第三章 白雪姫
昼休みのチャイムが鳴る。
途端にざわめき出す教室で、俺はデカいため息を吐いて、机に突っ伏した。すると、前の席の奴が「どした? しんどいの?」と声をかけてくる。
「…………」
肘に額を置いたまま、そいつを見上げる。
「…………せた」
「え?」
「……怜も、桜庭も、怒らせた」
うおおおおー!
机にへばりついたまま、両手で髪を掻き乱す。
昨夜は一睡もできなかった。何が悪かったんだろうとそればかり考えて、結局は俺が悪かったんだとのたうち回り、亀裂が入ってしまった関係の修復に頭を悩ませているうちに、朝日が昇っていた。
「新寺はともかく、王子を怒らせるのはやばいなぁ。あいつが怒ってるところ、中学んときから一回も見たことねーもん」
「そうだよな……。俺も学校と寮で四六時中一緒にいるけど、はじめてだった」
「あいつ、なんで怒ったんだ?」
「————俺が睡眠不足で、ぼうっとしてるから心配させた」
「あー……」
思い当たることがあるらしく、斜め上を見る彼に、俺は空気が抜けた浮き輪のようにへこんだ。落ち込んだ俺の肩を、慰めるようにトンと叩かれる。
「俺たちは姫が頑張り屋だって知ってるからなぁ。新寺につき合いながら、勉強もクソほどやってたんだろ? それでいてクラスの委員の仕事もやってくれてっし。いつもおもしれーこと言って笑わせてくれて、目の保養にもなってくれて、ありがとな」
「……お前らも俺のこと心配してくれたのかよ」
「姫はマジで鈍いなー」
髪を掻き上げられ、デコピンをされる。
「いてっ」
「飯は? 食わねーの?」
「……今日はいい。寝る」
またもや机に突っ伏した俺は、「元気だせよ」と柔らかい応援を受けたので親指を立てて応え、それから瞼を下ろすと同時に眠りに落ちた。
怜とも、桜庭とも、一緒に過ごさない昼休みははじめてだった。
俺の世界の中心にいた彼らがいなくなり、朝、身支度を整えた後、淡い期待を込めて扉を開けるのが日課となった。
数日前まで「よぉ」と笑顔とともに片手を上げて立っていた姿はない。
未練がましく、しばらく待っていても桜庭は現れなかった。
桜庭とはあの日以来、学校でも寮でも顔を合わせていない。
やっぱり避けられてんのかな……。
肺の底から、深い息が漏れる。
足が重くて、数分で着くはずの距離が長く感じられた。
昼飯をどこで食うか。
食堂に行けば桜庭に会えるかもしれないが、俺の胸には、桜庭が怜に対して放った台詞の数々が棘のように刺さっている。
いくら俺を心配していたとはいえ、怜に対してあんな言い方をされたのを見過ごすわけにいかねー。
本音としては仲直りしたい。けれど、桜庭が怜のことをあんな風に感じている限りは無理だろう。
それに、怜の問題もある。お試し期間が終わり、恋人という仮の関係を清算したとして、これから先は友達としてつき合っていくっていうのは無神経なのだろうか?
一ヵ月近く一緒に過ごした中で、怜がどういう奴なのかは理解したつもりだ。
世話のかかる弟のように感じていたから、ここでぷつんと関わりが切れてしまうのは寂しい。
結局、パンを買うために教室を出て、行き場を求めて放浪することになった。
廊下をぼんやりと歩く俺に、「こっち来いよ! 一緒に食おうぜ」と声をかけてくれる奴らもいたけれど、「またな」と断って、人の少ない方に歩いているうちに、実技教科の準備室が並んでいる棟へと足を運んでいた。
人の気配が少なくなるにつれて、さっきまで聞こえていた話し声も遠ざかっていく。
上靴の足音がぺたぺたと響いた。
そろそろ昼休みが終わっちまう。
適当なところで食うか——。
階段にでも腰を下ろそうかと足を止めたとき、少し先にある技術準備室のドアが開いた。
見覚えのある、ふわふわの髪の毛が現れる。
「あ」
心象が一音の言葉となって転がり落ち、その音に顔を上げた人物がぎょっと後退りをした。
「あ、えっ?! 先輩!?」
「久しぶり。白地」
白地は幽霊にでも遭遇したかのように、ぴょんと飛び上がり、大きな眼鏡も同じように跳ねた。
「ど、どうしたんですか、授業の準備で、な、何か取りに、こ、来られたんですか……?」
「いや。飯を食う場所を探してた」
俺が持っているパンを見せると、白地は「あ、あの……じゃあ、ここ、どうぞ……!」と準備室へと手招いた。
「え? いいの?」
