突然の夕立だったが、僕は自分の絵が濡れても構わなかった。
右手に抱えたむき出しの水彩画はところどころ滲んでぼやけている。完成まで一年をかけたが、こうもあっけなく駄目になるものか。
わざわざ電車に乗って人気の観光地に向かい、空気を感じ取り、風景を切り取った。海、空、レンガ造りの倉庫、色とりどりの服を着た人々。誰が見ても幸福な景色に仕上げた。構成も、色の配置も、僕の知識と技術のすべてを注ぎ込んだ。
文化祭で行われる校内コンクールに向けた僕の作品は、美術部員には勿論、友人たちにも評判だった。投票は校内生徒や教員だけでなく、文化祭に訪れた一般の人々によるものも含まれるので確定したわけではなかったが、その時にはすでに僕は受賞したときの気の利いた一言を考えていた。
結果、僕の絵は最下位だった。
一位の絵に向けられた拍手は、僕の絵の時のあり合わせのそれとは質が違った。一位だけではない。他の作品への拍手すら僕の絵のとは違うようだった。ようやくそこで、そもそもの作品としての格が違うということに気付いた。「上手」「写真みたい」「描き込みがすごい」「色使いが綺麗」僕の絵に与えられた言葉はただの口にしやすい感想だったのだろう。
コンクールが終わって顧問の谷口先生に品評を求めた。それが通例だった。そうじゃなければわざわざそんな恥の上塗りのようなことはしなかっただろう。
谷口先生は「うん、そうね」と一言言ってから、巻いた髪の毛を指でくるくると触り始めた。いつもは話好きな先生も今日は一言目を言うまでに時間がかかった。
「渡來君の作品はね、誰が見ても綺麗だと思える絵だとは思う。でも、だから、渡來君の絵じゃなくてもいいのかもしれない」
「もっと、渡來君の視界で描けばいいんじゃないかしら」
僕は「ありがとうございます」と言いつつ、その言葉を素直に飲み込めなかった。僕の目で実際に見て、一番良いと思ったのを額に収めた。これこそが皆に評価されるべき絵だと確信していた。何度言われても同じように答えられる。
つまり、先生の言葉を虚飾なしに要約すると「あなたにはセンスがない」ということだ。
文化祭が終わり、僕は展示された絵を黙って外した。誘われた打ち上げも断り、誰にも見られないように絵を抱え、帰り道を一人歩いた。
ぽつぽつと降ってきた雨はすぐに大降りになった。アスファルトを叩くほどの雨粒の強さに、僕は走るスピードを上げた。もはや絵は邪魔なだけだった。いっそどこかに捨て置こうか。誰にも評価されない絵なんて持っていても仕方がない。センスのない自分を立派な額に収めて披露するなんて余程の恥知らずだ。
絵は雨に濡れてところどころ滲んでいる。僕の描いた街並みまでも雨に降られているように見える。キャンバスの中の人々と目が合う。薄くなっていく一人一人がこっちを見ている気がする。
僕は着ていたブレザーで絵を包み、また走った。
人気のないガソリンスタンドを見つけた。寂れていて人の気配はない。とうの昔にガソリンスタンドとしての役目は終えたのだろう。広い屋根は雨宿りをするのに十分だった。
屋根の下には先客がいた。僕と同じブレザーの女子。肩にかかる黒髪から水が滴っている。同じ高校の生徒のはずだが見覚えはない。目が合ったので僕は軽く会釈をした。向こうも微笑んで会釈を返した。その目はなぜか僕が脇に抱えたブレザーの方に向いていた。
しばらくして雨は止んだ。沈んだ灰色の雲は去り、青空が見え始めた。黒髪の女子はスクールバッグからハンドタオルを取り出して髪の毛を拭いている。僕は拭く物を持ち合わせていなかったので、下を向き、頭を振って水滴を落とした。濡れて邪魔な前髪を手で持ち
上げると、黒髪の女子がすぐそこに立っていた。
「これ、良かったら」
彼女はそう言って僕にハンカチを差し出した。油性ペンの丁寧な字で「香川」と書いてある。
「ありがとう」
僕は反射的にそれを受け取った。彼女はじっと僕を見ている。何だか落ち着かなくて肩を軽く拭いてすぐに返そうとすると、
「それは、拭かなくて大丈夫?」
と彼女は僕の抱えたブレザーを指さした。
「ああ、いいんだ。大丈夫。ハンカチありがとう」
ハンカチを返し、僕は絵を隠すようにして抱え直した。もう雨の気配はない。早く帰ってしまいたい。
僕はガソリンスタンドの屋根の外に出た。くすんだ雲が流れる隙間から透き通った青空が見える。眩しい日差しが目に刺さる。よく見ると太陽の周りに環状の虹が広がっている。
「ハロ」だ。
珍しい光景に僕は少しの間目を奪われた。
「白虹ね」
いつの間にか隣に並んでいた黒髪の女子はハロのことをそう言った。そして僕の顔を覗き込むようにして「ねえ、あれ、いくつ色があるように見える」と言った。
虹なんだから当然七色だろう。僕がそう答えると彼女はうんうんと頷いた。
「そうだよね。でも、実は八色なの」
何を言っているんだ。とは思ったが、一応僕は眩しいのを堪えて空を見上げた。知らない間にそんな発見があったのかもしれない。
一つ一つ色を確認しようとしたけれど、はっきりと見ることができない。色と色の境界もぼやけていて青色と藍色の違いもわからない。
「私には見えるんだ」
彼女はそう言って微笑んだ。口元は優し気だが細めた目元がどこか不穏さを感じさせる。
話の雲行きが怪しくなってきた。変に関わるべきではなさそうだ。早く帰ろう。
「あなたの、それにも八色目が見える」
彼女は僕の抱えたブレザーを指さした。唐突にそんなことを言われ、僕は反応することができなかった。彼女は僕のブレザーを指でつまむと、「失礼」と、そのまま中の絵を露わにした。海と坂、街灯、レンガ造りの倉庫、行き交う人々、雨のせいで滲んで元の絵の姿は見る影もない。そして、特別な色などはない。
「とても、綺麗」
彼女はそう言ってさらに目を細めた。
「大した絵じゃない。ありきたりの絵だよ。特別なものなんてない。コンクールの評価だって散々だったんだ。ましてや八色目の虹色だなんて」
「そんなことない。とても素敵」
彼女の言葉はお世辞や気遣いや嘘の類ではなさそうだった。当然だ。初対面の僕に対して何も配慮する必要なんてない。体の芯の部分が温かくなり、震えるようだったが、何とか平静を保った。
彼女は「ありがとう」と、僕にブレザーを返した。
「ねえ、八色目の色って」
僕の声などお構いなしに彼女は背を向けて去っていった。「ちょっと、待って」
追いかけようとしたが僕は慌てて転び、絵とブレザーを水たまりに落としてしまった。拾い上げて顔を上げると、彼女の姿はすでになかった。
