「わ、元気になってる!」
早朝。
校舎の裏手に回った私は、思わず声を漏らした。
あれから数日、正門が開くと同時に裏庭の花壇を覗きにいくのが、私の日課になっていた。
佐伯君と二人で丁寧に起こした茎はしっかりと立ち上がり、葉の先まで瑞々しい生気を宿している。
「良かったぁ」
ポケットからスマホを取り出し、パシャリと一枚、写真に収めた。
最近は、この花壇の写真と、自宅の部屋でグラスに浮かべている花の写真を両方インスタグラムに上げている。
ふたつの蕾の成長スピードは、ちょうど同じくらいだ。
「うちの子と、どっちが先に咲くかな、っと」
文字を入力し、投稿ボタンを押す。
画面が切り替わると同時に、通知のマークがついた。
「あ、昨日の写真にもいいねがついてた」
あの蕾の写真を上げて以来、毎日欠かさずいいねをくれる人だ。
世界のどこかで、顔も知らない誰かがこの小さな花の成長を楽しみに見守ってくれている。そう思うだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「有栖川」
突然、すぐ後ろから低い声が降ってきた。
「っ!」
ビクリと肩を跳ねさせ、振り向く。
立っていたのは、大きなジョーロを手にした佐伯君だった。
「佐伯君……」
「おはよ」
「おはようございます」
あの日以来ここで出会うことはなかったけれど、ジョーロを持つ彼を見ると、本当に水やりをしていたのだと実感する。
佐伯君は口を傾けながら、花壇の土へ静かに水を注ぎ始めた。土が湿りはじめ、ぐんぐんと水が吸い込まれていく。
「元気になったな」
ポツリと彼が呟いた。
一緒に土を起こしたあの花のことだ。
「はい。佐伯君の言うとおりでした。この子なんか、もうそろそろ咲きそうで」
「こっちの奥のも咲きそう。踏まれてないやつだけど」
「え、どこです?」
私は足元に気をつけながらぐっと近寄り、花壇の中を覗き込んだ。
「わー本当。すごい。かわいいピンク色」
「だろ」
「これ、どんなお花が咲くんですか……」
嬉しくなって、勢いよく横を向いた。
瞬間、息が止まる。
すぐ隣に、佐伯君の顔があった。
整った目元、鼻筋、肌の質感までハッキリと見えるほどの距離。
「……っご、ごめんなさい!」
弾かれたように飛びのき、よろける。
心臓が破裂しそうなほどバクバクと暴れ出した。
横を向いたら突然、目の前に綺麗な顔があって、パニックになりそうだ。
「いや、俺こそごめん。近かったな」
佐伯君も少し気まずそうに視線を泳がせ、喉を鳴らした。静寂が降り立ち、早朝の空気が急に重くなる。
気まずさを誤魔化そうとしたのか、佐伯君がぎこちなく口を開いた。
「……有栖川が持ち帰った花も、綺麗に咲きそうだな」
「あ、はい、そうなんです。ネットで調べたんですけど茎が短くてもお水に……って、え、何で佐伯君が知ってるんですか?」
あまりにも驚いて、ポカンと口を開けたまま彼をじっと見つめる。
佐伯君は少しだけ視線を外しながら答えた。
「鍵垢じゃないから、見れた」
「あ、あーっ! もしかしいいねくれたの……?」
「俺」
信じられない思いで彼を見る。
「そうだったんですね。ごめんなさい、佐伯君のアカウントだって知らなくて」
「いや、隠してる方だから。友達に教えてる連絡用のとは別」
アカウントをふたつ持っているらしい。
「ありがとうございます、毎日」
「いや。いいもんだな。ああやって定点観測みたいに投稿するの」
部屋に持ち帰った花は、毎日同じ時間、同じ角度から撮影して載せるように決めていた。その方が、開いていく過程が一番わかりやすく伝わるからだ。
「ですよね。少しずつ開いてくるのを見ると、お花も生きてるんだなって思えて」
私の言葉に、佐伯君がフッと口元を緩めて笑った。
「だよな。踏まれて折れた花なのに、すごいよ」
朝の光の中で見せた彼の笑顔は、とてもやわらかい。
目が、離せなかった。
「なあ……何で無理してんの?」
不意に投げかけられた言葉に、心臓が跳ね上がった。