「は、はい。俺、ここでお弁当を食べたり、勉強をする許可をもらって、るんで」
「俺が使ってもいいのか?」
「せ、先輩なら、だ、大丈夫です……! ど、どうぞ……!」
中を覗いてみると、狭い空間に技術で使う工具類が積まれ、金属と木材の匂いが混じっていた。
壁際には工具箱や材料が雑然と並べられている。その隅に場違いなほど小綺麗な机と椅子が置かれていて、そこには教科書とノートがきちんと並べられていた。
「あ、あの、俺、トイレに行ってくるんで、先輩はご飯を食べて、ください……!」
「ありがとう。ごめんな、邪魔して」
「だ、大歓迎、です……!」
白地は「わー!」と真っ赤に染まった頬を両手で挟み、一目散に出て行ってしまった。
白地の好意に甘えて、俺は椅子に座り、パンを口に運んだ。
置かれている教科書は白地のものだろう。二年生の俺たちが使っているものと一緒だ。
ノートにはびっしりと解答が書かれている。
そういえば、白地も高校からの新入生だった。その書き込み量と内容を見る限り、俺と同じ特待生なのかもしれない。
もう時間もないし、食欲がないからパンも一つしか買っていない。
急いで食べると、あっという間に昼飯が終わった。
寮で淹れてもらった水筒のお茶を飲んでいると、廊下をばたばたと走る足音が近づいてきた。
それが扉の向こうで、ぴたりと止まる。
そして、おずおずと扉が開けられた。
「————」
ぴょこり、と顔を出す様子が小動物のようだ。
「おかえり」
声をかけてみれば、「うっ」「はぅ」「うぐぅ」と奇妙な声を出して、まるで命綱のように扉へと掴まる。
「……夢、じゃ、なかった」
白地が腰から砕けそうになったので、俺は慌てて立ち上がる。
「あっ、先輩は、す、座ってて、ください……!」
「じゃあ、俺はこっちの椅子に座るから、白地はこっちに座れよ。勉強してたんだろ?」
奥の方に片付けられていた丸椅子に座り、白地を手招く。
「あ、ありがたき、しあわせ、です」
白地は俺の視界に入ることを恐れているかのようなスピードで横切り、椅子に尻を着地させた。
「昼休み、いつもここにいんの?」
「は、はい。さ、騒がしいのは、苦手、なので。先生に、相談したら、ここを使っていいって、言ってもらえて——」
「そうかぁ」
「あ、あの、先輩は新寺君と、ご飯食べなくていいんですか?」
「あぁ。もう終わった」
「え? おわった?」
「なぁ、白地。なんで俺と怜がご飯食ってたのを知ってんの?」
「おふたりとも、ゆ、有名ですから。友達がひとりもいない俺でも、知ってます。それに、し、新寺君は、いつも、自慢してました。氷のいばら姫と、つき合ってる、って——」
「そうなのか」
怜は友達なんていねーって言ってたが、誰とも話してねーわけじゃなかったのか。
「あいつら、僕と釣り合いませんから」
そう言っていた怜の、周りを寄せ付けない吐き捨てるような口調を思い出す。
俺とつき合っていることを話しているなんて意外だった。
——っていうか、俺は怜の一面しか知らねーんだろうな。
怜だけじゃねー。桜庭のことも。
「——白地。お前の勉強の邪魔はしねーようにするから、明日もここに来ていいか?」
「ひゃわ?! あ、明日も!? も、もちろんです……! せ、狭いところ……ですが、どうぞ……!」
「ありがとう」
窓枠に掛けられている時計を見て、
「そろそろ教室に戻ろうぜ」
と椅子を片付ける。
白地もバタバタと机の上のものをリュックに突っ込んで背負った。
「すげー荷物」
遠足に行くみたいに膨らんでいるリュックに思わず笑みをこぼすと、白地が照れたようにこめかみを人差し指で掻く。
「へ、変ですか……?」
「変じゃねーけど、重そうだから持ってやろうか?」
「い、いえ……! 成瀬先輩に、持ってもらうなんて……滅相もない、です……!」
「重たかったら、遠慮なく言えよ。あ、俺のことは茨でいいよ。仲の良い奴らは下の名前で呼んでっから」
「ひぇっ! こ、光栄です……! じゃ、じゃあ……俺のことも雪って、よ、呼んでもらって……いいですか……?」
「雪。りょーかい」
綺麗な名前だな。
白地は肌の色も白いし、ふわふわの髪の毛も相まって綿毛みたいだと思っていたから、雪って名前はぴったりだ。
俺は二年生の教室がある二階へ、雪は一階へ。
階段で手を振って別れる。
