お姫様のダーリンはお姫様!?

第一章 いばら姫


 今日は待ちに待った入学式。と言っても、俺は新入生ではなく、二年生として迎える側だ。
 俺が寄宿している寮から学校までは徒歩二分。寮生専用の学校の裏手にある小道からは、グラウンド脇に自生している桜の大木が見える。
 一年前、俺の入学式の頃にはとっくに花を落としていた桜は、今年はハレの日にぴったりの満開だ。
 山の中腹に建てられたこの学校に咲く桜は、俺の地元の桜とは種類が違うのか、色が濃く、どこか生命力すら感じさせる。
 風が吹けば、ひらひらと花弁が舞い落ちる。儚さよりも華やかさが目に映り、自然と足取りが軽くなった。
「よ、姫」
「おう」
 振り返ると、同じ寮生で隣室の桜庭が、二重幅の大きな目をさらに丸くしていた。
「——なんだよ」
「いや、いつもなら仏頂面で睨んでくるじゃん。俺はその顔を見るのが毎朝の楽しみなのに」
「あー、今の発言で仏頂面になったわ」
 わざとむすっとしてみせると、桜庭が手を叩いて喜んだ。
「あー、その顔。その顔。やっぱり、いばら姫はそうじゃねぇと」
 いばら姫——俺の名前が「茨」だからって、まさかそんな呼ばれ方が定着するなんて思ってもいなかった。
 野球少年だった俺は日焼けをしていて、髪型も野球帽を被りやすいように常に短髪。仲間たちと汗をかきながら白球を追いかけ、泥臭く練習に明け暮れていた。
 だが野球を諦め、心機一転、新しい土地での生活に飛び込んだ俺は、半年以上の受験勉強をしているうちに、こんがり焼けていた肌の色が抜け落ち、髪は肩につくほど伸びた。
 新しい学校で知り合った連中は、バリバリの野球少年だった頃の俺を知らない。
 着痩せするタイプなので、服の下には薄いながらもちゃんとした筋肉がある。それなのに、見た目は華奢で力が弱そうに見える。
 しかも、山の中にあり、寮が併設された中高一貫の男子校という特殊な環境では、ちょっとばかり色白で細身、髪がさらさらで睫毛が長いだけで、『姫』なんて呼称がつく。
 高校から入学した俺には鳥肌ものの風習だが、思春期をこの隔離された空間で過ごしてきた連中にとっては、何の疑問もないらしい。
 あっけらかんと「姫」「姫」と連呼し、やたらと俺を守ってやらなきゃいけない存在かのように扱いたがる。
 この一年間、俺は身分不相応な、不本意な扱いを受け続けてきたのだ。
「姫」と呼ばれるたびに仏頂面をしていたせいで、いつしか「氷のいばら姫」なんて面白がられる始末。
 特に、隣室で同学年という距離の近さから、「姫」「姫」と四六時中揶揄ってくる桜庭は悪友だ。
「俺も、お前みたいな名前がよかったよ」
 ため息を吐きながらこぼすと、桜庭のニヤリとした笑顔が返ってきた。
「名は体を表すっつーからな。俺ほど『王子』が似合う奴はいねーだろ」
 そう。桜庭の下の名前は王路。読み方が同じだから、皆から「王子」と呼ばれている。
 悔しいことに、違和感がない。
 俺の手の届かない棚から、ひょいと欲しいものを取ってくれるような高身長。気配りもできる。
 彫りの深い顔立ちに、くっきりとした二重の切れ長の目、形の良い鼻梁。運動も勉強もちゃんと努力して、その成果を出せる文武両道の体現者。
 俺以外の奴を揶揄って遊んでいるところは、あまり見かけない。高校からの数少ない入寮生である俺が周りに馴染みやすいよう、気を遣ってくれてんのかなーとも思う。
 だからこそ、「姫」と呼ばれることを本気で拒むことはしない。そのおかげで得をしていることもあるから。
 でも、納得はしていない。
 そんな俺にとって、今日という日は待ち焦がれた千載一遇の好機なのだ。
 寮生だけが通る裏門を抜け、いつもなら校舎へ向かう足先を、今日は表門へと向ける。
 すぐに気がついた桜庭が、
「あれ? 茨って入学式の係に当たってた?」