僕はそれから、黒髪の女子の香川を探した。僕は「ハロの八色目」がどんな色だというのか確かめたかった。単なる好奇心だけではない。僕の絵に特別なものがあったならそれを知りたかった。そして香川の視界が、僕にしかない特別な視界のヒントになるかもしれない。
香川は一つ下の後輩だった。一年生の教室に彼女はいた。けれど、彼女はいつも誰かに囲まれていて話しかける隙がなかった。際立って明るいわけではない彼女の周りになぜそんなに人が集まるのか不思議だったが、香川は涼し気な顔をしながら誰の話も同じように聞き、誰にでも同じように話しかけていた。その姿はまるで何かの作業のようにも見えたが、それは友達のほとんどいない僕の嫉妬心のせいかもしれない。
ある日の放課後、彼女が下校しようとしているのを偶然見つけた。彼女は校門を出ると友人たちに別れを告げ、駅やバス停の方向ではなく、人気の少ない路地の方にわざわざ入っていった。僕は駆け足でその後を追った。
日のあまり当たらない、薄暗い路地を少し進んだところで香川に追いついた。
「あの」
息を切らしながら声を掛けると、香川は特に驚くこともなく、
「本当は一人で歩きたいんだけど」と言った。
「ごめん、こないだの話が気になって、ハロの八色目」
「知らない方がいいよ。どうせ見えないんだし」
「どうしても、知りたいんだ。その、君の話が興味深くて」
僕の絵のために必要だとは言わなかった。
「絵具で再現しようとしても、きっと無理だよ」
香川は僕の心を見透かすように言った。僕は取り繕った笑顔で、
「そんなことしないよ。単純な好奇心さ。そんな色が見えるなんて、とても素敵じゃないか。実際に見えなくても何とかヒントでも貰えないかな」
「私の言うこと、信じるの」
「もちろん」
僕の顔を見て、香川は顔いっぱいに笑みを浮かべた。細めた目の奥に冷たいものを感じるのはわずかにある僕の背徳感のせいかもしれない。
「ついてきて」と言われるがままに香川の後ろを歩いた。ガッツポーズは心の中だけに留めておいた。
香川は通りに面した古びた家の前で止まり、「ここ」と家を指さした。雑草に囲まれた小さな家。人の気配はない。今は誰も住んでいないようだ。
「空き家?」
僕が言うと、香川は一度頷いてから、今度は横に首を振った。何のことかと香川の指さす先をもう一度よく確認すると、まっすぐ伸びた人差し指は「田所」という表札をさしていた。苗字の下には「修一」「和子」「正樹」と名前が並んでいる。
「人が住んでいるのか?」
「ううん、もう人は住んでいない」
何を言いたいのかがわからない。彼女の真意について考えていると、香川は玄関に近付いて表札を指でなぞった。「この家も、ハロの八色目と同じ色が見えるよ」
ただの古い家だ。それ以外は際立って特別なところはない。どことなく寂しさやもの悲しさは感じるけれど、それが八色目の正体とでもいうのだろうか。あえて何か特徴を挙げるとすれば、小さな庭に色とりどりのコスモスが咲いているくらいだ。
「君には見えないだろうけど。せめてものヒント」
香川はそう言ってまた意地悪な笑みを浮かべた。それが「お前は特別じゃない」と言われているようで僕は無意識の内に拳を握っていた。
「見えないけれど、何となく、言いたいことはわかるよ。哀愁みたいなものだろう」
わかってはいなかった。でも、悔しくてわかっているフリをした。香川は嬉しそうに、
「そうだよね。さすがだねえ」と言って「頑張って見つけてみて」と去っていった。
香川の姿が見えなくなったのを確認してから、鞄のスケッチブックを取り出し、僕は目の前の空き家のスケッチを始めた。
この目の前の空き家を描き、色を塗ることで、香川が「八色目」と言った僕の絵の特別なところを突き止めたい。それはゴッホの黄色のように、僕だけの強み、僕だけの色になるはずだ。
夢中で鉛筆を動かしていると、後ろに人の気配がした。後ろに男が立っていた。「あの、何か」男は怪訝そうな顔をした。
「あ、僕、美術部で、その、スケッチを」
「ああそうですか。この家は私の家ですが、こんなのでよければどうぞ」
男の表情は一気にほぐれた。男は玄関の鍵を開けて中から掃除道具を取り出し、軒先の掃除を始めた。
この家は空き家ではなかったのか。香川にからかわれたのだろうか。
「あの、勝手に描いてすみません。誰も住んでいないと思って」
「いいんですよ。住んではいないから。二年前かな。おふくろもおやじも立て続けに死んじゃって。私も今は別のところで暮らしているんですけれど、どうにもすぐに壊すとかいう気にはなれなくて。こうしてたまに掃除をしにきてるくらいなので」
男の言葉に甘えて僕はスケッチを続けた。男も掃除を続けた。互いの作業をしながら雑談を交わした。僕は部活やコンクールのことを話した。「この家に、絵のモチーフにする何かを感じたんですか」と聞かれて、「ええ、まあ」と言葉を濁した。男はどことなく嬉しそうだった。
色はここでは塗れないので、許可を得て写真を撮った。男は「もし完成したら、見せてくれませんか」と言った。僕は頷いた。男は掃除を終え、如雨露で庭に水を撒いた。コスモスが水を浴びて静かに揺れていた。
数週間後、絵は完成した。美術部の部員たちは「今までのとは毛色が違う」と感想を述べ、部活の時間中ちらちらと何度か見られた。手放しに誉められるようなことはなかったが、それがかえってこれまでなかった手ごたえを感じさせた。
僕はしばらく帰り道を変えて空き家の前を通った。ある日、空き家の主の男がまた庭に水を撒いていた。僕が描いた空き家の絵を見せると、彼は「ああ、いいですね。何か、昔三人で住んでいたことを思い出します。庭仕事が好きだった母がひょっこり出てきそうだ」としばらく笑った後、「ありがとうございます」と礼を言った。
僕はその日、自分の部屋に空き家の絵を飾った。今までに感じたことのない充足感の中で、久しぶりに穏やかな眠りにつくことができた。
それから僕は香川の「視界」を借りることに躍起になった。「君の見る世界をもっと知りたいんだ」僕が言うと、香川は思いの外嬉しそうにして、互いの連絡先を交換した。そして僕が連絡をすると八色目が見えるという風景や人物を案内してくれた。電柱に貼られた怪しげな広告。公園でごっこ遊びをする子どもたち。カフェで話すスーツの男と若い男。そして、僕たちが出会ったガソリンスタンドのなれの果て。どれも僕なら絶対に選ばないようなモチーフばかりだった。
