さよなら、スタジオ有栖ちゃん ー仮面の優等生と秘密の練習会ー


「あのさ、今度友達が遊びにくるんだけど」

 何度か頭の中でのリハーサルを繰り返し、リビングでテレビを見ていた母親に向かって声をかけた。

「あらそう。いつ?」

 画面に向いていた視線を動かしもせず、いつもと変わらない口調で母が尋ねてくる。

「校外学習の振休の月曜。何時くらいに来てもらっていいかんじ?」

 母は専業主婦だ。
 平日であっても基本的に家にいる。

「いつでも良いわよ。あ、じゃあお昼作ろうか?」
「うん、じゃあよろしく」
「何人?」
「……一人」

 特にそれ以上追及されることもなく、その日はそのまま会話が終わった。



*



「え、女の子?!」
「そうだよ」

 当日の朝になり『そういえば今日くる子の名前は?』と聞かれたので、有栖川ひなたと答えた途端、母の声のトーンが跳ね上がった。

「やだやだやだ、ちゃんと言ってよそう言うことは! え、どうしよう、男子高校生が来ると思ったから鶏肉三キロ下味つけちゃったわ……」
「いいじゃん。俺食べるよ」
「え、もーやだ。他にストックがあるのは……豚肉? おかずが全部茶色いのしかない。どうしよう」

 頭を抱えて右往左往する母を見ながら、何をそんなに焦っているのか分からなかった。男だろうが女だろうが、肉料理はみんな好きなはずだ。

「べつに平気だよ、何だって」

 有栖川は出された食べ物に文句を言うような子じゃない。

「そう言うことじゃないのよ、こんなお肉祭りで……やだぁ」

 母はひとしきり台所で大騒ぎした後、冷蔵庫から飲み物を取り出す俺の横へ足早に近づき、こっそり声をひそめてきた。

「ねえ、彼女?」
「ぶっふ!」

 飲みかけたお茶が意図しないところへ入り、激しくむせた。
 喉の奥がヒリつき、ゲホゲホと激しい咳が漏れ出る。

「何言ってんだよ、友達だって言ったじゃん!」

 顔を真っ赤にして声を張り上げた。

「ふーん」
「本当だからな? 本人が来ても余計なこと言わないでくれよ、気まずくなるだけから」
「へーぇ?」

 胸の奥がざわざわと落ち着かない。
 分かっているのだか分かっていないのだか、判断のつかない曖昧な返事が返ってくる。

「とにかく違うから!」

 念を押すように叫んだものの、耳の裏側まで熱くなっているのが自分でもよく分かった。



*



 駅の改札前で待つ間も、やたらとそわそわする。だけど現れた有栖川の姿を目にした瞬間、今度は息が止まりそうになった。
 初めて見る私服の有栖川は、すごく可愛い。
 いつも学校で笑ったり泣いたりする顔を見るたびに可愛いなとは思っていたけれど、今日目の前にいる彼女は全然違った。

 制服とは違う、風にふわりとなびく柔らかい素材のスカート。
 少しヒールのあるショートブーツ。
 学校ではいつも結ばれている髪は肩に下ろされていて、触れたらそのまま指がすべり落ちてしまいそうなほどサラサラだ。

 『佐伯くんはイメージ通りだよ』

 二人で並んで歩きながら、有栖川が俺の服装についてコメントを口にする。
 ジーパンにTシャツ、パーカー。俺はふつう過ぎる。
 イメージ通りというのは、どういうことだろう?
 良い印象を持たれたのか、それともダサいと思われたのか分からなくなって、背中に嫌な汗が滲む。

 『有栖川は……イメージとちょっと違った』

 心の中で自分にツッコミを入れる。
 いや、素直に褒めろよ、俺。
 可愛いって、心の中で思った通りにそのまま言えば良かったのに、どうしても照れくささが勝って言葉が出ず、情けなく誤魔化してしまう。
 慌てて服や髪を褒め、そのまま勢いで「化粧してるし」と口走ると、彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。

 『お化粧してないよ? 色付きの薬用リップだけ……』

 まじまじと間近で有栖川の顔を覗き込む。

『え、まじで? そんなにかわいいのに?』
『うっ……え?』

 自分の口から思わず本音がそのまま漏れ出ていた。
 だって、目の前にある唇がほんのり桃色に色づいていて、あまりにも柔らかそうだったから。
 それに色付きリップと普通の化粧とで何がどう違うのか、俺にはよく分からない。

 家に到着してからも、予想通り有栖川は丁寧な仕草で挨拶をしてくれ、母とも楽しそうに言葉を交わしてくれた。
 普段、俺と二人でいる時はもっぱらテレビの音しか聞こえない我が家で、母が嬉しそうに声を弾ませているのもどこか新鮮だった。

 自分の家で、親と楽しそうに笑い合う有栖川。
 俺の部屋のローテーブルで、嬉しそうにアルバムのページをめくる有栖川。
 校外学習で新しい友達ができた話をする時も、おやつのケーキを食べる時も、どの瞬間を切り取っても有栖川はずっと満開の笑顔を浮かべていて、その眩しさに直視できなくなるほどだった。

 初めて会った頃の彼女は、いつも緊張していて敬語だった。
 自分を押し殺して遠慮ばかりで、表情もどこか影があって、心配で仕方がなかった。
 でも、有栖川は変わった。
 毎朝、花壇で話をして、少しずつ無理をするのをやめて、前を向くための小さな勇気を出す瞬間を、俺は一番近くで見続けてきた。

 西条たちとの一件は、彼女にとって本当に大きな出来事だったはずだ。辛くて、苦しかったと思う。
 それでも今、有栖川はこうして笑っている。俺のすぐ隣で。
 無理をしなくても大丈夫になってきたのだ。
 コンテスト用の写真を撮る話も、新しい友達ができた話も。
 嬉しそうに報告してくれる彼女の姿を見ていると、胸の奥が温かくなって、俺まで飛び上がりたくなる。

 『佐伯君』

 弾んだ声で俺の名前を呼ぶ声を聞くたびに、心臓がドクンとふつうじゃない跳ね方をして、顔全体にカッと熱が集まっていくのが分かった。



*