と聞いてくる。
「いや、新入生の誘導やら、胸に花をつけたりすんのは俺の役目じゃない」
「だったら、何しに行くんだよ?」
「決まってるだろ。『姫』を探しに行くんだよ」
「『姫』を?」
 きょとんとする桜庭に、俺は鼻息荒く両拳を握った。
「俺よりもっと『姫』に相応しい『姫』を見つけて、引き継ぐんだよ……! そうして俺は『姫』を引退する!!」


 乙木星学園の通学者は最寄り駅からバスに乗り、緩やかな坂道を揺られながら、乙木星学園前という停留所へと到着する。真新しい制服に身を包み、慣れない革靴を履いて停留所に着いた高校の新入生たちは学校へ伸びる一本道の急角度に目を瞠り、そして絶望する。
 中学校の校舎は停留所の近くにあるのに、高校はさらにその上。その距離と高度は登校じゃなくて登山だと嘆く生徒が多い。
 故に、停留所から高校までの一本道は地獄坂と呼ばれている。今日は桜の絨毯で彩られているが、それを愛でる余裕のある者はいないだろう。
 俺は寮生活なので、地獄の坂道を利用するのは土日に街へ遊びに行くときか、身体を動かしたくなったときにジョギングするときくらい。毎朝、急角度の坂を登る辛さは伝聞でしか知らない。
 顎を上げぜぇぜぇと肩で息をしながら、「まだ着かないのか…」「足、重い…」と嘆き、靴底を引き摺るようにして、休み休み登ってくる新入生の群れを見ていると不憫になってくる。
 俺と桜庭は邪魔にならないよう校門の端に立ち、「入学おめでとう」「がんばれ」「あと少しだ」と声をかける。
「——そう言えば、俺も初めてこの坂を登ったときは、高校に進学したことを後悔したもんな」
 一年前の自分と重ねているのか、桜庭が遠い目をする。それに俺も同意する。
「確かにこの坂道はきつい。しかも学校指定の革靴の靴裏がつるつるで、滑って歩きにくいんだよな」
「そうなんだよ。中学はスニーカーなのに、高校から革靴って嫌がらせか」
「でも、一ヶ月もすれば本を読みながら登ってくる奴も出てくるくらい鍛えられるんだよなぁ。だから、今はしんどくてもがんばれよ」
 後半は、目の前を通過していく新入生に向けての声かけだ。
 初々しい新入生は、こんなところで先輩に鼓舞されるとは思っていなかったのだろう。驚いたように顔を上げ、そしてじわじわと頬を紅潮させる。
「……はい! ありがとうございます!」
 はきはきと礼を言われ、むず痒くなった俺は、
「……お、おう」
と目線を逸らし、他の新入生たちにも声をかけた。
「お前らもがんばれ。あと少しだぞ」
 途端に、視線の集中砲火を浴びる。
 こいつ、誰だ? と訝しげに思われたのを察して、俺は自己紹介をする。
「二年生の成瀬だ。生徒会でも何でもない一般生徒なのに、出しゃばって悪かったな」
「——成瀬? もしかして、噂の姫?」
「すんげー美人の姫が高校にいるって」
「この人のことかぁ……」
「噂通りの、綺麗な人だね」
 何やらひそひそと言われているが、よく聞こえない。
 呆れたようにこちらを見ている桜庭と目が合った。
「——なんだよ」
「相変わらず、怖いくらい無自覚」
「? 何のことだよ?」
「いや、別に」
 そのとき、校門からかなり離れた位置で、膝を抱えて蹲っている生徒に目が留まった。
 俺は登ってくる生徒たちに逆行しながら、彼の元へ近づく。制服が真新しいので、新入生だろう。
 膝をつき、彼を驚かせないようにそっと声をかけた。
「——大丈夫か?」
「………………」
 ふわふわの髪は、まるで綿毛のようだ。旋毛しか見えないが、全体的な体格は大柄には見えない。
 俺より、ちょっと小さいくらいだな。
 目測して、これならいけるだろうと判断する。
「しんどくなったんなら、保健室に連れて行ってやる。ほら、背負ってやるよ」
 背中を彼の方に向けると、俺の後をついてきた桜庭に声をかけた。
