翌朝。正門の重い鉄扉がガラガラと音を立てながら開くと同時に、私は校内へ足を踏み入れた。一目散に校舎の裏手へ向かう。
「やっぱり……」
渡り廊下の陰に広がる小さな花壇を見た瞬間、息が詰まった。
昨日まで綺麗に整えられていた土はぐちゃぐちゃに踏み荒らされ、膨らんでいた蕾の茎が、無残に折れて土に押し潰されている。
「ごめんね……」
カバンを地面に放り出し、膝をつく。
制服が汚れるのも構わず花壇の前に膝をつき、潰れた茎に触れた。
私がみんなをここに案内しなければ、この花たちは踏まれずに済んだのに……。胸の奥がキュッと締め付けられ、苦々しい何かがこみ上げてくる。
その時、上からのしかかるように影が落ちてきた。
びっくりして振り返る。
佐伯君だ。
カバンを肩にかけ、見下ろすような位置でこちらを見ている。
「あ、あの……」
なぜ彼が早朝の裏庭にいるのか。
それよりこの花壇の惨状と、自分がここにいる理由をどう説明しようか。
頭の中がパニックになり、言葉が出てこない。
自分の泥だらけの手を見つめたまま固まっていると、佐伯君がその場に屈み込んだ。彼の制服から、ほのかに柔軟剤の匂いがする。
「優しく起こして」
「え」
「倒れた茎のところからそっと起こして。折れてないやつは、また復活する可能性あるから」
「あ、はい」
彼の静かな声に促され、私は指示された通り、倒れた茎の根元にそっと手を添えた。
ゆっくりと起こし、茎を確認する。茎が折れてしまった花と、折れていない花を選別する。
「これは……もうダメだな」
佐伯君の指先が、完全に折れて潰れた茎に触れる。そこには、一番大きくて綺麗な蕾がついていた。
懸命に、まだ生きている残りの花を助ける。
「これは……?」
「それは平気。こっちにある土をもう少し被せてやって」
「こっちは?」
「それも平気。根がついてるから、植え直してやって」
二人の間に必要以上の会話はない。
ただ黙々と、土を払い、茎を立たせる作業を続けた。
選別と植え直しがひと段落すると、佐伯君は脇に置いてあった大きなジョーロを持ち上げ、ゆっくりと水を撒いた。
水滴が朝日を浴びてキラキラと光る。
「あとはこいつらの生命力にかけるしかないな」
立ち上がりながら、ポンポンと手についた泥を払う佐伯君に声をかける。
「あの、ありがとうございました。詳しいんですね、佐伯君」
「俺、園芸係だから」
「……え?」
「この花壇、世話してるの俺」
「え! 佐伯君バスケ部じゃ?」
「部活と係は別じゃん」
「あ……」
言われてみればそうだ。
私だって写真部だけど、クラスの係としては図書係を請け負っている。
だけど、運動部で華やかな佐伯君が園芸係をしているだなんて、少しも想像できなかった。
「どうして園芸?」
「……誰もやる奴いなかったから」
ボソリと呟くような声。
学校の人気者で何でも完璧にこなす彼が、誰もやりたがらない地味な係を引き受けているなんて、あまりにも意外だ。
「ごめんなさい。花壇、荒らしてしまって」
私は泥のついた手を強く握り締め、彼に向かって頭を下げた。
「……有栖川がやったの?」
頭の上から降ってきた問いかけに、体が跳ねる。
「……っ」
喉が固まって、声が出ない。
「私じゃない」と言えばいい。
でも、私が案内したのだから、私がやったのと同じなのかもしれない。顔を上げたものの言葉が出ずにぎゅっと口を結ぶ私を、佐伯君は静かに見つめる。
やがて彼は何も言わず、クルリと背を向けて教室の方へと歩き去っていった。
*
教室に行くが、芹香たちは何も言わなかった。花壇のことなど最初から頭にない様子で、朝から新作のコスメの話で盛り上がっている。
胸の奥に重いモヤモヤを抱えたまま、授業の時間が過ぎていった。ノートの端に意味のない線を何度も引く。
放課後。
ショートホームルームが終わり、多くのクラスメイトが出て行く。芹香たちと自分以外がいなくなったタイミングを見計らい、私は思い切って立ち上がった。
「あ、あの芹香ちゃん……昨日インスタ見たんだけど」
「ああ。いいねいっぱいついたよ、ありがとね」
芹香がカバンのキーホルダーをいじりながら軽やかに答える。
「あ、うん。あの、そうじゃなくて」
指先が震えるのを隠すように、制服のスカートを強く掴んだ。
勇気を出すんだ。
ダメなことは、ダメなんだから。
「花壇、入っちゃダメだって……」
私の声が教室の隅に響き、芹香たちの手が止まった。
一瞬で教室がシンと静まる。
「入ってないよ」
芹香がくすりと笑った。
「でも、写真」
「腕を伸ばしただけ。なに、うちらが花壇に入ったと思ったの?」
「でも、今朝踏み荒らされてて……」
「えーうちらじゃないよ。ね芹香ちゃん?」
希美がクスクスと笑いながら肩をすくめる。
芹香は立ち上がり、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。
「えっと、足元は映ってないよね。どうして有栖ちゃんは私たちだと思ったの?」
まっすぐに見つめ返され、言葉が喉に詰まる。
答えられない。
確かに、足元が写っている写真はない。彼女たちが踏んだという決定的な証拠は、どこにもないのだ。
「そ、そうだよね、ごめん勘違いしちゃって……」
私は必死で頬を持ち上げ、へらりと笑ってみせた。
「じゃあ、誤解は解けたってことで。帰ろ」
芹香は興味を失ったように背を向けると、希美を連れて歩き出す。教卓をガタガタと押し除け、教室を出て行った。
廊下を遠ざかっていく足音が、やがて完全に消える。
静まり返った教室の中。夕陽が差し込む窓際で、私はたった一人佇んでいた。
長い、細い影がひとつ、教室に伸びる。
「バカ……私……」
波風を立てるのが怖くて、結局最後は笑って済ませてしまった自分が、たまらなく情けない。
溢れそうになるものを耐えるように、ギュッと拳を握りしめた。
カタン。
静寂を破って、教室の後ろから小さな音が響いた。
「誰?!」
見られたかもしれない。
心臓が跳ね上がり、急いで教室の後ろの扉へ駆け寄った。
しかし、ガラリと扉を開けて廊下を見渡しても、そこには誰もいなかった。オレンジ色に染まる長い廊下が、ただ静かに伸びているだけだ。
「……風?」
不気味なほど静かな空間で、私は自分の荒い呼吸の音だけを聞いていた。
