空の声が聞こえたら

 現在の俺は、真尋がずっと通いたがっていた高校というやつに入り、校舎のベランダから真尋が見ていたのと同じ空を見上げている。

「村松くんってさ、好きな女の子とか、いないの?」
「は? なんだそれ」

二年生になって、一年の時から続けて同じクラスになった菅野さんがまた話しかけてきた。
真尋は学校が好きだと言っていたけど、俺はやっぱりあんまり好きではない。
こんなところに、なんでそんな憧れがあったのか。
疑問と不思議しかない。
真尋の知っている学校は、きっと本当の学校なんかじゃなかった。
真尋が来ているときだけ見せる、特別な学校だった。
だけど彼が体験した学校の真実は、それしかなかったんだ。

「えー。気になる子とかいないの?」

俺は腹の底から湧き上がる不快感を抑えながら、極めて平静を装った。
菅野さんのことは嫌いじゃないけど、あんまりしつこいと嫌にもなってくる。

「別に。そんなのはない」
「そうなんだ。結構モテそうなのに。告白とかされないの?」
「されないねぇ」
「えー」

球技大会が近いせいで練習場所を提供しないといけない運動部員たちは、全体的にヒマを持て余していた。
新学年が始まってすぐのことだし、顧問の先生たちも忙しいってのが、部活が本格的に始まらない理由の一つなんだろうとも思う。

「最近、千和と仲いいよね。席も近いし」
「ちより?」
「望月さんのこと」
「あぁ。別に、普通」

そういえば俺の後ろの席の女子も、同じようなことを言ってたな。
俺のスマホが古いだとか、空の画像がどうのこうのとか。

詮索好きの女子たちのことは、嫌いじゃないけど決して好きにはなれない。
どうしてそんなに、他人のことが気になるんだろう。
真尋からもらったスマホのことを、古いだとか派手だとか読み込みが遅いとか色々と言われるたび、俺は自分が最高にイライラすることに、イライラさせられている。





それがある日、SORAのアカウントが他人にバレてしまった。
バレてしまったというより、バレていたことをバラしてこられた。
「けだま」というアカウントのことは知っていたけど、それが俺の後ろの席に座る望月さんのサブアカだとは知らなかった。
あんまりにもSORAに絡んでくるから、ウザ過ぎてこのアカウントのことはミュートしていた。
一年前のことだ。
そんなアカウントがあったことすら忘れかけていたのに、思わぬ形で目の前に飛び込んできた。

腹が立った。ただ純粋に、真剣に本気でムカついた。
俺と真尋だけの世界に、他人が踏み込んできたことに、耐えられなかった。





最期の夏、帰省前から親には真尋が危ないと聞かされていた。
病院で一緒にお誕生日会が出来るのは、これで最後かもしれないと。

毎年夏に決まったように母が帰省するのは、民宿のことだけでなく、彼の看病で忙しい実家の兄夫婦を手伝うためだということにも、俺が病院に預けっぱなしにされるのは、そこが一番安全で親も安心して置いておける場所でもあり、真尋の気分転換や話し相手にもなるからだと、そういう大人の事情も何となく察しはじめていた。
それでも俺は、そんなことになんて全く気づかない純粋な子供のフリをして、ただ無邪気に真尋に甘えた。
真尋も俺のことを、年に一度、夏にだけ数日訪れる弟かペットのように思っていたのだと思う。
スマホで同じゲームを協力プレイしたり、ストーリーやキャラについて語るのを、普通に楽しんでいるように見えた。

「葉月は来年、中学生になるのか」

まもなく十七歳の誕生日を迎える真尋の体は、五つ年下の小六だった俺と変わらないくらい小さくて、腕の太さは半分ほどしかなかった。
俺はそんな真尋の、わずかに触れることさえ許されないような骨ばった手に、恐怖にも近い感情を覚えていた。

「なるよ。制服ダルい」
「制服か」

そんな彼の指先が、俺の前髪に触れ頬を撫でるのを、俺は真尋のやりたいように任せていた。
ぎゅっと目を閉じ、彼の指が肌に触れる感触に耐え続けた。
俺はその時のことを、一生忘れるつもりはない。