「鞄を持ってくれるか?」
「————す、みま、せ」
 か細い声がしたので振り返ると、まず顔の半分を覆うデカい眼鏡——擦りガラスのようにぶ厚いレンズが嵌まっている——と対峙する。
 しかも、癖毛なのかパーマなのか、ふわふわとした長めの前髪が眼鏡に被さっているので、表情がよくわからない。
 まじまじと彼を見て、顔色が悪いこと、唇から血の気が引いていることを確認する。
 歩けないほど具合が悪いのは間違いない。
「無理しなくていい。ほら、俺の背中に——」
「ちょっと待て。力仕事なら俺に任せろ」
 桜庭が俺と彼の間に割って入り、しゃがみ込んで彼に背中を向けた。
 俺は慌てて桜庭の肩に手を置く。
「俺でも運べるって」
「姫はそこで大人しくしてろって」
「いや、だから——」
 俺はそんなにか弱くないんだって。
 自分で言うのも恥ずかしいが、どちらかと言えば漢気溢れる性格だと思うんだが。
 けれど、確かに俺よりも桜庭の方が背中も広く、安定感があるかもしれない。
 しんどいときに不安がらせては意味がないので、俺は不本意ながら引き下がった。
 邪魔にならないように道の端に寄って、ぐったりと力の抜けている彼を桜庭に背負わせるのを手伝う。
 春先だとは思えないほど汗をかいている新入生達が通りすぎていく。
 俺は桜の花弁の上に落ちていた彼の鞄を拾った。
「よし、保健室に行くぞ」
 颯爽と歩き出す桜庭の背中で、
「——すみ、ません……」
 またもや謝る声が聞こえた。
 俺は横から顔を覗き込む。レンズに阻まれている目のある場所を見つめ、にっこりと笑った。
「しんどいときに気なんて遣わなくていいんだって」
「————」
 ふるふると小さな兎のように震えたかと思うと、眼鏡の隙間から雫がぽろりと零れ落ちた。
「——えっ?」
 ぐずっ、ぐずっ。
 鼻を鳴らす音が響き、本格的に泣き始めた彼に、ぎょっとして足が止まる。
「そ、そんなにしんどいのか……? 桜庭、早く保健室に行こう」
「すみません、俺のせいで、めいわくを……」
 すみません、すみません。
 それしか言わずにひんひん泣く姿に、俺と桜庭は顔を見合わせる。
 声をかけたところで、謝罪しか返ってきそうにないので、とにかく保健室へ向かう。
 すると、俺の目の端を何かがかなりのスピードで横切った。
 野球で鍛えられた動体視力と反射神経が咄嗟に起動して、右手が飛んできたものを掴む。
「——えっ?」
 何かと思えば——靴だ。
 新品の革靴。右足。
 すると、もう片方の靴も飛んできたので、それも思わず掴んでしまう。
 まさか今日の天気予報は、靴が降る?
 そんなわけねーし。
 飛んできた方を見てみれば、ぺたんと座り込んでいる生徒がいた。
「——そんな靴じゃ歩けないっ」
「え……、あ」
 子供が癇癪を起こしているみたいに顔を真っ赤にしている彼を見た俺は、時間が止まったみたいに硬直した。
 眉間には皺が寄っているが、涙で潤んだ目を囲う睫毛の長さが、離れていてもよくわかる。
 髪はストレートで光沢があり、偶然にも頭に乗っている桜の花びらがよく似合っている。
 当初の目的を思い出した俺は、引き寄せられるように彼へ近づいた。
 けれど、可愛らしい風貌にもかかわらず、キッと睨まれる。
「僕も保健室に連れて行って!」
「——それはいいけど。これを投げたのは君? で、合ってるよな?」
 靴を差し出すと、
「そうだよ! だって、僕も助けて欲しくて呼んでるのに、全然気づいてくれないんだもん!」
 ぷいっと横を向かれる。
 膨らんだ頬は柔らかそうで、赤ん坊みたいだ。
 そんなことを考えていたら、俺の口角は緩んでいたらしい。
「——なんで笑うの!? 馬鹿にしてるの!?」
 きゃんきゃん吠えている彼の足を見る。
 靴下に薄っすらと血が滲んでいる。履き慣れない靴のせいで、靴擦れをしたのだろう。