「香川の目、というか世界の切り取り方は素晴らしいね。些細な日常風景の中に、こんなに素敵なものを見つけられるんだから」
僕が言うと、香川はいつも目を細めて満面の笑みを浮かべた。
僕は香川に教えてもらった風景を絵に描いた。完成したどの絵も校内で目を引いた。だんだんと周りの僕を見る目が変わってきた。後
輩から絵の相談をされることも増えた。部活内での品評会でもありきたりでない感想を貰えるようになった。
「あなたの世界の切り取り方には一定のルールがあるように思える。言語化するのは難しいけど、それがテーマ性とかメッセージ性みたいに感じられる」
谷口先生は僕の絵をそう評価してくれた。
「どういう意図があるのかしら」
「それは説明できません。言葉にしてしまうと、絵で表現する意味がなくなってしまうので」
僕はもっともらしいことを言った。「それもそうね」と谷口先生は納得したように頷いた。
それからも絵を描き続けたが、「ハロの八色目」の正体を掴むことはできなかった。どの絵にも共通している色はない。
「そんなに私の話に興味をもってくれたの、君くらいだよ。皆本気にしないもの」
香川は言った。
「それは不思議だな。君が教えてくれる風景には、人を惹きつける何かがある。八色目の色、何とか僕も見てみたいよ」
香川は目と口を細めて笑った。いつもの笑みなのになぜか冷たい表情のように見えた。
「今の君が一番綺麗な八色目をしているよ」
「僕が?自分の目で見れないのがもどかしいよ」
僕は大袈裟に笑った。
雪が降り積もり、気持ちが浮足立ち、そろそろ温かな冬のイベントを一通り済ませて春が恋しくなる頃に、下半期の校内コンクールの日程が決定した。部員たちはそれぞれモチーフを決め、キャンバスに向き合い始めていた。
僕は何を描くかまだ決めかねていた。香川はしばらく学校を休んでいた。「寒くなると調子が悪くなりがちで」と、時々休むことはあったがこんなに長い休みは初めてだ。
コンクールのためには香川の「視界」が必要だ。それなりに気を遣って信頼関係を築いてきたつもりだ。そろそろ八色目についてヒントではなく、答えを教えてもらえるのではないだろうか。
香川の担任の話では、香川は検査入院をしているようだった。生まれつき目の持病があって定期的に病院にかかっているようだ。
次の休日、僕は電車に乗って香川がいるという病院に向かった。入院先は香川本人がすんなりと教えてくれた。駅に着いてから病院に向かう途中で小さめの果物ゼリーの詰め合わせを買った。
香川は元気だった。「ただの検査入院だって」とベッドに寝ながら呆れた様子だった。
「それでも、急だったから心配になって。これ、見舞いの品」
と僕がゼリーの入った紙袋を渡すと、彼女はゼリーには目もくれず僕の目をじっと見つめた。しばらくの沈黙があった。僕は手の汗を握って隠した。
「ありがとう。葡萄のゼリーがある。葡萄好きなんだよね」
香川はころりと表情を変えたかと思うと、いつものように笑ってゼリーを受け取った。「よかった」と僕は言った。一瞬、ほんの一瞬、悲しそうな表情が見えた気がしたが、きっと気のせいだ。
それから他愛のない話をした。何事も助走が大切だ。いきなり本題に入るのも不自然だろう。「入院中はとにかく暇。窓の外はアスファルトの壁が見えるだけだし」という彼女の機嫌を取るように、僕は学校の出来事の話をした。香川は話を聞きながら控えめな声で笑った。
場の空気がほぐれてきた。そろそろか。
「そういえば、美術部の校内コンクールがあってさ。モチーフを考えたり、色を選んだりしていたんだけれど、そんな中で大ニュースがあって」
香川は「うん」と小さく頷いた。自分の心臓の鼓動が聞こえる。短く深呼吸をしてから、口を開く。
「ようやく、僕も見つけたんだ『ハロの八色目』」
「へえ」
「見た瞬間、これだって思ったよ。あの、僕らが一緒に見た空き家があったろう。たまたままた通りがかった時にさ、あそこの男の人が庭に水を撒いていて、小さな虹が見えたんだけど、よく目を凝らしてみたら見えたんだ」
香川はにこにことしている。
「それで、答え合わせをしたいんだ。僕の見つけた八色目と君が見つけた八色目が同じかどうか。水彩画用の絵の具を持ってきている。これで近い色をつくって、見せ合わないか」
香川はうーんと考えるような素振りを見せた。窓の外を少しだけ眺めてから表情を浮かべることなく「そんな必要はないよ」と言った。
「どういうこと」
「いいよ、教えてあげる。八色目の色」
僕は零れ出そうになる笑みを懸命に堪えた。静かに心臓が脈打つ。態度に出ないように、ゆっくり、静かに呼吸をする。
香川の唇が開く。
「八色目なんて、実在しないの」
「は?」
思わず僕は前のめりになった。「どういうことだよ」
「だから、実在しないの」
「何だよそれ。僕をからかっていたのか。嘘だっていうのか」
香川は人差し指を口元にあてた。ここが病室だということをそれで思い出した。
「そう、嘘」
僕は全身の力が抜けるのを感じた。つまり、この女は初めから僕が右往左往するのを面白がっていただけなのだ。きっと必死な僕の姿を見て笑っていたのだろう。そう思うと体が熱くなってきた。
「そんなことして、面白かったのか」
香川は「面白い、とは違う。でも、美しいって思った」と言った。
彼女が何を言っているのかまるでわからない。
「私が教えた『嘘』の景色を、何枚も何枚も一生懸命に絵にしていたこと、決して馬鹿にはしていない」
「そんなこと言って、ずっと」
僕はそこまで言ってから言葉を飲み込んだ。そして彼女の言葉を反芻した。
そこで、僕は気が付いた。
「何で、僕が、君から教えてもらった風景を絵にしてたこと」
「知ってるかって?」
香川は顔中に貼り付けたような満面の笑みを浮かべた。
「だから言ったでしょう。八色目の色は実在しない色。実在しないのにそこに在るように拵えた嘘に現れる色。虹の端っこはね、いつも言ってるの。『ここで終わりじゃないぞ』って。そんな健気な色が私には見える。本当に見えるの。街の風景にも、人々にも。そして、あなたにも。君がついてた嘘は全部知ってた」
体の芯が冷える感覚。一気につま先まで寒くなる。
「渡來君、あなたがいっちばん、綺麗に取り繕った嘘の色が出ていたよ。そして、一番初めに見せてくれた街並みの絵にも。自分の本心に嘘をついて描いたからかな。皮肉だけど、私にはとっても綺麗に見えたよ」
僕は香川の目を直視することができなかった。
嘘の色?そんなものが本当に?
