夜、寝る前。朝、起きた時。
頼りない神様に、どうかお願いしますとお願いをする。
淡い期待を抱きながら鏡を見ると、また裏切られたのだと肩を落とす。
「またできてる」
少し赤みを帯びた頬に、ぷくりとした白いものが鼻の隣にできている。
昨日はなかった。
沈んだ気持ちを立て直すかのように、ぬるま湯と泡立てた洗顔を優しく顔に当てる。刺激を与えないように昨日よりも慎重に。
一年ほど前から通っている皮膚科でもらった塗り薬を、頬・顎・眉間に塗る。
いつ治るんだろう。いつきれいになるんだろう。そんな疑問を持ちながら。
少しでも肌を見せる面積を少なくするために、アイロンで髪を真っすぐに伸ばす。
前髪は目の上ギリギリ。
家を出ると朝の陽光が私の肌に突き刺さった。
私はそれから守るように、日傘で遮断する。
家から学校までは徒歩三十分。
少し遠いけれど、日傘がさせない自転車に乗るよりかはまし。
学校に近づくと、見慣れた深緑のジャケット着た人が増えてくる。
それと同時に、日傘を持つ手に力が入り、顔を覆い隠すように深く下ろした。
朝の一件のせいで、教室に行く足取りがより一層重くなる。
無意識のうちに視線は下を向く。
「奈美、おはよう」
明るい声とともに、右肩にポンと手が置かれた。
声だけで、友達の坂本くるみだと分かる。
「おはよう」
顔を上げ、右手を口元へもっていきながら言った。
自分の肌を近くで見られるのが嫌で、自然とその癖がついてしまった。
くるみは、目がくりくりとしていてとても可愛らしい子だ。
そして何より、凹凸のないきれいな肌をしている。
そんな彼女を見て、私はふと、あることに気がついた。
「めずらしいね、前髪おろしてるの」
いつも露わになっているおでこが、今日は前髪によって隠されていた。
彼女は私の言葉に少し照れながら、前髪を少しだけ分けた。
すると、彼女が口を開く前に、その理由がわかった。
「実は、おでこにニキビできちゃって。こんなの恥ずかしくて人に見せられないからさ」
最悪だ。聞くんじゃなかった。
そう思わずにはいられないほど、私の心はえぐられた。
私が聞いたのもあるけど、私の前でそれをどんな気持ちで言ったのだろう。少しは躊躇わなかったのか。
うまく目が合わせられない。
迷子になった目線は、真っ赤に染められている消火器へとたどり着く。
そして、あまりにもそっけない「そうなんだ」が口からこぼれ出た。
授業中、くるみの言葉が頭から離れなかった。
――恥ずかしい。
確かに彼女はそう言った。
こういう考えを持つ彼女の目に、私はどう映っているのかものすごく気になった。
目をつぶりたくなる人?関係ないからどうでもいい?それとも、自分を引き立たせてくれる人?
私の思考は、だんだん悪い方向へと流れていく。
このままではダメだと思い、ポケットの中にあるスマホを取り出す。
机と体の距離を近づけ、先生にバレないように前に座る人でスマホを隠す。
私の指は迷うことなくSNSを開き、[肌荒れ ひどい]と検索をかけた。
するとすぐに、スマホの画面が私と同じ肌をした人達の画像や動画であふれる。
その中でも、ひと際目につくものをタップした。
鼻やフェイスラインまでニキビが広がっている。
心がみるみる落ち着いていくのが分かる。この人より、私の方がきれいだ。
他人と比べて落ち込んでは他人と比べて優越感に浸る。
こうやって、心の安定を図っていく。
私は、周りの音が聞こえなくなるほど、その画像に見入っていた。
「………。……い。…おい」
ガンッ。
突然の呼びかけに驚き、足を机にぶつけ鈍い音がなった。
声のする方向へと顔をやると、橘蓮(たちばなれん)が体ごとこちらに向いていた。
「どうしたの」
私の問いかけに呆れた顔をしながら、一枚のプリントをひらひらさせた。
「ペアワーク」
それを聞き周りを見渡すと、もう皆が話し合いを始めているのに気がつく。
このガヤガヤした教室に気づかなった自分に、驚きが隠せない。
「ごめん。……えっと、このプリントだよね」
右手に持つスマホを乱暴に引き出しに入れ、授業の初めに配られた三枚のプリントの中からワークシートと書かれているものを取り出した。
授業を全く聞いていなかった私を察して、橘君が率先して話し合いを進めてくれた。
そして申し訳なさで胸がいっぱいの中、私は何とかペアワークを終えた。
*
「奈美、今からドラッグストア行かない?」
帰りのホームルームが終わり、教科書をリュックに入れ、帰る準備をしている私にくるみが声を掛けてきた。
別に何か予定があるわけじゃないけど……。
気分が乗らない。
でも、それは断る理由にはならないから、できるだけ高いトーンを意識して「いいよ」と返した。
「今日のまもるん先生の授業マジだるかったね」
ドラッグストアへ行くまでの短い道中で、先ほどペアワークをした守先生の授業の話題が上がった。
「確かに、めんどくさかった」
「奈美はいいじゃん。隣が橘君なんだから」
「隣が誰でもペアワークはだるいよ」
「贅沢だな~」と言いながら、くるみはもう次の話題へと話を変えていた。
彼女がそんなことを言うのはきっと、彼が整った容姿をしているからだろう。
他の子が言っているのも何度か耳にしたことがある。
だから嫌なんだ。
ペアワークがあるたびに彼の顔を見て、かっこいいくせに肌もきれいなのが羨ましくてしょうがない。
せめて、ニキビの一つや二つできろよ、なんてしょうもない感情が出てくる。
視界に入れないようにしても、ペアワークがあるときは、目線は合わせずとも視界の片隅には入り込んでしまう。
