さよなら、スタジオ有栖ちゃん ー仮面の優等生と秘密の練習会ー



 今日こそ。
 今日こそは上手に喋ろう。
 昨日みたいな暗い空気にならないように、笑顔で楽しく話そう。

 そう心に誓って花壇の前に立つものの、緊張で胸が圧迫され、声が変にうわずってしまう。
 そういう時は、細く長く息を吐き出すと良いのだと、昨日、麻里奈ちゃんが教えてくれた。
 部活の試合前に緊張した時によくやる、心を落ち着かせるための方法だと言っていた。
 麻里奈ちゃんは私の様子がおかしいことにすぐに気づいて、色々と優しい言葉で励ましてくれたのだった。
 詳しい事情までは話せないのに、寄り添ってくれる彼女の存在が本当にありがたい。

 今朝、正門を通りながら『佐伯君が来ていますように』と祈るような心地で向かうと、花壇の横に彼の姿が見えた。
 避けられたわけじゃない。
 ただそれが分かるだけで、胸がぎゅっと締め付けられて泣きたいくらいにほっとした。

「昨日ね。麻里奈ちゃんと一眼レフの撮りっこしたの。すごいんだよ、麻里奈ちゃん。センスがいいって言うのかな、少し教えたらすぐにいい感じに撮って」

 沈黙が怖くて、ペラペラと浅い言葉が勝手に口を滑り出していく。

「あ、麻里奈ちゃんのはデジタルだからその場で見れるの。で、途中から私のフィルムカメラと交換して何枚か撮ったんだ。どっちが撮ったのも現像してみようって」

 楽しかった。
 昨日の放課後のレクチャー会は、本当に楽しかったのだ。
 佐伯君以外の人とあんなに大声で笑い合いながら同じ時間を過ごしたのは、小学生の時以来かもしれない。

「でね、来週もその先も、しばらくは水曜日をカメラの日にしようって決めたの。まずは学校で撮って、来月くらいからは外で撮影会をしようか、なんて盛り上がってね」
「……うん」

 佐伯君は短く、淡々と決まりきった返事しか口にしない。
 こんなのおかしい。
 分かっている。
 私に対する態度も、二人の空気も明らかに歪んでいる。
 それなのに私は怖くて踏み込めず、何も言えないし、佐伯君も何も言ってくれない。

「……あ、そう言えば長谷部先輩とも話したんだ。日曜日に北公園へ行こうってやつ。なんかね。小さなモノレールもあるんだって。せっかくだから乗ってみようって。私、初めてだから楽しみだな、モノレール」

 その瞬間、佐伯君の纏う空気がガラリと変わった。
 彼の身体がぴくりと小さく揺れ、固く結ばれた視線がじっとこちらを射すように向けられる。

「あ……佐伯君は乗ったことある、モノレール?」

 彼は笑うことも、いつものように穏やかに微笑むこともせず、怒っているようでもあり、困り果てているようでもあり、今にも泣き出しそうな悲しい顔をして私を見つめていた。

「あのさ、やめようか」
「……え?」
「練習会。もうやめよう」

 練習会。
 二人で朝早くに集まって続けてきた、無理をしない練習会のことだ。

「……え、どうして」
「いや、なんか、練習の成果出たじゃん。有栖川は無理をしない練習が上手くいて、仲良いふりをしていた西条たちと一緒に居ないって選択をできたし、別の友達もできた。もう、練習する必要なくない?」

 佐伯君は唇の両端を引き上げ、ここ数日見せることのなかった笑みを浮かべながら言った。

「頑張ったよ、有栖川は。だからもうこれ以上、俺と一緒にいる必要ないよ」

 言葉の意味が、うまく頭に入ってこない。
 ただ、今まで聞いたことがないくらい冷たく不自然な声で佐伯君が喋っている、ということだけが嫌に鮮明に理解できた。

「私……まだ、練習……」
「必要ないよ。俺が保証する。有栖川は頑張った」

 どこまでも整った、優等生の佐伯君の仮面のような笑顔が、目の前にある。
 体育祭の前。まだお互いの距離が遠かった、あの頃の二人に戻ってしまったみたいだ。

「無事に気の合う友達ができた。写真部の活動も順調で、週末は先輩とデート。最高じゃん」

 ガンっと、見えないハンマーで頭を力任せに殴られた気がした。
 スーッと全身の血の気が引いていき、指先が凍りついたように冷たくなっていく。

「ちが、う。デートじゃ……」
「無理すんなって。わかるよ、俺。長谷部先輩の話をする時の有栖川、すごく楽しそうだもん」

 ちがう。ちがう。
 そんなんじゃないと叫びたいのに、喉が固まって声が出てこない。

「良かったな。うまくいくよう、祈ってるよ」

 私が楽しそうに見えたのなら、それは長谷部先輩の話だからじゃない。佐伯君と話していたからだ。
 佐伯君ともっと言葉を交わしたいから、どんな話題だって愛おしくて楽しかったのだ。
 長谷部先輩のことは写真部の先輩として尊敬しているけれど、そんな特別な好きとは全く違う。
 だって、私が本当に大好きなのは……。

「じゃあ、今日でおしまい。俺も有栖川を見習って頑張るよ。今日までありがとうな」

 そう言うと、佐伯君はカバンを握り直し、一度も振り返ることなく校舎に向かって走っていく。

 遠くなる背中に手を伸ばすことも、声をかけて引き止めることもできず、私はそのまま、冷たい朝の空気の中に立ち尽くした。