「実在しないのに、世界に在ろうとするのってすごいことじゃない。私にもわからないけれど、だから綺麗なのかな。一生懸命拵える程鮮やかになる。君のは格別だったよ。でも、もういいかな。ちょっと飽きちゃったし。君をからかうのも」
香川はそう言ってひらひらと掌を向けて揺らした。
「そんなだからか」
僕は香川に向かって言った。何かを、言ってやりたかった。そして、続けて突然思いついた言葉を口にしていた。
「嘘の色とか、鮮やかだとか知らないけれど、君はそんな人間だからいつも一人なんだ」
「私が?そんなわけないじゃない」
僕は言葉を返さず、静かに彼女に背を向けて病室の扉を開けた。
一瞬、しゃくり上げるような音がした。振り返ると、香川は窓の方を向いていて、どんな顔でいるのかはわからなかった。
それから、筆をとっても何も描けない日が続いた。筆を動かそうとしても思い通りに手が動かなかった。
何もかも見透かされていた。きっと香川だけではない。僕の精一杯ひねり出した全ては「嘘」だとばれている。僕の中には何もない、才能もセンスも芸術性も。認めないように必死に取り繕っていたものは、所詮紛い物だった。先生も美術部の仲間たちもきっと無意識の内にそれを見通していた。まるで僕の知り得ぬ共通言語で会話をしているように。
そして、僕は未だにそれがわからない。
しばらく部室に行くことすらできなくなった。部活のない放課後は驚くほど長かった。空いた時間を目的もなく浪費した。
早めに家に帰ると親に「部活はどうしたの」と聞かれるようになった。初めは適当に言い訳をしていたが、日が経つにつれてそれも苦しくなり、部活道具を持って日が暮れるまで時間を潰し、部活が終わるくらいの時間に平然と家に帰るようになった。公園、図書館、川辺、高校生が金を使わず居られる場所なんて限られたものだ。
僕は放課後に川沿いの堤防を訪れた。今までに比べると楽な時間だった。何もない時間がこんなに心地の良いものだとは思わなかった。なぜ今まであんなにも絵に執着していたんだろうと思うくらいだった。正確には絵を認められることに。今時絵なんて流行らないし金にもならない。無為な時間の過ごし方をしていたことに早めに気付けただけでも幸福だったのかもしれない。きっとそうだ。
僕は木陰の芝に寝ころんだ。鼻孔に草葉の香りが届く。素晴らしい時間だ。芝の感触が首をくすぐる。
なのに、なぜ、こんなに空しいんだろう。
ふと思い浮かんだ言葉を僕は忘れようとした。しかし、そうするだけの力はすでに残っていなかった。流れる雲を目で追うように、僕は頭の中に浮かぶ言葉に耳を傾けた。
空しい。悔しい。でも、どうすればいいのかわからない。
ああそうだ。そうだったんだ。なのにどうして僕はそれを認められなかったんだろう。
木々の葉の隙間から陽光が注ぐ。眩しくて目を細める。
一際強い光が差した。僕は体を起こして木陰から出た。太陽の周りを円環の虹が囲んでいる。
ハロだ。
綺麗な円だった。淡い光の環。そして暖かな空気、木々の香り。風が通り抜けて、そこでようやく頭が冴えてきた。
僕は部活道具の鞄の中から鉛筆を取り出した。気付くと無心でスケッチをしていた。ハロ、虹、万人が綺麗だと思うありきたりなモチーフだ。何枚も、何十枚も虹の絵なんて見てきた。
でも、僕は今見ているこの光景を描きたい。
コンクールも終わった。どうせ誰に見せるものでもない。筆に絵具を取り、川の水を使って混ぜる。ハロが消えない内に。そう思って急いで筆を動かす。
空の端に現れた雲が次第に虹を覆っていく。大丈夫。まだ見える。この色じゃない。空とパレットを繰り返し比べる。もう少し水を。あっ。
焦ってパレットを落としてしまった。パレットは堤防を転げてそのまま川に落ち、流れていった。気を取られている内に、ハロは消えてていた。
それでも筆は止まらなかった。制服の袖をまくり上げて腕にチューブの絵具を出し、無理やりパレットのようにして描き続けた。今、僕の視界に見える色がある。本物とは違うかもしれない。でも、嘘ではない。
完成した絵は手の込んだ代物ではなかった。構図もバランスも色合いも何も意識していない。それでも、僕の絵だ。
全体を眺めて、妙な衝動にかられた。視界に残る映像にはその色はなかった。余計なことを考え始める前に、僕は最後に一色付け足した。
香川は二週間後に退院し、学校に戻ってきた。僕はたまたま教室の前を通りがかり、何人かのクラスメイトに囲まれる香川の姿を見た。入院について尋ねるクラスメイトに「いつもの検査だよ」と香川が言うと、人の輪はまばらになって香川は一人で授業の準備を始めた。一瞬、右目だけを眩しそうに閉じたのがなぜか僕にはとても辛そうに見えた。
そして廊下にいた僕と香川の目が合った。香川はにこりと笑った。
「あら嘘つき渡來君」
彼女は出会い頭に言った。
「右目、大丈夫なの」
僕の言葉に香川は驚いたようだったが、すぐにまたいつもの表情に戻った。
「全然」香川はそう言ってから僕の横を通り過ぎようとしたが、「嘘つきは止めたの?」と振り返った。
「君の目にそう映っているのなら」
「なーんだ、残念。とっても綺麗だったのに」
香川はそう言って壁に寄り掛かった。
「香川、ちょっと来てくれないか」
僕はそう言って香川を美術部の部室に案内した。コンクールに向けた部員たちの作品が並ぶ中で僕は隅に布を被せておいた絵を香川に渡した。
「どうかな」
香川は少しの間、無表情で絵を眺めていた。
「全然。普通の絵」
「そっか。コンクールはまた最下位かもしれないな」僕は笑った。彼女は絵の中のハロを指さした。
「言っておくけど、こんな色じゃないからね」
「いいんだ。これで」
「つまらない。大嘘つきの君の絵だから私は好きだったのに。馬鹿正直ってやつね」と面白くなさそうに言った。そして小さな声で
「もう、うんざりでしょう。君だって」と言った。
僕は少し考えてから言った。
「やっぱり僕にも見えるよ。『八色目』が」
「へえ、どこに?」
「君に」
香川は僕が言い終わる前に背を向けた。そして「嘘つき」と言ってから振り返り、小さく笑った。
右手に抱えたむき出しの水彩画はところどころ滲んでぼやけている。完成まで一年をかけたが、こうもあっけなく駄目になるものか。