だから早く、席替えをしたいしクラス替えもしたい。
くるみの話に適当な相槌を打ちながら、そんなことを考える。
そうしているうちにいつの間にか目的地に着いていた。
店内に入ると彼女は迷うことなく、足を進めた。
そして、その足取りは化粧品コーナーへと行き、ビタミンCが配合されているとSNSで話題になっている美容液を手に取った。
「これマジ欲しかったんだよね。ちょっと高いけど」
彼女のその言葉を聞いて値札を確認すると、5600円と記載されていた。
一体どこからお金が出ているのだろうという疑問は口にせず、「SNSで話題になってるやつだよね」と当たり障りのないことを言った。
「そうそう。…あ、奈美も買う?」
ドクン。
心臓が大きく脈を打ったのが分かる。
多分、深い意味はない。
その肌なら使ったほうがいいよというふうに捉えてしまった私が重症なだけなのだろう。
「……私は、大丈夫」
少し反応に遅れてしまった私を気に留めることなく、彼女はレジへと向かった。
5600円の買い物を終えた彼女は、美容液を大切そうに握りしめ、カバンにしまった。
気分が良くなったのか、アイスをコンビニで買って近くの公園で食べようと言ってきた。
「ちょっと待って、財布確認していい」
「うん」
ガサガサとリュックを漁り、お母さんから誕生日の時にもらった赤色の財布を取り出す。
そういえば、今月お小遣いもらったっけ。
中身を確認する前にそのことに気づき、チャックを開けて見ると、案の定53円しか入っていなかった。
最悪だ。
「ごめんくるみ。アイスまた今度でもいい?」
顔の前で手を合わせ、彼女の顔を盗み目でチラリと見た。
「いいよー」
満面の笑みで答えてくれた。
「ありがとう」
その後は、途中まで一緒の道のりをたわいもない話をしながら歩いた。
いつもの交差点に着くと、また明日と互いに言い合って別れた。
「ただいま」
家に帰るとすぐに、お小遣いのことをお母さんに言った。
「あれ、まだ渡してなかったっけ。ご飯食べ終わったら渡すね」
「わかった」
ご飯ができるまでの間、SNSでおすすめの美容液を調べる。
正直レビューを売りにしているインフルエンサーの動画を見ると、先ほどくるみが買っていた美容液に星1の最低評価をつけていた。
買わなくてよかった。なんて、買うお金すらないのに考える。
この投稿者は信用できるかも。
そう思い、すぐさまアイコンを押して『私が思う、一番効果があった美容液トップ10』という動画を確認した。
トップ1に挙げられていた美容液は、1500円と私でも買えそうな値段をしている。
これ買おうかな。そう思い、一応コメント欄を見ると、『全然効果なかった』『この人信用できないから皆さん騙されないでください』『絶対ステマ』とマイナスなものばかりだった。
やっぱり、買うのをやめよう。
私はすぐに違うインフルエンサーの動画を探した。
一体、この行為を何回してきただろうか。
良いと思っても、批判的なコメント一つでやめてしまう。
こうやって、結局自分が納得できるものを見つけることはなく、ただただ時間が過ぎていくだけ。
私は、現実逃避をするかのように長押しでスマホの電源を落とした。
それと同時に、キッチンから「ご飯ができたよ」とお母さんが大声で言った。
夕飯のカレーライスを食べた後は、すぐにお風呂に入って寝る準備をした。
寝不足はお肌の天敵という言葉を信じて。
ベッドに入り仰向けになると、私はいつものように何もない天井に手を合わせた。
明日ニキビができませんように。全部ニキビがなくなってますように。
どうか、お願いします。
*
「今日は似顔絵を描いてもらいます」
4時間目、美術の先生が放った一言で、教室がざわつき始める。
自分の顔ではなく、相手の顔を書く。そのペアは、隣の席の人。
そう先生は淡々と説明していき、最後に提出しもらいますと言って、その場を締めくくった。
次々に皆が椅子の向きを変えていく。もちろん橘君も。
「横顔描いてほしいの?」
なかなか左を向かない私に、橘君が声を掛けてきた。
意外だな。彼でも冗談を言うんだ。
しかし、少しだけ目線を左に向けると、いたって真面目な顔をしているのが見えた。
特にツッコむこともできないので「ううん」と言って、彼の方向へ椅子を動かす。
他の人から自分の顔がどう見られているのか。
それは、知りたいけど知りたくないことだった。
もし、頬や顎にあるニキビを描かれてしまったらどうしよう。
そんな不安を持ちながら橘君の似顔絵を描く。
途中何度か目が合ったけど、お互い特に何も言うことなく黙々と作業をした。
周りが騒がしかったのが救いだった。
30分ほど描き続けていると、黒板の方からパンッと大きな音がした。先生が勢いよく手を叩いたのだろう。
そして、同時に先生が「ここまで」と言った。それに続けて、「描いた絵を相手に見せて、評価してあげてください」と説明を付け加えた。
橘君とA5の似顔絵を描いてある紙を交換し合う。
緊張しながら似顔絵を見ると、なぜか満面の笑みの私が描かれていた。
私がいつこんな顔をしたんだろう。
嬉しいけど、何より嬉しいのはニキビがなかったこと。
……いや、時間がなかっただけかもしれない。結局、悪い方向へと思考は流れ着く。
評価シートを書いてると、隣から笑い声が聞こえた。
思わず何事かとみてしまう。
私の視線に気づいたのか、橘君もこちらを向いた。
そしてニヤニヤした顔のまま評価シートを渡してきた。
そこに書いてあったのは『下手すぎ』のたった一言。
……下手すぎ?
