第二章 灰かぶり姫
「それはどういう意味ですか?」
怜に腕を組まれているから距離は近いのに、心の距離がすっと一歩遠ざかったように感じて、首筋に手を当て、顎を引いた。
「あー、いきなり変なこと言われたら警戒するよな。もしよかったら、きちんと説明してぇんだけど、時間ある?」
そこへ、がやがやとこちらへ向かってくる騒がしい音が聞こえてくる。あと数秒もすれば、靴箱前は人でごった返すだろう。
彼は迷う素振りもなく、頷いた。
「いいですよ。駅前まで一緒に行きます? カフェでお茶しながらお話するのはどうですか?」
「君がそれでいいなら」
「じゃあ決まりですね。行きましょう。早く帰らないとバスが混むんですよ。あ、僕の名前は新寺怜智です。怜って呼んでください」
怜は早口で喋りながら、俺を引っ張っていく。身長差のせいで、中腰になり、足がもつれそうになった。
「俺は成瀬——」
「茨先輩ですよね? 下の名前で呼んでも大丈夫ですか?」
「好きにすればいい」
「へぇ。氷のいばら姫って、そういう感じの喋り方なんですね」
俺は盛大なため息を落とした。
「怜も、その呼び方知ってるのか……」
「先輩は中学校でも有名ですよ。顔は綺麗だけど、中身は漢前で愛想がないって」
「褒めてんだか、貶してんだか」
そういえば白地も俺のことを有名人だと言っていた。中学校にまで変な風評が広まっていることに、頭が痛くなってくる。
地獄坂は下りでも気が抜けない。アスファルトに貼り付いている花弁も滑りやすく、ちょっとしたトラップだ。
俺の噂を聞いても碌なものではなさそうなので、怜に話題を振ってみる。
「怜は何組になった? 担任、誰?」
「三組。なんかね、真面目そうな奴ばっかで萎えてます。担任は早速、受験の圧をかけてくるし、クソです」
「ふうん。俺が一年のときも担任はそんな感じだったけど、圧があったのは最初だけだったな。今は自己責任っつって、結構自由にしろって言われてる。それはそれで怖ぇんだよな。あ、白地は? 別の組?」
「誰ですか、それ」
「昨日、怜と一緒に保健室にいた子」
「ああ、あの陰キャ眼鏡ですか。あいつは高校からの編入だから別クラです」
「え、そうなのか? 俺と同じ編入組だったのか。じゃあ、白地と怜が同じクラスになることはないんだな」
「別に、あいつと同クラになろうが関係ないですけどね」
各学年に一クラスしかない高校からの新入組は、三年間クラス替えがない。中学校からの持ち上がり組と高校からの新入組では授業の進度が違うため、混ざり合うことはないが、体育などの実技科目は一緒に受ける。
桜庭はいつも俺と同じクラスになれないことを嘆いているが、寮に帰ってからクラスであった面白いことを話すのが楽しいから、これはこれでいいんじゃねーかと思っている。
それにしても、白地が高校からの新入組なら、俺のことをどこで知ったのだろう?
下り坂があと少しで終わるところで、
「あ、先輩。バスが来ましたよ!」
怜が信号待ちで停まっているバスを指差す。
信号が青に変わり、走り出したバスを追いかけるように俺たちも走り、ほぼ同時に停留所へ着いた。
停留所には数人しかおらず、並ぶこともなくバスに乗り込む。
振り返ると、生徒たちが一本道を数珠繋ぎになって降りてきている光景が目に入った。怜の言う通り、次のバスはかなり混雑しそうだ。ほんの数分の差でこんなにも快適さが違うとは、このバスの路線の利用者がほぼ乙木星学園の生徒だからだろう。
久しぶりの平日に乗るバスに、なんとなくきょろきょろしている俺に対して、中学校から乗り慣れている怜は、次々と話題を出して楽しそうに喋っている。
同じ一年生でも、それぞれ個性が違うんだな。
白地と思わず比べながら、俺たちはバスに揺られて駅まで向かった。
駅に着くと、またもや怜に引っ張られ、少し路地に入ったところにある、落ち着いた雰囲気の小さなカフェへ案内された。
店内に学生の姿はなく、常連らしき客がぽつり、ぽつりと座っている。
怜と俺は一番奥のテーブル席に案内され、怜はアイスカフェラテ、俺は珈琲を頼んだ。
店員が伝票を持って離れていく。こういう落ち着いたカフェに入るのははじめてだ。
「パンケーキ美味そう」
壁に貼られている『一番人気!』のポスターにははちみつがたっぷりかかった、ふわふわのパンケーキに目を細める。
「焼き上がるまで時間かかりますよ。それでもよければ注文しますか?」
