天才観測

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 午前中はずっと目を描いていたけれど、次は『鼻』に移る。

 鼻筋から小鼻へ続く形を、これもまた角度を変えながら何度も描いていく。

 たまたま横を通り過ぎる部員がギョッとした視線を向けるけれど、これも気にしない。鼻先であしらう。

 天月さんと紙を何度も往復しながら、これもまた何枚も描いていき、一つ描くたびに椅子をズラして角度を変える。

 角度を変えれば正面からでは見えなかった小鼻の膨らみや鼻筋のなだらかなカーブがよく分かる。

 そうして鼻を何枚か描き終えると、今度は『口元』に視線が向かう。

 天月さんの唇は薄く、色も淡い。輪郭も整っていて、黙っている時はすっかりした形をしている。

 けえれど、これもまた意識して見てみると、全体の一部として描いていた時には気付かなかった変化が見つかる。

 天月さんが黙ってキャンバスを見ている時、口元はほとんど動かない。

 けれど時折、息を吐いたり唇を噛んだり舌先で僅かに湿らせたりと、思っていた以上によく形を変える。

「・・・・・・・・・・・・」

 今も。

 天月さんは唇を内側に巻きこんで隠すような仕草を見せた。

 その瞬間、さっきまで一本の緩やかな線を描いていた口元が平たくなり、僅かな笑窪も出来る。

 その一瞬の変化も逃すまいと、目に焼き付け、覚えているうち線を引いた。

 次に顔を上げた時には、もう元の口元に戻っていた。

 そうした変化を目の当たりにしながら、ひたすら口元を描き続ける。

 別のページでは普段の状態の唇を描く。

 薄く淡い唇は上下で厚みが僅かに違い、正面から見ると整った形に見えるけれど、横から見ると唇の厚みがよく分かる。

 口元も同様に、何度も椅子をズラして角度を変える。

 ただ、鼻よりも厄介なのは、口元はジッとしてくれない事だ。

 キャンバスを見つめながら考え込めば唇を僅かに結び、無意識に息を吐けばその隙間が緩む。乾いた唇を舌先で湿らせる事も。

 でもだからこそ、見ていて飽きないし、面白い。

 黙っている時、少し力が入っている時、気が抜けた時。

 その時々の気持ちの変化で口元はコロコロと表情を変え、僅かな違いだけで顔全体の印象まで変わるのが分かった。

 口元だけを見るつもりだったのに、いつの間にか僕の視線はその周囲へ広がっていた。

 口元から頬へ続く線や、下唇の下に落ちる僅かな窪み、そこから顎に繋がる起伏。

 一つの部分だけを切り離して見ていると、その形がどこで終わっているのか分からなくなる。

 口は口だけで存在している訳ではなく、頬や顎と繋がったまま一つの表情を作っている。

 僕は鉛筆を止め、紙に並んだ口元を見返しながら、今度はその形が周りとどう繋がっているのかを確かめたくなった。

 そこでふと、美術室の時計を見てみると、もう一六時も近かった。

 いつの間にか、周りでは部員たちが後片付けを初めており、もうすっかり時間が経っていた。

「もうこんな時間か」

 そこでフッと緊張が解かれ、身体を動かすと、描きっぱなしで猫背気味だったからか、背中がバキバキと悲鳴を上げる。

 午前中は『目』。午後は『鼻』と『口元』。

 一日掛けてまだ顔の一部しか見られていない。まだまだ先は長そうだ。

 それでも、朝よりも確実に天月さんの解像度が上がった実感はある。

 僕は最後にもう一度、今日描いた絵を一通り目を通してからスケッチブックを閉じた。

 続きは、明日だ。

§

 翌日も、僕は朝からスケッチブックを開いた。

 昨日までに『目』『鼻』『口元』と描いてきたので、今度はまだ残っているパーツに視線を移し、『眉』『頬』『顎』、それから顔の輪郭を観察する。

 どのパーツも一つだけを取り出して見れば、昨日同様に色々な発見があった。

 眉はただ目の上に伸びている線ではなくて、眉頭から眉尻までで毛の向きも密度も違う。

 頬も、正面から見ればなだらかな面に見えるけれど、斜めから見れば目元から口元の間には膨らみがあるのがよく分かる。

 そして丸みが下へ行くにつれて薄れ、やがて下顎の輪郭へ変わっていく。

 耳だけは少し勝手が違い、天月さんの髪は長く、普段はほとんど隠れて見えないので、描こうと思っていつでも描けるものではなかった。

 ので、僕は一瞬の好機に反射的に動く。

 キャンバスに向かう天月さんが、不意に髪を指で掬い、そのまま耳に掛けたので、僕は即座に鉛筆を動かした。

 髪の隙間から現れた耳の形を目で追い、見えているうちに紙に描き残していく。

 そうやって、忙しなく描き連ねているうち、午前中は過ぎていった。

 午後からは、昨日から気になっていた、一つの形がその周りとどう繋がっているのかを確かめる。

 例えば『目と鼻』。

 目頭から鼻筋へ落ちていく線やその間に出来る窪み、見る角度によって変わる鼻筋の幅。目と鼻を別々に描いた時には気にならなかったものが、二つを一緒に捉えるとよく見える。

 他にも『鼻と口元』『目と鼻と口』『口元と頬と顎』『目と頬』横顔から見た『額と鼻と口と顎』の輪郭など、それぞれの繋がりを確かめながら、バラバラに覚えたパーツを顔に戻していく。

 僕は組み合わせを変えながら、それを何度も紙の上で確かめていった。

 そうしているうちにまた何枚もページが埋まり、気付けばまた下校時間が迫っていた。

 昨日までは目や鼻、口元が紙の上にそれぞれ単独で並んでいたのが、今日はその間が少しずつ埋まり始めている。

 おさらいとして今日描いた絵を一枚一枚見返してから、僕はスケッチブックを閉じた。

 そして翌日、今度は最初から天月さんの顔全体を見る。

 すぐには鉛筆を動かさず、顔の中でそれぞれがどう収まっているのを見て、紙の上に置く位置を決めてから、薄く全体の形を取った。

 目元を描きながら、それと一緒に鼻との距離や頬の広がりまで含めて、それから線を引く。鼻を描く時も同様に口元、頬、顎の繋がりを見ながら描いていく。

 そうして各パーツの繋がりを意識しながら一つの『顔』を描く。

 単独で描いていた時よりも見る場所が一気に増えて、一本線を描くたびにその周囲まで同時に考えている感覚があった。

 少し疲れる。

 けれど、その分だけ今まで使っていなかったところに目を向けている気がした。

 正面を描き終えると、次は横顔だ。

 角度が変われば当然、見え方も違う。でもやる事は同じだ。

 まずは全体を見て、その中で一つひとつの位置を決めてから描く。

 瞬く間に時間は過ぎる。

 昼休憩を挟んでからも遮二無二、天月さんの顔を描き続けた。

 そうしているうちに、三日目も気付けば終わっていた。

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 終業式を迎える。けれど、美術部の活動はいつもと変わらない。