「……え」
「マジでこれは傑作」
私の描いた似顔絵を見ながらケラケラ笑っている。
「めっちゃ失礼じゃん。結構忠実に描けたと思うんだけど」
「勘弁してくれよ。これのどこが忠実なんだよ。俺はもっとイケメンだ」
「な……」
イケメンという事実は否定できないので、反論することができない。
「言っとくけど、橘君の絵も結構あれだよ」
「結構あれってなんだよ」
結構……美化しすぎてる。過剰に良く描きすぎてる。
「これこそ忠実だろ。この目元そっくりじゃん」
そう言って、あまりにも私の顔を見てくるので、顔を背けてしまった。
恥ずかしくて、照れくさかった。
教室に授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。
似顔絵と評価シートを提出し、美術室を後にした。
お昼はいつもくるみと机を合わせて食べている。
「まじであいつ許さん」
さっきの美術で自分の似顔絵を不細工に描かれたと怒っていた。
「ただたんに下手だったんじゃない?」
「そんなはずない。だってあいつ美術部だよ」
「そうなんだ」
彼女の怒りはさらにヒートアップした。
なんとなく、咀嚼する力が強いような気がする。
「てか、見てたよ」
「……見てた?何を?」
「もう、とぼけないでよ。橘君と楽しそうに話してたじゃん」
グッと顔を近づけてきたので、思わず手で顔を隠す。
「そんなことないよ。私の絵が下手だって言って橘君が笑ってただけだよ」
「私も橘君と隣の席になりたーい」
そう言って彼女は、左手に持っていたメロンパンを頬張った。
私も気恥ずかしさ隠すようにご飯を口に放り込んだ。
その後、くるみより先にご飯を食べ終えた私は、一人でトイレに行った。
個室に入ると、ふーっと深く息を吐く。
誰の視線もないトイレは、私にとって学校で唯一の落ち着く場所。
少しの間無心になって、ぼーっとした。
そして、時間を確認すると、もう5分もトイレにいることに気づいた。
慌てて出ようとすると「まじ最悪ー」と甲高い声が聞こえた。
声だけで分かる。同じクラスの佐藤さんだ。
いつも、明るくてクラスの中心的な存在。
多分、いつも一緒にいる北川さんも隣にいるのだろう。
私は出る機会を失い、彼女たちが出ていくのをじっと待った。
「早くお金貯めて整形したーい。この顔で生きてくとか普通に無理なんだけど」
「マジ分かる」
私からしたら、あんなにかわいい顔してるのにどこを整形したいのかさっぱり分からない。
最近のルッキズム社会には心底うんざりする。
一重より二重の方がかわいい。中顔面は短い方がいい。体は細くてなんぼ。
でも、そうやって挙げられる数々は、肌が最低限のきれいさを保っている前提で語られる。
つまり、肌がきれいなのは当たり前で、汚いのは論外。
こんな空気感を私はいつもひしひしと感じている。
ただの自論を考えていると、
「でもさ、藤宮さんよりはましだよね」
佐藤さんの口から突然私の名前が出てきた。
私の耳に全神経が注がれる。
「どういうこと」
「だってさ、あんなニキビだらけの肌、私だったら学校来られない」
まるでバカにしているような声色が私の心に鋭く突き刺さる。
「分かるー。あれやばいよね。不潔すぎて近づかないでほしい」
「まじで、ニキビ菌が移りそう」
「あははははは。ニキビ菌うける」
聞かない方が自分のためだと分かっていても、聞いてしまう。
その後も、怒涛のように繰り広げられる二人の会話は止まることを知らない。
「てか、マジで蓮も優しいよね」
「何が?」
「さっきの美術の時間。あの二人隣の席だから」
「あーー、そういえば隣だったね。何、似顔絵のこと?」
「そうそう。実は、私蓮が提出した後こっそり見たんだよね」
「悪趣味だね」
「それがさ、大事なニキビ描いてなかったの。やばくない!?藤宮さんの一番のチャームポイントなのに」
佐藤さんの言葉に、私はやっぱりそんなんだと思った。
ニキビは描かなかったんじゃなくて、時間がなかったから描けなかっただけ。
そりゃそうだよ。
私の顔を見て、ニキビに目がいかないなんて絶対無理だもん。
そして何より二人の会話に納得してしまっているのがたまらなく悔しくてみじめだった。
少しして彼女たちの声がだんだん遠のいていく。
やがて、完全に静かになったことに気が付いた。
慎重にドアを開けて、いないことを確信してから出る。
5時間目がもうすぐ始まるからなのか、トイレには私しかいなかった。
鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめる。
顔にある数個のニキビ。
この小さいやつが肌にあるだけで、不潔だと言われ白い目で見られてしまう。
私だって、こんな肌になりたくてなってるわけじゃない。
でも、この訴えが誰かに届くことはなく、ニキビがあるという事実だけに目が向けられる。
遠くからチャイムが聞こえた。
戻らないと。それは分かってるのに、足が動いてくれない。
このままサボろうかな。そんな私らしくない考えが頭をよぎる。
体感は10分。行くか行かないかを考えていた。
結局、サボる勇気すらない私は教室に戻った。
放課後、くるみが「めっちゃ心配した」と声をかけて来てくれた。
「ありがとう。あのさ、今日用事あるから先帰るね」
「わかった。また明日ね」
「うん、また明日」と言い残し、逃げるように教室を出た。
日傘なんて差さずに、ただ無心に家とは逆方向に走り続ける。
見慣れない景色と息切れがなんだか心地いい。
後ろを振り返ると学校も見慣れた深緑のジャケットを着ている人の姿も見えなくなった。
どのくらい走ったかもうわからない。
そして、気持ちに足が追い付かなくなってきた頃、小さな公園を見つけた。
少し汚れたベンチに気にすることなく腰を下ろし、荒い息を整える。
そこでもやっぱり考えてしまうのは、トイレでの出来事。
走ってもいないのに、なぜか脈打つスピードが速い。
私はいつものようにスマホを開き、昨日、授業中に見ていた人を検索した。
大丈夫、私はこの人よりまっし。画像を見てそう心を落ち着かせる。
すると、ふとあることに気が付く。それは、投稿が2022年の4年前であること。
今も投稿してるのかな。それが気になり、右にスライドして投稿者のプロフィールを確認する。