「俺の制服、おまえにあげれたらいいのに」

 真尋の中学の制服は、たとえ着ていたとしても数回程度のものだっただろう。
それはしわ一つホコリ一つつくことなく完璧な状態のまま、枕元の壁にかけられていた。

「いらないよ。使えないもん」
「そっか。だけど、もったいないな。全然きれいなのに」

真尋が頼む誕生日のケーキは、いつも同じ店で注文する生クリームと苺のケーキと決まっていて、俺は真尋がこの世界にこれ以外のケーキが存在することすら知らないんじゃないかといつも思っていた。
だけど他のケーキが食べてみたいだなんて、真尋には口が裂けても言えなかったんだ。

「真尋はこのケーキが大好きなんだね」
「……。そうだね。ここのケーキじゃないと、食べたいと思わないからね」

それは唯一、島の病院まで配達してもらえる大手お菓子チェーン店のケーキで、他のケーキを頼みたいと思っても、そんなわがままを言えない真尋の気持ちなんて、俺は考えたこともなかったんだ。





「なにが『好きです』だよ。ふざけやがって!」

望月さんからSORAが好きだと告白された時には、気が狂いそうになった。
お前が見ているのは何者なんだって、それを知ってから言ってんのかって、暴れ出したいのを必死で抑えつけた。
そんないい加減な「好き」を、俺は未だかつて一度たりとも聞いたことはない。
そんな告白が、許されていいわけがない。

放課後の自転車置き場で、待ち伏せを受けた時も同じだった。

「村松くん」

声をかけてきたのは、時々ここで一緒になる、自転車通学仲間の守屋芽依だ。
その隣には、いつも派手な格好をした香水くさい小西麻友もいる。
嫌な予感は、すぐに当たった。

「なんで千和のこと無視してんの?」

この小西麻友のことは、かわいいとかいう男も何人か知ってるけど、そいつらの女の趣味としては、だいぶどうかとは思う。

「無視してねーし」

 自転車のロックを外し動かそうとしたら、スタンドの前に守屋の足が出ていた。
この背の高いキツめの女は、ここで俺を足止めする役目のようだ。

「じゃあ、あの扱いはなに?」

なにって、逆にこっちの方が聞きてーわ。

「知らねぇよ。知りたきゃ直接望月に聞けよ」

この麻友とかいう女は、黒猫みたいに気が荒い。
こちらが少しでも動いたら、凄い勢いでシャーシャー威嚇してくる。

「あんたが何かしたの?」
「……。さぁ」

 何かしたのかと言われれば、してるような気もするし、そんなことしていないと言ったら、全くなにもしていない。
俺としては、何も分かっていない連中に、とやかく言われる筋合いはどこにもないということだけだ。

「俺、帰りたいんだけど」
「あのね、村松くんは……さ!」

 黒猫みたいな女は、俺を呼び止めておきながら、しばらく言葉を選んでいた。
それでも意を決したように、隣にいる背の高いキツネみたいな女と目を合わせうなずくと、俺をにらみ上げる。

「千和と陽菜のこと、どう思ってる?」

なぜそんなことを聞かれるのか、なんでこんなににらまれるのか、どうして自分とは全く関係のない他人のことで、こんなにも俺が怒られているのか、意味が分からない。
そもそもどうして、望月千和と菅野陽菜という関連性のない二人がここで比較対象になるのか、俺にはその繋がりがさっぱり見えない。

「別に、なにも」
「ハッキリして」

はっきり? 
はっきりしてというのなら、俺の返事は決まっている。

「どっちも興味ねぇよ」

俺は自転車の後部を持ち上げスタンドを蹴り上げると、守屋の革靴を避け後輪を地面につけた。
素早くサドルにまたがると、自転車置き場からの脱出に成功する。

「俺、いまのところ女に興味ねーから」

ペダルに全体重をかけ、立ったままこぎ出す。
背中に二人の罵声を浴びながらも、校門から抜け出した。

「くそっ……。マジでムカつく……」

女の友情とやらは、俺には一生理解不能な領域のようだ。
誰が好きとか嫌いとか、いまの俺にそんなことは到底考えられない。
もし真尋が元気で何の問題もなく学校に通い高校生になっていたら、誰かを好きになって、彼女とか出来ていたんだろうか。
そんなこと、あるわけない。

俺は湧き上がる邪念を振り払い、人気のない車道を自転車で爆走する。
もうすぐ夏がやってくる。
真尋が死んだのは、十七歳の夏だった。
俺ももうすぐ、真尋と同じ十七になる。
ここから先は、俺も真尋もみたことのない世界だ。
真尋が生きたことのない世界を、真尋の見たことのない景色を、俺はたった一人でどうすればいい?