「良い子ね、有栖川さん」
有栖川を駅まで送っていった後、風呂から上がって台所で冷たい水を飲んでいると、リビングから出てきた母がそう言った。
「だろ」
別に俺が威張れるようなことじゃないのに、誇らしい気持ちになる。
「なんか、安心したわ」
「何が?」
心配されるようなことなどあっただろうか。
自分の中で思い当たる節を探してみるものの、何も出てこない。
「颯真が楽しそうで、安心した」
「……いつも楽しいよ」
嘘じゃない。
ただ、学校で周囲の期待に合わせている時、本当の自分として笑えていないなと思う瞬間はあるけれど、毎日を楽しく過ごしている方だとは思っている。
「そうね。……またいつでも来てって、伝えておいて」
「うん……」
自分の部屋に戻り、ベッドの上に横になってスマホを開く。
有栖川からのメッセージが届いていた。
『今日はごちそうさまでした。お母さんにもお礼をお伝えください』
画面の文字を見つめながらクスリと笑って、返信を打つ。
「……かわいかったな、今日の格好」
静かな部屋で、ぽろりと漏れた。
「いや、服だけじゃなくて。髪も、顔も全部」
部屋には誰もいないというのに、急に恥ずかしさが込み上げてきて、焦って声を出して付け加える。
「……そうじゃなくて、いつもかわいいけど、今日は特別っていうか!」
たった一人で、俺は何を口に出しているのだろう。
アホか、俺は。
手のひらで顔を覆い、小さく苦笑した。
「……楽しかったな、今日」
何の偽りもない、素直な感想だ。
そして、胸の奥底からもう一つの感情が、誤魔化しきれないほどの巨大な波となって押し寄せてくる。
「……あー……むり」
好きだ。
今日、はっきりと自覚してしまった。
俺は、有栖川ひなたが好きなんだ。
嬉しそうに咲くような笑顔も、西条たちに対して強い眼差しで怒った顔も、照れて俯く顔も、焦って声を裏返らせる顔も、花が潰れてしまって子供みたいにわんわん泣いた顔も。
そのすべてが愛おしい。
どの瞬間の有栖川も、どうしようもなく可愛いと思ってしまう。
これから先、どんな有栖川の顔も、ずっと一番近くで見続けていたいと思ってしまう。
「……すき」
口に出して呟くと、頭の中に浮かんだ有栖川が柔らかく微笑んだ。
「好き」
今度は泣き出しそうな顔をして、それから太陽みたいに弾けるような笑顔を見せる。
「……どうしよう」
両手で強く顔面を覆い隠した。
鏡で見なくても、自分の顔が耳の先までどれほど真っ赤に染まっているかが手に取るようにわかる。
明日から、一体どんな顔をして彼女に会えばいいというのか。
寝返りを打ち、ベッドから立ち上がると、深く屈伸をする。どうにか荒い鼓動を落ち着かせようと試みた。
はあ。
うっすらと汗をかくまで動いて、重い息を吐き出す。
「『無理をしない練習』か」
有栖川は俺との練習を経て、自分自身の殻を破り、大きく変化して大成功を収めた。
けれど、俺はどうだろう。
自分自身は何も変われていないじゃないか。
有栖川の前でだけは確かに、素の自分らしく話せていると思う。
けれど先生やクラスメイトの前では、結局いつもの、頼りになる爽やか優等生のままだ。
俺の顔に張り付けた笑顔の仮面は、案外、有栖川が被っていた仮面よりもずっと分厚くて、肌に張り付いて剥がれなくなっているのかもしれない。
どうしたら、俺は変われるのだろうか。
「もし、このまま変われなかったら……」
有栖川がどんどん先へ進んでいってしまう中で、俺だけがこの仮面を付けたまま置き去りにされるのではないか。
有栖川は俺と話すより、新しくできた友達や、頼れる写真部の先輩と一緒に居る方がずっと楽しいと思い始めるのではないだろうか。
突然湧き上がってきた得体の知れない不安に襲われ、一筋の冷や汗が背中をスーッと伝っていった。