わざわざ電車に乗って人気の観光地に向かい、空気を感じ取り、風景を切り取った。海、空、レンガ造りの倉庫、色とりどりの服を着た人々。誰が見ても幸福な景色に仕上げた。構成も、色の配置も、僕の知識と技術のすべてを注ぎ込んだ。
文化祭で行われる校内コンクールに向けた僕の作品は、美術部員には勿論、友人たちにも評判だった。投票は校内生徒や教員だけでなく、文化祭に訪れた一般の人々によるものも含まれるので確定したわけではなかったが、その時にはすでに僕は受賞したときの気の利いた一言を考えていた。
結果、僕の絵は最下位だった。
一位の絵に向けられた拍手は、僕の絵の時のあり合わせのそれとは質が違った。一位だけではない。他の作品への拍手すら僕の絵のとは違うようだった。ようやくそこで、そもそもの作品としての格が違うということに気付いた。「上手」「写真みたい」「描き込みがすごい」「色使いが綺麗」僕の絵に与えられた言葉はただの口にしやすい感想だったのだろう。
コンクールが終わって顧問の谷口先生に品評を求めた。それが通例だった。そうじゃなければわざわざそんな恥の上塗りのようなことはしなかっただろう。
谷口先生は「うん、そうね」と一言言ってから、巻いた髪の毛を指でくるくると触り始めた。いつもは話好きな先生も今日は一言目を言うまでに時間がかかった。
「渡來君の作品はね、誰が見ても綺麗だと思える絵だとは思う。でも、だから、渡來君の絵じゃなくてもいいのかもしれない」
「もっと、渡來君の視界で描けばいいんじゃないかしら」
僕は「ありがとうございます」と言いつつ、その言葉を素直に飲み込めなかった。僕の目で実際に見て、一番良いと思ったのを額に収めた。これこそが皆に評価されるべき絵だと確信していた。何度言われても同じように答えられる。
つまり、先生の言葉を虚飾なしに要約すると「あなたにはセンスがない」ということだ。
文化祭が終わり、僕は展示された絵を黙って外した。誘われた打ち上げも断り、誰にも見られないように絵を抱え、帰り道を一人歩いた。
ぽつぽつと降ってきた雨はすぐに大降りになった。アスファルトを叩くほどの雨粒の強さに、僕は走るスピードを上げた。もはや絵は邪魔なだけだった。いっそどこかに捨て置こうか。誰にも評価されない絵なんて持っていても仕方がない。センスのない自分を立派な額に収めて披露するなんて余程の恥知らずだ。
絵は雨に濡れてところどころ滲んでいる。僕の描いた街並みまでも雨に降られているように見える。キャンバスの中の人々と目が合う。薄くなっていく一人一人がこっちを見ている気がする。
僕は着ていたブレザーで絵を包み、また走った。
人気のないガソリンスタンドを見つけた。寂れていて人の気配はない。とうの昔にガソリンスタンドとしての役目は終えたのだろう。広い屋根は雨宿りをするのに十分だった。
屋根の下には先客がいた。僕と同じブレザーの女子。肩にかかる黒髪から水が滴っている。同じ高校の生徒のはずだが見覚えはない。目が合ったので僕は軽く会釈をした。向こうも微笑んで会釈を返した。その目はなぜか僕が脇に抱えたブレザーの方に向いていた。
しばらくして雨は止んだ。沈んだ灰色の雲は去り、青空が見え始めた。黒髪の女子はスクールバッグからハンドタオルを取り出して髪の毛を拭いている。僕は拭く物を持ち合わせていなかったので、下を向き、頭を振って水滴を落とした。濡れて邪魔な前髪を手で持ち
上げると、黒髪の女子がすぐそこに立っていた。
「これ、良かったら」
彼女はそう言って僕にハンカチを差し出した。油性ペンの丁寧な字で「香川」と書いてある。
「ありがとう」
僕は反射的にそれを受け取った。彼女はじっと僕を見ている。何だか落ち着かなくて肩を軽く拭いてすぐに返そうとすると、
「それは、拭かなくて大丈夫?」
と彼女は僕の抱えたブレザーを指さした。
「ああ、いいんだ。大丈夫。ハンカチありがとう」
ハンカチを返し、僕は絵を隠すようにして抱え直した。もう雨の気配はない。早く帰ってしまいたい。
僕はガソリンスタンドの屋根の外に出た。くすんだ雲が流れる隙間から透き通った青空が見える。眩しい日差しが目に刺さる。よく見ると太陽の周りに環状の虹が広がっている。
「ハロ」だ。
珍しい光景に僕は少しの間目を奪われた。
「白虹ね」
いつの間にか隣に並んでいた黒髪の女子はハロのことをそう言った。そして僕の顔を覗き込むようにして「ねえ、あれ、いくつ色があるように見える」と言った。
虹なんだから当然七色だろう。僕がそう答えると彼女はうんうんと頷いた。
「そうだよね。でも、実は八色なの」
何を言っているんだ。とは思ったが、一応僕は眩しいのを堪えて空を見上げた。知らない間にそんな発見があったのかもしれない。
一つ一つ色を確認しようとしたけれど、はっきりと見ることができない。色と色の境界もぼやけていて青色と藍色の違いもわからない。
「私には見えるんだ」
彼女はそう言って微笑んだ。口元は優し気だが細めた目元がどこか不穏さを感じさせる。
話の雲行きが怪しくなってきた。変に関わるべきではなさそうだ。早く帰ろう。
「あなたの、それにも八色目が見える」
彼女は僕の抱えたブレザーを指さした。唐突にそんなことを言われ、僕は反応することができなかった。彼女は僕のブレザーを指でつまむと、「失礼」と、そのまま中の絵を露わにした。海と坂、街灯、レンガ造りの倉庫、行き交う人々、雨のせいで滲んで元の絵の姿は見る影もない。そして、特別な色などはない。
「とても、綺麗」
彼女はそう言ってさらに目を細めた。
「大した絵じゃない。ありきたりの絵だよ。特別なものなんてない。コンクールの評価だって散々だったんだ。ましてや八色目の虹色だなんて」
「そんなことない。とても素敵」
彼女の言葉はお世辞や気遣いや嘘の類ではなさそうだった。当然だ。初対面の僕に対して何も配慮する必要なんてない。体の芯の部分が温かくなり、震えるようだったが、何とか平静を保った。
彼女は「ありがとう」と、僕にブレザーを返した。
「ねえ、八色目の色って」
僕の声などお構いなしに彼女は背を向けて去っていった。「ちょっと、待って」
追いかけようとしたが僕は慌てて転び、絵とブレザーを水たまりに落としてしまった。拾い上げて顔を上げると、彼女の姿はすでになかった。
僕はそれから、黒髪の女子の香川を探した。僕は「ハロの八色目」がどんな色だというのか確かめたかった。単なる好奇心だけではない。僕の絵に特別なものがあったならそれを知りたかった。そして香川の視界が、僕にしかない特別な視界のヒントになるかもしれない。
