空の声が聞こえたら

翌日早起きした私は、朝一番に教室へ入り込んだ。
早寝するために後回しにした宿題を机の上に広げ、村松くんが登校してくるのを待つ。
徐々に人が増えてきたものの、なかなか彼は姿を見せない。
私は残り一問となった化学のプリントに目を落とす。
化学反応によって発生する窒素量の計算式を立てている時、コツンと私の机を叩く手があった。

「今日の放課後、話がある」

村松くんはそれだけを言い捨てると、自分の席へと戻っていった。
ざわつく教室の中、すぐに彼の周りにはいつもの男子たちが集まってくる。
彼らがチラチラこちらを見てくるのが鬱陶しいけど、さすがに今回は村松くんの方から声をかけただけあって、彼らの勝手な妄想を自分で否定しているようだった。

ようやく話し合いの場が持てた。
安心した私が、再び化学の問題に向き合おうとうつむきかけた時、ふと視線を感じて顔をあげる。
麻友と芽依が、並んで座りこちらを見ていた。
一瞬目が合ったけど、私はすぐにプリントに取り組むフリをする。

もう彼女たちと、何日も話していない。
SNSを通じたメッセージのやりとりも途絶えてしまった。
一日に何度もくだらないスタンプや画像を送りあった仲なのに、友情なんて所詮こんなものだと、彼女たち自身が教えてくれている。

寂しくはない。
私はこれまで、一体何を恐れていたのだろうかと、自分で自分が分からなくなる。
見栄で欲しい友達なんて、友達じゃなかった。
私から絶対に離れていかないものは、私しかない。
だから私は、どれだけ自分が嫌でも、私であるしかない。

一人で食べるお弁当にも、もう慣れた。
タイマーをセットして机でお昼寝する時間は最高で、どうして今までこれが出来なかったんだろうとか、うっすらとなる意識のなかで、ぼんやり考える。
スマホゲームのデイリーも見たい動画も、いつでも好きなタイミングで見られるのなら、それが最高じゃない? 

何より今日は、村松くんとの約束もある。
帰りのホームルームの最中、私は彼にメッセージを送った。

『どこで話す?』

送ったメッセージに、すぐに既読がついた。

『中庭の自販機前で』
『りょうかい』

学校の公式HPには、学生の憩いの場として、なんだか聞き慣れないカタカナの名前をつけて載せられているけど、私たち在校生の間では普通に「中庭の自販機の所」で通じる場所があった。
憩いの場と呼ぶには申し訳程度の、床面に固定されたレース状の丸テーブルと動かない椅子が二脚設置されている。

ホームルームが終わって、私は自然な感じで教室を出た。
村松くんはまだ机の上で何かをしていたけど、私は先に中庭の自販機前へ移動する。
生徒たちのたまり場ともなるそこには、庭球部と書かれた揃いの部活ティーを着た数人が集まっていて、私は仕方なくすぐ横にある植木の縁石に腰掛けた。
ここなら日陰にもなってるし、村松くんを見失うこともない。
約束通り、彼はすぐにやってきた。

村松くんは電車でいうところの座席一つ分の空間をあけ、私の隣に座った。
金管楽器の音色と、サッカー部のかけ声が遠くから聞こえる。
放課後特有の空気に取り囲まれた私たちを、空だけが見守っていた。
しばらく無言を貫いていた村松くんが、ようやく口を開く。

「SORAのことが好きだったのか」

それは疑問系というより批難じみた口調で、私の罪を咎めにきたような言い方だった。

「ダメだった?」

村松くんの横顔は、返事に困っている。

「SORAって、ずっと村松くんなんだと思ってた」
「……。そうだよ」
「嘘。こないだ別の人だって自分で言った。マヒロって」

ふてくされる彼がSORAでないとしたら、誰がSORAの中の人なんだろう。

「村松くんは、SORA本人を知ってるってことでいいんだよね」
「知ってる」
「そっか」

会わせてほしいとか、そんなことは言わない。
本当は会ってみたいけど、会えないのならそれでいい。

「じゃあさ、本人に伝えておいてくれる?」

 あなたを知って救われたこと。
その言葉にいつも励まされていること。
あなたの苦しみを、私も分かち合いたいと思っていること。
SORAという名前と同じように、どんな天候のもとであっても、いつも近くにいたいと想っていること。

「私はね、自分がしんどかった時に、ぐうぜ……」
「帰る」

村松くんは突然立ち上がったかと思うと、肩に鞄をかけ足早に歩きだした。

「ちょ、待って。話はまだ終わってない!」

信じられない。
こんな人がSORAじゃなくて本気でよかったと思ってるけど、こんな人にしか頼れない自分にも腹が立つ!