三歩ほど進んだところで振り返ると、雪はその場でまだ手を振っていた。
「早く教室行けよー」
口元を手で囲って声を飛ばすと、
「は、はいっ……!」
勢いよく回れ右をした雪が壁にぶつかった。
「わっ!」
息を飲み、焦って駆け寄ると、雪が落としてしまった眼鏡を拾い上げる。そして、恥ずかしそうに笑った。
「——ドジで、すみません」
「——————」
眼鏡を元の位置にきっちりと装着し、何度も頭を下げながら、階段を下りる雪を見送る。
ふわふわの髪が揺れて、白い首筋が照れたように赤く染まっている。
その姿が階段の向こうへ消えていく。
五時間目の授業が始まるチャイムが鳴っても、俺はそこから動けなかった。
階段を昇ってくる先生たちの気配を感じて、ハッと我に返り、教室へと走る。
——ここにも、姫がいんじゃねーか。
雪と過ごす技術準備室は静かだ。
昼食を食べる際に「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせる以外に、雪はあまり喋らない。
弁当箱を片付けると、教科書とノートを取り出す。
集中のスイッチが入った雪の背中が丸くなり、ノートを走るシャーペンの音が響く。
その隣で、人が側にいると集中できないタイプの俺は本を読むことにしていた。
賑やかな教室も嫌いではないが、静かな狭い空間で雪と過ごすのは落ち着く。
相手によって昼休みの過ごし方が色々あることを知った。
ひと区切りついたのか、雪の手が止まり、背中が伸びた。
俺はノートを覗き込み、この短い時間で読みやすく纏められている数式の羅列に感嘆した。
「すげぇ速いし、わかりやすい」
「まだ答え合わせをしていませんから」
「いや、合ってるよ」
細かく確認していないが、解答の流れは間違っていない。
雪は解答をきっちりと確認し、解説もしっかりと読んだ上で、「ふぅ」と息を吐いた。
「雪って集中力すげーな」
話しかけると、夕焼けよりも真っ赤になって、肩を丸める。
「……お、俺、勉強くらいしか、取り柄ありません、から」
「そんだけの取り柄なら自慢できるよ」
「そ、そんなことは……」
「雪って目が悪いのか?」
特徴的なぶ厚い眼鏡が気になった。
「はい。重度の近視と乱視で——」
「コンタクトにはしねーの? 俯いていたら、眼鏡重そう」
雪は「……えっと、ですね」と眼鏡のつるを触りながら、少し言い淀む。
「——眼鏡を外すと、し、知らない人に、じろじろ、見られたり、話しかけられたり、するので……、苦手です」
注目を浴びたくねーのか。
「その気持ちは少しわかる。俺も今は気にしねーが、ここに入学したとき、いろんな奴にじろじろ見られっから、喧嘩でも売られてんのかと勘違いして、心の中でファイティングポーズをしていたもんな」
「ふ、ふふ」
雪が小さく肩を揺らして、口元に手を置く。
「猫ちゃんの、やんのかステップしてる先輩を、想像しました」
くすくす笑う。
音の少ない空間は些細な些細な笑い声さえも可愛らしく響く。
穏やかで、静かな昼休み。————と思っていたのだが。
やはり、まだまだ知らない一面があるらしい。
ある日、雪が息急き切って、準備室に飛び込んできた。先に飯を食っていた俺は勢いよく開いた扉に、雪以外の誰かがやって来たのだろうと勘違いした。
いつも俯いている雪が、その日は顔を上げて、
「——許せ、ません……ッ」
「雪?! ど、どうした?」
「新寺君が先輩とつき合ってた時間が無駄だったって——先輩は顔が良いからつき合ってはみたけれど、脳筋思考で、趣味も悪いし、話も面白くなかったって……! 教室で、まるで演説するみたいに、皆の前で言っているのを聞きました…!」
「————」
「先輩はこんなつまんない俺にも優しい、聖人のような方なのに…!! 勉強もできて、運動もできて、聞き上手で、非の打ち所がありませんよ…! それなのに、あの悪魔……!! 一方的に先輩を貶める発言、許せません!!」
いつもの大人しさはどこへやら。
俺は小さな口の中で高速回転する舌を呆然と見つめた。
「大体、何様なんですか!? 先輩とつき合えるなんて僥倖、手にしておいて…!! 一般人なら身に余る光栄にひれ伏して、未来永劫崇め奉るレベルですよ!! それなのに、それなのに、……ッ」
「ちょ、ちょっと待て」
「待てませんよ!!」
ごぉぉぉおー!
