空の声が聞こえたら

 私はお腹が痛いと嘘をついて、生まれて初めて学校をサボり早退した。
多少の罪悪感はあるものの、後悔はない。
もしかしたら先生から親に連絡が入るかもと、電車の中で先に家族ラインへ報告を入れておいたから、余計な詮索もきっとされないだろう。

「ただいまー」

両親は仕事、お姉ちゃんもいないと分かっているのに、玄関を開けると大きな声でそう言ってから靴を脱いだ。
家に入るとすぐ左手に二階へあがる階段があり、右手にはリビングと浴室へ続く廊下がある。
十分見慣れているはずの家の中が、私以外他に誰もいないというだけで、変わってみえた。
家の家具や天井、フローリングの床にいたるまで、私を責め立て、笑っているようだ。
後悔なんてなかったはずなのに、やっぱりサボるんじゃなかったとか、明日からどんな顔して学校に行こうとか、そんな後悔ばかりがあふれ出る。
いつものように空になったお弁当箱をキッチンの水道で流してから、シンクの底に置いた。

久しぶりに麻友と芽依に声をかけられ、私は本当は、すごくうれしかったんだなと、思わぬところでため息が漏れた。
学校のことは嫌いじゃない。
先生のことも、麻友や芽依のことだって、もはや友達とは思われていないかもしれないけど、ずっと友達でいたいと思った瞬間は確かに存在していた。

二階にある自分の部屋に入ると、だらだらと部屋着に着替えベッドにもぐり込む。
お腹が痛いなんて適当なウソをついたつもりだったのに、本当に胃の辺りがキリキリと痛み始めた。
ベッドに入りまた一人になって、自分の目からぽろぽろとこぼれ落ちるものが、痛み始めたお腹のせいなのか、単純に自分が傷ついたせいなのかも分からなくて、混乱している。
だけどそれでついた傷というのも、自分が悪いせいなのか、それとも違う誰かのせいなのか、そんなことすら今の私には区別がつかない。

このまま学校が潰れればいいのにとか、もういっそ地球も人類も全部滅亡したらいいのにとか、どうしたってくだらない、バカみたいなことしか思いつかなくて、自分でも自分がよく分からないまま、気づけばウトウトと眠っていた。

「あ、寝てた?」

ノックの音で目が覚め、頭を動かすと部屋の扉が開いた。
お姉ちゃんが少しだけ開けたドアの隙間から、半分顔をのぞかせている。

「ライン、来てたから」
「うん」
「大丈夫なの?」
「いまは平気」
「そ」

いつもなら家にいる時間じゃないのに、こんな時だけ早く帰ってくるお姉ちゃんにも腹が立つ。
思い通りにならない感情に、私は自分の顔を思い切り枕に沈めた。

「隣の部屋にいるから。なんかあったらラインか電話して」
「うん」

 そっと扉が閉じられた。
本当は知っている。
お姉ちゃんもお母さんも、家族全員私に優しいってこと。
寝ている間にお父さんからも連絡が入っていて、それに既読と簡単な返事を返してアプリを閉じた。

「わぁあああー!」

枕に向かって、大声で叫ぶ。
あふれ出す何かに、私は必死で気づかないフリをした。
これ以上、自分がイヤにならないように、今よりもっと、自分が嫌いにならなにように。

自分がどれほどダメな人間なのか、性格も顔も頭も悪いとか、誰よりもよく知っている。
それを認めたくなくて、なんとか誤魔化したくて、血を吐きそうなほど努力してもまだ全然足りなくて、いつまでも解消されることのない焦りにずっと追いかけられている。

ひとしきり泣いて、またいつの間にか眠って、途中でお母さんとお父さんが順番に部屋をのぞきにきたけど、晩ご飯もお風呂もいらないと告げた。
遠くに走る救急車のサイレンを聞きながら次に目を覚ましたのは、朝日が昇るのと同じ時間だった。

明けない夜はないだとか、夜明け前の朝日が何とかかんとかだとか、そんなことを歌った歌をいくつも知っているはずなのに、朝焼けに染まる空をこうして見ても、何一つ思い出せない。
私の見ている空をSORAが見ていないという事実が、こんなにも私を悲しくさせる。

好きだと言った気持ちに、嘘はなかった。
本当に好きだった。この気持ちがそうでないというのなら、他に何と呼ぶべきなのか、私はその名前を知らない。

これ以上泣いたら顔が腫れる。
そうでなくても浮腫んでブクブクになっているのに、ますますブサイクになっちゃう。
ぼんやりと靄のかかった頭でスマホのロックを解除し、時刻とアラームを確認しようとして、新しい通知が届いていることに気づいた。

『これからはもう、自分に嘘はつかない。どこまでも自由であろうと思う』

村松くんの自室から撮ったのであろう、朝焼けの空があげられている。
カーテンのかかった窓の向こうに、血で染められたように赤く燃えあがる空が、住宅街の屋根に覆いかぶさる。
この空は、私の見ている空と同じ空だ。

『あの日交わした約束を、この空にかけて誓おう。それが答えになる』

投稿時刻は四秒前。
たった今だ。
もうブロックは解除されている。
いま連絡を入れれば、返事が返ってくるかもしれない。
私も見ている空のことを、どうやって彼に伝えよう。
「私も起きてました」? 
「私も見てるよ」?