「人に向けて靴を投げるのは良くないな」
「だって、——」
 俺は跪き、靴下の足に靴を履かせてやりながら謝った。
「君に気づかなかったのは悪かった」
「……僕も、ごめんなさい」
 小さく謝る唇は、リップでも塗っているのかと疑うほど赤く、水分を含んでいる。
 近くで見ると、ますます人形のように愛らしい顔をしている。
 俺がじっと見つめても、臆することなく見つめ返してくる。ここにいる大体の奴らは俺が見つめると何故か目を逸らすから珍しい。
 俺は、彼こそが探していた人物だと確信を深めた。
「茨ー! 先に行くぞ」
「おう! 俺もすぐ行く!」
 坂道をおんぶで登っていく桜庭に手を振り、座り込んでいる彼に背中を向ける。
「頼りなく見えるかもしんねぇけど、力はあるから。安心して乗れ」
「——よろしくお願いします……」
 背中に重みがかかり、肩に手が置かれる。
 俺は足裏に力を入れて、ゆっくりと立ち上がった。
 ——軽い。
 俺よりも背だって小さい。
 そして、花のような良い香りがする。

 見つけた。

 俺なんかより、完璧な姫だ。


 それでなくてもいつも同じ顔ぶれで、新しい情報に飢えている男子校では、俺と桜庭が新入生をふたり、保健室へ運んだことが昼休みには学年全体に広まっていた。
 入学式に参列できるのは生徒会と入学式の担当係だけであるので、俺も桜庭も普通に授業を受けた。昼休みには、寮暮らしで自炊の趣味もない俺たちは食堂へと向かう。その道中で、次から次へと声をかけられるのはいつものことだが、今日は話題があるせいで量が多い。
「姫と王子で活躍したらしいじゃねえか」
「生徒会の連中が感謝していたぞ。やっぱり地獄坂にはエスカレーターつけるべきだよな」
「お前ら、早速一年生メロつかせやがって」
「王子も、姫もお疲れさん…!」
「あー、はいはい」
 適当にあしらいながら、食堂へ辿り着く。
 昼食は学校生活での楽しみの一つであるので、食堂はいつも騒がしい。トレーを置く音、椅子を引く音、あちこちから飛び交うくだらない会話。そんな喧騒の中、カウンターで注文したカツカレーを受け取り、窓際の席に座る。
 食堂の窓からは、今度は坂道を滑らないように慎重に降りていく一年生たちの行列が見えた。入学式だったので、まだ午後の授業がないらしい。
 その中に、先ほど話題に上っていた二人の姿がないか探してみたものの、遠すぎてわからなかった。見つけるのを諦め、カツカレーをスプーンで掬いながら、
「靴擦れ君の方は絆創膏を貼って、入学式に参列できたけど、眼鏡君の方は無理そうだったよな」
 向かい側で、同じくカツカレーを食べている桜庭が頷く。
「ああ。貧血っぽかったしな」
「二人とも、寮生じゃなくて一般生だよな?」
「地獄坂登ってきたんだから、そうだろ」
「そうだよなぁ。保健室に行った後、すぐにチャイム鳴っただろ? だからクラスと名前聞けなかったんだよな〜。失敗したぁ」
 痛恨のミスだ。理想の姫を見つけたのに。
 悔しがる俺に、桜庭が器用に片方だけ眉を持ち上げる。
「ふぅん? またあいつらに会いたけりゃ一年生の教室をひとつ、ひとつ、覗いていくしかねぇんじゃね?」
「やっぱ、そうだよなー」
 乙木星学園では一学年に九つのクラスがある。一クラスにいるのは約四十人。三百六十人から一人を探し出すのは、かなりの労力だ。
 しかも俺も桜庭も高校では部活に入っていないから、先輩や後輩に知り合いもいない。
 掬ったカツカレーをじっと見つめたまま考え込む俺に、桜庭は何を勘違いしたのか、カツを一切れ、俺の皿に放り込んできた。
「? なんだ?」
「俺のカツの方がデカいから、んな難しい顔してんだろ?」
「ちげーよ」