口から火を噴きそうな勢いで、雪が拳を握り締める。
「ちょっと待て。落ち着け」
このままヒートアップすればショートするんじゃないかと両肩を掴んで、真っ赤に染まっている雪の顔をじっと見る。
「——は、ぅわ、あ」
意味のない擬音を零して、口をわなわなと震わせたかと思うと、
「……わ、わぁ、…」
膝から力が抜けたのか、しなしなと座り込みそうになるのを支えた。
雪をいつもの指定席に座らせ、俺も向かい側に座る。
雪は興奮しすぎた反動で、肩を大きく揺らしていた。
台風のように吹き込んできた雪の発言を咀嚼して、雪が怜に対して怒っているのだと理解した。
「——雪は、怜から何を聞いたんだ?」
「……三組に人が集まっていたので何かあったのかと覗いてみたら、新寺君が先輩の話をしていました。すごく嫌な感じで、不快でした。それで、俺は悔しくて——」
雪は言葉を切り、俺をまっすぐ見た。雪から視線を合わせてきたのは、はじめてかもしれない。
「前から聞いてみたいって思ってました。どうして先輩は新寺君とつき合ったんですか? つき合い始めたのって、出会ってからすぐでしたよね? 一体、あの悪魔のどこがよかったんですか?」
「……悪魔じゃねぇよ、怜は。どっちかっつーと、俺の我儘につき合ってもらったんだ」
「……どういうことですか?」
「実は、俺の方から怜に頼んだ。つき合って欲しいって。怜みたいな理想の姫と並べば、俺が姫扱いされるんじゃねぇと思って……」
自然に苦笑が浮かぶ。
「結局、効果はねぇし、怜には嫌われるし、桜庭も怒らせちまうし、やらかしたなぁって感じ」
俺はこれまでの経緯を話した。
雪はさっきまでの興奮が嘘のようにいつも通りの大人しい後輩に戻って、真剣に耳を傾けてくれる。
全てを話し終わった後、大事なことを補足した。
「あ、でもこれは俺目線の話だから。怜が俺にがっかりして、他の連中に色々言ってるとしたら、それは怜目線の話だから、きちんと聞いてやって欲しい」
「はぁ? あんなの自己顕示欲ですよ、ただの」
雪は先程よりは落ち着いているが、それでも憤懣を露わにして眉間に皺を寄せた。
「俺は高校からの新入だから、噂でしか知らないですけど、新寺君は中学のときからプライドが高くて、自分以外の人間を馬鹿にしてるって聞きました。友達のいない俺の耳にも入ってくるくらい、悪名が高いんです。だから、先輩がどうして彼を選んだのか、不思議で仕方ありませんでした。——そういう理由があったって知って、納得しました」
自分に言い聞かせるように俯いた雪はしばらく黙った。
沈黙が落ちる中、俺は怜のことを考えた。
俺には怜の悪い噂なんて届いていなかった。俺が知っているのは、自分といるときの弟のような怜だけだった。口が悪くて、ちょっと捻くれているのは、自分を守ろうとしているようにも見える、不器用な後輩。きっと顔が可愛くて悪目立ちしてしまうことを自覚していた。
雪は悪魔って言ってるけれど、どっちかっつーと小悪魔だよな。
怜が俺の悪口を言っているとしても、腹は立たなかった。むしろこんなにも怒ってる雪に戸惑うくれぇだ。
そして雪の興奮に、はじめて聞いた、あの桜庭の怒声が重なった。
もしかして桜庭も怜の悪い噂を知っていたから、あんなにも怜に強く感情をぶつけたのだろうか。
「——先輩は、姫って呼ばれるのがどうして嫌なんですか?」
「いや、似合わねぇだろ。俺のどこが姫なんだよ」
「そんなことないです。俺は、——俺は、先輩のこと、いばら姫って呼ぶの、似合っていると思います…! び、美人で、かっこいい姫です!!」
力強く断言した雪は、ハッと息を飲むと、「わぁぁ……」と頭を抱えた。
「い、今のは忘れて、ください…! 自我が、気持ち悪い自我が、出てしまいました…! 御無礼、仕りました! せ、切腹します……!!」
「雪!?」
「き、今日は失礼します…っ! 全部忘れてください! すみません〜!」
走り去る背中にはリュックが背負われていて、出されることのなかった弁当箱の存在が気になった。
結局、ひとりでパンを食って、教室に戻る。五時間目が始まるまでまだ時間があったので、前の席の奴の背中を突ついて聞いてみる。
「なあ」
「どした?」
「俺が新寺と喧嘩して、どう思った?」
「どうって、——嬉しかったよ。今だから言うけど、新寺は良い噂ねーから。姫が騙されてなきゃいーなって思ってた」
「……そうだったのか。もしかして桜庭もそう思ってたんかな?」
「どうだろ? 本人に聞いてみれば」
「そうだな、——そうする」
昼休みのチャイムが鳴る。
途端にざわめき出す教室で、俺はデカいため息を吐いて、机に突っ伏した。すると、前の席の奴が「どした? しんどいの?」と声をかけてくる。
「…………」
肘に額を置いたまま、そいつを見上げる。
「…………せた」
「え?」
「……怜も、桜庭も、怒らせた」
うおおおおー!
