「わ、綺麗なリンドウ」
カシャリ。
小さなシャッター音が澄んだ空気の中に響く。
小路沿いに咲く可憐な花も、名前のわからない木々の葉も、枝の先に揺れる小さな実や、気まぐれに舞い降りた蝶も、すべてが可愛らしく生命力にあふれている。
夢中になってレンズの中に収めた。
「こっちのお花もきれい」
視線を下げ、再びレンズを向ける。
どこまで寄り、どこまで引きで空間を切り取るか。メインとなる花をどこに配置し、降り注ぐ陽の光をどう捉えるか。
構図を探しながら一瞬迷った時、ふっと優しい風が吹き抜けて花びらを揺らした。
カシャ。
「うん、今のはいいかも」
これまでも見てきたはずの花が、まるで見たこともない新鮮なもののように思えてくる。
ポケットからスマホを取り出し、カシャっと一枚。
「あとで佐伯君に聞いてみようっと」
この花の名前を、彼ならきっと知っている。
お昼時になり、私は周囲の視線が届きにくそうな、少し人気の少ない木陰のベンチを選んだ。ここなら同じ学校の生徒も通りかからないだろう。
鞄からお弁当箱を取り出して蓋を開ける。
「わぁおいしそう」
お母さんが気合を入れてくれた日はたいていハンバーグ弁当だ。
ただ、今日は校外での食事ということもあって、食べやすいように一口サイズのミニハンバーグになっている。
プチトマトやブロッコリー、味付きのうずらのたまご。色とりどりのおかずが可愛いピンチョスに刺さっていた。
これも記念に一枚、パチリとカメラで切り取る。
「いただきます」
手を合わせたその瞬間、背後から不意に声がかかった。
「あの……」
驚いて振り返ると、一人の女の子が立っていた。
隣のクラスの生徒だ。体育の授業が二クラス合同で行われているから、顔と名前は覚えている。
「相澤さん?」
声をかけると、彼女の不安そうだった表情がパッと明るく華やいだ。
「うん、そう。有栖川さん、ひとり?」
キョロキョロと辺りを見渡しながら、彼女は尋ねてくる。
私がいつも芹香や希美と一緒にいたから、二人を探しているのだろう。
「うん、ひとり。それより、どうしたの?」
相澤さんはなぜ一人でいるのだろうか。
「私も一人なの。実はね、グループを組んだクラスの友達が二人とも風邪をひいちゃって」
「え?」
クラスで仲が良い水沢さんと山田さん。
その二人が揃って当日欠席してしまったらしい。
「インフルエンザ。まだ秋の始まりだけど、流行り始めてるんだって」
そういえば、いつだったかの学年集会でそんな注意喚起が出ていた気がした。
「初めは何となくクラスの子たちと見て回ってたんだけど、なんだか申し訳なくて一人で歩いていたんだ。もしよかったら、一緒にお昼、食べない?」
「うん……うん! ぜひ!」
相澤さんが話しかけてくれたことも、お弁当を一緒に食べようと言ってくれたことも、飛び上がるほど嬉しい。
胸の奥から一気に体温が上がっていくのが分かった。
ベンチを降りて、すぐ後ろに広がっていた芝生の上にレジャーシートを広げる。
「あ、でも……」
シートの端を押さえながら、はたと重要なことに気づいて手が止まった。
「相澤さんごめん、先に伝えておきたいんだけど、私いま芹香ちゃんたちと気まずい感じで……だから、大丈夫だと思うけど、もし面倒なことが嫌だったら……」
「あ、やっぱり? さっき日本庭園で変だなーと思ってたんだ」
さっきのギクシャクしたやり取りを見られていたらしい。
ぐっと言葉が喉に詰まる。声をかけてもらえたのは死ぬほど嬉しいけれど、私のせいで彼女に余計な気苦労や嫌な思いをさせたくはなかった。
「やっぱり……」
「平気だよ」
伏せかけた顔を上げると、相澤さんは屈託のない笑顔を浮かべていた。
「私、クラスも違うし、西条さんたちの眼中にも入ってないから平気。それに、有栖川さんと話してみたいと思ってたんだ」