 違うけれども、貰ったものはありがたく受け取っておく。早速受け取ったカツを頬張ると、桜庭がニヤニヤと見つめてくる。やっぱりカツの大きさで悩んでいたと思われていそうで、ムスッと口元を結んだ。
「はは。ついてんぞ」
 桜庭の親指が伸びてきて、俺の口の横をすっと拭った。
 桜庭は嫌な顔をせずに、カレー色に染まった親指を紙ナプキンで拭き取る。
 すると、ひゅー! とひやかしの口笛が響いた。
「くそ! お前ら、堂々といちゃつくなよ…!」
「王子、めちゃくちゃ姫を溺愛してんなー」
「やめろー! 眩しくて目が潰れるっ!」
 ……だから、姫じゃねーんだって。
 自分でもう一度、紙ナプキンで口元を拭い、俺と一緒に囃し立てられているのに、平然としている桜庭を改めて見る。
 窓から入る、春の柔らかな日差しを浴びる精悍な顔立ちは、同性の俺から見てもかっこいい。
 桜庭王路は王子と称されるに値する存在だと思う。
 俺が女の子なら、今みたいなことをされれば舞い上がってしまうだろう。
 良く言えば優しい、悪く言えば人たらし。
 そんな桜庭だから、俺が姫と呼ばれている限り、俺のパートナーであるかのように扱われてしまう。俺のせいでいつまでも「姫の王子」なんて扱いをされるのは申し訳ない。
 それもこれも、俺の「姫」扱いを返上すれば、きっと全部解決する。


 ところが翌日、会いたいと思っていた人物が、向こうから会いに来てくれた。
 休み時間、教室の入り口から声をかけられる。
「おーい! 姫ー! 一年が会いに来てんぞー!」
 次の英語の小テストに向けて単語を必死に覚えていた俺は仏頂面で、呼び出した奴の腹にパンチをするふりをした。
「だーかーらー! 姫じゃねー!」
「はいはい、トゲトゲのいばら姫」
「それ以上言ったら、怒るからな!」
 肩に力を入れながら廊下へ出る。
 すると、そこにいたのは、ふわふわの髪に眼鏡をかけた一年生だった。
 二年生の教室にやって来た緊張からか、またもやぶっ倒れそうなほど顔色が悪くなっている。
「姫、もう一年にモテてんのかー」
「まぁ、わかるけども」
「俺らも人のことは言えん。うちのクラスのほぼ全員が姫に一目惚れしたのは伝説だからなー」
 窓に群がって廊下を見物している野次馬たちを「しっし」と手で追い払い、注目を浴びて怖がっている彼を廊下の隅へと誘導する。
「あー、姫とか一目惚れとか、あいつらの話は気にしなくていい。冗談で面白がってるだけだから」
「————」
「俺のクラス、よくわかったな」
「————は、はい、……あの、先輩は、有名人、ですから。それに、高校からの、途中入学だって、聞いたので……」
「あぁ、なるほど」
 中高一貫校の乙木星学園では、高校からの入学組は一クラスしかない。
 彼は突然、腰を九十度に曲げると、両手で握りしめた紙袋を差し出した。
「————こ、これ……っ。き、昨日の、お礼です……! 助けてくださり、あ、あり、がとう、ございました……っ!」
 見ると、駅前にある美味しいと評判のパン屋の紙袋だ。わざわざ買ってきてくれたらしい。
「んな、気を遣わなくていいのに……」
 大したことをしたわけでもないのに、こちらのほうが恐縮してしまう。
「いえっ……成瀬先輩が、来てくれなかったら、俺、あのまま、そこで放置されてました、から……!」
「いや、そんなことないと思う。さすがにそこまで薄情じゃないよ、皆」
 あの坂道は乙木星生と教職員しかほとんど使わない。制服を着た子が倒れていたら、さすがに放っておかれることはないだろう。
「そ、そんなことありません……。俺みたいな人間は、石っころみたいな存在だから、誰の目にも、止まらないんです……」
 震えながら早口で訴える彼に、俺は「ふーん」と顔を近づけた。
「ひぇっ!? な、な、な、なんですか……?!」
「俺の目には、君がちゃんと映ってるけどな」
「えっ」
「石ころじゃないよ、君は」
