空の声が聞こえたら

登校前の朝の身支度に、今日はゆっくりと時間をかける。
といっても、ヘアスプレーを髪全体にかけて、いつもより少し丁寧にといて前髪をちゃんと作っただけ。
それでも、家を出るときの緊張はいつも以上だった。

「いってきます」

高校生にとって、学校は戦場だ。
髪型や服装はもちろん、持ってるものから立ち居振る舞い、会話の元となる話題や趣味にまつわる様々な情報の、最新のものを身につけていなければ、すぐに置いていかれる。
周囲から取り残されないよう、常に仕入れるそれらの知識は、私自身を守るもの。
教室の床にはいつだって黒く深い落とし穴が隠されていて、そこに落ちてしまわないよう、私は常に立ち居振る舞いに気を遣っていた。

だけど今日からは、違う種類の戦いが待っている。
もう誰にも負けるつもりはないし、譲る気もない。
自分の望むほしい場所を確保するために、何だってする。
何だって出来る。

教室に入ると、私の前の席に、もうSORAが座っていた。

「おはよう」

いつもならその他大勢に流す挨拶も、今日からはSORA一人に向かって放たれた言葉になる。
うつむいて数学のノートを開いていた彼は、ちゃんと私に反応してくれた。

「おはよう」

彼は辛うじて聞き取れるくらいの小さな声で挨拶を返すと、すぐにやりかけの宿題の方に集中している。
私が真後ろの席についたところで、知らんぷりだ。
もしかしたら、SORAはこのまま昨日の話をなかったことにしたいのかもしれないけど、私がそうはさせない。

「ねー、千和ー。今日のバスケの練習なんだけどさー」

麻友が近づいてきた。
私は麻友の話に適当に話を合わせつつ、村松くんに話しかけるタイミングを狙っている。

「あ、うん。ライン見たよー。もうちょっとだし、最後の練習になるねー」
「だから、絶対みんなで集まろうってー」
「昨日と同じとこ?」
「そう。陽菜がジャンケンで場所取り勝ったらしいよー」

前屈みになっていた村松くんの背が伸びた。
私は彼の背中越しに声をかける。

「そういえば村松くんたち、昨日バレーの練習してたよね。今日はやらないの?」
「え? あぁ、うん……」

ちゃんと約束したよね? 
私たちは「友達」になるんだって。
だから私は、こうやって話かけたんだよ? 

「あー……。うん。今日は……、分かんねぇ。知らんけど。気が向いたらやるんじゃね?」

彼は決して私と目を合わそうとせず、むしろ急に話し掛けられて迷惑だと言わんばかりの態度だ。
この人、こんな感じだったっけ? 
普段教室でしゃべっている時の雰囲気と、なんだか今日は全然違う。

「村松くんて、球技大会、バレーだったんだ。昔やってたとか?」

今度は麻友の方から、彼に声をかけた。

「いや。なりゆき」
「あはは。うちらと一緒だー」
「球技大会なんて、そんなもんでしょ」

軽い笑みまで浮かべて、麻友とは普通に話すんだ。
ここに麻友が混ざってくるのはいい。
だけど、邪魔はしないでほしい。
麻友はきっと、勝手に応援のつもりでやっている。
私の机の横で立ったまましゃべる麻友の細い切れ長の目が、ニッコリと私を見下ろした。

「うちらもなりゆきでバスケになっちゃって。困ってるところなんだよね」
「そうだね。村松くんも同じバスケなら、一緒に練習できたのに」
「いやいや、男子となんて無理でしょー」

麻友が笑うから、私も笑った。
村松くんもそれに合わせ、仕方なく笑っている。

「ねー。二人って、いつの間にそんな仲良くなったの?」

麻友の問いかけに、村松くんは答えなかった。
何の返事もしないまま、ぐるりと背を向けると、数学の宿題へ向かう。
行き場を失った麻友は、視線で私に返答を求めた。

「別に。席が近くなったから。普通にしゃべってただけ」
「そうなんだ。なんか急にそんな感じがしたから」
「なにが?」

今ここで余計なことを言ったら、麻友でも許さない。
SORAである村松くんの前で、彼を傷つけるようなことは言わないでほしい。

「これまで、特別仲のいい印象がなかったってこと」
「普通だよ」
「ふーん」

教室の扉が開いて、入ってきた先生が試合時間の終わりを告げた。
これ以上無駄だと悟った麻友は、くるりと背を向ける。

「じゃ、後でね」

麻友が思う「後で」なんて、私には永遠に来ない。
ようやく彼女から解放された私は、素早くスマホを取り出すと「けだま」のサブアカウントでSORAのプロフィール画面を開いた。
私のサブアカは、まだSORAからブロックされている。