香川は一つ下の後輩だった。一年生の教室に彼女はいた。けれど、彼女はいつも誰かに囲まれていて話しかける隙がなかった。際立って明るいわけではない彼女の周りになぜそんなに人が集まるのか不思議だったが、香川は涼し気な顔をしながら誰の話も同じように聞き、誰にでも同じように話しかけていた。その姿はまるで何かの作業のようにも見えたが、それは友達のほとんどいない僕の嫉妬心のせいかもしれない。
ある日の放課後、彼女が下校しようとしているのを偶然見つけた。彼女は校門を出ると友人たちに別れを告げ、駅やバス停の方向ではなく、人気の少ない路地の方にわざわざ入っていった。僕は駆け足でその後を追った。
日のあまり当たらない、薄暗い路地を少し進んだところで香川に追いついた。
「あの」
息を切らしながら声を掛けると、香川は特に驚くこともなく、
「本当は一人で歩きたいんだけど」と言った。
「ごめん、こないだの話が気になって、ハロの八色目」
「知らない方がいいよ。どうせ見えないんだし」
「どうしても、知りたいんだ。その、君の話が興味深くて」
僕の絵のために必要だとは言わなかった。
「絵具で再現しようとしても、きっと無理だよ」
香川は僕の心を見透かすように言った。僕は取り繕った笑顔で、
「そんなことしないよ。単純な好奇心さ。そんな色が見えるなんて、とても素敵じゃないか。実際に見えなくても何とかヒントでも貰えないかな」
「私の言うこと、信じるの」
「もちろん」
僕の顔を見て、香川は顔いっぱいに笑みを浮かべた。細めた目の奥に冷たいものを感じるのはわずかにある僕の背徳感のせいかもしれない。
「ついてきて」と言われるがままに香川の後ろを歩いた。ガッツポーズは心の中だけに留めておいた。
香川は通りに面した古びた家の前で止まり、「ここ」と家を指さした。雑草に囲まれた小さな家。人の気配はない。今は誰も住んでいないようだ。
「空き家?」
僕が言うと、香川は一度頷いてから、今度は横に首を振った。何のことかと香川の指さす先をもう一度よく確認すると、まっすぐ伸びた人差し指は「田所」という表札をさしていた。苗字の下には「修一」「和子」「正樹」と名前が並んでいる。
「人が住んでいるのか?」
「ううん、もう人は住んでいない」
何を言いたいのかがわからない。彼女の真意について考えていると、香川は玄関に近付いて表札を指でなぞった。「この家も、ハロの八色目と同じ色が見えるよ」
ただの古い家だ。それ以外は際立って特別なところはない。どことなく寂しさやもの悲しさは感じるけれど、それが八色目の正体とでもいうのだろうか。あえて何か特徴を挙げるとすれば、小さな庭に色とりどりのコスモスが咲いているくらいだ。
「君には見えないだろうけど。せめてものヒント」
香川はそう言ってまた意地悪な笑みを浮かべた。それが「お前は特別じゃない」と言われているようで僕は無意識の内に拳を握っていた。
「見えないけれど、何となく、言いたいことはわかるよ。哀愁みたいなものだろう」
わかってはいなかった。でも、悔しくてわかっているフリをした。香川は嬉しそうに、
「そうだよね。さすがだねえ」と言って「頑張って見つけてみて」と去っていった。
香川の姿が見えなくなったのを確認してから、鞄のスケッチブックを取り出し、僕は目の前の空き家のスケッチを始めた。
この目の前の空き家を描き、色を塗ることで、香川が「八色目」と言った僕の絵の特別なところを突き止めたい。それはゴッホの黄色のように、僕だけの強み、僕だけの色になるはずだ。
夢中で鉛筆を動かしていると、後ろに人の気配がした。後ろに男が立っていた。「あの、何か」男は怪訝そうな顔をした。
「あ、僕、美術部で、その、スケッチを」
「ああそうですか。この家は私の家ですが、こんなのでよければどうぞ」
男の表情は一気にほぐれた。男は玄関の鍵を開けて中から掃除道具を取り出し、軒先の掃除を始めた。
この家は空き家ではなかったのか。香川にからかわれたのだろうか。
「あの、勝手に描いてすみません。誰も住んでいないと思って」
「いいんですよ。住んではいないから。二年前かな。おふくろもおやじも立て続けに死んじゃって。私も今は別のところで暮らしているんですけれど、どうにもすぐに壊すとかいう気にはなれなくて。こうしてたまに掃除をしにきてるくらいなので」
男の言葉に甘えて僕はスケッチを続けた。男も掃除を続けた。互いの作業をしながら雑談を交わした。僕は部活やコンクールのことを話した。「この家に、絵のモチーフにする何かを感じたんですか」と聞かれて、「ええ、まあ」と言葉を濁した。男はどことなく嬉しそうだった。
色はここでは塗れないので、許可を得て写真を撮った。男は「もし完成したら、見せてくれませんか」と言った。僕は頷いた。男は掃除を終え、如雨露で庭に水を撒いた。コスモスが水を浴びて静かに揺れていた。
数週間後、絵は完成した。美術部の部員たちは「今までのとは毛色が違う」と感想を述べ、部活の時間中ちらちらと何度か見られた。手放しに誉められるようなことはなかったが、それがかえってこれまでなかった手ごたえを感じさせた。
僕はしばらく帰り道を変えて空き家の前を通った。ある日、空き家の主の男がまた庭に水を撒いていた。僕が描いた空き家の絵を見せると、彼は「ああ、いいですね。何か、昔三人で住んでいたことを思い出します。庭仕事が好きだった母がひょっこり出てきそうだ」としばらく笑った後、「ありがとうございます」と礼を言った。
僕はその日、自分の部屋に空き家の絵を飾った。今までに感じたことのない充足感の中で、久しぶりに穏やかな眠りにつくことができた。
それから僕は香川の「視界」を借りることに躍起になった。「君の見る世界をもっと知りたいんだ」僕が言うと、香川は思いの外嬉しそうにして、互いの連絡先を交換した。そして僕が連絡をすると八色目が見えるという風景や人物を案内してくれた。電柱に貼られた怪しげな広告。公園でごっこ遊びをする子どもたち。カフェで話すスーツの男と若い男。そして、僕たちが出会ったガソリンスタンドのなれの果て。どれも僕なら絶対に選ばないようなモチーフばかりだった。
「香川の目、というか世界の切り取り方は素晴らしいね。些細な日常風景の中に、こんなに素敵なものを見つけられるんだから」