 おどおどしている後輩を怖がらせないよう、俺はできるだけ柔らかい言葉を使うことにした。
「あっ、おっ、ごふ……っ」
 彼は変な声を出すと、落ち着く位置を探すように、眼鏡のつるを人差し指と親指で摘んで何度も動かした。
 相変わらず前髪と眼鏡で隠されていて目は見えない。でも、桜色に染まった頬を見れば、今日は元気そうだ。
「あ、あの、これ以上、近くにいたら、寿命が縮むので……っ。し、失礼します……!」
 俺の手に紙袋を押しつけ、くるりと方向転換する。
 今にも逃げ出しそうな彼を、俺は慌てて呼び止めた。
「ちょっと待って。折角だから、名前を教えてほしい」
「えっ!? お、俺ごときの名前を!?」
「あぁ。俺、他の学年に友達いねーから。友達になってくれると嬉しい」
「ひ、ひぇ…!」
 真っ青になって震え出したから、また具合が悪くなったのかもしれない。
「——大丈夫?」
「あ、あの、身に余る、光栄で、……」
「おい、お前。昨日の奴じゃねーか」
 背後から伸びてきた腕が、肩越しに首へ回されて驚く。
「あ、桜庭か」
 突然現れた桜庭は、俺の肩に手を回したまま、彼に向かって話しかけた。
「茨に会いに来た一年って、お前か」
「ひ、ぃ……」
 首を絞められた鳥のような声を出して震え出した彼に代わり、俺が答える。
「昨日のお礼をわざわざ伝えに来てくれたんだ。ほら、パンまでこんなにたくさん持ってきてくれて」
「そりゃ、ありがとう」
 俺のほうを一切見ずに、桜庭は俺の手から紙袋を受け取ると、一年生に向かって礼を言った。
「し、失礼しますっ」
 今度こそ脱兎のごとく逃げようとするから、
「名前……! 教えて!」
 口元に片手を添えて声をかける。
「——し、白地です……。す、すみ、ません。お邪魔しました……!」
 うわぁぁぁぁぁ。
 声なき悲鳴を上げながら去っていく背中に、「またなー」と呼びかける。
 狩人に狙われた兎のような機敏さで階段へと消えていった彼——白地に対し、やっぱり上級生のところに行くのは緊張するよな。それでも、わざわざ来てくれて良い奴だ、と俺は大きく頷いた。
 いつまでも俺の肩に手を回している桜庭を肘鉄で押しやる。
「このパン、昼休みに一緒に食おうな」
 笑いかけると、なぜか大きなため息が返ってきた。


 
 放課後、チャイムが鳴ると同時に席を立つ。いつもなら寮へと続いている裏門に向かうのだが、今日は地獄坂へ続く校門へ足を伸ばす予定だ。
 目的は、白地にパンのお礼をもう一度言いたかったし、もう一人の一年生——姫のポテンシャルに溢れていた彼を捕まえるためだ。
 一年生が帰ってしまう前に校門で待ち伏せしないといけない。そう思い、廊下を走り抜ける。
 そして靴箱で上靴から外靴に履き替え、一歩踏み出そうとしたとき。
 探そうと思っていた人物が、こちらに向かって手を振っていた。
「え? あれ? どうしてここに?」
「成瀬先輩に会いに来ました。昨日はありがとうございました」
 サイドの長めの髪を耳にかけ、ふふ、と笑う顔がまるで天使だ。
「——よかった。俺も君に会いに行こうと思ってた」
「えー! そうなんですかぁ! 嬉しいです」
 綺麗に持ち上がった口角が近づいてきて、腕を組まれる。
 俺より頭ひとつ分低い位置から上目遣いをされる。睫毛が音を立てて揺れそうなほど長い。
「——もしかして、僕のこと好きになっちゃいました?」
「————え?」
「よく一目惚れされるんですよね。僕って顔が整ってるから」
「そうだろうな」
 これだけ綺麗な顔で言われると嫌味には聞こえず、むしろ納得してしまう。
「僕も先輩の顔、大好きですよ。美人だから」
「いや、俺なんて君に比べるまでもない。君が姫に相応しい」
 だから、お願いがあるんだ。
「————俺と、つき合ってるふりをしてくれないか」