天才観測

端的に、僕は凡人だった。

 なにか人より秀でているものはなにもなく、かといって人より劣っているものがある訳でもない。

 勉強も、運動も、人付き合いもそれなりにはこなせるけれど、テストで上位に食い込めるほど頭がいい訳でも、体育祭で歓声を浴びるほど運動神経がいい訳でもなく、かと言って最下位にもなれず、なんの記録にも記憶にも残らない。

 器用貧乏。中途半端。

 そんな言葉が僕にはよく似合うほど、僕は何者でもない何者かだった。

 僕という存在は、あまりにも「代替可能」だった。

 だから高校に入ったら、なにかを始めようと思っていた。自分にしかできない『なにか』を探す為に。

 そんな時、たまたま美術の授業で描いた絵が先生の目に留まった。

「見上くん、これどうやって描いたの?」

 その日の課題は、美術室から見える風景を描く事だった。

 僕はとくになにも考えずに窓の外に見える景色を描いた。

 出来映えを確認してみても、特別上手いという事はなく、まぁ可もなく不可もなくという感じだった。

 だから、後ろから声を掛けられた時も、なにか失敗でもしたのかと思った。

 振り返ると、美術教師であり美術部の顧問である俯見己影先生が僕の絵を眺めていた。

「え、どうって・・・・・・普通に描いただけですけど」

「最初に当たり取った?」

「当たり?」

「ほら、ここ」

 すると俯見先生は僕の絵を指差す。

「山とか建物とかいきなり描き始めてないよね?」

 言われてみれば、最初に全体の配置を決めていたっけ。地平線の位置をどこに置くか、建物や山の場所などを薄く線を引いて大まかな配置を決めてから描いていた。

「普通は目に付いたものから描き始める人が多いんだけど、君は場当たり的に描いてないよね。これ、絵を描き慣れてる人の考え方に近いよ」

「そんな大層な事じゃないと思いますけど」

「そう? 私は結構、面白いと思うけどな」

 俯見先生は僕を見て言った。

 なんだ、面白いって。どんな基準なんだ?

 でもそうは思いつつ、少しだけ嬉しかった。

「ねぇ、見上くん。美術部に興味ない?」

「え?」

「君、筋もいいし面白いよ。入部してみる気はない?」

「や、でも僕、絵とか全然描かないですよ?」

「それなら尚更、面白いじゃん」

 そう言って俯見先生は楽しそうに笑った。

「一度、放課後に美術部においでよ」

 俯見先生はもう一度勧誘するので、僕は答える前に、改めて自分の描いた絵を眺める。

 それは一見するとなんの変哲もない風景画のように見える。けれど俯見先生は、この絵の中になにかを見つけた。

 もしかしたら、この絵の中には僕自身も知らないなにかがあるのかもしれない。

 そう思ったら、少しだけ確かめてみたくなった。

 ――そして放課後、僕は言われた通り美術室へ向かった。

「お、来たね見上くん」

 緊張しながら美術室の扉を開くと、俯見先生が嬉しそうにはにかみながら出迎えてくれた。

「今日は見学だけでもいいから、適当に見ていって」

 俯見先生に促され、僕は中に入ると美術室には数人の部員がそれぞれイーゼルを立てて絵を描いていた。

 僕はそれぞれのキャンバスを見て回ると、皆一様に花瓶の絵を描いていた。

 モチーフとしては地味なものだ。でも、同じ場所から、同じ花瓶と花を見ている筈なのに、キャンバスの中にあるものはどれも少しずつ違っていた。

 ある絵は花瓶が大きく描かれ、別の絵では画面の端に寄せられている。花の色も違うし、背景の明るさも違う。

 ふと、その中で目を引く絵があった。

 部屋の少し奥のイーゼルの前で、僕の足は完全に止まる。

 そこにいたのは、一人の女子部員だった。

 ほんのり栗色に染まる背まで伸びた長い髪と、キャンバスに向かう切れ長の横顔。

 制服の上から黒のエプロンを身に纏い、制服の袖を少しだけ捲り上げ、静かな呼吸で筆を動かしている。

 彼女の筆遣いは、他の部員のものとは違っていた。

 輪郭をきっちり線で囲うのではなく、まるで魚の鱗や、舞い散る花びらのような、小さく繊細なタッチが幾重にも重ねられ、絵の具の粒がキャンバスにそのまま置かれているようだった。