机にへばりついたまま、両手で髪を掻き乱す。
昨夜は一睡もできなかった。何が悪かったんだろうとそればかり考えて、結局は俺が悪かったんだとのたうち回り、亀裂が入ってしまった関係の修復に頭を悩ませているうちに、朝日が昇っていた。
「新寺はともかく、王子を怒らせるのはやばいなぁ。あいつが怒ってるところ、中学んときから一回も見たことねーもん」
「そうだよな……。俺も学校と寮で四六時中一緒にいるけど、はじめてだった」
「あいつ、なんで怒ったんだ?」
「————俺が睡眠不足で、ぼうっとしてるから心配させた」
「あー……」
思い当たることがあるらしく、斜め上を見る彼に、俺は空気が抜けた浮き輪のようにへこんだ。落ち込んだ俺の肩を、慰めるようにトンと叩かれる。
「俺たちは姫が頑張り屋だって知ってるからなぁ。新寺につき合いながら、勉強もクソほどやってたんだろ? それでいてクラスの委員の仕事もやってくれてっし。いつもおもしれーこと言って笑わせてくれて、目の保養にもなってくれて、ありがとな」
「……お前らも俺のこと心配してくれたのかよ」
「姫はマジで鈍いなー」
髪を掻き上げられ、デコピンをされる。
「いてっ」
「飯は? 食わねーの?」
「……今日はいい。寝る」
またもや机に突っ伏した俺は、「元気だせよ」と柔らかい応援を受けたので親指を立てて応え、それから瞼を下ろすと同時に眠りに落ちた。
怜とも、桜庭とも、一緒に過ごさない昼休みははじめてだった。
俺の世界の中心にいた彼らがいなくなり、朝、身支度を整えた後、淡い期待を込めて扉を開けるのが日課となった。
数日前まで「よぉ」と笑顔とともに片手を上げて立っていた姿はない。
未練がましく、しばらく待っていても桜庭は現れなかった。
桜庭とはあの日以来、学校でも寮でも顔を合わせていない。
やっぱり避けられてんのかな……。
肺の底から、深い息が漏れる。
足が重くて、数分で着くはずの距離が長く感じられた。
昼飯をどこで食うか。
食堂に行けば桜庭に会えるかもしれないが、俺の胸には、桜庭が怜に対して放った台詞の数々が棘のように刺さっている。
いくら俺を心配していたとはいえ、怜に対してあんな言い方をされたのを見過ごすわけにいかねー。
本音としては仲直りしたい。けれど、桜庭が怜のことをあんな風に感じている限りは無理だろう。
それに、怜の問題もある。お試し期間が終わり、恋人という仮の関係を清算したとして、これから先は友達としてつき合っていくっていうのは無神経なのだろうか?
一ヵ月近く一緒に過ごした中で、怜がどういう奴なのかは理解したつもりだ。
世話のかかる弟のように感じていたから、ここでぷつんと関わりが切れてしまうのは寂しい。
結局、パンを買うために教室を出て、行き場を求めて放浪することになった。
廊下をぼんやりと歩く俺に、「こっち来いよ! 一緒に食おうぜ」と声をかけてくれる奴らもいたけれど、「またな」と断って、人の少ない方に歩いているうちに、実技教科の準備室が並んでいる棟へと足を運んでいた。
人の気配が少なくなるにつれて、さっきまで聞こえていた話し声も遠ざかっていく。
上靴の足音がぺたぺたと響いた。
そろそろ昼休みが終わっちまう。
適当なところで食うか——。
階段にでも腰を下ろそうかと足を止めたとき、少し先にある技術準備室のドアが開いた。
見覚えのある、ふわふわの髪の毛が現れる。
「あ」
心象が一音の言葉となって転がり落ち、その音に顔を上げた人物がぎょっと後退りをした。
「あ、えっ?! 先輩!?」
「久しぶり。白地」
白地は幽霊にでも遭遇したかのように、ぴょんと飛び上がり、大きな眼鏡も同じように跳ねた。
「ど、どうしたんですか、授業の準備で、な、何か取りに、こ、来られたんですか……?」
「いや。飯を食う場所を探してた」
俺が持っているパンを見せると、白地は「あ、あの……じゃあ、ここ、どうぞ……!」と準備室へと手招いた。
「え? いいの?」
「は、はい。俺、ここでお弁当を食べたり、勉強をする許可をもらって、るんで」
「俺が使ってもいいのか?」
「せ、先輩なら、だ、大丈夫です……! ど、どうぞ……!」