「……え?」
お弁当を並べて腰を下ろし、私は彼女の言葉に耳を傾けた。
「有栖川さん写真部でしょ。時々一眼レフをもってるの知ってたんだけど」
「うん」
「私ね、この間従姉妹のお姉さんから一眼レフのカメラをもらったの。あ、従姉妹といっても、一回り以上上だからもう大人なんだけど」
そう言いながら、彼女はスマートフォンの画面を操作してカメラロールを見せてくれた。
画面の中には、使い込まれた味わいのある黒いカメラが映っている。
「使い方がわからなくて。でもかっこいいから撮ってみたくて……あ、ミーハーでごめん」
「ううん、全然だよ!」
相澤さんはどこか遠慮がちに尋ねてきた。
「もしよかったら、カメラの使い方教えてもらえるかな?」
「うん、もちろん! あ、もし良かったら、今からでも写真部に入る?」
途中入部はいつだって歓迎だ。
人数も決して多くはない弱小部活だが、その分、誰でも受け入れる間口の広さがある。
「うーん……でも部活が忙しくて」
「あ、バド部だよね」
「すごい、よく知ってたね」
相澤さんが意外そうな、けれど嬉しそうな声を上げた。
「体育でバドミントンの授業だった時、すごく上手かったから覚えてるよ」
「ああ、私たちペアだった日だ」
体育の先生は、出席番号が同じ生徒同士でペアを組ませるのが好きだ。
有栖川と相澤。
出席番号一番同士、よくペアを組まされる。
バドミントン部の活動がないのが水曜日。
その放課後に、部室でカメラの使い方について教える約束を交わした。
画面で見せてもらった限りではデジタル一眼レフだったので、現像は一旦飛ばしていい。撮り方に関しての基本から始めれば良いだろう。
「……喧嘩したの、西条さんたちと?」
お互いにお弁当を食べ進め、話がひと段落した頃、相澤さんがそっと切り出してきた。
「喧嘩……うん、喧嘩にもならなかったかな」
喧嘩というのは、対等な立場で互いに主張をぶつけ合うもののことだ。
花壇の一件をはじめ、彼女たちが私に対して行ったことは、最初から関係を修復する気すらない嫌がらせだったのだと思う。
見下されていた。
そんなこと、本当はずっと前から分かっていたのに……。
「もともと無理してたの。入学式で声をかけてもらえて、嬉しくて……それだけで一緒にいたけど、お互いに合わなかったんだと思う」
相澤さんは途中で口を挟むこともせず、静かに私の言葉を聴いてくれた。
「もう、無理をするのはやめようと思ったの。無理して一緒にいることで苦しくなるなら、教室で一人でいる方がいいかなって、心から思えたから。だから……」
まっすぐ相澤さんの目を見つめた。
「今日、話しかけてもらえて嬉しかった。ありがとう」
「……有栖川さんって『ひなた』って言うんだよね?」
不意に、相澤さんが名前のことを口にした。
入学当初、芹香が『有栖ちゃん』と呼び始めたせいで、学校では誰からもずっと『有栖ちゃん』と呼ばれていたのだ。
「うん、そうだよ」
「私、今日からひなたちゃんって呼んでもいい?」
相澤さんが、太陽をいっぱいに浴びた季節外れのひまわりみたいに、朗らかに笑った。
「……うん、も、もちろん!」
胸の奥から湧き上がる温かい嬉しさをかみ締めながら、私はもう一度口を開いた。
「相澤さんは、麻里奈ちゃんだよね? 私も、名前で呼んでもいい?」
「もちろん」
それから私たちは、時間が経つのも忘れて色んな話をした。
好きな教科や苦手な教科のこと、最近読んで面白かった漫画のこと。
麻里奈ちゃんと楽しく言葉を交わしながら、私の頭の片隅には、ずっと佐伯君の姿があった。
佐伯君のおかげだ。
あの時、佐伯君が『無理をしない練習をしない?』そう言ってくれたから、きっと今日という日がある。
