんは不服そうに眉を寄せた。
「・・・・・・・・・・・・」
何気なく、天月さんのその表情が気になった。
「なに?」
「いや、別に」
「・・・・・・また、見てたよね?」
「そりゃ、話してるんだから見てるよね?」
「そういう意味じゃない」
とぼける僕に、天月さんは不満げだ。
いい、その表情も。
僕の視線はつい、天月さんの顔を追ってしまう。
別に描きたいから見ている訳じゃない。
ただ、天月さんは見るたびに違って見える。
そしてそれを見るたびに目が離せなくなるのだ。
きっとこれからも、僕は天月さんから目が離せないと思う。
§
数日後、県総文へ出す作品が美術室からなくなると随分と広く、すっきりした印象を受けた。
美術室は少しゆったりした空気の中で今日も活動が行われていた。
けれど天月さんはいつものような真剣な目つきでスケッチブックに向かっている。
プリントアウトした写真を広げ、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。
僕はなんとなく、そんな天月さんを見ていた。
「・・・・・・・・・・・・」
高校に入った頃の僕は、自分にしかない『なにか』を探していた。
勉強も運動も人付き合いもそれなりで、可もなく不可もなく当たり障りない凡人だった。
だから誰にも代わる事の出来ないものが欲しかった。
そして、俯見先生の誘いをキッカケに美術部に入り、そこで活路を乱そうとした。
でも、現実はどこまでも地続きで、美術の世界においても、僕は何者でもないのだと思い知らされた。
天月さんの絵を目の当たりにした時、彼女のような人が天才なのだと思った。
そして反対に、僕が凡人である事を再確認も出来た。
でも現実を突きつけられて心が折れた訳じゃなかった。
今にして思えば、天月さんの才能を目の当たりにして、僕は諦めてもよかったのに、でもそうはならなかった。
むしろ君に心惹かれた。
どうしたらこんな風に描けるのかと。
多分、二年に進級して天月さんの風景画を見て圧倒されたあの日が分岐点だったと思う。
あそこで心折れて、絵を描く事を諦めるか、それとも描き続けるか。
そして僕は後者を選んだ。
その後は、ずっと天月さんを観察し続けた。
飽きもせず、ただひたすら君を見続けた。
最初は天才の正体を知りたかった。
でも、いつからか僕は天月さん自身を見ていた。
そして見続けた先で、白紙に君が現れるようになった。
何十分も掛けて見た石膏像は全く残らないのに、天月さんだけはほんの一瞬でも鮮明に残った。
不思議な現象に出会ってからというもの、僕はひたすら君を見続け、描き続けた。
最初は謎を解き明かす為だったけれど、途中からはただただ君を描きたかった。
観察するたび、色んな天月さんが見られて、僕は楽しかったし、新鮮だった。
そしてもっと知りたいと思った。
君を描き留めたいと思った。
描き逃したくないと思った。
だからひたすら君を描いた。
そして描いているうちに、僕の中で『なにか』が形になっていた。
ほんの僅かな表情の変化に気付く事、一瞬しか見ていない姿を鮮明に覚えている事、本人さえ意識していない仕草まで自然と目で追ってしまう事。
最初から僕にそんな特別な目があった訳じゃなかった。
ただ、君への執着心が僕の目を育てた。
僕はずっと、自分にしかない『なにか』を探していた。
そしてようやく分かった。
君だ。
天月さん、君が僕の『才能』だ。
誰よりも君を見て、誰よりも君を描こうとする。このどうしようもない執着心が僕の才能なんだ。
だから僕は、これからも君を見る。
そして僕は、君を描き続けるよ。
きっと変な顔も描いてしまうと思う。
そしたら君は怒るかな?
でも、その顔も見てみたいし、描きたい。
君の全てが、僕が筆を握る原動力なんだ。