 僕はひたすた天月さんを観察する。

 顔を一通り描き終えた僕は、その外側へと視線を移した。

 まずは『髪』を描く。

 顔と同様に角度を変えて色んな方向から観察していく。後頭部の丸みに沿って流れる髪や、首や肩に重なって落ちていく形を丁寧に観察、描写する。

 そこから『首』『腕』『手』へ。

 形を一つずつ覚えるだけじゃなく、その前後の繋がりも確認する。

 首から肩へ続く傾き、肩から伸びる腕の向き、肘を曲げた時に前腕がどちらへ向き、そこから手首や手がどう続くのか。

 そして『胴体』『腰』『脚』も同様、各パーツの描写と、その繋がりを観察する。

 次いで、『肩から腕』『頭から胴体』『腰から脚』と各パーツを組み合わせていく。

 天月さんがキャンバスに身を乗り出している時には頭も肩も少し前に出るし、椅子に座っていれば腰の位置が変わり、それに合わせて太ももや膝の向きも変わる。

 立っている時にはどちらの脚に体重を預けているかで腰や肩の高さまで僅かに違って見えた。

 僕は部分だけを見るのではなく、その動きがどこまで繋がっているのかを追いながら紙に描き残していった。

 さらに日が進むと、今度は上半身『頭から腰』、下半身『腰から足先』までと、もっと大きな括りで描いていく。

 そして観察を初めてから十日目にして、天月さんの全身を視界に収めてた。

 すぐには鉛筆は動かさず、頭の位置や肩と腰の傾き、腕や脚の向き、それらが全体の中でどう収まっているのかを入念にチェックしてから、大きな形を紙に取っていき、そこから細部に入っていく。

