さよなら、スタジオ有栖ちゃん ー仮面の優等生と秘密の練習会ー



「あの……何でしょう?」
「ごめんね、急に呼び出して」

 尋ねてきたのは、写真部の長谷部先輩だった。

「いや、いいんですけど。用事って……?」

 昼休み。
 長谷部先輩に促されるまま階段を上り、屋上へ来た。秋晴れの空は高く、通り抜ける風が気持ちの良い午後だ。

「最近はうちの部室に来てないのかな?」
「……そうですね。すみませんでした、前回は」

 勝手に部室に入り込んだ時のことが頭をよぎる。
 あの時は怒られはしなかったけれど、今更その説教だろうか。

「いや、いいんだよ。写真に興味を持ってもらえて嬉しかった」

 穏やかに笑う姿は、どこからどう見てもいい人だ。
 この人も特進クラス。順位までは知らないけれど、うちの特進にいるのだから、それなりにいい学校へ行くのだろう。
 大人っぽくて、頭が良くて、性格もいいし笑顔はうさん臭くない……彼は本物の優等生だ。

「ちょっと相談があって。有栖川さんのこと」
「……あの、有栖川が何か?」

 胸の奥が一気にざわめく。
 顔を合わせない一週間ほどのうちに、何かあったのだろうか。
 週末に二人で一緒に出かけると言っていた。その日に二人の間に何かがあったとしたら……?
 すぐには答えない先輩の様子に、胸の中がぞわりと波立つ。

「……一緒に出かけるって聞きました」
「うん。先週末に出かけたよ。公園に行って、モノレールに乗ってお茶して、楽しかった」

 照れもせず言い切るその素直な話ぶりが逆に大人っぽくて、猛烈に腹がたつ。
 好きな子を前にガキみたいな拗ね方をする俺とは全然違うのだと、見せつけられている気がした。
 手すりにもたれかかり、長谷部先輩は言葉を続ける。

「でもさ、ちょっと元気がないんだよね、彼女。だから佐伯君は何か心当たりがあるかなと思って」

 どこかスカした顔で言われて、イラつく。
 これは、すべてを知っている奴の顔だ。

「……先輩に、関係ありますか?」
「うん、あるね」
「ないですよ。俺らの問題なんで」

 即座に返事があったので、こちらもすかさず言葉を撃ち返す。
 ちがう。
 本当は俺らの問題なんかじゃない。俺自身の問題だ。
 有栖川は俺の勝手な嫉妬と弱さに振り回されているだけの被害者でしかない。
 でも、そんな本当のことは言えない。
 こんな態度をとる資格がないとわかっていても、俺は長谷部先輩を鋭い視線で睨みつけた。
 しばらく無言で対峙した後、長谷部先輩はくすくす笑い出す。

「……?」
「いや、ごめん。まあいいや。……これあげるよ」

 先輩はブレザーのポケットから厚みのある封筒を取り出した。

「一枚だけ規格が違うのがあるけど、それは少し前に学校で撮ったもの。あとは北公園での写真だ」
「え……と?」

 意味がわからず、どう反応していいのか手が動かない。

「僕、写真が上手いんだ。それを見たら、被写体の気持ちが手に取るようにわかると思うよ」
「え、あの……?」
「好きな子にはさ、笑っててもらいたいんだ」

 すーっと、風がぬける。
 どこからか飛んできた落ち葉がカサカサと、足元で渦を巻くように回転して、また飛んで行った。

「じゃあね」

 引き止めようか、話を終わりにしようか迷って、中途半端に手を差し出した格好のまま固まってしまう。
 俺の返事も待とうとせず、先輩はさっさと屋上のドアへと消えて行った。

「何だ、あれ?」

 好きな子。そう言った。
 有栖川のことだ。
 北公園での撮影会で、有栖川に告白でもしたのだろうか? いやしかし、それなら彼が俺に会いに来る理由なんかないはずだ。
 だって長谷部先輩が告白したら、きっと有栖川は......。
 
 『佐伯君は何か心当たりがあるかなと思って』

 自分の全てを見透かしたような、わかりきった顔。

「……むかつく」

 胸の底で収まりきらない憤りを燻らせつつ、手の中に残された封筒を見つめる。
 パリパリと糊付けされた部分を開け、指先を滑らせて中の写真に触れた。

 ゴクリ。

 静かな屋上に、自分の生唾を飲み込む音が小さく響く。



*



「起立、気をつけ、礼。さようなら」
「はい、さようなら。気をつけて帰れよ」

 日直の号令と先生の挨拶。これで一日が終わった。
 周りが一斉にざわざわと騒がしくなる中、私はカバンに教科書を詰め込み、黙々と帰り支度をする。
 本当は北公園へ行った時の写真を部室で現像しなければならないのだけれど、今はどうしてもそんな気が起きない。
 一刻も早く、家へ帰りたかった。

「……いい気になってるからよ」

 席を立とうとした瞬間、後ろからこそりと小さな声が聞こえた。芹香だ。

「ちょっと優しくしてもらったから、勘違いしたってこと?」
「じゃない? だって全然話してないのよ。無視されてるみたい」

 クスクスとせせら笑う希美の声も重なる。
 私の話だ。
 私と、佐伯君の話だとすぐに気づいた。
 が、気にするだけ無駄だ。ここで顔を背けたり落ち込んだりすれば、彼女たちを喜ばせるだけだとわかっている。カバンの取っ手を強く握り締め、教室の出口に向かって歩き始めた。

「……自分が釣り合う相手だとでも思ったのかしらね」

 背中に突き刺さる鋭い声を、振り切るように前へ進む。
 頭の中で、家の台所にある冷蔵庫を想像した。
 製氷機の中に水を入れておくと、ガラガラと音を立てて冷たい氷ができあがり、下に落ちてくる。

 ガラン、ガラン……

 硬い音を耳の奥に思い浮かべながら、私は必死で、自分の心を分厚い氷で押し包むように凍りつかせていった。