七時間目が終わり、俺はすぐに桜庭のクラスへと向かった。
俺のクラスの方が早く終わったので、しばらく教室の前で待つ。
終礼の挨拶が聞こえ、先生が中から出て来た後に、解放感に満ちた弾むような声をあげて、生徒たちも廊下へと溢れる。
「お、姫。誰待ち?」
そのうちのひとりに話しかけられ、
「桜庭」
そう答えると、ワッ! と歓声が上がった。
思いがけない反応にきょとんとする俺を置いて、周りが盛り上がる。
「よかったな、王子」
「姫のお待ちだぞー」
まだ教室にいるのだろう桜庭に、廊下からふざけた呼びかけが飛ぶ。
「だから姫じゃねぇって——」
「茨っ?」
長い足を使って飛び出して来た桜庭に、何故か俺は言葉を失った。
久しぶりに会ったせいかもしれない。
前髪が少し伸びたな。
毎日会っていたときには気がつかなかった変化が、目に留まる。
桜庭は精悍な顔つきには似合わない呆けた表情を浮かべ、それから瞬きをし、ゆっくりと口角を持ち上げた。目尻が柔和に垂れ下がり、戻って来た飼い主を出迎える飼い犬のように嬉しそうに笑った。
こちらが恥ずかしくなるくれーの満面の笑顔に、
「よぉ」
と照れ隠しに片手を上げると、周りから拍手が湧き上がった。
「姫ー。王子、お前に嫌われたってずっと落ち込んでたんだぞー」
「じめじめしてマジうざかったよなー。教室にキノコ生えるかと思ったわ」
「さっさと仲直りしてやってくれ、頼むから!」
はじめて聞く情報に、俺は首を傾げる。
「そうなのか? 桜庭」
「悪ぃか」
不貞腐れるように唇を突き出して認めた桜庭に、俺は腹の底から込み上げてきた笑いに、身体を二つに折った。
「ちょっと話そうぜ」
俺が桜庭を誘ったのは、いつも怜と飯を食っていたベンチだった。
放課後なので、グラウンドではサッカー部が練習の準備をしている。ストレッチをする者、コーンやボールを運ぶ者、監督と話している者、給水のためジャグを運ぶ者。種別は違っていても、懐かしい空気感に少しだけ目を細める。
腰を下ろすなり、桜庭が「悪かった」と頭を下げた。
「俺は間違ったこと言ってねーが、言い方は悪かったと思う」
「——俺も、お前の気持ちを考えずに、感情的になって悪かった」
俺も頭を下げると、桜庭はベンチの背もたれに背中をずるずると滑らせ、足を地面へと投げ出した。
「——よかった。もう人生終わったかと思った」
「はは。んな大袈裟な」
「大袈裟じゃねぇ」
桜庭の手が伸びてきて、俺の頬に着地した。
桜庭は真顔のまま、俺を見つめる。
風が吹いて、桜庭の前髪が眉の上で揺れた。一時停止のボタンを押されたみたいに、俺たちは見つめ合う。
「——茨、俺は——」
桜庭の声に重なるように、
「———……い」
遠くから呼ばれた気がして、ハッと視線を逸らす。それと同時に、桜庭と俺だけだった空間に罅が入った。
「————せん、ぱーい……」
見ると、雪が精一杯の声を出しながら、駆け寄って来る。
何かトラブルが起きたのを感じ取り、立ち上がった俺の胸に、雪が倒れ込んで来た。
「——どうした?」
「——せ、せんぱい……」
はぁ、はぁ、と肩を大きく揺らしている雪を抱き止める。
桜庭の小さな舌打ちが聞こえたような気がしたけれど、それどころではない。
雪は慌てて俺から離れて、「すみ、ません……」と謝ってから、声のトーンを上げた。
「し、新寺君が、だ、断罪される、かもしれません……!」
「——はぁ?」
断罪なんて聞き慣れない言葉に、一体何をするのかわからなかったが、雪の血相を変えた様子に、緊急事態であることは伝わってきた。
「——断罪ね。まぁ遅かれ早かれ、そうなるんじゃねぇかと思ってた」
全く驚いていない桜庭に、俺と雪が「えっ」と声を上げる。
「そりゃあんだけ茨をヘイトすりゃ、黙ってられねー奴らもいるだろ。先輩を馬鹿にする態度を取ってんだから、喧嘩売ってると受け取られて当たり前だ」
「だとしても……っ! それは俺と怜の問題じゃねーか! ——行くぞ、その、断罪をしてるところに……!」
「そ、それが、場所はわからなくて……ッ! 俺は、新寺君が連れて行かれるところを目撃して、先輩に伝えなきゃって——」
「じゃあ、探す!!」
飛び出そうとした俺の首根っこを、後ろから掴まれる。
鼻から息を吐き、腰に手を当てる、いかにもやれやれなポーズで、桜庭が言う。
「場所なら心当たりがある。俺も一緒に行ってやるよ」
「助かる! ありがとな、桜庭!」
「不本意だが、姫をエスコートすんのは、王子の役目だからな」
