さよなら、スタジオ有栖ちゃん ー仮面の優等生と秘密の練習会ー



 だからこそ、あの裏庭の花壇で再会した時は本当に驚いたんだ。

 早朝。
 いつものように水やりに行ったら、大切に育てていた花壇がぐちゃぐちゃに踏み荒らされていた。
 その真ん中で、素手のまま、泥だらけの手で折れた花を助けようとしている有栖川がいた。
 かける言葉も見つからず、とにかく一緒に手伝った。

 『ごめんなさい。花壇、荒らしてしまって』

 泥の手を握り締め、頭を下げる彼女を見て、花壇を荒らされた怒りが湧きつつも、同時に信じられない気持ちがあった。

 『……有栖川がやったの?』
 『……っ』

 彼女は答えない。
 ただ口をパクパクさせて固まっている。
 それが認めたという答えなのか、それとも他にいる犯人を庇っているのか。問い詰めたかったけれど、途中でやめた。
 たかが花壇の花くらいで女子相手に激怒するなんて、男らしくない。
 俺はただの園芸係だ。
 そう自分に言い聞かせて教室へ向かった。

 そうして、放課後。
 人気のない校舎の廊下を歩いていると、扉の閉まり切っていない教室の中から声が響いてきた。

 『花壇、入っちゃダメだって……』

 消え入りそうなほど弱々しいのに、はっきりとした声だった。
 有栖川だ。足を止める。

 『入ってないよ』

 冷ややかな西条の声だ。
 揉めていそうな緊迫感を察知し、思わず、柱の影に隠れる。

 『でも、写真』
 『腕を伸ばしただけ。なに、うちらが花壇に入ったと思ったの?』
 『でも、今朝踏み荒らされてて……』
 『うちらじゃないって言ってんじゃん』

 西条と仲の良い女子――名前は忘れたけれど、そいつが強い声で捲し立てる。
 少しの押し問答の末、気まずい空気のまま西条たちは教室を出て行った。下駄箱の方へ向かって、パタパタと足音が遠ざかっていく。


――なんだ。やっぱり有栖川じゃなかった。


 廊下の陰でそのやり取りを聞いていた俺は、胸の奥で深く胸をなでおろしていた。彼女が犯人じゃなかったという事実に、心底ほっとしている自分がいた。
 その安心感が自分でも驚くほど大きくて、なんだか変な感じがして、俺は慌ててその場から足早に逃げ出した。



*



「あ、この花……」

 部活が終わって家に帰り、部屋のベッドで何気なくインスタグラムを開いたときだ。
 タイムラインに流れてきたのは、今朝直したばかりの花壇の花だった。茎を短く切り揃え、小さなグラスの中に大切そうに浮かべられている。
 間違いない。
 茎が完全に折れてしまい、俺が諦めて除けておいたあの蕾。

 有栖川だ。
 すぐにわかった。
 彼女は折れた蕾を持ち帰ったのだ。
 処分するしかないと俺が諦めたあの花を、彼女はわざわざ持ち帰ってくれたのだ。
 胸の奥が熱くなり、気づけば親指が勝手に動いていた。


 ぽんっ。


 『いいね』をタップする。
 画面に小さなピンクのハートマークが灯った。
 いや、このハートには何の深い意味もない。ただの挨拶みたいなものだ。
 そう自分に言い訳してみたけれど、どうしてか、両頬が少しだけ熱くなった気がした。

 それから数日間、毎日決まった時間に投稿されるあの花の写真を見るのが、俺の密かな楽しみになった。
 最初は死にかけていた蕾が、彼女の部屋のグラスの中で少しずつ瑞々しさを取り戻し、膨らんでいく。

「すげ。もう咲きそうじゃん」

 いいねを送り続けて数日後。すっかり元気を取り戻し、今にも開きそうな蕾を画面越しに見て、思わずひとりごちる。
 そして今朝、早朝の花壇で彼女と話し、あの約束を交わした。

 『二人でいる時は、無理すんのやめない?』

 自分の口から出た言葉なのに、なんであんな提案をしたのか自分でもよくわからなかった。
 でも、どんな格好悪い理由を作ってでも、俺はもう少し、有栖川と話していたかったんだと思う。



 自分の部屋の机に向かい、教科書を開いたまま、俺は天井を見上げた。

「……無理をしない練習、か」

 有栖川の少し戸惑ったような声を思い出しながら、噛み締めるように口に出してみる。

「ふっはは……なんだよその練習」

 静かな部屋に、自分の笑い声が響いた。誰かの期待に応えるためでもなく、優等生を演じるためでもない笑い声。
 自分にしては、ずいぶんと心地の良い笑い方だなと、ぼんやりと思った。