さよなら、スタジオ有栖ちゃん ー仮面の優等生と秘密の練習会ー


 佐伯君に手を引かれ、ずんずん歩く。
 まだ下校していない生徒が大勢いる廊下を二人で進んだ。すれ違う生徒たちの驚く顔、興味深げな視線が、肌をちくちくと突く。
 けれど、そんなことを気にしている余裕がないほどに、私の頭は熱く沸騰していたし、胸の奥で心臓が暴れまわっていた。
 連れて来られたのは、見慣れた裏庭。花壇だ。
 佐伯君が脚を止めると、私は軽く上がってしまった息を必死に整える。

「はぁ、はぁ……」
「あ、ごめん、早かったよな」

 握られていた手がパッと離れる。
 佐伯君は少し焦ったように頭を下げた。

「ううん、平気。ごめん私こそ……運動、不足で」
「いや……」

 佐伯君はそれ以上何も言わず、黙って私の息が整うのを待ってくれた。
 夕刻の風が、静かに二人の間を吹き抜けていく。

「佐伯君、ありがとう」

 落ちついた声を取り戻しながら、ゆっくりと話し始める。

「私のこと信じてくれて」

 嬉しかった。心から。
 『絶対に有栖川じゃない』と、あの張り詰めた廊下で大勢を前に言い切ってくれたことが、泣きたいほどに嬉しかった。

「当然だよ。だって有栖川は、俺が嫌がることは絶対にしない」

 まっすぐな瞳で見つめられ、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 大切な友達から信頼してもらえるということが、こんなにも心を揺さぶるものだとは思わなかった。

「でも……どうしよう。本当に芹香ちゃんたちなのかな」

 胸の騒ぎは収まらない。
 これからどうなってしまうのだろう。

「さあ。これでアカウントが消えてたらあの二人のどっちかなんだろうな」

 佐伯君はあっけらかんと言い放つ。

「え、どうして?」
「開示請求って言われたんだ。ビビったらアカウントごと消すよ。受験のことを考えたら、警察沙汰は避けたいだろうし」

 そうか。インスタグラムのアカウントなんて誰でも簡単に作ることができるし、消すこともできる。
 けれど……納得がいかない思いが胸にくすぶる。

「アカウントを消したって、あの投稿をした事実は消えない。写真を勝手に撮って勝手にアップして……ネット上でもあんな騒ぎになって」

 芹香は佐伯君のことが好きだと言っていた。
 好きならなぜ、彼が嫌がるような酷いことができるのだろう。私にはどうしてもわからなかった。

「うん。でも、有栖川は気にしなくていいんだ。だから……」

 佐伯君が私に一歩近づく。そして、そっと頬に手を添えてきた。
 温かい体温が、直接伝わってくる。

「そんなに、泣きそうな顔しないで」

 弾かれるように顔を上げる。

「……泣いてない」

 視界が歪みそうになるのを、ぎっと眉を寄せて我慢した。
 そんな私を見て、佐伯君はふっと息を漏らして笑った。

「嫌な言い方かもしれないけど、慣れてるんだ。中学の時も同じようなことがあった。みんな好き勝手なことを言うけど、時間が経てば忘れる。だから、そんなに心配しなくていい」

 穏やかに話す彼の言葉を聞きながら、胸が痛む。
 本当なら、こんな理不尽なことに慣れる必要なんてなかったはずだ。

「あ、でも一個だけ言わせて」
「……?」
「元カノとか女遊びとか、あの辺のコメントは全部嘘。俺、彼女いたことないから」

 力強い口調で言葉を重ねてくる様子に、ぽかんと圧倒されてしまう。

「あ、そう……なんだ」
「そう。だから信じないで」

 強く迫られて、私はコクコクと何度も頷いた。
 それを見て、佐伯君が胸をなでおろすようにほっと息を吐く声が聞こえる。

「……変なの。嘘だってわかるのにね」
「え?」
「元カノはさておいても、女遊びって……そんなの佐伯くんと接してたら嘘だってわかるのに。どうして……嘘が広まったんだろう」

 佐伯君は少し寂しげな目を向けた。

「誰も見てないから」
「……?」
「みんな俺の外側しか見てない。見た目で勝手に想像してる。優等生キャラになれば違うかもって思ったけど、そんなこともなかったな」

 腑に落ちた。
 なぜ、佐伯君が優等生の仮面をかぶっていたのか。なぜ、人当たりの良い笑顔を絶やさないよう、良い人でいるよう、心がけていたのか。
 過去の失敗があったからなのだ。