桜庭の心当たりとは、体育倉庫の裏手だった。昔は庭園にでもなっていたのだろう。今は花壇らしき煉瓦が埋もれ、水栓があるばかりの雑草の生い茂った場所だった。校舎からもグラウンドからも少し外れた、普段は誰も足を運ばないようなところだ。
「目立たねーから、人を呼び出すとすれば、ここだ。告白と喧嘩の聖地だ」
「対極の使われ方してんな……」
桜庭は中学からの持ち上がりで寮生でもあるから顔が広く、校内のことはよくわかっている。
桜庭に導かれ、辿り着いたそこには、怜を囲む集団がいた。和気藹々とした雰囲気は微塵もなく、睨み合っている。
「お前らぁぁぁぁ! 何してんだぁ!」
桜庭と、遥か後方を走っている雪を置き去りにし、俺は集団へと突っ込んだ。
そして、集団の中心で、怜の胸倉を掴んでいる奴を捉える。
見覚えがあるどころじゃねぇ。俺の前の席の奴だ。
そいつの腕を掴み、体育で習ったのを思い出しながら、柔道着の奥襟を掴む要領でブレザーの襟首を掴む。そして上体を沈め、腰を軸に跳ね上げるようにして投げ飛ばした。
「多勢で何やってんだ! 馬鹿!」
いきなり乱入してきて、仁王立ちで怒鳴る俺に、投げ飛ばされた奴はもちろん、その場にいる全員が目を丸くした。
「——一本! 姫の勝利!」
審判の真似をした桜庭が片手を上げる。
すると、さっきまで険悪な雰囲気はどこへやら、盛大に盛り上がる。
「決まった! 姫の一本背負い!」
「きれいだったな……!」
投げられた奴も腰を摩りつつ、「お見事」とにやけている。
「褒めてる場合かァァァァァァ!!」
俺は、ダン! と地面を踏み締めた。
その場にいる連中は、ほとんど見知った顔だった。二年生ばかり。同じクラスの奴らも混じっている。
「二年生が集団で一年を締めてんじゃねー!」
気まずそうにお互いに顔を見合わせた連中は、拗ねた顔で言い訳をする。
「いやぁ、だってよぉ、俺らの姫が馬鹿にされてんだぞ」
「抗議すんだろ、そりゃ」
「お前は絶対怒らねーだろ、何を言われても。だから、俺たちが代わりに怒るんだ。誰だって自分の大事なものを、他の奴に貶されりゃ嫌な気分になるんだよ」
「俺たちは姫が——いばら姫が好きなんだ」
真っ向から小っ恥ずかしいことを告げられ、熱が顔に集まってくる。
「な、なんで、そんな、俺なんかを」
「その無自覚のところがいいんだよな」
「はぁ?」
連中が口々に喋り出した。喋りたくて仕方がないと言わんばかりに、目が炯々と輝いている。
「綺麗な顔なのに、めちゃくちゃ変顔したり、寝癖つきまくってるギャップが刺さるんだよ!」
いや。そこは普通にがっかりしねぇか?
「なんか無防備に距離感近いのも、ドキドキするんだよなぁ。すぐに肩組んでくるし」
いや。それは体育会系のノリ。
「クラスの奴、全員の名前を入学式翌日には覚えてくる律儀さもいいよなぁ」
それくらい当たり前じゃねぇ?
「テスト前には、自分の勉強時間を割いて、俺たちの勉強を見てくれるの助かるよな」
そりゃ皆で進級してぇだろ? 留年してほしくねぇから。
「地獄のマラソン大会もさ、途中でしんどくなった俺を背負って救護室に運んでくれただろ? すげぇ感謝してる」
え、まだそれ覚えてんの? お前らこそ、律儀じゃねぇか。
なんで俺、こんな小っ恥ずかしい目に遭ってんだ?
誰か助けてくれ。
救いを求めて振り返った先で、ようやく追いついた雪が、ぜぇぜぇと荒い呼吸をしながら、
「あ、あの、俺もっ、せ、先輩に、助けてもらって、……! それに、優しい言葉をかけてもらって! お、俺の、神ですー!!」
追い討ちをかけてきた。
それにちゃっかり便乗した桜庭が、指でハートを作ってウィンクをする。
「俺も好きだぜ、茨」
なんだ、これは。
なんの茶番だ。
「お前ら、俺を揶揄うのもいい加減に——」
「いいですよね、先輩は」
「そうやって、誰からも好かれて」
綺麗な色のパレットに墨汁を落としたような、声が混ざる。
輪の中に入れず、蚊帳の外に置かれた怜が、拳を震わせながら俺を睨んだ。
「なんでなんですか、なんで先輩ばっかり好かれるんですか? 色々言って誤魔化してますけど、皆、先輩の綺麗な顔が好きなんでしょ? 可愛い顔や綺麗な顔を見て、いいねを押すんでしょ? それなのに、中身が思っていたのと違ったら、どうして文句を言うんですか? 僕は、僕のまま振る舞っているだけなのに、顔は良いのに性格悪いって散々言われて、——先輩だって外見と中身、違うじゃないですか……! どうして先輩はギャップがあっても許されているんですか?!」
「ずるい!」
怜が叫ぶ。
ずるい! ずるい!