その表示を見ただけで、私の心臓はえぐられたような気分になる。
村松くんと繋がるラインアプリを立ち上げると、彼へ送るためのメッセージを打った。

『ねぇ、せめてSORAのブロック解除して』

自分でそう打ち込んでおきながら、私は自分に吐き気がした。
こんなこと、SORAに直接頼めるワケがない。
彼がそうしている事実を、私は受け入れなくてはいけない。
だけど、スマホに書いた文字はすぐに消せても、湧き上がる感情は簡単に消せない。
どうすれば解除してもらえるのか。
どうすれば私は、もう一度SORAと気持ちで繋がれるのか。

ブロック解除をお願いする言い回しを、懸命に考える。
話しかけるタイミングは授業の合間の休み時間しかなくて、限られたその時間を有効に使おうとするなら、ホームルームが終わってから一時間目までの最初の十分すら無駄に出来ない。

ようやく朝のホームルームが終わり、先生が教室を出て行く。

「ね、村松くん。最近はSORAで投稿してないよね。どうして?」

 思い切って声をかけた背中が、ビクリと動く。
それは私には、悪くない反応に思えた。

「いつもどこで、空の画像撮ってたの? 私はね、教室のベランダとか、駅のホームから見た……」
「俺に話しかけんな!」

急に大きな声を張り上げ、立ち上がった村松くんに、教室中が静まりかえった。
周囲からの視線が、容赦なく突き刺さる。

「ご、ごめんなさい。私、いつも余計なことしか言ってないよね」
「自覚があるなら、やめろ」

彼はそのまま、勢いよく教室を飛び出してしまった。
私はあまりのショックに、そこから動くことも出来ず、全身を震わせている。

「なにアレ。ちょっと酷くない?」
「感じワルー」

すぐに麻友と芽依が近寄り、私を取り囲んだ。

「どういうこと?」
「サイアクじゃん」
「アイツ、なにやったの?」

 麻友と芽依に聞かれ、私は激しく頭を左右に振った。

「ゴメン! 私が悪いの。私が余計なことしたから!」
「余計なことってなに? 千和がなにかしたの?」

 芽依の視線が、冷たく見下ろす。
悪いけど、これ以上聞かれたくもないし、自分から話すつもりもない。
私は両耳をふさぐと、机に肘をついた。

「ごめん。本当にゴメン」
「……。それは、うちらにも言えないってこと?」

黙ってうつむいたまま返事の出来ない私に、芽依はイラつき、麻友は完全に腹を立てていた。

「は? なにそれ。ここでちゃんと話してくれないと、全部千和が悪いことになっちゃうよ。それでいいの?」

よくない。
よくはないけど、これ以上私も村松くんのことも、責めないでほしい。

「本当に私が悪かったの。怒られても仕方のないようなことをしたの!」

 それでも二人は、許してくれない。
芽依は腕組みしたままにらみつけ、麻友も完全に怒っている。

「千和。後でちゃんと話そ」
「ゴメン、麻友。本当にこれは無理」

麻友の足が、ワザとなのか偶然か、私の座る机の脚にガツンとぶつかった。
それでも私は、耳をふさぎ身を固くして耐えることしか出来ない。
そうすることでしか、私は私とSORAを守ることが出来ない。

「ムカつく! なんなの? 前から思ってたけど、千和ってうちらのこと友達と思ってないよね」

麻友の声は、クラス中に響いていた。

「千和がそういうつもりなら、こっちももう友達とか思えないんだけど。それでもいいんだ」
「……。別に、麻友が私を友達だと思ってないなら、それでもいいんじゃない?」

 うつむいている私には、二人がどんな顔をしているのか見えない。
だけど見えなくてよかったと、心からそう思っている。
麻友が私の頭上で盛大なため息をついた。

「行こ。芽依。もうこの子、うちらと友達じゃないんだってさ。やっと本音が聞けたね」

麻友と芽依が、私から遠ざかってゆく。
二人は遠巻きに見ていた陽菜たちのグループと合流すると、声を大きくして私の悪口を言い始めた。

私だって、麻友の本音をやっと聞けたよ。
友達なんて思ってなかったのは、そっちだって同じなクセに。

狭い教室に四十人ちかくが押し込められているはずなのに、私の周囲だけ不思議と人が消えた。
みんながみんな教室の壁に集まって距離をとってくれているおかげで、私は綺麗になった空気を思い切り吸うことが出来る。

「あぁーーー!」

 その中心で、私は雄叫びを上げた。
気でも狂ったのかとドン引きしてるクラスメイトを無視して、教室を飛び出す。
一時間目の始まるチャイムとか、どうでもよかった。

人のいなくなった廊下を、全速力で駆け抜ける。
教室を飛び出してきたのはいいけど、どこへ行けばいいの? 
行く先が全く思いつかない。
体育館裏? どこかの準備室?