「話があるって言ってきたのは、自分の方だったよね!」
「あぁ」

背の高い彼の歩幅は、私なんかよりずっと大きくて、しかも駆け足に近い大股で早歩きをされたら、私は小走りでついていくしかない。

「呼び出しといてなんなの? まだ全然終わってないんだけど!」
「俺は終わった」
「は?」
「俺がSORAだって誤解してたみたいだったから。その誤解を解きたかっただけなんで」
「それだけ?」
「そ。じゃ、また」

彼は自転車置き場に置いてあった自転車にまたがると、立ったまま自転車をこぎ、あっという間に校門から飛び出してゆく。
なんなの? 
彼にとって私なんてどうでもいい存在だということはよく分かってるけど、それにしても酷くない?

スマホを取りだし、すぐにSORAのアカウントを開く。
SORAが村松くんじゃないというのなら、直接文句を言ってもいいはずだ。
私はSORAからブロックされていないアカウントからメッセージを送った。

『はじめまして。ずっとSORAさんを「けだま」というアカウントでフォローしていた者です。mahitukiというアカウントを使っている久坂高校の二年生、村松葉月くんと同じクラスに通っていて、SORAさんの話を聞きました。SORAさんをこちらのアカウントでもフォローさせてください。これからもSORAさんのあげる空の画像、楽しみにしています』

これならSORAでも、ちゃんと私だと分かるはずだ。
それなのに、いつまで待っても私の送ったメッセージに既読はつかず、家に帰り夜になってスマホを確認すれば、SORAからそのサブアカまでブロックされていた。
私はすぐにログインなしの状態でSORAのプロフィールを検索する。

あげられていた最新の空画像は、私と話した帰りに村松くん自身が撮影したものなのか、学校近くの通学路と分かる建物が写り込んだものだった。

『悪いのは自分。全部自分のせい。ごめん。こんなことになるのなら、最初からやらなければよかった』

これは誰に向けたメッセージ? 
SORAは村松くんじゃないって今日認めたばかりなのに、やっぱり村松くんがSORAってこと?

『だからもう、終わりにしようと思う。いままでずっとありがとう。さようなら』

嫌な予感しかしない。
朝が来るのが怖かった。
彼を追い詰めてしまったのではないか、悪いことが起きなければいいと、必死で祈り続けた。
夜中に一人、何度もスマホにメッセージを入れようとしては取り消し、通話ボタンを表示させては消し続けた。

眠れない夜を過ごし、朝がやってくる。
ふらつく頭を抱え、何とか電車に乗り込んだ。
教室で村松くんの姿を見た瞬間、私の目から一気に涙があふれ出す。

「よかった……。心配した……」
「は? なにが?」

 教室に入り、村松くんの席の前に立ったとたん思い切り泣き出した私に、SORAがもの凄く困惑している。
それでも私は、嬉しくてたまらなかった。

「なんか思い詰めて、自殺とかしてたらどうしようかと思ったぁ~!」
「は? バカか。俺がそんなことするワケないだろ!」

本気で怒りだした彼に、私はクラス中から注目を集めている涙を、恥じることなく拭う。

「はは。そうだよね。そんなことするような人じゃなかった。誰よりも頑張って生きようとしている人だもん。そんな簡単に命を投げ出すようなことはしないよね。分かってたけど、不安だった」
「……。ちょっと来い」

村松くんは涙の止まらない私の腕を掴むと、教室を出た。
どこへ連れていかれるのかと思ったら、非常階段のてっぺんだ。
私たちは吹きさらしの苔むしたような階段に並んで腰を下ろす。
目の前に広がるのは、どこにでもあるような町並みとそれを包む空だ。

「俺はSORAじゃない」
「だけどさ、昨日学校帰りに、画像あげてたでしょ。これって、ほら。あの辺だし」

はっきりと断言する村松くんに、私はそこから見える遠くの景色を指さした。
非常階段に吹く風は湿気を帯び、厚い雲に覆われた空はどんよりと曇っている。

「……。そうだな。確かにそうだ」
「やっぱり、村松くんがSORAなんだ」

梅雨入り前の空は、いつも以上に重たい。
私たちの並んで座るコンクリートも、ヒヤリと冷たかった。

「SORAは死んでる。もうこの世にいない。SORAのアカウントは、俺の母方の従兄弟が作ったアカウントで、五年前に亡くなった」

SORAの本名は、中嶋真尋。
愛媛県瀬戸内の漁村で小さな民宿を営むお家に生まれ、病気で亡くなったと、村松くんは静かに語り始めた。