空の声が聞こえたら

五年前の八月は、連日四十度を超える猛暑日が続いていて、夏休みだというのに、誰も外に出ていなかった。
照りつける太陽は殺人的な暑さで、この世の全てを憎んでいるかのように、外界を焼き尽くそうとしていた。
俺はそんな世界から隔絶された冷たい病院の中にいて、消毒の行き届いたベッドの上で死を受け入れ、ただ静かに横たわる真尋の隣にいた。

「葉月。今年も来てくれたんだ」

死期が近い人間の顔には死相が出る。
そんな話を聞いたことはあったけど、この目でそれを見たのは初めてだった。

「だって、毎年お誕生日は一緒にやってたから」
「葉月は、本当はこんなところで誕生日会なんて、したくなかったよな」
「そんなことないよ」

俺は真剣な表情を浮かべたまま、力をこめもう一度告げた。

「そんなこと、ホントにないから」
「……はは。そうなんだ。まぁお前の言うことなら、俺も素直に信じていいよ」

 少し疑いつつも、照れたように微笑んだ真尋の横顔の意味を、俺はいまでも考え続けている。

 毎年恒例となっている病室でのお誕生日会で食べるのは、何年たっても味も見た目もそっくりそのまま変わらない生クリームと苺のケーキで、この永久機関のようなケーキが己の姿を保つため、真尋の生気を奪って生きながらえているようにすら感じた。
乱立する十七本のカラフルなロウソクに火がともされると、吐く息も出ないような真尋と共に、俺も息を吹きかける。
俺一人でその全てを吹き消したと分かっていても、真尋はうれしそうに笑っていたんだ。

「ありがとう。誕生日は、うれしいね」

真尋の短い人生において、家族や親戚、病院のスタッフに囲まれて過ごす最期の数分に、どれだけの意味があっただろう。
外の世界を知りたがっていた真尋に、そこへいきたがっていた真尋に、俺は何をしてやればよかったのだろう。

真尋は手にしたフォークで生クリームをひとくち分だけすくうと、口元に運んだだけで実際には食べることなく皿の上に戻した。
そういえば俺は、真尋がこのケーキを食べるところを、見たことがないような気がする。

「葉月。こっちに来て」

真尋は背を持ち上げたベッド脇の丸椅子に、俺を座らせた。
指定席にもなっていたそこに小六の俺が座ると、それまで見上げていた真尋の視線が、少し見下ろすくらいになっていることに気づく。

「うわ。ここに入って来た時から思ってたけど、葉月が大きくなってる」
「そうかな。あんま変わんないよ」

軽やかな笑い声が誕生会出席者たちの間に響き、病室が終始和やかな雰囲気に包まれるなか、真尋の手がシーツの隙間から伸びた。
誰にも見られることなく密かに掴まれた手に、俺はビクリと体を震わせる。
真尋の握る力は、そのまま骨ごと砕かれてしまうかと思うほど強く、真尋の細い体のどこにそんな力が残されていたのだろうかと驚く。
俺はその激しい痛みに耐えながら、伯父や伯母、年の離れた従兄弟たちが笑うのを見ていた。

「葉月。お前にこれをやろうと思って」

 ようやく手が放された。

「欲しがってただろ、ずっと。俺の代わりに、持っていてほしい」
「いいの? まだ使えるのに」
「いいんだ。スマホは使えても、俺が使えなくなるからね」

その日の夜、真尋は死んだ。
危篤状態になったという連絡が入り、覚悟をしていたはずの伯父伯母が混乱しているのを、母は必死になだめていた。
祖父母たちが病院に駆けつける準備をしている間、俺は布団の中でじっと動かず目を閉じ寝たフリをしていた。
そうすることが、正解だと思ったから。
赤いスマホは俺の手の中で熱を持ち、昼間握られた手はまだジンジンと痛かった。
祖父が家で眠る俺のために残り、翌朝目覚めた時には、疲れ切った家族が病院から戻っていた。

「お母さん」

パジャマ姿で出て布団から出てきた俺を、母は強く抱きしめた。
泣きはらした顔が頬に触れる感触を、今でも覚えている。

「真尋がね、死んじゃった」

俺は母の背に腕を回ししがみつくと、声をあげて泣いた。
でかい声でわんわんとひとしきり泣いて、もう一度眠った。
夜中に布団の中で真尋のスマホを握り締めたままほとんど眠れていなかった俺は、真尋の死を聞いた後になら、なぜかぐっすりと眠れた。

翌日には近所の葬儀会館で通夜が行われ、俺は借り物のスーツを着せられた。
母親の実家にはめったに来ない父もその時だけはやって来て、俺は父さんとずっと葬式の様子を見ていた。
棺に入った真尋は驚くほど穏やかで綺麗な顔をしていて、目を閉じたまま静かに新たなる決意に身を固めているようにも見えた。
その体が焼かれる瞬間まで俺と共に見届けたスマホは、あの時と同じように今も俺のポケットにある。





真尋が生きていたら、彼の望み通り高校生になっていただろう。
いつも見ていただけの空の下で普通に青春をして恋もして、友達や彼女と並んで歩いたりしたのだろう。

海沿いのコンクリートで出来た防波堤に、真尋の兄貴二人がその彼女と四人で座っているのを見たことがある。
短いスカートからむちむちとした太い足が伸び、潮風に吹かれたバサバサの髪と、こちらを見てニッと大きく笑う歯並びの悪さとニキビ痕が気持ち悪くて、吐き気がした。
真尋ならそんな女を彼女には選ばない。
真尋が選ぶような女は、真尋みたいに白くて細くて、優しくて繊細な……。

望月さんから、俺が真尋だと誤解されたまま告白され、どうしていいか分からなくなった。
俺はSORAではないと伝えるだけで、精一杯だった。
彼女から逃げ出し、爆速でこいでいた自転車の、ペダルを踏む足を止める。
流れる車体にそのまま身を任せた。

見上げた空はどこまでも青く高く、あの日火葬場で見たのと同じ空の色をしていた。
でも俺は彼女のように、この空のどこかに真尋がいるだなんて、そんな感傷じみた気分に浸るつもりはない。

真尋は今も、俺のポケットの中にいる。
俺だけが知っている真尋の真実を、どうして他人と共有する必要がある? 
真尋が最期に自分の想いを託したのは、俺だ。

正面から吹き付ける風が徐々に弱まり、俺はふらつき始めた自転車をこぐ足に、もう一度力を入れる。
真尋が生きられなかった世界に、なんの興味もなかった。