「い、いいいいよ、いいよ!」
私はブンブンと勢いよく首を横に振る。
「何で?」
「いや、大丈夫。自分でどうにか……」
「心配するなって。お母さんに心配かけたくないんだろ。俺が上手く説明するよ。じゃあ、行こう」
静止する私の声に聞く耳も持たず、スタスタと前を歩き始めた佐伯君。
その背中を見つめながら、私は情けない変な声を出していた。
「あ……へ?」
「初めて降りたな。この駅」
「……住宅街で、何もないからね」
宣言通り、佐伯君はうちの最寄駅の改札を抜けた。背の高い彼は隣に立つ私を見下ろし、軽く肩をすくめる。
「ほら、案内してくれよ」
「う、うん……」
観念して、私は足を踏み出す。
電車の中でも散々断ったのだ。けれど佐伯君はどこまでも強情だった。
『一度決めたらやり通したい』と以前、彼は言っていたけれど、ここまでの頑固さはもう、いじっぱりの一種なんじゃないかと思えてくる。
「歩いて十分くらい」
「おっけ」
コンビニすらない閑静な住宅街の道を、二人でひたすら歩いていく。
「……柴田先生、何て?」
帰る前、佐伯君が一人で職員室に報告に行っていたのを思い出し、尋ねてみた。
「もう一回、誰がやったのか聞かれたけど、答えなかった。そしたら『前と同じ犯人か』って聞かれた」
「あ……」
前と同じ。
数週間前、同じように花壇が踏みにじられていた時のことだ。
「前回は実際に踏み荒らす現場を見てないから分からないって、答えておいた。インスタでそれらしい写真は確認したけど、実際、見たわけじゃないしな」
佐伯君も、芹香の投稿した写真を見ていたのだ。
「そう、だよね」
「有栖川は、前回も見たの?」
首を横に振る。
私もインスタグラムに上がっていた写真を見て、その後に荒らされた花壇を見ただけだ。
「どちらにせよ、これ以上は許さないよ。柴田先生もそう言ってたし。もう一度やったら、報告しろって言われた」
「え、やだ、もう一度だなんて……」
手入れを重ねて助けたあの可愛い花たちが、また足元で踏み荒らされるかもしれない。
その光景を頭に描いただけで、胸が痛んで涙がこみ上げてきそうになる。
「ごめん。さっきたくさん泣いたから、ちょっと、すぐ泣きそうになっちゃう」
少しだけ潤んでしまった目尻を指先で拭いながら謝る。
佐伯君は、少し困ったように眉を下げて笑った。
「わかる。たくさん泣くと、そうなるよな」
私たちはもう一度歩き出す。
夕闇が迫る道で何でもない話をしながら佐伯君と歩いていると、こうして一緒に過ごす時間がたまらなく好きだなと思えた。
「ねえ、やっぱり大丈夫だから。私ちゃんと……」
うちの前にたどり着き、チャイムのボタンを押そうとする佐伯君の腕にしがみついて止める。
「往生際が悪いな、ここまで来たんだから」
呆れ顔で伸ばされる彼の手を、私は両手で必死に抑え込んだ。
玄関前でモタモタと押し問答をしていると、背後から不意に声が上がる。
「何してるの、ひなた?」
「お、お母さん?!」
玄関が開いたわけではない。外から帰ってきた母の姿があった。
エプロンを着けたまま、足元は玄関用のサンダルというごく軽装だ。
「なんで、え?」
「お醤油が切れちゃって、買いに行ってたの。えーっと、そちらは……」
母の不思議そうな視線が、私の隣に立つ佐伯君へと向けられる。私はハッとして、掴んだままだった彼の腕を離した。
佐伯君は慌てる様子もなく、すっと一歩前へ出た。
「初めまして。有栖川さんと同じ学年の、佐伯颯真といいます」
「はい、こんにちは。ひなたの母です。お友達?」
「あ、うん、えっと……」
突然の事態に頭が真っ白になってプチパニックを起こしている私に構うことなく、佐伯君はハキハキとした声で言葉を続ける。
「俺……ぼく、今日はご説明にあがりました」
「ご説明?」
状況がピンときていない母は、ただ単純に言葉を繰り返す。
「ぼく、園芸係なんです。有栖川さんは写真部で、花壇で写真を撮ってたのがきっかけで話すようになりました」
嘘は言っていない。
確かに間違ってはいない説明だ。