どれも的外れだし場違いなような気もして、送信するのを諦める。
結局こんなメッセージを送ったところで、私はSORAではない彼に何を求めているんだろう。
この人はSORAじゃない。
それなのにどうしても、村松くんのことが気になった。

スマホの時計は四時三十二分を表示している。
学校に行くには早すぎるし、寝直すにしても、昨日は帰宅直後からほぼずっと眠っていたせいで、目は冴えていた。
自然と指はスマホの上を滑り、村松くんのプロフィール画面を映し出す。
朝焼けの静止画像が、ライブ配信に切り替わった。

「え? なにコレ。大丈夫なの?」

彼は何かの間違いで、配信ボタンに触れてしまったようだ。
真っ黒い画面にジャリジャリと規則正しく土を踏みしめる音が聞こえ、少し早い呼吸音がマイクを通して私のスマホに届いている。

村松くんはそれに気づいていない。
何とかして教えてあげなくちゃ。
そう思った瞬間、それまで内カメラになっていたものが、外カメラに切り替わった。

彼はどこかの公園を歩いているのか、画面の隅に手入れされた低木の植木がところどころ見え隠れし、彼の履く革靴の先が左右交互に顔を出す。

『あー。まだ明け方は冷えるな』

村松くんの声だ。
この配信を見ている視聴者は、今のところ私一人だけとはいえ、このまま放置しておくわけにはいかない。
急を知らせるメッセージを打ち込む間にも、ゴソゴソという雑音と共に、スマホの画角が変わる。
完全に下を向き足元だけを撮していたカメラが、彼のいる周囲の状況を映し出した。
どこかの高台へ向かっているのか、上下に揺れる画面は、黒いコンクリートで固められた階段を上っている。
そのまま少し開けた展望台のようなところに出ると、スマホカメラはペンキの剥げた細く白い鉄柵の上を乗り越え、一瞬だけそこから見える街並みを映し出したかと思うと、再び画角を下に向け、緑の木々が広がる森のてっぺんを映し出した。

『やっぱこの辺じゃ、ここが一番SORAに近い場所かもな』

村松くんの声を拾ったマイクは、ガサリと大きな衣ずれの音をたてた。
私の胸騒ぎはずっと鳴り止まない。
これは、どこから見た街並なんだろう。
村松くんは、いまどこにいるの? 
びっしりと立ち並ぶ四角い大小の建物は灰色に霞んだ空気に覆われていて、いまこの画面を映し出しているカメラが、かなり高い位置にあることしか分からない。

『どうしよう……』

 村松くんは何かを探しているようだった。
しばらく画面が上下左右にグラグラと激しく揺れたかと思うと、スマホを何かに立てかけたのだろう、ひび割れた黒いコンクリートの床と、その前にかがみ込む彼の制服が映し出される。
そこからゆっくりと離れていく彼の足の動きが、固定した画角で撮しだされた。

『着いた。はは。あー。俺は……、えと、約束通り、今から真尋の……』

画面がぐらりと大きく動いた。
スマホが傾いたのか、ガチャンという音がして、鉄塔のようなものと青い空を映し出す。
次の瞬間、何かがドサリと落ちる重く鈍い音が聞こえ、それ以降の音声は途絶えた。

「ちょ、村松くん?」

配信が切られる。
何も撮さなくなった画面は、くるくると読み込み中を示す白い円が回転し、それもすぐにプツリと途切れた。
『配信は終了しました』のテンプレ表示と共に、彼のプロフィール画面が映し出される。

「え? ……。え? ちょっと待って……」

何が起こってるの? 
胸の奥に、スマホより黒く重い焦りが広がる。
不安と焦りで思うように動かない指先で、村松くんとの通話ボタンを押した。
祈るように鳴り響く呼び出し音も、電波が届かないという無慈悲な音声によって切断される。
彼の居場所を特定する残された手段は、配信画面に映し出されたわずかな映像と、高台という情報だけだ。
私は急いで制服に着替えると、家族ラインに学校で朝の勉強会をするという書き置きを残し、家を飛び出した。
とりあえず学校へ向かう電車に飛び乗ると、配信動画から切り抜いた画像を、この近辺に地域を限定して検索をかける。

『この世界から消えてなくなっても、自分が生きていた証を残したい。たとえそれがどんなものであっても、自分が生まれてきた意味がほしい。生まれてきたことになんの価値もなかったなんて、そんな話ある?』

『自分の存在が、誰かを苦しめている。だったらいなくなった方がいいんじゃないかって、いつも思う。なのに簡単には死ねない、死なせてもらえない。本来なら自分は生きていていい人間じゃないのに』

始発の電車内は人影もまばらで、昇ったばかりの光は、生まれたての弱々しい姿から一変、強く車内をつらぬく。
その聖なる光の剣は、強力な武器となって黒い闇の渦巻く私の全身を貫いた。

『生まれ変われるものなら、生まれ変わりたい。この世の全てを恨んで悪いか? 自分にはその権利がある』
『今日も誰かに感謝して、ありがとうって言いながら生きてる。それしか言えない、思ってもいけない人形みたいだ』
『生きていけない存在なのに、なんで生まれた? ここは自分の場所じゃない。ここに居場所はない』

検索画面に現れた候補から、さらに検索をかけ場所を絞り込む。
ヒットしたのは、学校近くにある市民公園だった。
校舎からも見えるその公園は、確かに小さな山の上にあり、一年生の時に遠足でも行った場所だ。
そこに賭けるしかない。