「え、何ですか?」
「西条たちといる時の顔と全然違うから。昨日、体育館で……いや、いつもか。体育祭の時も、クラスメイトと一緒にいる時は、すごい無理した笑い方だ」
顔からすっと熱が引いていくのが分かった。張り付いたような笑顔が消えていく。
全部、見抜かれていた。
「……別に、無理してるわけじゃ」
「でも今の方が楽しそうじゃん」
花の話や、写真の話。
確かに自分でも、今この瞬間の方がずっと呼吸がしやすいとわかっていた。言葉に詰まり、私は固まったまま地面を見つめる。
「……っ」
喉の奥が乾いて、うまく声が出ない。
それでも必死に声を絞り出した。
「……でも、いい子なんです、芹香ちゃん達は」
佐伯君は何も言わず、ただ黙って私を見つめている。私は慌てて気を取り直し、話題を変えるように口を開いた。
「佐伯君こそ、村田君たちと話しているときより、お花の話をしているときの方が生き生きしてますね」
少しの間を置き、佐伯君はぽつりと呟いた。
「……うん」
「え?」
予想外の肯定に目を見張る。
「ごめん。無理してるって言ったの、本当は俺の話」
「え……と」
「友達の前ではさ、何か、カッコつけちゃうっていうか。皆の理想の俺でいたいなと思っちゃって」
「あ……」
「でも、本当は優等生じゃないし、元気キャラでもないし。そういうの、疲れるなって」
「だけど……実際、佐伯君は頭もいいですし」
「勉強はできるよ。でも、皆のイメージしてる俺って、頭がいいだけじゃなくて全方位に好印象な優等生だろ」
彼の言う通りだった。
運動ができて、勉強もできて、誰にでも気さくで、明るくて友達が多い爽やかな優等生。それがみんなが思い描く佐伯颯真君の姿だ。
「皆のイメージとか理想とか、俺は結構、意識しちゃってるんだ」
佐伯君は自嘲気味に笑った。
みんなの思い描く「理想の佐伯颯真」に縛られているのだと、彼の表情が物語っている。
「俺がそうだからって、有栖川のことも勝手に決めつけちゃったな。ごめん」
そう言って笑う彼の顔は、どこか痛々しい。
ズキリと胸の奥が痛む。
彼もまた、私と同じように何かに怯え、笑顔を貼り付け続けていたのだ。
「あの……私こそごめんなさい。本当はちょっとだけ……私も、無理してます」
口に出してしまった瞬間、朝の澄んだ空気がしんと静まり返った。
遠くから届く鳥の鳴き声だけが、花壇に響く。
「じゃあさ、提案」
沈黙を破ったのは、佐伯君だった。
「二人でいる時は、無理すんのやめない?」
二人でいる時。
それは、今この瞬間という話だろうか?
それとも別の日に何かを試すのだろうか?
いや、それだけじゃない。
そもそも無理をしないとは?
「……無理に笑わない、ってことですか?」
「うーん……二人でいる時は、有栖川は誰かと仲いいフリをしなくていい。で、俺は優等生のフリをしない」
「無理をしない、練習……?」
「いいじゃん、その名前。『無理をしない練習会』せっかくだから、やってみようよ」
無理をしない。
とは、笑顔の仮面を貼り付けないということだ。
そんなことが、自分にできるだろうか。
練習をしたところで、芹香たちの顔色を窺わず、嫌われる恐怖におびえずに生きる日が来るだなんて、到底信じられない。
だけど確かに、自分を偽り続けて毎日を過ごすのは苦しい。
このまま過ぎていく残りの学校生活を想像するだけで息が詰まりそうになるのも、間違いのない事実だった。
「……できる、でしょうか」
「わからないけど、今のままじゃ二人とも無理してしんどいままじゃん」
「……わかりました。やってみましょう、無理しない練習会」
言葉にすると、少しだけ胸のつかえが下りた気がした。
「決まりだな」
佐伯君が言った。
差し出された彼の大きな手が、朝日に照らされている。
私はそっと自分の手を重ねた。
触れた掌から、あたたかい温度が伝わってくる。
無理をしない練習会。その先にあるかもしれない、これから変わるかもしれない未来を想像すると、胸の奥がどきどきと激しく跳ねた。