最近投稿したものであろう画像があった。……でも、私の知っている人じゃない。
それは、画像が何枚か載せているものではなく、ショート動画だった。
『汚肌だった私が、きれいになった方法!』なんてタイトルがついている。
昔と今の比較や使っている化粧品が紹介されていて、あとは効果があった美容医療。
吸い込まれるようにその動画をタップしてみてみると、紹介されているものは、どれも高校生では買えないような値段だった。
結局、お金なのか。心のどこかでは薄々思っていたけど、やっぱりそうなのだと確信をする。神頼みしてる私がバカバカしく思えてきた。
コメント欄を開くと、『私もやってみます!』『同じの使ってる』という賛同するものもあれば、『そもそも、ちゃんと毎日手入れしてたらこんなことならないでしょ』『まず、皮膚科に行くのが1番』と否定的なものもあった。
私に向けられた言葉ではないのに、なぜかハンマーで殴られたような気分になった。
地道に皮膚科に通って、お手入れだって毎日頑張ってる。私が誰よりも肌に気を遣ってると思ってる。
それなのになんで、この肌は治らないの。
なんで、ニキビがあるだけで不潔だと思われるの。
気づいたら、両目からたくさんの涙が溢れていた。
「……っ」
私はリュックから鏡を取り出し、ぐちゃぐちゃになっている自分の顔を見た。
そっと手を当てると、プクッとしたニキビが皮膚越しに伝わる。
私は、人差し指に触れたそれを、思い切り捻りつぶした。
その瞬間、膿のようなものがにゅるりと出てきた。数秒後には、じわじわと鮮やかな赤色をした血も出てきた。それでも、私の指が止まることはない。
一つ終わればまた次のものを。やがて、いつのまにか顔中にあるニキビを全て潰してしまった。
少し時間が経ち、鏡越しに至る所から血が出ている自分を見て我に返る。
やってしまった。
跡残るかな。
そんな心配が今更になってやってくる。
でも、不思議と気持ちがスッキリした気がする。……そんな気がするはずなのに、目からこぼれ落ちる涙は止まらない。
すると、
「藤宮?」
背後から聞き慣れている声が聞こえた。
振り向くと、そこには橘君がいて、私を見ると目を丸くした。
泣いていることに驚いているのか、顔から出ている血に驚いているのかは分からない。
「なんで泣いてんの?」
涙の理由を尋ねてきた彼に、
「家、こっち方面なんだ」
なんて、見当違いの返しをする。
「そうだよ。てか、この公園の近く」
特に深掘りすることはなく、私に話を合わせてくれた。
橘君は、少し間を空けて、私と同じベンチに座った。
私たちの間に、沈黙が流れる。その中に気まずさはない。
爪が伸びてきたなと思いながら手元を見ていると、左から手が伸びてきて、ポケットティッシュがポンと置かれた。
「使う?」
「……うん。ありがとう」
涙はいつのまにか出ていなかった。
鏡を見て、血を拭き取りながら、私は気になっていたことを聞いた。
「なんで、あんなに笑顔だったの」
突然の質問に橘君はピンときていない様子だった。
「似顔絵」
今度は察したようで「あー、似顔絵な」と言った。
私は高校に入学してから、学校であんな笑顔になった記憶がない。基本手は口元にあるし、いつも周りの視線が気になるから。
だから不思議で仕方がなかった。あの似顔絵が。
「だってさ、いつも目合わせてくれないし、ちょっと怯えてる感だし。藤宮が笑ったらどんな感じなんだろうって気になっただけ」
「……そっか」
なんで返したらいいか分からず、そっけなくなってしまう。
彼のことだから、なんとなくって答えそうだなとか思ったのに。
その後、私たちは1時間程話した。まもるん先生の話や私の絵の下手さといった色々。
結局、最初のとき以降、涙と血のことは聞かれなかった。
それが彼の最大限の優しさだと感じた。
帰り道、家とは真逆の方向に来たから、帰るのにとても時間がかかったけど、夕風がとても気持ちよくて、初めて歩きでよかったと思えた日だった。
家に着き、玄関を開けると、ハンバーグの匂いが私の鼻をかすめる。
「ただいま」
「おかえり、今日は遅かったのね」
「うん、ちょっと寄り道してて」
手を洗い部屋着に着替えて、夕飯を食べる準備をする。
今日は私の大好物のデミグラスハンバーグ。
多分たまたまだけど、なんだかお母さんが私を励ましてくれてる気がした。
「いただきます」
黙々と食べていると、お母さんが突然「え!」と大きな声を出した。
「どうしたの」
「あんた、その顔どうしたの」
血は固まっていたけど、痛々しさが残っていたのだろう。
「ニキビ潰れちゃった」
自分が潰したとは言えなかった。
お母さんはなんだか悲しげな表情をしてるように思えた。
すると突然、
「……あのね、奈美」
真剣な眼差しでこちらを見てきた。おのずと箸を動かす手を止め、お母さんを見る。
「一度違う皮膚科に行ってみない?」
「…え」
「お母さんね、いいところ見つけたの。ちょっと家からは遠いけど、評判がいいらしくて」
突然の提案に開いた口がふさがらない。
お母さんは私の肌のことなんて気にしてないと思ってた。
「セカンドオピニオン的な感じでさ。あ、でも、今のところが気に入ってるならそこでも全然いいんだけど」
私の返事に迷いはない。
「行く!そこ行きたい!」
「よかった。じゃあ、ご飯食べ終わったらネット予約してみるわね」
「ありがとう。…探してくれてたんだ」
「当たり前じゃない。だって、一年以上通ってるのになかなか治らないんだもの」
もっと早く打ち明けてもよかったな。
ご飯を食べ終えると、早速予約をしてくれて、今週の土曜日行くことになった。
ベッドに入り、今日のことを思い返す。
人の醜い部分に触れ、人の優しさに気づけた。
あの時、本当はどうしてニキビを描かないでくれたのかを聞きたかった。
でも、それを聞いてしまったら彼の優しさを踏みにじってしまうような気がして聞けなかった。
私はあることを決意した。
もう神頼みをするのはやめる。
自分で探すんだ。この肌との向き合い方を。
*
朝、目が覚め、鏡を見る。
劇的に肌の状態がきれいに変わっているわけではない。
潰したニキビもうっすら跡が残っている。