 これもまた正面から、斜めからと角度を変えて観察、描写。

 こうして、最初は目元から始まった観察は、今では頭から足先まで、天月さんの身体が何度も描かれていた。

§

 天月さんについて入念な観察を終えると、いよいよキャンバスへと向かう――けれど、まだ天月さんを描くには足りない。

 僕はキャンバスボードを置き、絵の具を並べた。

「ねぇ」

「ん?」

「まだ描かないの?」

 天月さんが僕の前に置かれた小さな画面を見て言った。

「今から描くよ」

「そっちじゃなくて、本番」

「あぁ」

 部屋の端には、まだ手を付けていない三十号のキャンバスがある。

「十日くらいデッサンしてたのに、まだ描かないの?」

「次は色を確かめようと思って」

 僕は天月さんを見る。

 まず、目に入るのが長い栗色の髪。

 けれど栗色と一口に言っても全てが同じ色な訳ではなく、髪が重なっているところは深く見えるし、表面に出ているところは少し明るく見える。

 そして肌の色もそうだ。

 額は皮膚のすぐ下に頭蓋骨があって毛細血管も少なく、白っぽい。

 頬や小鼻の辺りは血の巡りが活発で赤やピンクのような温かみがある。

 目元は皮膚が薄く、微かな静脈の青が透ける。

 同じ肌でも一様に同じ色とは限らない。

 だから今から、天月さんの色を確かめる。

 僕はパレットに視線を落として肌の色を作るところから始めた。

 まずは白と黄と赤を混ぜて、天月さんの肌全体を支配する母色を作る。

 けれどこれでは能面のように単一の色にしかならないので、これをベースに額、頬、目元の三つのパーツに合わせて絵の具を調合していく。

 皮膚が薄く皮脂の多い額は黄色み。毛細血管の多い頬は朱色。薄い皮膚から静脈が透ける目元は青み。

 けれど、その色を頬単体と見比べてよしとはしない。

 すぐ横にある栗色の髪も一緒に視界に収める。

 すると、さっきまで完璧に思えていた頬の朱色が僅かに違って見えた。

 それらを踏まえて色を微調整しながら、何度も天月さんと色を見比べて限りなく近づけていく。

 それから数日、僕は小さな画面を使って調合を確かめ続けた。

 そして十分に納得のいくところまで済むと、ようやく三十号のキャンバスを持ち上げた。

「やっと描くの?」

「うん」

「間に合うの?」

「間に合わせるよ。でも妥協はしない」

 天月さんの言葉に頷き、イーゼルに乗せる。

 目の前に広がるキャンバスは真っ白だけれど、僕の中には道筋が見えていて、迷いはなかった。

 ここまでおよそ十日間。

 最初の一週間はひたすら天月さんを観察し、スケッチブックに天月さんを描き連ねたけれど、ここでようやく本番だ。

 僕はキャンバス越しに天月さんを見る。

 いつものように彼女は自分の絵に向かい、少し身体を斜めにして筆を動かしている。

 そこから視線を広げ、美術室の中での彼女の位置と、その周囲にある空間まで含めて一緒に見る。

 観察しながら、どんな風に彼女を切り取るのか頭の中で構図を練る。

 しばし考えて、画面の中央より少し左側に天月さんを置き、その視線と腕が伸びる先にキャンバスを入れる。そして背景には僅かな美術部の気配。

「・・・・・・よし」

 そこで僕は薄く溶いた絵の具を筆に取り、大きな形から置いていく。

 天月さんの身体と、右側にあるキャンバス。それから背景を大きなまとまりとして下書きの線を入れる。

 人物の大きさや傾き、周囲に残る空間、それが画面全体で収まりがいいかどうか、一度離れて確認してみる。