 一見すると色とりどりの小さな点が密集しているだけに見えるけれど、半歩下がって全体を眺めた時、それは息を吞むような『光』へと変貌した。

 彼女の絵を見た時、僕は「上手い」と思ったけれど、刹那、その言葉を飲み込んだ。その一言でこの絵を言い表してしまうのは、あまりに失礼な気がしたからだ。

 確かにこの絵は上手い。

 上手いけれど、それだけでは足りない惹き付ける『なにか』があった。

 でも今の僕には、その『なにか』を言い表す言葉が思いつかない。

「やっぱり気になる?」

 不意に、すぐ後ろからひょっこりと顔を出した俯見先生が、僕の耳元で囁いた。

 ビクッと肩を揺らして振り返る僕を気にする事なく、俯見先生は誇らしげに目を細めてその絵と、彼女を見つめる。

「彼女は天月彩葉ちゃん。一年生だけど、うちのエースなんだよ?」

「天月、彩葉・・・・・・」

 感嘆と、どこか恐れ多いような感情が混ざり合い、無意識のうちにその名前が口から溢れ落ちていた。

 なぜ思わず呟いてしまったのか分からない。けれど、この名前は特別な意味を持ちそうな予感がした。

「・・・・・・・・・・・・」

 すると、僕の小さな呟きが届いたのか、集中していた筈の彼女の耳が、ピクリと跳ねるように反応した。

 彼女は筆を握る手を一瞬だけ止めると、顔を上げる事もなく、ほんの僅かだけ顎を引いて、僕たちの気配を感じ取る。

 けれどすぐに何事もなかったかのように、また静かな呼吸でキャンバスへと筆を走らせ始めた。

 僕は改めて周囲を見渡した。

 皆、同じモチーフを描きながら違うものをキャンバスに描き出している。そこに一つのこれといった正解はなかった。

 そして同時に、ふと自分自身の事を思い出した。

 僕はずっと特別になりたかった。

 勉強も運動も可もなく不可もなくでアピールできる事もなければ、コンプレックスを原動力に変えるものもない。そんな自分がずっと、ありきたりでつまらないと思っていた。

 けれど僕が今、目の当たりにしている絵には明確な答えがなく、その人にしか描けないものが生まれる余地がある。

 その中でなら、僕も『特別』を見出せるんじゃないか?

「見上くん」

 不意に、俯見先生から名前を呼ばれ、振り返る。

「どう? 美術部、興味ない?」

 そう訊ねる俯見先生は少し不安そうな表情に見えた。考え込んでいる僕の顔がつまらなく見えて心配したのかもしれない。

 けれど、そうじゃないと僕はかぶりを振った。そして、ゆっくりと口を開く。

「・・・・・・やってみたいです」

「ほんと?」

 俯見先生は一瞬、目を丸くした後、ゆっくりと表情を明るくした。

 僕は頷いて、改めて目の前のキャンバスを眺める。

 ここには僕の求めるものがあるかもしれない。

 そうした期待感を持って、僕は握ったのだ。

§

 けれど、現実はどこまでも地続きだった。

 翌日の放課後、僕は正式に美術部へ入部した。

「じゃあ、見上くん。今日は実際に描いてみようか」

 俯見先生がそう言って、僕の前にイーゼルを立てかけ、スケッチブックを置いた。

「なにを描けばいいですか?」

「なんでもいいよ。描きたいものを描いてみて」

 そう言われて、僕は美術室を見回した。

 机にはリンゴがある。形も単純で、初心者が描くには丁度よさそうだ。

 けれど、すぐに疑問符が浮かぶ。

 どうして僕はリンゴを描くんだ?

 次に花瓶を見る。花瓶には花が生けられ、リンゴほど単純ではないけれど、絵を描くには勉強になりそうだ。

 でも、なんで花瓶を描く?

 なら風景は?

 でも、僕は風景を描きたいんだろうか?

「・・・・・・・・・・・・」

 室内を見渡せば題材は沢山あるのに、どれも選べない。

 描きやすそう、勉強になりそう、初心者向きだから。そんな理由ならいくらでも思いつく。

 でもそれは「描く理由」にはなっても「描きたい理由」ではなかった。

「どうしたの?」

 俯見先生が不思議そうに僕を見る。

「・・・・・・なにを描けばいいのか分からなくて。リンゴを描こうかと思ったんです。でも、なんでリンゴを描くのかって考えたら分からなくて・・・・・・」

「うん」

「花瓶も、風景も同じで、描く理由が思いつかなくて」

 俯見先生はしばらく僕を見ていた。

 やがて、少しだけ笑う。

「じゃあ、先生ならなにを描くと思う?」

「え、先生なら?」

「うん」

 戸惑う僕を尻目に、俯見先生は楽しそうに声を弾ませる。

 突然の質問に戸惑いつつも、俯見先生が描くものを考えてみる。先生の技術ならなんでも描けるだろう、なら一番技術を要する対象を選ぶだろうか?

