「ごめん、本当に。母さんがうるさくて」
食事を終えて佐伯君のお部屋へ移動すると、彼は大きなため息をつきながら言った。
「全然だよ、色々お話しできて嬉しい。お上品で素敵なお母さんだね」
「……さんきゅ」
少し照れたように佐伯君が言う。
「これ、いっぱいあるけど」
そう言いながら彼がローテーブルの上に出してくれたアルバムを、一緒にめくった。
「うっわぁぁぁ」
自分でも聞いたことがないような声が漏れてしまう。
「綺麗、かわいい、え……あ、この子が佐伯君?」
ちょっとマッシュルームカットっぽい、可愛らしい男の子がカメラに向かってピースサインをしていた。
お母さんは今だって素敵だけれど、写真の中ではまるで女優さんのように華やかだ。
「そう。まあ、俺は置いておいて、建物や景色を見てよ」
「うん、すごいこれ……わぁぁぁ」
SNSやネットの記事でしか見たことがなかった鮮やかな外国の風景が、アルバムの中にびっしりと詰まっていた。
「ははっ、どこから声出してるんだよ」
佐伯君が可笑しそうに笑う。
「だってだって、全部可愛いんだもん。ねえ、これ教会?」
「サン・ミッシェル大聖堂。これが大天使ミカエルの像」
「うわぁ……美術館みたい」
中央に大きな祭壇があり、後方には木製の重厚な席が並んでいる。
つくりは間違いなく信仰の場なのに、飾られた壁画や彫刻の装飾は美術館のように精巧で美しかった。
「宗教画や、美術品があるのが普通だからね。……フランダースの犬ってアニメ、見たことある?」
「うん」
「こっちは、あのアニメの場所だよ。アントワープのノートルダム大聖堂」
「え?!」
ページに顔を近づけて、まじまじと見つめる。
広場の写真には、石畳のシーツをかぶって寄り添うように眠るパトラッシュとネロの石像が写っていた。
「うわぁぁぁ」
「ははは、さっきから悲鳴しか出てない」
「だって……」
声が出てしまうのも仕方がない。
アルバムをめくるたび、息をのむような色彩の景色や、重厚で威厳のある建物が広がり、まるで映画の世界に入り込んだかのような光景が連続するのだから。
そしてその絵になる風景の片隅に、幼い頃の佐伯君が立っている。
「まあ、先にこっち見ようぜ。ほら、フラワーカーペット」
「うっ……わぁ……」
今度は声にすらならず、ただ漏れた息が唇を震わせた。
石造りの大きな広場一面に、隙間なく敷き詰められた圧倒的な花の絨毯。
上からの角度で見るとたしかに一枚の絵柄を織りなすカーペットのようであり、間近の写真ではそのひとつひとつが可憐な生花であることがはっきりと分かった。
「す、ごい」
「だろ。圧巻だよなぁ」
佐伯君も懐かしむように目を細めながら、写真を見つめる。
「普段から、道端で花を売っていて、町中花の香りがするんだ。でもこの日は特別。広場いっぱいにいろんな花の香りが満ちて、でも、それが不快じゃない。自然の、幸せな香りだ」
静かにページをめくっていく。
彼が住んでいた七年間で四回開催されたというお祭りの記録。
それから、現地で知り合った人から譲ってもらったと言う昔の写真も大切そうに挟まれていた。
「これを見たから、花が好きになった。俺さ、将来は弁護士になりたいんだ」
「弁護士さん! すごい……けどどうして?」
「親父も弁護士でさ。ヨーロッパで日本企業や政府関連の仕事を請け負う姿を見て、かっこいいなと思ったんだ。でも、やっぱり花も好きなんだ。だから、弁護士にはなるけど、花に関連する仕事も担当したいと思ってる」
弁護士。ヨーロッパ。企業、政府。
佐伯君が話す言葉の一つ一つは硬くて遠い世界のようにも思えるのに、彼の熱っぽい口調が、それらを等身大の私たちに近付けているような気がした。
「弁護士さんでお花関係か……どんなお仕事があるんだろう?」
「例えば国際園芸博覧会とかのイベント。そういうエキスポ関係の法務を担当する仕事だったり、種苗法っていうのがあって、種を守りながら滞りなく輸出入できるようにサポートする仕事もある」
きっと、ずっと考えて、たくさん調べたのだろう。
私が全然知らない世界の話をする佐伯君の目はきらきらと輝いて、眩しくて、そしてしっかりとした決意を漲らせていた。
「好きな業務だけをできるわけじゃないって、わかってる。でも、どんな形でも、花に関わる仕事をしたいんだ。絶対そうしたい」
「うん」
こんなにも真っ直ぐに、力を込めて『絶対』と言い切る佐伯君を見るのは初めてだった。
いつも落ち着いていて、どこか余裕があって、自分の可能性を信じているように見える人。その彼が、まっすぐに、熱を込めて自分の未来の話をしてくれている。
その大切な瞬間に立ち会えている自分が、誇らしかった。
「きっとできるよ、佐伯君なら」
「……さんきゅ」
少し恥ずかしそうな顔をして、彼は花の写真に目を落とした。
それから何冊もアルバムをめくる。
途中、私は校外学習の日に相澤麻里奈ちゃんという新しい友達ができたことを報告した。
佐伯君が教えてくれた『無理をしない練習』がちゃんと実を結んだことを伝えると、彼は自分のことのように喜んでくれた。
温かい部屋で彼と言葉を交わしながら、私の頭には昨日見たお城の石垣の風景が浮かんでいた。
もしかしたら私も、大きな石なのかもしれない。
芹香たちの足元を崩さないように隙間を埋めるためだけの小さな石じゃなくて、佐伯君や麻里奈ちゃんという、こっちの石垣を一緒に支える、大きな石の一つなのかもしれない。
そうだったらいい。
もしもそうだったなら、私はすごく、幸せだ。
*
「今日はありがとうございました。お昼ご飯、すごく美味しかったです」
楽しく喋っているうちにいつの間にか外は黄昏色に染まり、すっかり薄暗くなっていた。もう帰らなければいけない時間だ。
玄関まで見送りに来てくれた佐伯君のお母さんに、私は深々と頭を下げた。
「あのね有栖川さん、私お料理好きなの。本当はキッシュとかケークサレとかグラタンとか、女の子が好きそうなお料理も作れるのよ」
「え、何。急に何の話?」
横から佐伯君が不思議そうな声をあげる。
「素敵ですね。私、グラタン好きです」
そう答えると、お母さんはパッと顔を輝かせて嬉しそうに微笑んだ。
「本当?! じゃあ次遊びに来てくれる時はグラタンにするわ」
「え?」
「だから、また遊びにいらしてね」
「……写真見切れなかったしな。またくれば?」
「はい……っ」
返事をしながら、胸の奥がドクンと大きく波打つのを感じた。
「もう颯真ったら。また来てね、でしょ」
「小学生じゃないんだよ、もう。じゃあ、駅まで送ってくるから」
「あの、本当にありがとうございました」
最後にもう一度お辞儀をして、温かい玄関を後にした。
冷たくなってきた夕暮れの空気を吸い込みながら、二人で駅までの道を歩く。
『次来る時』
そんな日が、本当にやって来るのだろうか。
またこうして彼のお家にやってきて、同じ時間を過ごしても良いのだろうか。
佐伯君と並んで歩く帰り道。
まだ見ぬその未来の光景を思い描くだけで、胸の奥が痛いくらいにいっぱいになった。