僕が言うと、香川はいつも目を細めて満面の笑みを浮かべた。
僕は香川に教えてもらった風景を絵に描いた。完成したどの絵も校内で目を引いた。だんだんと周りの僕を見る目が変わってきた。後
輩から絵の相談をされることも増えた。部活内での品評会でもありきたりでない感想を貰えるようになった。
「あなたの世界の切り取り方には一定のルールがあるように思える。言語化するのは難しいけど、それがテーマ性とかメッセージ性みたいに感じられる」
谷口先生は僕の絵をそう評価してくれた。
「どういう意図があるのかしら」
「それは説明できません。言葉にしてしまうと、絵で表現する意味がなくなってしまうので」
僕はもっともらしいことを言った。「それもそうね」と谷口先生は納得したように頷いた。
それからも絵を描き続けたが、「ハロの八色目」の正体を掴むことはできなかった。どの絵にも共通している色はない。
「そんなに私の話に興味をもってくれたの、君くらいだよ。皆本気にしないもの」
香川は言った。
「それは不思議だな。君が教えてくれる風景には、人を惹きつける何かがある。八色目の色、何とか僕も見てみたいよ」
香川は目と口を細めて笑った。いつもの笑みなのになぜか冷たい表情のように見えた。
「今の君が一番綺麗な八色目をしているよ」
「僕が?自分の目で見れないのがもどかしいよ」
僕は大袈裟に笑った。
雪が降り積もり、気持ちが浮足立ち、そろそろ温かな冬のイベントを一通り済ませて春が恋しくなる頃に、下半期の校内コンクールの日程が決定した。部員たちはそれぞれモチーフを決め、キャンバスに向き合い始めていた。
僕は何を描くかまだ決めかねていた。香川はしばらく学校を休んでいた。「寒くなると調子が悪くなりがちで」と、時々休むことはあったがこんなに長い休みは初めてだ。
コンクールのためには香川の「視界」が必要だ。それなりに気を遣って信頼関係を築いてきたつもりだ。そろそろ八色目についてヒントではなく、答えを教えてもらえるのではないだろうか。
香川の担任の話では、香川は検査入院をしているようだった。生まれつき目の持病があって定期的に病院にかかっているようだ。
次の休日、僕は電車に乗って香川がいるという病院に向かった。入院先は香川本人がすんなりと教えてくれた。駅に着いてから病院に向かう途中で小さめの果物ゼリーの詰め合わせを買った。
香川は元気だった。「ただの検査入院だって」とベッドに寝ながら呆れた様子だった。
「それでも、急だったから心配になって。これ、見舞いの品」
と僕がゼリーの入った紙袋を渡すと、彼女はゼリーには目もくれず僕の目をじっと見つめた。しばらくの沈黙があった。僕は手の汗を握って隠した。
「ありがとう。葡萄のゼリーがある。葡萄好きなんだよね」
香川はころりと表情を変えたかと思うと、いつものように笑ってゼリーを受け取った。「よかった」と僕は言った。一瞬、ほんの一瞬、悲しそうな表情が見えた気がしたが、きっと気のせいだ。
それから他愛のない話をした。何事も助走が大切だ。いきなり本題に入るのも不自然だろう。「入院中はとにかく暇。窓の外はアスファルトの壁が見えるだけだし」という彼女の機嫌を取るように、僕は学校の出来事の話をした。香川は話を聞きながら控えめな声で笑った。
場の空気がほぐれてきた。そろそろか。
「そういえば、美術部の校内コンクールがあってさ。モチーフを考えたり、色を選んだりしていたんだけれど、そんな中で大ニュースがあって」
香川は「うん」と小さく頷いた。自分の心臓の鼓動が聞こえる。短く深呼吸をしてから、口を開く。
「ようやく、僕も見つけたんだ『ハロの八色目』」
「へえ」
「見た瞬間、これだって思ったよ。あの、僕らが一緒に見た空き家があったろう。たまたままた通りがかった時にさ、あそこの男の人が庭に水を撒いていて、小さな虹が見えたんだけど、よく目を凝らしてみたら見えたんだ」
香川はにこにことしている。
「それで、答え合わせをしたいんだ。僕の見つけた八色目と君が見つけた八色目が同じかどうか。水彩画用の絵の具を持ってきている。これで近い色をつくって、見せ合わないか」
香川はうーんと考えるような素振りを見せた。窓の外を少しだけ眺めてから表情を浮かべることなく「そんな必要はないよ」と言った。
「どういうこと」
「いいよ、教えてあげる。八色目の色」
僕は零れ出そうになる笑みを懸命に堪えた。静かに心臓が脈打つ。態度に出ないように、ゆっくり、静かに呼吸をする。
香川の唇が開く。
「八色目なんて、実在しないの」
「は?」
思わず僕は前のめりになった。「どういうことだよ」
「だから、実在しないの」
「何だよそれ。僕をからかっていたのか。嘘だっていうのか」
香川は人差し指を口元にあてた。ここが病室だということをそれで思い出した。
「そう、嘘」
僕は全身の力が抜けるのを感じた。つまり、この女は初めから僕が右往左往するのを面白がっていただけなのだ。きっと必死な僕の姿を見て笑っていたのだろう。そう思うと体が熱くなってきた。
「そんなことして、面白かったのか」
香川は「面白い、とは違う。でも、美しいって思った」と言った。
彼女が何を言っているのかまるでわからない。
「私が教えた『嘘』の景色を、何枚も何枚も一生懸命に絵にしていたこと、決して馬鹿にはしていない」
「そんなこと言って、ずっと」
僕はそこまで言ってから言葉を飲み込んだ。そして彼女の言葉を反芻した。
そこで、僕は気が付いた。
「何で、僕が、君から教えてもらった風景を絵にしてたこと」
「知ってるかって?」
香川は顔中に貼り付けたような満面の笑みを浮かべた。
「だから言ったでしょう。八色目の色は実在しない色。実在しないのにそこに在るように拵えた嘘に現れる色。虹の端っこはね、いつも言ってるの。『ここで終わりじゃないぞ』って。そんな健気な色が私には見える。本当に見えるの。街の風景にも、人々にも。そして、あなたにも。君がついてた嘘は全部知ってた」
体の芯が冷える感覚。一気につま先まで寒くなる。
「渡來君、あなたがいっちばん、綺麗に取り繕った嘘の色が出ていたよ。そして、一番初めに見せてくれた街並みの絵にも。自分の本心に嘘をついて描いたからかな。皮肉だけど、私にはとっても綺麗に見えたよ」
僕は香川の目を直視することができなかった。
嘘の色?そんなものが本当に?