私はあれから新しい皮膚科に通い、自分の肌の状態を詳しく聞いた。そのおかげで少しずつ受け入れることができた。
でもまだ、新しいニキビができると気持ちは落ち込んでしまう。
「行ってきます」
外に出ると、明るい太陽が私を照らしてくる。
上を見上げると、きれいな青空も広がっている。
相変わらず日傘をさして歩く毎日。
肌に気を遣うことは変わらない。
最近はなんだか足取りが軽く思える。
一段ずつ、確実に、階段を登っていく。
教室に着くと、スマホをいじっているくるみに声を掛ける。
「おはよう、くるみ」
「奈美おはよう」
すぐに手を口元にもっていってしまう癖はなかなか治らなかったけど、この頃はもっていかないよう意識している。
「今日さ、帰りにアイス買っていかない?」
彼女は顔を輝かせながら言ってきた。
「いいよ。この前食べられなかったしね」
「やったーーー」
放課後の約束をしたら自分の席へと戻った。
リュックから教科書や筆箱などの荷物を引き出しに入れていると、
「藤宮、おはよう」
橘君の声が聞こえた。
「おはよう」
彼の切れ長の目を見て挨拶をする。
席替えをしてしまって、隣の席ではなくなったけど、毎日挨拶をする仲になった。
私はぎこちなく口角を上げ、笑顔を見せてみた。
ホームルーム前の少し騒がしい教室を見ながら考える。
17歳、きっとこの肌とは長い付き合いになるのだろう。
それでも、明日、そしてまた明日、少しずつ良くなると信じて。
私は、手を爪が食い込むまで握り、前を向いた。
頼りない神様に、どうかお願いしますとお願いをする。
淡い期待を抱きながら鏡を見ると、また裏切られたのだと肩を落とす。
「またできてる」
少し赤みを帯びた頬に、ぷくりとした白いものが鼻の隣にできている。
昨日はなかった。
沈んだ気持ちを立て直すかのように、ぬるま湯と泡立てた洗顔を優しく顔に当てる。刺激を与えないように昨日よりも慎重に。
一年ほど前から通っている皮膚科でもらった塗り薬を、頬・顎・眉間に塗る。
いつ治るんだろう。いつきれいになるんだろう。そんな疑問を持ちながら。
少しでも肌を見せる面積を少なくするために、アイロンで髪を真っすぐに伸ばす。
前髪は目の上ギリギリ。
家を出ると朝の陽光が私の肌に突き刺さった。
私はそれから守るように、日傘で遮断する。
家から学校までは徒歩三十分。
少し遠いけれど、日傘がさせない自転車に乗るよりかはまし。
学校に近づくと、見慣れた深緑のジャケット着た人が増えてくる。
それと同時に、日傘を持つ手に力が入り、顔を覆い隠すように深く下ろした。
朝の一件のせいで、教室に行く足取りがより一層重くなる。
無意識のうちに視線は下を向く。
「奈美、おはよう」
明るい声とともに、右肩にポンと手が置かれた。
声だけで、友達の坂本くるみだと分かる。
「おはよう」
顔を上げ、右手を口元へもっていきながら言った。
自分の肌を近くで見られるのが嫌で、自然とその癖がついてしまった。
くるみは、目がくりくりとしていてとても可愛らしい子だ。
そして何より、凹凸のないきれいな肌をしている。
そんな彼女を見て、私はふと、あることに気がついた。
「めずらしいね、前髪おろしてるの」
いつも露わになっているおでこが、今日は前髪によって隠されていた。
彼女は私の言葉に少し照れながら、前髪を少しだけ分けた。
すると、彼女が口を開く前に、その理由がわかった。
「実は、おでこにニキビできちゃって。こんなの恥ずかしくて人に見せられないからさ」
最悪だ。聞くんじゃなかった。
そう思わずにはいられないほど、私の心はえぐられた。
私が聞いたのもあるけど、私の前でそれをどんな気持ちで言ったのだろう。少しは躊躇わなかったのか。
うまく目が合わせられない。
迷子になった目線は、真っ赤に染められている消火器へとたどり着く。
そして、あまりにもそっけない「そうなんだ」が口からこぼれ出た。
授業中、くるみの言葉が頭から離れなかった。
――恥ずかしい。
確かに彼女はそう言った。
こういう考えを持つ彼女の目に、私はどう映っているのかものすごく気になった。
目をつぶりたくなる人?関係ないからどうでもいい?それとも、自分を引き立たせてくれる人?
私の思考は、だんだん悪い方向へと流れていく。
このままではダメだと思い、ポケットの中にあるスマホを取り出す。
机と体の距離を近づけ、先生にバレないように前に座る人でスマホを隠す。
私の指は迷うことなくSNSを開き、[肌荒れ ひどい]と検索をかけた。
するとすぐに、スマホの画面が私と同じ肌をした人達の画像や動画であふれる。
その中でも、ひと際目につくものをタップした。
鼻やフェイスラインまでニキビが広がっている。
心がみるみる落ち着いていくのが分かる。この人より、私の方がきれいだ。
他人と比べて落ち込んでは他人と比べて優越感に浸る。
こうやって、心の安定を図っていく。
私は、周りの音が聞こえなくなるほど、その画像に見入っていた。
「………。……い。…おい」
ガンッ。
突然の呼びかけに驚き、足を机にぶつけ鈍い音がなった。
声のする方向へと顔をやると、橘蓮(たちばなれん)が体ごとこちらに向いていた。
「どうしたの」
私の問いかけに呆れた顔をしながら、一枚のプリントをひらひらさせた。
「ペアワーク」
それを聞き周りを見渡すと、もう皆が話し合いを始めているのに気がつく。
このガヤガヤした教室に気づかなった自分に、驚きが隠せない。
「ごめん。……えっと、このプリントだよね」
右手に持つスマホを乱暴に引き出しに入れ、授業の初めに配られた三枚のプリントの中からワークシートと書かれているものを取り出した。
授業を全く聞いていなかった私を察して、橘君が率先して話し合いを進めてくれた。
そして申し訳なさで胸がいっぱいの中、私は何とかペアワークを終えた。
*
「奈美、今からドラッグストア行かない?」
帰りのホームルームが終わり、教科書をリュックに入れ、帰る準備をしている私にくるみが声を掛けてきた。
別に何か予定があるわけじゃないけど……。
気分が乗らない。
でも、それは断る理由にはならないから、できるだけ高いトーンを意識して「いいよ」と返した。
「今日のまもるん先生の授業マジだるかったね」
ドラッグストアへ行くまでの短い道中で、先ほどペアワークをした守先生の授業の話題が上がった。