「で、その花壇が今日、犬か猫かわからないんですけど荒らされちゃって」
「あらぁ」
間の抜けた母の合いの手が入る。
「結構ひどい状態で、二人で見守ってた花が潰されちゃってて、で、有栖川さんが泣いてしまいまして」
「え、あら、あらあら」
母はそこで初めて、私の顔を正面からまじまじと見つめた。
「やだ、随分派手に泣いたわね」
薄暗くなってきた街灯の下では気づかなかったのだろう。
瞼の重い腫れと赤みにようやく思い至ったようだ。
「はい。それで花壇を直すのも手伝ってくれて。帰りが遅くなってしまったのでそのお詫びと。泣いた顔でご心配をおかけするかと思って、ご説明したかったんです」
母の口から、感嘆のため息が洩れた。
「まあ、随分とご丁寧に……ごめんなさいね、うちの子が泣き虫なばかりに」
フォローとも悪口とも言い切れない、絶妙に親らしい言葉だ。
私は隣で苦笑いするしかない。
「いえ。感受性が豊かで、優しい証拠だと思います。そう言うのが、有栖川さんの写真にも出てるし、良いところだと思います」
急に放たれた真っ直ぐな褒め言葉に跳ね上がるように驚き、私は隣に立つ佐伯君を見上げた。
そこにあったのは、いつもの隙のない優等生の顔だ。
どうして佐伯君はこんなに平然とした顔でいられるのだろう。
私だけが、顔が赤くなって耳も熱くなって心臓がバクバクして様子がおかしくなっている。
母は心底嬉しそうに目元を緩めた。
「そう言ってもらえて嬉しいわ。あらやだ、ごめんなさいね立ち話で。おやつでも食べていく?」
提げていたエコバッグをガサガサと鳴らしながら、鍵を取り出そうとする母に向かって、佐伯君は丁寧に辞退を申し出た。
「いえ、もう遅くてご迷惑ですから帰ります。失礼します」
ぺこりと頭を下げると、彼は来た道をそのまま戻り始めた。
そして少し進んだところで、振り返る。
「有栖川、またな!」
「うん、また!」
私は大きく手を振った。
帰り道は大丈夫だろうか。そんな心配を口にする隙もないほど、彼は風のように走り去り、あっという間に角の向こうへ消えていった。
「……彼氏?」
「なっ、違うよ、何言ってんの!」
自分の顔が真っ赤になっている自覚はある。
だから大声で否定してみせても、何の効果もないことはよく分かっていた。
「ふーん」
「友達だって佐伯君も言ったじゃん。……友達だからね?」
「へーぇ」
母は楽しそうに鍵を差し込み、家の中へ入っていく。
「違うってば!」
夕飯の支度中もお母さんはずっと楽しそうに笑っていて、食卓を囲んでいる時もクスクスと笑みを浮かべていた。
お母さんの笑顔を見ていたら、今日あんなに辛くて泣いたことなんてすっかりどこかへ飛んでいってしまっていたと、夜、自分の部屋でベッドに入る頃になってようやく気づいた。
日曜日。
朝起きると、机の上に置いたグラスの中では、昨日持ち帰った花が綺麗に咲いていた。
写真を撮っているとスマートフォンにメッセージが届く。
『おはよ! 目の調子はどう?』
『腫れてる(笑)今日が日曜日でよかった』
『間違いない』
『顧問の先生に怒られなかった?』
『柴田先生がちゃんと話してくれてたから大丈夫』
『試合どうだった?』
『よゆー。勝ったよ!』
『さすが! 見て。綺麗に咲いたの』
『おお、いいな! うちのも見て。二つはダメだったけど、一つは生き残ったよ』
『大きいね、すごく綺麗! 明日は晴れそう』
『だな。いつもの時間に集合で』
『OK。じゃあ、おやすみなさい』
『おやすみ』
朝から夜まで一日中、そんな何てことない話をした。
文字を何度も追いかけ、送り合った花の写真を見て、画面を閉じる。
充電コードに繋いで枕元まで引っ張ってきたスマホを、私はまるで大切なお守りのようにぎゅっと両手で握りしめた。
明日、学校へ行って、どんな顔をして芹香たちに会えば良いのかはまだ分からない。
でも、もう自分に嘘をつくのはやめようと思った。
「佐伯くん……」
静かな部屋でそっと目を閉じ、彼の名前を声に出してみる。
それだけで、明日へ向かう元気が湧いてくるような気がした。