大きな目から涙をぽろぽろと落とし、俺を糾弾してくる。
「なんで先輩はありのままを受け入れてもらえるんですか! さっきの背負い投げだって暴力じゃないですか! なんで投げられても、嬉しそうにしているんですか?!」
怜にいきなり矛先を向けられた彼が「え、俺?」と自分を指差して、
「いや、姫に投げられたとき、いい匂いがして、ラッキーだなって」
「変態!!」
ズバッ!!
舌鋒鋭く切りつけられた彼が倒れる真似をする。
桜庭が鷹揚に微笑んだ。
「いや、新寺が好かれないのは、お前に謙虚さと思いやりがねーからだ」
どストレートな正論パンチ。
今度は怜が真っ青になって胸を押さえた。そして、ころりと掌を返し、俺へと泣きついてくる。
「いばらせんぱーい、このひと、ひどくないですか?!」
「はは」
俺は乾いた笑いを浮かべ、怜の頭を撫でた。
「——気が済んだか?」
言いたいことを全部吐き出したのか? と聞くと、怜は「まだまだ不満ならありますよ……!」と頬を膨らませる。
俺は、よし、よし、と頭を撫で続ける。
「——俺も、怜の顔目当てで近づいたから大きな顔はできねーけど、怜のこと、中身も可愛いって思ってるよ。なんか荒ぶってる猫みたいで」
最後の一言に、皆の肩ががくりと下がる。
怜が涙目で恨みがましく俺を見上げた。
「——だったら、もう一度つき合ってください」
目を瞠る俺より、周囲の反応が早かった。
「はぁ!?」
「なんでそうなるんだよ!!」
「お前、どの口が言ってんだ!」
火に油を注いだみてぇに、非難轟々の中、怜がべーっと舌を出し、守ってくれることを信じ切った様子で俺にしがみついてくる。
「やっぱり、先輩なら僕と釣り合います。今なら許してあげるので、僕とまたつき合いましょうよ」
「お前、茨の悪口言ってたのは、小学生が好きな奴をいじめる、あれか?」
腕組みをした桜庭が怜に冷たい視線を向ける。
「そうですよ。元はと言えば、あなたが悪いんです。あなたのせいで僕は先輩と喧嘩しちゃったんですから」
「悪いのは配慮のないお前だ。甘えすぎなんだよ、わがまま姫さん」
「あれ? そうやって僕をいじめるってことは、僕のこと好きなんですかー? 小学生と一緒ですねぇぇ?」
「悪ぃな。お前みたいなクソガキ、好みじゃないんだわ」
桜庭と怜が丁々発止、言い合うもんだから、
「俺を挟んで言い合うなー!」
「——ちょ、ちょっと、待ってください……!」
今度は何かと思えば、雪だった。
「せ、先輩が、し、新寺くんと、つき合ってたのは、『ふり』ですよね?! せ、先輩は俺の推しなんです……! み、みんなのものです! 共有財産です……!」
次から次へと突拍子のないことを言って出てくる登場人物に、俺は頭を抱えたくなる。
「そーだ! そーだ! いばら姫は皆のものだ!!」
「一年は引っ込んでろ!」
怜が、ふんと顎を上げて、煽りポーズをする。
「大人気ないですよ、先輩方。僕に負けているからって」
「マジ可愛くねーな、こいつ!」
「顔が可愛いだけじゃ駄目ですか?」
「駄目に決まってんだろ!」
収拾のつかない大騒ぎの中、するりと俺の頬を撫でる手がひとつ。
「つき合うなら、俺だよな?」
悪ノリをした桜庭まで参戦してきて、俺は「ワー!!」と叫んだ。
「いい加減にしろー!! くだらねーことで喧嘩すんな!! 俺は俺のもんだ!!」
その場から逃げ出した俺の後を、まずは桜庭が、次に怜が、そして雪が混ざった集団が追いかけてくる。
「やっぱ姫には王子が相応しいんじゃねーの?」と桜庭。
「何言ってるんですか! 綺麗な姫には可愛い姫がお似合いです!」と怜。
「姫は皆のものですって!」と雪を先頭にした集団。
口々に好き放題言いやがって!
なんでこんなことになっちまったんだよ!?
だから、俺は姫じゃねーんだよ!!