「確かに、めんどくさかった」
「奈美はいいじゃん。隣が橘君なんだから」
「隣が誰でもペアワークはだるいよ」
「贅沢だな~」と言いながら、くるみはもう次の話題へと話を変えていた。
彼女がそんなことを言うのはきっと、彼が整った容姿をしているからだろう。
他の子が言っているのも何度か耳にしたことがある。
だから嫌なんだ。
ペアワークがあるたびに彼の顔を見て、かっこいいくせに肌もきれいなのが羨ましくてしょうがない。
せめて、ニキビの一つや二つできろよ、なんてしょうもない感情が出てくる。
視界に入れないようにしても、ペアワークがあるときは、目線は合わせずとも視界の片隅には入り込んでしまう。
だから早く、席替えをしたいしクラス替えもしたい。
くるみの話に適当な相槌を打ちながら、そんなことを考える。
そうしているうちにいつの間にか目的地に着いていた。
店内に入ると彼女は迷うことなく、足を進めた。
そして、その足取りは化粧品コーナーへと行き、ビタミンCが配合されているとSNSで話題になっている美容液を手に取った。
「これマジ欲しかったんだよね。ちょっと高いけど」
彼女のその言葉を聞いて値札を確認すると、5600円と記載されていた。
一体どこからお金が出ているのだろうという疑問は口にせず、「SNSで話題になってるやつだよね」と当たり障りのないことを言った。
「そうそう。…あ、奈美も買う?」
ドクン。
心臓が大きく脈を打ったのが分かる。
多分、深い意味はない。
その肌なら使ったほうがいいよというふうに捉えてしまった私が重症なだけなのだろう。
「……私は、大丈夫」
少し反応に遅れてしまった私を気に留めることなく、彼女はレジへと向かった。
5600円の買い物を終えた彼女は、美容液を大切そうに握りしめ、カバンにしまった。
気分が良くなったのか、アイスをコンビニで買って近くの公園で食べようと言ってきた。
「ちょっと待って、財布確認していい」
「うん」
ガサガサとリュックを漁り、お母さんから誕生日の時にもらった赤色の財布を取り出す。
そういえば、今月お小遣いもらったっけ。
中身を確認する前にそのことに気づき、チャックを開けて見ると、案の定53円しか入っていなかった。
最悪だ。
「ごめんくるみ。アイスまた今度でもいい?」
顔の前で手を合わせ、彼女の顔を盗み目でチラリと見た。
「いいよー」
満面の笑みで答えてくれた。
「ありがとう」
その後は、途中まで一緒の道のりをたわいもない話をしながら歩いた。
いつもの交差点に着くと、また明日と互いに言い合って別れた。
「ただいま」
家に帰るとすぐに、お小遣いのことをお母さんに言った。
「あれ、まだ渡してなかったっけ。ご飯食べ終わったら渡すね」
「わかった」
ご飯ができるまでの間、SNSでおすすめの美容液を調べる。
正直レビューを売りにしているインフルエンサーの動画を見ると、先ほどくるみが買っていた美容液に星1の最低評価をつけていた。
買わなくてよかった。なんて、買うお金すらないのに考える。
この投稿者は信用できるかも。
そう思い、すぐさまアイコンを押して『私が思う、一番効果があった美容液トップ10』という動画を確認した。
トップ1に挙げられていた美容液は、1500円と私でも買えそうな値段をしている。
これ買おうかな。そう思い、一応コメント欄を見ると、『全然効果なかった』『この人信用できないから皆さん騙されないでください』『絶対ステマ』とマイナスなものばかりだった。
やっぱり、買うのをやめよう。
私はすぐに違うインフルエンサーの動画を探した。
一体、この行為を何回してきただろうか。
良いと思っても、批判的なコメント一つでやめてしまう。
こうやって、結局自分が納得できるものを見つけることはなく、ただただ時間が過ぎていくだけ。
私は、現実逃避をするかのように長押しでスマホの電源を落とした。
それと同時に、キッチンから「ご飯ができたよ」とお母さんが大声で言った。
夕飯のカレーライスを食べた後は、すぐにお風呂に入って寝る準備をした。
寝不足はお肌の天敵という言葉を信じて。
ベッドに入り仰向けになると、私はいつものように何もない天井に手を合わせた。
明日ニキビができませんように。全部ニキビがなくなってますように。
どうか、お願いします。
*
「今日は似顔絵を描いてもらいます」
4時間目、美術の先生が放った一言で、教室がざわつき始める。
自分の顔ではなく、相手の顔を書く。そのペアは、隣の席の人。
そう先生は淡々と説明していき、最後に提出しもらいますと言って、その場を締めくくった。
次々に皆が椅子の向きを変えていく。もちろん橘君も。
「横顔描いてほしいの?」
なかなか左を向かない私に、橘君が声を掛けてきた。
意外だな。彼でも冗談を言うんだ。
しかし、少しだけ目線を左に向けると、いたって真面目な顔をしているのが見えた。
特にツッコむこともできないので「ううん」と言って、彼の方向へ椅子を動かす。
他の人から自分の顔がどう見られているのか。
それは、知りたいけど知りたくないことだった。
もし、頬や顎にあるニキビを描かれてしまったらどうしよう。
そんな不安を持ちながら橘君の似顔絵を描く。
途中何度か目が合ったけど、お互い特に何も言うことなく黙々と作業をした。
周りが騒がしかったのが救いだった。
30分ほど描き続けていると、黒板の方からパンッと大きな音がした。先生が勢いよく手を叩いたのだろう。
そして、同時に先生が「ここまで」と言った。それに続けて、「描いた絵を相手に見せて、評価してあげてください」と説明を付け加えた。
橘君とA5の似顔絵を描いてある紙を交換し合う。
緊張しながら似顔絵を見ると、なぜか満面の笑みの私が描かれていた。
私がいつこんな顔をしたんだろう。
嬉しいけど、何より嬉しいのはニキビがなかったこと。
……いや、時間がなかっただけかもしれない。結局、悪い方向へと思考は流れ着く。
評価シートを書いてると、隣から笑い声が聞こえた。
思わず何事かとみてしまう。
私の視線に気づいたのか、橘君もこちらを向いた。
そしてニヤニヤした顔のまま評価シートを渡してきた。
そこに書いてあったのは『下手すぎ』のたった一言。
……下手すぎ?