中を覗いてみると、狭い空間に技術で使う工具類が積まれ、金属と木材の匂いが混じっていた。
壁際には工具箱や材料が雑然と並べられている。その隅に場違いなほど小綺麗な机と椅子が置かれていて、そこには教科書とノートがきちんと並べられていた。
「あ、あの、俺、トイレに行ってくるんで、先輩はご飯を食べて、ください……!」
「ありがとう。ごめんな、邪魔して」
「だ、大歓迎、です……!」
白地は「わー!」と真っ赤に染まった頬を両手で挟み、一目散に出て行ってしまった。
白地の好意に甘えて、俺は椅子に座り、パンを口に運んだ。
置かれている教科書は白地のものだろう。二年生の俺たちが使っているものと一緒だ。
ノートにはびっしりと解答が書かれている。
そういえば、白地も高校からの新入生だった。その書き込み量と内容を見る限り、俺と同じ特待生なのかもしれない。
もう時間もないし、食欲がないからパンも一つしか買っていない。
急いで食べると、あっという間に昼飯が終わった。
寮で淹れてもらった水筒のお茶を飲んでいると、廊下をばたばたと走る足音が近づいてきた。
それが扉の向こうで、ぴたりと止まる。
そして、おずおずと扉が開けられた。
「————」
ぴょこり、と顔を出す様子が小動物のようだ。
「おかえり」
声をかけてみれば、「うっ」「はぅ」「うぐぅ」と奇妙な声を出して、まるで命綱のように扉へと掴まる。
「……夢、じゃ、なかった」
白地が腰から砕けそうになったので、俺は慌てて立ち上がる。
「あっ、先輩は、す、座ってて、ください……!」
「じゃあ、俺はこっちの椅子に座るから、白地はこっちに座れよ。勉強してたんだろ?」
奥の方に片付けられていた丸椅子に座り、白地を手招く。
「あ、ありがたき、しあわせ、です」
白地は俺の視界に入ることを恐れているかのようなスピードで横切り、椅子に尻を着地させた。
「昼休み、いつもここにいんの?」
「は、はい。さ、騒がしいのは、苦手、なので。先生に、相談したら、ここを使っていいって、言ってもらえて——」
「そうかぁ」
「あ、あの、先輩は新寺君と、ご飯食べなくていいんですか?」
「あぁ。もう終わった」
「え? おわった?」
「なぁ、白地。なんで俺と怜がご飯食ってたのを知ってんの?」
「おふたりとも、ゆ、有名ですから。友達がひとりもいない俺でも、知ってます。それに、し、新寺君は、いつも、自慢してました。氷のいばら姫と、つき合ってる、って——」
「そうなのか」
怜は友達なんていねーって言ってたが、誰とも話してねーわけじゃなかったのか。
「あいつら、僕と釣り合いませんから」
そう言っていた怜の、周りを寄せ付けない吐き捨てるような口調を思い出す。
俺とつき合っていることを話しているなんて意外だった。
——っていうか、俺は怜の一面しか知らねーんだろうな。
怜だけじゃねー。桜庭のことも。
「——白地。お前の勉強の邪魔はしねーようにするから、明日もここに来ていいか?」
「ひゃわ?! あ、明日も!? も、もちろんです……! せ、狭いところ……ですが、どうぞ……!」
「ありがとう」
窓枠に掛けられている時計を見て、
「そろそろ教室に戻ろうぜ」
と椅子を片付ける。
白地もバタバタと机の上のものをリュックに突っ込んで背負った。
「すげー荷物」
遠足に行くみたいに膨らんでいるリュックに思わず笑みをこぼすと、白地が照れたようにこめかみを人差し指で掻く。
「へ、変ですか……?」
「変じゃねーけど、重そうだから持ってやろうか?」
「い、いえ……! 成瀬先輩に、持ってもらうなんて……滅相もない、です……!」
「重たかったら、遠慮なく言えよ。あ、俺のことは茨でいいよ。仲の良い奴らは下の名前で呼んでっから」
「ひぇっ! こ、光栄です……! じゃ、じゃあ……俺のことも雪って、よ、呼んでもらって……いいですか……?」
「雪。りょーかい」
綺麗な名前だな。
白地は肌の色も白いし、ふわふわの髪の毛も相まって綿毛みたいだと思っていたから、雪って名前はぴったりだ。
俺は二年生の教室がある二階へ、雪は一階へ。
階段で手を振って別れる。
三歩ほど進んだところで振り返ると、雪はその場でまだ手を振っていた。
「早く教室行けよー」
口元を手で囲って声を飛ばすと、