「……」
「食べてぇ」と訴えている腹の虫を押さえ込んで、ちらりと怜に視線を向ける。
怜はやっぱり整った顔立ちをしている。猫のように目尻が少し上がった大きな瞳は濡れて光っている。細い顎から繋がる細い首。小柄であるから、中性的だ。肘を曲げれば、筋肉が盛り上がる俺とは全く違う。世間一般でいう美少年というやつだ。
そこへ、店員が注文したものを持って、こちらに向かって来た。
「どうします? パンケーキ」
「いや、今日はやめとく」
追加オーダーをするのかと聞かれ、今日は話をするためにやって来たのだ、と苦渋の選択をする。
怜の前に置かれたグラスのコースターはこの店のオリジナルらしく可愛らしい黒猫が描かれていた。俺の珈琲カップにも黒猫のモチーフが散らばっている。
店員が近くにいなくなると、BGMに流れているピアノ曲がよく聞こえた。
テーブルに肘をつき、組み合わせた掌に顎を乗せた怜が、初めて笑顔を消した。
「——で? 説明してください、さっきの話」
俺は包み隠さず、今の状況を説明した。
不当に姫扱いをされている現状を覆したいこと。
そのために、俺よりもっと姫に相応しい存在を探そうと思ったこと。
そして、怜こそが理想の姫だと確信したこと。
「怜の横に並べば、俺が見劣りするに決まってるだろ? だから怜とつき合ってるふりをすれば、もう俺を姫扱いする奴らはいなくなるんじゃねーかと思って……」
本人を目の前に語っていると、いかに自己中な要求なのか、身に沁みてくる。
俺の話を最後まで聞いた怜は、口元だけで笑った。
「茨先輩の言い分はわかりましたけど、でもそれ、僕に何にも関係ありませんよね?」
もっともな意見をもらい、俺は視線を落とした。
口をつけていない珈琲は冷めてしまっている。
怜はグラスの中身をストローでかき混ぜながら、
「残念だなー。先輩なら、ふりじゃなくてもいいのに」
「え」
顔を上げてみれば、怜は悪戯っ子のように笑っていた。
「先輩が自分を姫じゃないって言ってるのって、自己認識が歪んでるんじゃないですか? だって、こんなに綺麗な顔をしているんだもの。僕と並んで歩いても遜色ないですよ」
俺の頬に触れた怜の指先は濡れていて、ひやりと冷たい。
俺はスプーンで珈琲をかき混ぜる。
「いや、地元にいた頃にはそんなふうに言われたことねーよ。野球ばっかりやっていて、姫っつーより猿って感じだし。学校や寮で姫扱いされるたびに、蕁麻疹出そうになんだよ」
それに、友人の桜庭まで王子扱いされて迷惑をかけている。
怜には桜庭のことは言わずに窮状を訴えたが、怜から返ってきたのは、切れ味の鋭い言葉だった。
「つき合ってるふりって、それ僕にメリットありませんよね?」
「そ、それは——」
「ふりをして欲しいのは先輩の都合で、僕の都合じゃないですよね」
それはそうだ。これは俺の我儘であると、自覚はちゃんとある。怜には頭を下げて頼むしかない。
「——だったら、こうしません?」
グラスの中の氷が、からりと揺れる。
「一ヶ月はお試し期間ってことで、つき合いましょうよ」
「お試し?」
「ふり、じゃなくて、真剣につき合ってください」
「え!?」
椅子から尻が浮いたせいでテーブルに膝がぶつかり、珈琲の表面が波打った。
「僕は先輩なら、つき合ってもいいです。さっきも言いましたよね? でも先輩は僕のこと、何にも知らないから、まず一ヶ月つき合ってみましょうよ。ね、その後は別れてもいいですから。先輩にとっても、僕にとっても、都合が良いと思いません?」
「えっと、……」
思いがけない展開に、瞬きをする。
怜は微笑んでいるけれど、目は笑っていない。ごくり、と唾を飲み込んだ。
「——俺、誰ともつき合ったことねーから」
正直に伝えると、今度は怜が瞬きをした。
「よく『つき合ってー』とか面白がって言われるから、なんか簡単に思っていた、かもしれない。今、怜に『つき合いましょう』って言われて、正直びびった」
でも、こちらから無理難題を頼み込んで、そのせいで怜にこんな提案をさせることになったのに、断れるわけがない。
俺は腹を据えて、頭を下げた。
「俺でよければ、お願いします」
「やったー!」
拍手の音が響き、怜の手が俺の頬に触れた。
「ふふ。——氷のいばら姫、ゲット♡」
ぞくり、と何故か背筋が寒くなったのを誤魔化すために、俺は喉へと深い苦味のある冷め切った液体を流し込んだ。