 違和感がないのを確認してから、いよいよ本番だ。

 まずは髪、肌、服、背景と、まずは大まかな色でキャンバスを埋めていく。

 髪が入ると肌が明るく見え、背景を落とせば人物が前に出る。服に色を入れればそこから伸びる腕の色が気になった。

 色同士が影響し合って、見え方もそれぞれ違ってくる。

 なら、全部を一緒に進めればいい。

 天月さんに視線を戻すと、彼女は自分の絵に集中していた。

 筆を置き、少し離れ、また近付く。時折、考え込むように動きが止まる。

 その間にも長い髪が肩から滑り落ちたり、筆を持つ腕の角度が変わったりする。

 ずっと同じ同じ姿じゃない。

 けれど、そのたびに描き直す必要もなかった。

 腕を伸ばした時の肩の傾き、絵を見つめる横顔、筆先へ続く手首の角度。

 それらを目の前の天月さんと見比べながら少しずつ形を整えていく。

 一週間、デッサンに費やしてきた事がここでようやく役に立つ。

 今までなら、横顔を描きながら鼻先の位置に迷ったり、腕を描きながらその先の手との繋がりを確かめたりしていたけれど、今は目の前に見ている形をそのまま追える。

 頬から顎、首、肩へ。肩から腕、手首、指先へ。

 一つの部分を描いていても、その先がどこに繋がるのか分かる、だから止まらない。

 顔にも少しずつ色を入れていく。

 額と頬、目元では肌の見え方が違う。

 頬に色を置いた後、そのままよしとはせず、髪や首元まで一緒に見る。

 少し赤いなと思えば色を僅かに調整してもう一度、置く。

 すると今度はいい感じで馴染んだ。

 他にも唇や目元、鼻など色を一つ加えるたびに別の場所が少しずつ違って見える。

 そのたびに天月さんとキャンバスを交互に見比べ、また気になったところに色を重ねる。

 気付けば画面の中にはもう白い場所がほとんど残っていなかった。

 勿論、完成にはほど遠い。

 顔はまだ大まかな色と形しか入っていないし、手も細かな指までは描けていない。

 背景も美術室の気配が薄く漂っている程度だ。

 それでも、キャンバスの中には椅子に座り、キャンバスに向かう天月さんがいた。

 長い髪が背中に落ち、その横顔から伸びた視線の先に、彼女自身の絵がある。

「・・・・・・・・・・・・」

 悪くない。

 というか、思っているよりずっといいかもしれない。

 画面の中で、それぞれの形が噛み合っている。

 僕は密かに手応えを感じつつ、まだまだこれからだと気を引き締める。

 一息吐いて、小休止を入れた後、再び筆を取る。

 次に目を向けたのは右腕だった。

 天月さんがキャンバスへと伸ばす腕を見て、それから自分の絵に視線を戻す。

 肘の位置をほんの少し下げる。

 すると肩から筆先までの線が無理なく繋がった。それに合わせて顔から腕に流れる形も自然に見えた。

「見上くん」

「ん?」

「もう片付ける時間だよ?」

 顔を上げると、いつの間にか終わりの時間が目前に迫っていた。

「もうそんな時間なんだ」

「だね」

「そういう天月さんもあっと言う間って感じだね」

「うん」

 言いながら、天月さんは自分のパレットを片付けるので、僕も筆を置いた。

 最後にもう一度、少し離れたところからキャンバスを見てみると、――まだ粗い。細部もない。

 それでも、今日の朝には真っ白だった画面の中に、天月さんがいる。

 僕はしばらくその姿を眺めてから、ようやく片付けを始めた。