「は、はいっ……!」
勢いよく回れ右をした雪が壁にぶつかった。
「わっ!」
息を飲み、焦って駆け寄ると、雪が落としてしまった眼鏡を拾い上げる。そして、恥ずかしそうに笑った。
「——ドジで、すみません」
「——————」
眼鏡を元の位置にきっちりと装着し、何度も頭を下げながら、階段を下りる雪を見送る。
ふわふわの髪が揺れて、白い首筋が照れたように赤く染まっている。
その姿が階段の向こうへ消えていく。
五時間目の授業が始まるチャイムが鳴っても、俺はそこから動けなかった。
階段を昇ってくる先生たちの気配を感じて、ハッと我に返り、教室へと走る。
——ここにも、姫がいんじゃねーか。
雪と過ごす技術準備室は静かだ。
昼食を食べる際に「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせる以外に、雪はあまり喋らない。
弁当箱を片付けると、教科書とノートを取り出す。
集中のスイッチが入った雪の背中が丸くなり、ノートを走るシャーペンの音が響く。
その隣で、人が側にいると集中できないタイプの俺は本を読むことにしていた。
賑やかな教室も嫌いではないが、静かな狭い空間で雪と過ごすのは落ち着く。
相手によって昼休みの過ごし方が色々あることを知った。
ひと区切りついたのか、雪の手が止まり、背中が伸びた。
俺はノートを覗き込み、この短い時間で読みやすく纏められている数式の羅列に感嘆した。
「すげぇ速いし、わかりやすい」
「まだ答え合わせをしていませんから」
「いや、合ってるよ」
細かく確認していないが、解答の流れは間違っていない。
雪は解答をきっちりと確認し、解説もしっかりと読んだ上で、「ふぅ」と息を吐いた。
「雪って集中力すげーな」
話しかけると、夕焼けよりも真っ赤になって、肩を丸める。
「……お、俺、勉強くらいしか、取り柄ありません、から」
「そんだけの取り柄なら自慢できるよ」
「そ、そんなことは……」
「雪って目が悪いのか?」
特徴的なぶ厚い眼鏡が気になった。
「はい。重度の近視と乱視で——」
「コンタクトにはしねーの? 俯いていたら、眼鏡重そう」
雪は「……えっと、ですね」と眼鏡のつるを触りながら、少し言い淀む。
「——眼鏡を外すと、し、知らない人に、じろじろ、見られたり、話しかけられたり、するので……、苦手です」
注目を浴びたくねーのか。
「その気持ちは少しわかる。俺も今は気にしねーが、ここに入学したとき、いろんな奴にじろじろ見られっから、喧嘩でも売られてんのかと勘違いして、心の中でファイティングポーズをしていたもんな」
「ふ、ふふ」
雪が小さく肩を揺らして、口元に手を置く。
「猫ちゃんの、やんのかステップしてる先輩を、想像しました」
くすくす笑う。
音の少ない空間は些細な些細な笑い声さえも可愛らしく響く。
穏やかで、静かな昼休み。————と思っていたのだが。
やはり、まだまだ知らない一面があるらしい。
ある日、雪が息急き切って、準備室に飛び込んできた。先に飯を食っていた俺は勢いよく開いた扉に、雪以外の誰かがやって来たのだろうと勘違いした。
いつも俯いている雪が、その日は顔を上げて、
「——許せ、ません……ッ」
「雪?! ど、どうした?」
「新寺君が先輩とつき合ってた時間が無駄だったって——先輩は顔が良いからつき合ってはみたけれど、脳筋思考で、趣味も悪いし、話も面白くなかったって……! 教室で、まるで演説するみたいに、皆の前で言っているのを聞きました…!」
「————」
「先輩はこんなつまんない俺にも優しい、聖人のような方なのに…!! 勉強もできて、運動もできて、聞き上手で、非の打ち所がありませんよ…! それなのに、あの悪魔……!! 一方的に先輩を貶める発言、許せません!!」
いつもの大人しさはどこへやら。
俺は小さな口の中で高速回転する舌を呆然と見つめた。
「大体、何様なんですか!? 先輩とつき合えるなんて僥倖、手にしておいて…!! 一般人なら身に余る光栄にひれ伏して、未来永劫崇め奉るレベルですよ!! それなのに、それなのに、……ッ」
「ちょ、ちょっと待て」
「待てませんよ!!」
ごぉぉぉおー!