「……え」
「マジでこれは傑作」
私の描いた似顔絵を見ながらケラケラ笑っている。
「めっちゃ失礼じゃん。結構忠実に描けたと思うんだけど」
「勘弁してくれよ。これのどこが忠実なんだよ。俺はもっとイケメンだ」
「な……」
イケメンという事実は否定できないので、反論することができない。
「言っとくけど、橘君の絵も結構あれだよ」
「結構あれってなんだよ」
結構……美化しすぎてる。過剰に良く描きすぎてる。
「これこそ忠実だろ。この目元そっくりじゃん」
そう言って、あまりにも私の顔を見てくるので、顔を背けてしまった。
恥ずかしくて、照れくさかった。
教室に授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。
似顔絵と評価シートを提出し、美術室を後にした。
お昼はいつもくるみと机を合わせて食べている。
「まじであいつ許さん」
さっきの美術で自分の似顔絵を不細工に描かれたと怒っていた。
「ただたんに下手だったんじゃない?」
「そんなはずない。だってあいつ美術部だよ」
「そうなんだ」
彼女の怒りはさらにヒートアップした。
なんとなく、咀嚼する力が強いような気がする。
「てか、見てたよ」
「……見てた?何を?」
「もう、とぼけないでよ。橘君と楽しそうに話してたじゃん」
グッと顔を近づけてきたので、思わず手で顔を隠す。
「そんなことないよ。私の絵が下手だって言って橘君が笑ってただけだよ」
「私も橘君と隣の席になりたーい」
そう言って彼女は、左手に持っていたメロンパンを頬張った。
私も気恥ずかしさ隠すようにご飯を口に放り込んだ。
その後、くるみより先にご飯を食べ終えた私は、一人でトイレに行った。
個室に入ると、ふーっと深く息を吐く。
誰の視線もないトイレは、私にとって学校で唯一の落ち着く場所。
少しの間無心になって、ぼーっとした。
そして、時間を確認すると、もう5分もトイレにいることに気づいた。
慌てて出ようとすると「まじ最悪ー」と甲高い声が聞こえた。
声だけで分かる。同じクラスの佐藤さんだ。
いつも、明るくてクラスの中心的な存在。
多分、いつも一緒にいる北川さんも隣にいるのだろう。
私は出る機会を失い、彼女たちが出ていくのをじっと待った。
「早くお金貯めて整形したーい。この顔で生きてくとか普通に無理なんだけど」
「マジ分かる」
私からしたら、あんなにかわいい顔してるのにどこを整形したいのかさっぱり分からない。
最近のルッキズム社会には心底うんざりする。
一重より二重の方がかわいい。中顔面は短い方がいい。体は細くてなんぼ。
でも、そうやって挙げられる数々は、肌が最低限のきれいさを保っている前提で語られる。
つまり、肌がきれいなのは当たり前で、汚いのは論外。
こんな空気感を私はいつもひしひしと感じている。
ただの自論を考えていると、
「でもさ、藤宮さんよりはましだよね」
佐藤さんの口から突然私の名前が出てきた。
私の耳に全神経が注がれる。
「どういうこと」
「だってさ、あんなニキビだらけの肌、私だったら学校来られない」
まるでバカにしているような声色が私の心に鋭く突き刺さる。
「分かるー。あれやばいよね。不潔すぎて近づかないでほしい」
「まじで、ニキビ菌が移りそう」
「あははははは。ニキビ菌うける」
聞かない方が自分のためだと分かっていても、聞いてしまう。
その後も、怒涛のように繰り広げられる二人の会話は止まることを知らない。
「てか、マジで蓮も優しいよね」
「何が?」
「さっきの美術の時間。あの二人隣の席だから」
「あーー、そういえば隣だったね。何、似顔絵のこと?」
「そうそう。実は、私蓮が提出した後こっそり見たんだよね」
「悪趣味だね」
「それがさ、大事なニキビ描いてなかったの。やばくない!?藤宮さんの一番のチャームポイントなのに」
佐藤さんの言葉に、私はやっぱりそんなんだと思った。
ニキビは描かなかったんじゃなくて、時間がなかったから描けなかっただけ。
そりゃそうだよ。
私の顔を見て、ニキビに目がいかないなんて絶対無理だもん。
そして何より二人の会話に納得してしまっているのがたまらなく悔しくてみじめだった。
少しして彼女たちの声がだんだん遠のいていく。
やがて、完全に静かになったことに気が付いた。
慎重にドアを開けて、いないことを確信してから出る。
5時間目がもうすぐ始まるからなのか、トイレには私しかいなかった。
鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめる。
顔にある数個のニキビ。
この小さいやつが肌にあるだけで、不潔だと言われ白い目で見られてしまう。
私だって、こんな肌になりたくてなってるわけじゃない。
でも、この訴えが誰かに届くことはなく、ニキビがあるという事実だけに目が向けられる。
遠くからチャイムが聞こえた。
戻らないと。それは分かってるのに、足が動いてくれない。
このままサボろうかな。そんな私らしくない考えが頭をよぎる。
体感は10分。行くか行かないかを考えていた。
結局、サボる勇気すらない私は教室に戻った。
放課後、くるみが「めっちゃ心配した」と声をかけて来てくれた。
「ありがとう。あのさ、今日用事あるから先帰るね」
「わかった。また明日ね」
「うん、また明日」と言い残し、逃げるように教室を出た。
日傘なんて差さずに、ただ無心に家とは逆方向に走り続ける。
見慣れない景色と息切れがなんだか心地いい。
後ろを振り返ると学校も見慣れた深緑のジャケットを着ている人の姿も見えなくなった。
どのくらい走ったかもうわからない。
そして、気持ちに足が追い付かなくなってきた頃、小さな公園を見つけた。
少し汚れたベンチに気にすることなく腰を下ろし、荒い息を整える。
そこでもやっぱり考えてしまうのは、トイレでの出来事。
走ってもいないのに、なぜか脈打つスピードが速い。
私はいつものようにスマホを開き、昨日、授業中に見ていた人を検索した。
大丈夫、私はこの人よりまっし。画像を見てそう心を落ち着かせる。
すると、ふとあることに気が付く。それは、投稿が2022年の4年前であること。
今も投稿してるのかな。それが気になり、右にスライドして投稿者のプロフィールを確認する。
最近投稿したものであろう画像があった。……でも、私の知っている人じゃない。
それは、画像が何枚か載せているものではなく、ショート動画だった。
『汚肌だった私が、きれいになった方法!』なんてタイトルがついている。
昔と今の比較や使っている化粧品が紹介されていて、あとは効果があった美容医療。
吸い込まれるようにその動画をタップしてみてみると、紹介されているものは、どれも高校生では買えないような値段だった。
結局、お金なのか。心のどこかでは薄々思っていたけど、やっぱりそうなのだと確信をする。神頼みしてる私がバカバカしく思えてきた。