「風景、ですか・・・・・・?」

「どうして?」

「描きごたえがありそうだから・・・・・・」

「なるほど。――不正解」

 あっさりと切り捨てられ、俯見先生はさらに笑みを深めた。うん、分かる訳がない。

 俯見先生は一度、室内を見渡してから僕に視線を戻す。

「正解はね――今、困ってる見上くんの表情を描きたいかな」

「・・・・・・え、僕? なんでですか?」

「だって、面白いから」

「面白いって・・・・・・からかってます?」

「だって、リンゴにするか花瓶にするかで、人生の岐路に立たされたみたいな顔してるんだもん」

 戸惑う僕を見ながら俯見先生は実に楽しそうにクスクスと笑みを溢した。

 僕は呆れながらも、そんな単純な理由で描くものを選べる事が羨ましくも思った。

「じゃあ、私からお題出そうか?」

「・・・・・・お願いします」

「じゃあ、これ」

 そう言って俯見先生は机の上に置かれたリンゴを無造作に手に取り、僕の前に置いた。

「このリンゴをよく見て描いてみよっか」

「分かりました」

 僕は鉛筆を握った。

 赤くて、丸くて、少し窪んでいる。そこから細い軸が伸びている。

 僕はそれを観察し、見えたものをそのまま紙へ写していく。

 丸く、まるうく。

 心の中でそう唱えながら慎重に丸を描くも、少しだけ歪み、不格好に膨らんでしまう。ひとまず一通り描く事にして、ヘタと窪みも描き加え、一本ずつ線を重ねていった。

 しばらくして、鉛筆を置く。

「出来た?」

「一応・・・・・・」

 促されるままスケッチブックを俯見先生に見せた。

 そこには、一つのリンゴが描かれていた。

 丸は歪み、左右のバランスも崩れているけれど、見ればリンゴと分かるものではあった。

「うん。最初ならこんなもんじゃない?」

 俯見先生は絵を眺めながらあっけらかんと言うので、僕も自嘲気味に笑う。

 上手くもない、かと言って絶望的に下手という訳でもない。ただ、ひどく普通だった。

 僕はもう一度、自分の描いたリンゴを見る。

 そこに描かれているのは、見ればリンゴだと分かる程度の、どこにでもあるリンゴだ。僕という人間をそのまま紙の上に置いたような存在で、もはや親近感すら覚える。

 そこには僕の視点も、感情も、個性もない。

 けれど、だからと言って落ち込む事はなかった。当然、僕はまだなにも知らないのだから。

 なら、知ればいい。

 どうすれば物を上手く描けるのか、どうすれば人を自然に描けるのか、どうすれば色や光を思ったように扱えるのか。

 知識を増やせば見える景色も変わる筈だし、そうやって世界を知っていけばいつか僕だけの表現が見つかるかもしれない。

 絵には正解がないのだから。

 だからこそ、まだ僕の中に見つけていない答えがある筈だ。

 僕はそう信じてもう一度、鉛筆を握り直した。

 それから僕は、絵の基礎である人体、パース、色彩理論、構図を石橋を叩くように学んだ。

 最初はモチーフを描くのにも時間が掛かったし、形を取るだけでも何度も線を引き直し、陰影を付ければどこか不自然になった。

 けれど、分からないところを調べて、描き直す。

 そうした日々を積み重ねていく内、少しずつ描けるものが増えていった。

 吸収した知識は、確かに僕の世界に奥行きと、鮮やかな色彩を与えてくれた。

 そうしていく内に季節が一つ、また一つと過ぎていき、気付けば美術部に入部してから一年近くが経っていた。

「見上くん、最近上手くなったね」

 ある日、俯見先生にそう言われた。

「ありがとうございます」

 褒められるのは素直に嬉しかったし、以前の僕なら描けなかったものが描けるようになった、それが純粋に楽しかった。

 知識を一つずつ覚えていけば、着実に絵が上手くなっていった。僕の努力の方向性は間違っていない。

 そうして積み重ねていけば、いずれは僕だけの絵にも辿り着ける筈だ。

 僕は迷いなく、そんな事を考えていた。