口から火を噴きそうな勢いで、雪が拳を握り締める。
「ちょっと待て。落ち着け」
このままヒートアップすればショートするんじゃないかと両肩を掴んで、真っ赤に染まっている雪の顔をじっと見る。
「——は、ぅわ、あ」
意味のない擬音を零して、口をわなわなと震わせたかと思うと、
「……わ、わぁ、…」
膝から力が抜けたのか、しなしなと座り込みそうになるのを支えた。
雪をいつもの指定席に座らせ、俺も向かい側に座る。
雪は興奮しすぎた反動で、肩を大きく揺らしていた。
台風のように吹き込んできた雪の発言を咀嚼して、雪が怜に対して怒っているのだと理解した。
「——雪は、怜から何を聞いたんだ?」
「……三組に人が集まっていたので何かあったのかと覗いてみたら、新寺君が先輩の話をしていました。すごく嫌な感じで、不快でした。それで、俺は悔しくて——」
雪は言葉を切り、俺をまっすぐ見た。雪から視線を合わせてきたのは、はじめてかもしれない。
「前から聞いてみたいって思ってました。どうして先輩は新寺君とつき合ったんですか? つき合い始めたのって、出会ってからすぐでしたよね? 一体、あの悪魔のどこがよかったんですか?」
「……悪魔じゃねぇよ、怜は。どっちかっつーと、俺の我儘につき合ってもらったんだ」
「……どういうことですか?」
「実は、俺の方から怜に頼んだ。つき合って欲しいって。怜みたいな理想の姫と並べば、俺が姫扱いされるんじゃねぇと思って……」
自然に苦笑が浮かぶ。
「結局、効果はねぇし、怜には嫌われるし、桜庭も怒らせちまうし、やらかしたなぁって感じ」
俺はこれまでの経緯を話した。
雪はさっきまでの興奮が嘘のようにいつも通りの大人しい後輩に戻って、真剣に耳を傾けてくれる。
全てを話し終わった後、大事なことを補足した。
「あ、でもこれは俺目線の話だから。怜が俺にがっかりして、他の連中に色々言ってるとしたら、それは怜目線の話だから、きちんと聞いてやって欲しい」
「はぁ? あんなの自己顕示欲ですよ、ただの」
雪は先程よりは落ち着いているが、それでも憤懣を露わにして眉間に皺を寄せた。
「俺は高校からの新入だから、噂でしか知らないですけど、新寺君は中学のときからプライドが高くて、自分以外の人間を馬鹿にしてるって聞きました。友達のいない俺の耳にも入ってくるくらい、悪名が高いんです。だから、先輩がどうして彼を選んだのか、不思議で仕方ありませんでした。——そういう理由があったって知って、納得しました」
自分に言い聞かせるように俯いた雪はしばらく黙った。
沈黙が落ちる中、俺は怜のことを考えた。
俺には怜の悪い噂なんて届いていなかった。俺が知っているのは、自分といるときの弟のような怜だけだった。口が悪くて、ちょっと捻くれているのは、自分を守ろうとしているようにも見える、不器用な後輩。きっと顔が可愛くて悪目立ちしてしまうことを自覚していた。
雪は悪魔って言ってるけれど、どっちかっつーと小悪魔だよな。
怜が俺の悪口を言っているとしても、腹は立たなかった。むしろこんなにも怒ってる雪に戸惑うくれぇだ。
そして雪の興奮に、はじめて聞いた、あの桜庭の怒声が重なった。
もしかして桜庭も怜の悪い噂を知っていたから、あんなにも怜に強く感情をぶつけたのだろうか。
「——先輩は、姫って呼ばれるのがどうして嫌なんですか?」
「いや、似合わねぇだろ。俺のどこが姫なんだよ」
「そんなことないです。俺は、——俺は、先輩のこと、いばら姫って呼ぶの、似合っていると思います…! び、美人で、かっこいい姫です!!」
力強く断言した雪は、ハッと息を飲むと、「わぁぁ……」と頭を抱えた。
「い、今のは忘れて、ください…! 自我が、気持ち悪い自我が、出てしまいました…! 御無礼、仕りました! せ、切腹します……!!」
「雪!?」
「き、今日は失礼します…っ! 全部忘れてください! すみません〜!」
走り去る背中にはリュックが背負われていて、出されることのなかった弁当箱の存在が気になった。
結局、ひとりでパンを食って、教室に戻る。五時間目が始まるまでまだ時間があったので、前の席の奴の背中を突ついて聞いてみる。
「なあ」
「どした?」
「俺が新寺と喧嘩して、どう思った?」
「どうって、——嬉しかったよ。今だから言うけど、新寺は良い噂ねーから。姫が騙されてなきゃいーなって思ってた」
「……そうだったのか。もしかして桜庭もそう思ってたんかな?」
「どうだろ? 本人に聞いてみれば」
「そうだな、——そうする」