「実在しないのに、世界に在ろうとするのってすごいことじゃない。私にもわからないけれど、だから綺麗なのかな。一生懸命拵える程鮮やかになる。君のは格別だったよ。でも、もういいかな。ちょっと飽きちゃったし。君をからかうのも」
香川はそう言ってひらひらと掌を向けて揺らした。
「そんなだからか」
僕は香川に向かって言った。何かを、言ってやりたかった。そして、続けて突然思いついた言葉を口にしていた。
「嘘の色とか、鮮やかだとか知らないけれど、君はそんな人間だからいつも一人なんだ」
「私が?そんなわけないじゃない」
僕は言葉を返さず、静かに彼女に背を向けて病室の扉を開けた。
一瞬、しゃくり上げるような音がした。振り返ると、香川は窓の方を向いていて、どんな顔でいるのかはわからなかった。
それから、筆をとっても何も描けない日が続いた。筆を動かそうとしても思い通りに手が動かなかった。
何もかも見透かされていた。きっと香川だけではない。僕の精一杯ひねり出した全ては「嘘」だとばれている。僕の中には何もない、才能もセンスも芸術性も。認めないように必死に取り繕っていたものは、所詮紛い物だった。先生も美術部の仲間たちもきっと無意識の内にそれを見通していた。まるで僕の知り得ぬ共通言語で会話をしているように。
そして、僕は未だにそれがわからない。
しばらく部室に行くことすらできなくなった。部活のない放課後は驚くほど長かった。空いた時間を目的もなく浪費した。
早めに家に帰ると親に「部活はどうしたの」と聞かれるようになった。初めは適当に言い訳をしていたが、日が経つにつれてそれも苦しくなり、部活道具を持って日が暮れるまで時間を潰し、部活が終わるくらいの時間に平然と家に帰るようになった。公園、図書館、川辺、高校生が金を使わず居られる場所なんて限られたものだ。
僕は放課後に川沿いの堤防を訪れた。今までに比べると楽な時間だった。何もない時間がこんなに心地の良いものだとは思わなかった。なぜ今まであんなにも絵に執着していたんだろうと思うくらいだった。正確には絵を認められることに。今時絵なんて流行らないし金にもならない。無為な時間の過ごし方をしていたことに早めに気付けただけでも幸福だったのかもしれない。きっとそうだ。
僕は木陰の芝に寝ころんだ。鼻孔に草葉の香りが届く。素晴らしい時間だ。芝の感触が首をくすぐる。
なのに、なぜ、こんなに空しいんだろう。
ふと思い浮かんだ言葉を僕は忘れようとした。しかし、そうするだけの力はすでに残っていなかった。流れる雲を目で追うように、僕は頭の中に浮かぶ言葉に耳を傾けた。
空しい。悔しい。でも、どうすればいいのかわからない。
ああそうだ。そうだったんだ。なのにどうして僕はそれを認められなかったんだろう。
木々の葉の隙間から陽光が注ぐ。眩しくて目を細める。
一際強い光が差した。僕は体を起こして木陰から出た。太陽の周りを円環の虹が囲んでいる。
ハロだ。
綺麗な円だった。淡い光の環。そして暖かな空気、木々の香り。風が通り抜けて、そこでようやく頭が冴えてきた。
僕は部活道具の鞄の中から鉛筆を取り出した。気付くと無心でスケッチをしていた。ハロ、虹、万人が綺麗だと思うありきたりなモチーフだ。何枚も、何十枚も虹の絵なんて見てきた。
でも、僕は今見ているこの光景を描きたい。
コンクールも終わった。どうせ誰に見せるものでもない。筆に絵具を取り、川の水を使って混ぜる。ハロが消えない内に。そう思って急いで筆を動かす。
空の端に現れた雲が次第に虹を覆っていく。大丈夫。まだ見える。この色じゃない。空とパレットを繰り返し比べる。もう少し水を。あっ。
焦ってパレットを落としてしまった。パレットは堤防を転げてそのまま川に落ち、流れていった。気を取られている内に、ハロは消えてていた。
それでも筆は止まらなかった。制服の袖をまくり上げて腕にチューブの絵具を出し、無理やりパレットのようにして描き続けた。今、僕の視界に見える色がある。本物とは違うかもしれない。でも、嘘ではない。
完成した絵は手の込んだ代物ではなかった。構図もバランスも色合いも何も意識していない。それでも、僕の絵だ。
全体を眺めて、妙な衝動にかられた。視界に残る映像にはその色はなかった。余計なことを考え始める前に、僕は最後に一色付け足した。
香川は二週間後に退院し、学校に戻ってきた。僕はたまたま教室の前を通りがかり、何人かのクラスメイトに囲まれる香川の姿を見た。入院について尋ねるクラスメイトに「いつもの検査だよ」と香川が言うと、人の輪はまばらになって香川は一人で授業の準備を始めた。一瞬、右目だけを眩しそうに閉じたのがなぜか僕にはとても辛そうに見えた。
そして廊下にいた僕と香川の目が合った。香川はにこりと笑った。
「あら嘘つき渡來君」
彼女は出会い頭に言った。
「右目、大丈夫なの」
僕の言葉に香川は驚いたようだったが、すぐにまたいつもの表情に戻った。
「全然」香川はそう言ってから僕の横を通り過ぎようとしたが、「嘘つきは止めたの?」と振り返った。
「君の目にそう映っているのなら」
「なーんだ、残念。とっても綺麗だったのに」
香川はそう言って壁に寄り掛かった。
「香川、ちょっと来てくれないか」
僕はそう言って香川を美術部の部室に案内した。コンクールに向けた部員たちの作品が並ぶ中で僕は隅に布を被せておいた絵を香川に渡した。
「どうかな」
香川は少しの間、無表情で絵を眺めていた。
「全然。普通の絵」
「そっか。コンクールはまた最下位かもしれないな」僕は笑った。彼女は絵の中のハロを指さした。
「言っておくけど、こんな色じゃないからね」
「いいんだ。これで」
「つまらない。大嘘つきの君の絵だから私は好きだったのに。馬鹿正直ってやつね」と面白くなさそうに言った。そして小さな声で
「もう、うんざりでしょう。君だって」と言った。
僕は少し考えてから言った。
「やっぱり僕にも見えるよ。『八色目』が」
「へえ、どこに?」
「君に」
香川は僕が言い終わる前に背を向けた。そして「嘘つき」と言ってから振り返り、小さく笑った。