コメント欄を開くと、『私もやってみます!』『同じの使ってる』という賛同するものもあれば、『そもそも、ちゃんと毎日手入れしてたらこんなことならないでしょ』『まず、皮膚科に行くのが1番』と否定的なものもあった。
私に向けられた言葉ではないのに、なぜかハンマーで殴られたような気分になった。
地道に皮膚科に通って、お手入れだって毎日頑張ってる。私が誰よりも肌に気を遣ってると思ってる。
それなのになんで、この肌は治らないの。
なんで、ニキビがあるだけで不潔だと思われるの。
気づいたら、両目からたくさんの涙が溢れていた。
「……っ」
私はリュックから鏡を取り出し、ぐちゃぐちゃになっている自分の顔を見た。
そっと手を当てると、プクッとしたニキビが皮膚越しに伝わる。
私は、人差し指に触れたそれを、思い切り捻りつぶした。
その瞬間、膿のようなものがにゅるりと出てきた。数秒後には、じわじわと鮮やかな赤色をした血も出てきた。それでも、私の指が止まることはない。
一つ終わればまた次のものを。やがて、いつのまにか顔中にあるニキビを全て潰してしまった。
少し時間が経ち、鏡越しに至る所から血が出ている自分を見て我に返る。
やってしまった。
跡残るかな。
そんな心配が今更になってやってくる。
でも、不思議と気持ちがスッキリした気がする。……そんな気がするはずなのに、目からこぼれ落ちる涙は止まらない。
すると、
「藤宮?」
背後から聞き慣れている声が聞こえた。
振り向くと、そこには橘君がいて、私を見ると目を丸くした。
泣いていることに驚いているのか、顔から出ている血に驚いているのかは分からない。
「なんで泣いてんの?」
涙の理由を尋ねてきた彼に、
「家、こっち方面なんだ」
なんて、見当違いの返しをする。
「そうだよ。てか、この公園の近く」
特に深掘りすることはなく、私に話を合わせてくれた。
橘君は、少し間を空けて、私と同じベンチに座った。
私たちの間に、沈黙が流れる。その中に気まずさはない。
爪が伸びてきたなと思いながら手元を見ていると、左から手が伸びてきて、ポケットティッシュがポンと置かれた。
「使う?」
「……うん。ありがとう」
涙はいつのまにか出ていなかった。
鏡を見て、血を拭き取りながら、私は気になっていたことを聞いた。
「なんで、あんなに笑顔だったの」
突然の質問に橘君はピンときていない様子だった。
「似顔絵」
今度は察したようで「あー、似顔絵な」と言った。
私は高校に入学してから、学校であんな笑顔になった記憶がない。基本手は口元にあるし、いつも周りの視線が気になるから。
だから不思議で仕方がなかった。あの似顔絵が。
「だってさ、いつも目合わせてくれないし、ちょっと怯えてる感だし。藤宮が笑ったらどんな感じなんだろうって気になっただけ」
「……そっか」
なんで返したらいいか分からず、そっけなくなってしまう。
彼のことだから、なんとなくって答えそうだなとか思ったのに。
その後、私たちは1時間程話した。まもるん先生の話や私の絵の下手さといった色々。
結局、最初のとき以降、涙と血のことは聞かれなかった。
それが彼の最大限の優しさだと感じた。
帰り道、家とは真逆の方向に来たから、帰るのにとても時間がかかったけど、夕風がとても気持ちよくて、初めて歩きでよかったと思えた日だった。
家に着き、玄関を開けると、ハンバーグの匂いが私の鼻をかすめる。
「ただいま」
「おかえり、今日は遅かったのね」
「うん、ちょっと寄り道してて」
手を洗い部屋着に着替えて、夕飯を食べる準備をする。
今日は私の大好物のデミグラスハンバーグ。
多分たまたまだけど、なんだかお母さんが私を励ましてくれてる気がした。
「いただきます」
黙々と食べていると、お母さんが突然「え!」と大きな声を出した。
「どうしたの」
「あんた、その顔どうしたの」
血は固まっていたけど、痛々しさが残っていたのだろう。
「ニキビ潰れちゃった」
自分が潰したとは言えなかった。
お母さんはなんだか悲しげな表情をしてるように思えた。
すると突然、
「……あのね、奈美」
真剣な眼差しでこちらを見てきた。おのずと箸を動かす手を止め、お母さんを見る。
「一度違う皮膚科に行ってみない?」
「…え」
「お母さんね、いいところ見つけたの。ちょっと家からは遠いけど、評判がいいらしくて」
突然の提案に開いた口がふさがらない。
お母さんは私の肌のことなんて気にしてないと思ってた。
「セカンドオピニオン的な感じでさ。あ、でも、今のところが気に入ってるならそこでも全然いいんだけど」
私の返事に迷いはない。
「行く!そこ行きたい!」
「よかった。じゃあ、ご飯食べ終わったらネット予約してみるわね」
「ありがとう。…探してくれてたんだ」
「当たり前じゃない。だって、一年以上通ってるのになかなか治らないんだもの」
もっと早く打ち明けてもよかったな。
ご飯を食べ終えると、早速予約をしてくれて、今週の土曜日行くことになった。
ベッドに入り、今日のことを思い返す。
人の醜い部分に触れ、人の優しさに気づけた。
あの時、本当はどうしてニキビを描かないでくれたのかを聞きたかった。
でも、それを聞いてしまったら彼の優しさを踏みにじってしまうような気がして聞けなかった。
私はあることを決意した。
もう神頼みをするのはやめる。
自分で探すんだ。この肌との向き合い方を。
*
朝、目が覚め、鏡を見る。
劇的に肌の状態がきれいに変わっているわけではない。
潰したニキビもうっすら跡が残っている。
私はあれから新しい皮膚科に通い、自分の肌の状態を詳しく聞いた。そのおかげで少しずつ受け入れることができた。
でもまだ、新しいニキビができると気持ちは落ち込んでしまう。
「行ってきます」
外に出ると、明るい太陽が私を照らしてくる。
上を見上げると、きれいな青空も広がっている。
相変わらず日傘をさして歩く毎日。
肌に気を遣うことは変わらない。
最近はなんだか足取りが軽く思える。
一段ずつ、確実に、階段を登っていく。
教室に着くと、スマホをいじっているくるみに声を掛ける。
「おはよう、くるみ」
「奈美おはよう」
すぐに手を口元にもっていってしまう癖はなかなか治らなかったけど、この頃はもっていかないよう意識している。
「今日さ、帰りにアイス買っていかない?」
彼女は顔を輝かせながら言ってきた。
「いいよ。この前食べられなかったしね」
「やったーーー」
放課後の約束をしたら自分の席へと戻った。
リュックから教科書や筆箱などの荷物を引き出しに入れていると、
「藤宮、おはよう」
橘君の声が聞こえた。
「おはよう」
彼の切れ長の目を見て挨拶をする。
席替えをしてしまって、隣の席ではなくなったけど、毎日挨拶をする仲になった。
私はぎこちなく口角を上げ、笑顔を見せてみた。
ホームルーム前の少し騒がしい教室を見ながら考える。
17歳、きっとこの肌とは長い付き合いになるのだろう。
それでも、明日、そしてまた明日、少しずつ良くなると信じて。
私は、手を爪が食い込むまで握り、前を向いた。