「みんながみんな、有栖川みたいに中身を見てくれたら、きっと誤解なんかされなくて済むんだろうけど」

 柔らかく、佐伯君は微笑む。
 優等生じゃない。仮面の笑い方ではない。久々に見た、私が知っている佐伯君の笑顔。大好きなお花のことを話す時の彼の笑顔だ。
 
「ごめん、有栖川。先週の俺の態度、酷かった」

 彼は深々と頭を下げてくる。

「あ、え? いやいやそんな……」
「練習会も、一方的にやめようって言って意見も聞かずにごめん」
「あ……ごめん私こそ。あの、きっと私が何か、佐伯君を不快に……」
「え? いや、それこそない。全然、完全に俺のせい。だからごめん」

 この一週間、ずっと胸の奥に突き刺さったまま凍りついていた氷が、彼の言葉によって少しずつ溶けていくような気がした。
 私が原因でないのなら、なぜ急に、朝の練習会をやめようと言ってきたのだろう。
 どうして話さなくなってしまったのだろう。
 なぜあの時、あんなにも様子がおかしかったのだろう。
 今なら、聞いても許されるだろうか。

「……何が、あったの?」

 佐伯君はしばらく黙り込み、頭の中で何かを組み立てるように視線を泳がせ、やがて静かに口を開いた。

「……焦った。有栖川がどんどん成長して『無理しない』を身につけているのがわかったから。西条たちときちんと距離を置けて、相澤っていう新しい友達もできて、写真のことも。どんどん前に進んでいく有栖川がいるのに、俺は何も変わらない。それに、焦った」

 思いも寄らない言葉に、ぼうっとしてしまう。
 佐伯君はずっと私の話を楽しそうに聞いてくれていたから、心の内側でそんな葛藤を抱えていたなんて想像もしなかった。

「……佐伯君のおかげなの。私が変われたのは、私が勇気を出せたのは『できる』って気持ちを見せてくれた佐伯君のおかげ。毎朝、話を聞いてくれた佐伯君のおかげ」

 ずっと言いたかった言葉を、いま、伝えよう。

「だから……ありがとう」

 お礼を言いたかった。
 心の中で温めていた感謝を、ようやく言葉にして渡すことができた。
 きゅっとなる胸元を両手で抑える。ドクドクと高ぶる脈が手のひらから伝わり全身をビリビリと揺らす。

「そんなことない。有栖川自身の力だよ。でも、そう言ってもらえて嬉しい」

 佐伯君はふわりと柔らかく笑うと、言葉を続けた。

「練習会を辞めようって言った理由は、もう一つあるんだ。聞いてくれる?」

 私は黙って頷く。

「嫉妬したんだ。相澤と、長谷部先輩に」
「しっ……え?」

 嫉妬。と、彼は言ったのだろうか。
 それも、麻里奈ちゃんと長谷部先輩の二人に?

「俺の方が相澤より早く有栖川と友達になったのに、有栖川は相澤の話をするのがすごく楽しそうだし……その、長谷部先輩と出かける話も楽しそうで。あ、ごめん『デート』だなんて。有栖川は違うって否定したのに、嫌味みたいに言った」
「……デートじゃ、なかったよ。部活の……」
「うん。だから、それもただの嫉妬だった。ごめん」

 どういう意味なのだろう。
 佐伯君の言う『嫉妬』という言葉は、私の知っている意味と同じなのだろうか。
 喉の奥がキュッと詰まって、それ以上は声が出ない。

「俺も、相澤みたいに名前で呼びたい。有栖川じゃなくて『ひなた』って呼びたい」

 佐伯君の顔を見上げる。
 夕陽に照らされて少し朱に染まったような頬も、まっすぐに私をとらえて光る瞳も、驚くほど綺麗だった。

「長谷部先輩みたいに、有栖川と一緒に出かけたい。公園でも、家でも、どこでもいい。休日に待ち合わせて、一緒に過ごしたい」

 胸がいっぱいになり、視界が急に揺れて、佐伯君の顔が滲んでいく。
 どうしたらいいのか分からなくなって、無駄に手を下げたり上げたり、また下したりした。

「わた、し……私も、佐伯君のこと『颯真くん』って呼びたい」

 佐伯君の手が伸びてきて、私の手をぎゅっと強く握り締める。

「じゃあ、俺たち、同じ気持ち?」

 零れ落ちそうな涙を堪えながら、大きく頷いた。

「俺、有栖川のことが好きだ。友達じゃなくて、女の子として。その……付き合って欲しいって意味で、好き」

 ぽろりと、耐えきれなくなった涙が目頭から溢れ出す。

「有栖川も、本当に、同じ気持ち?」

 もう一度、大きく首を振るように頷いて、かすれた声を絞り出した。

「うん。おんなじ、すき……」

 佐伯君は大きく目を見開くと、肩の力を抜いてほっとしたような息を吐き、それから「そっか……」と噛み締めるように呟いた。

 ぽろぽろと溢れ落ちて止まらない私の涙を、佐伯君は自分の制服の袖で丁寧に拭いてくれる。
 そしてあの日と同じように、私が泣き止むまで隣にいてくれた。