目が覚めたら、風邪をひいていればいい。
熱が出て、仕方なく学校を休まなければいけなくなっていたらいい。
そう切実に祈りながらベッドに入ったけれど、目を覚ますといつも通りの朝がやってきていた。
救いだったのは、夜遅くに佐伯君からメッセージが入っていたことだ。
『ごめん、試合に向けて朝練することになったら、明日の朝は中止でお願いします』
寝不足の目を指で擦りながら、スマートフォンを見つめ、大きく息をはく。
「良かった……」
鏡を見なくても、濃い隈ができているのだと分かっている。
こんな酷い顔、佐伯君に見られたくない。
それに、今朝顔を合わせたところで、どんな顔をしてどんな話をしたらいいのか、今の私にはさっぱり分からなかった。
心臓がバクバクと嫌な音を立てて波打っている。
教室の前。
扉を目の前にして立ち尽くしたまま、どうしても中に入る一歩が踏み出せずにいた。
休みたかった。でも、今日休んでしまったら、そのままずっと学校へ来られなくなってしまうような気がして、重い足を引きずってここまでやってきたのだ。
こっそりと深呼吸をひとつ。
冷たくなった指先で、教室の扉に手をかけた。
「おはよう」
いつものように、入り口で小さく挨拶を投げる。
「おはよ」
「はよー」
近くにいたクラスメイトたちが、パラパラと気のない声を返してくれる。
視線を向けると、奥の席に芹香と希美がいた。
鼓動がさらに跳ね上がる。固まってしまいそうな関節を必死に動かして二人に近寄り、声を絞り出した。
「お、おはよう」
芹香がゆっくりとこちらへ振り向いた。
そして、いつものようにニコリと笑った。
「おはよう」
良かった、無視されなかった。
ちゃんと返事をしてもらえた。安堵で胸を撫で下ろしながら、必死に会話を繋ごうと言葉を重ねる。
「あ、あのね、週末の……」
校外学習の班組みや準備について話そうとした。
でも――。
「でね、今度の撮影がすごくて……」
芹香は私の言葉を遮るように、そのまま希美の方を向いて話を続けてしまった。
「……」
出しかけた言葉を飲み込み、自分の席に着く。
挨拶の無視はされなかった。
でも、明らかに昨日までとは違う。
冷え切った透明な壁が私と二人の間に出来上がっているのを、肌で感じずにはいられなかった。
*
放課後。一人で裏庭へと向かう。
せっかく綺麗に晴れたけれど、今朝は佐伯君との練習会がなかった。一日に一度は花壇の様子を見ないと、どうにも心が落ち着かない。
いつもなら静まり返っているはずの裏庭の方から、不意に誰かの話し声が聞こえてきた。
佐伯君だろうか。
水やりにでも来たのか。
気になって、角からそっと覗き込む。
「もっと寄って」
「はい、チーズ」
カシャ。
スマホのシャッター音が響く。
「いいかんじ」
「もっとこう、上からさ……」
佐伯君ではない。
そこには芹香と希美がいた。
二人はスマートフォンを構え、花壇の写真を撮っている。
彼女たちの足元を見て、一気に血の気が引いた。
二人の靴は、綺麗に咲いたばかりのコスモスを容赦なく踏みつけていた。
「や、やめて!」
思わず大声で叫んでいた。
「は?」
「え、何?」
二人は驚いたように振り向く。
「花壇に入らないで、花を踏んでる」
夢中で駆け寄り、二人の手を引くようにして触れた。
しかし、激しく振り払われる。
「は、マジうざいんだけど」
「花を踏んで、あんたになんの関係があるの?」
芹香の口から漏れた冷たい声。
その瞬間、お腹の底からドロリとした熱い怒りが湧き上がってきた。
「生きているんだよ、お花は。綺麗に咲いてるのに……!」
「だから、あんたと花壇、なんの関係があるの?」
「いいじゃん、どうせ世話なんか用務員さんか業者がやってるんだからさ。踏まれてるのわかったら適当に入れ替えるでしょ」
希美が鼻で笑う。
「違うの、この花壇は……」
グッと喉が詰まった。言えない。
佐伯君がお花を好きで、毎朝手入れをしていることは絶対の秘密だ。彼の意思に反して、私が勝手にバラしていい話ではない。
「とにかく出て」
もう一度、二人の腕を強く掴む。
今度はしっかりと力を込め、絶対に離さない。
「ちょっとやめてよ、痛いじゃん!」
希美が金切り声を上げた。
腕を振り払おうと、その場で足をジタバタと暴れさせる。
佐伯君が大切に植えたコスモスが、ぐしゃりと踏みにじられていく。さらにニチニチソウを踏み荒らし、二人はパンジーの咲くエリアへと逃げ込もうとした。
「やめて、お願いだから!」
「そっちが離してよ」
「お願い、踏まないで!」
喉がちぎれんばかりの渾身の声で叫んだ。
「何してんの?」
その騒ぎを鋭く切り裂くように、冷たい声が響いた。
「……あ」
そこに、佐伯君が立っていた。
部活のユニフォーム姿だ。
芹香は途端に甘い声を出し、顔を歪めた。
「颯真くーん、ひどいんだよ有栖ちゃんったら、私たちのこと引っ張るの」
「何か知らないけど急に怒ってきたんだよ。ほんと怖い」
希美もしおらしく肩を落として言った。
私を地面に突き飛ばすように花壇から出た二人は、泥のついた靴のまま佐伯君の方へすり寄っていく。
「ねえ見て。赤くなっちゃった」
「芹香ちゃん、大丈夫? ひどいよ有栖ちゃん、芹香ちゃんはモデルなのに」
芹香はその腕を、佐伯君の腕へとすがりつくように絡めた。
「ねえ、先生呼んで、保健室連れてって?」
佐伯君の目が、倒れ込んでいる私を見つめる。
次の瞬間、佐伯君は自分の腕に絡みついていた芹香の手を、荒々しく振り払った。
「西条たちが花壇に入るからだろ」
「……え?」
「見ろよ、自分たちが何をしたのか。咲いてる花も、蕾も全部踏みつけて……生きてるんだぞ!」
佐伯君が激高して怒鳴る声を、私は初めて聞いた。
頭が良くて、おかしなことは絶対にしなくて、真面目すぎず今時な感じもあって、でもいつだって誰にでも優しい佐伯君が、大声を張り上げて怒っている。
今まで見せたことのない姿に、芹香はポカンと口を開けて固まった。
「え、でも……関係なくない? そんな花壇」
希美が焦ったように加勢する。
「そうだよ。踏んだって用務員さんと業者がどうにかするって」
佐伯君は二人を鋭い目つきで睨みつけたそのままだ。
「……え、どうしちゃったの颯真くん?」
困惑した芹香がもう一度手を伸ばそうとするが、その手をかわすように、佐伯君はすっと身を引いた。
「俺だよ、この花壇の世話してたの」
「……え」
「俺、園芸係だから。先生に聞いてみれば?」
「うそ……やだっ」
二人は顔を真っ青にする。
「あ、あの、ごめん、私たち知らなくてその……」
「颯真くんが世話してるって知ってたらこんなことしなかったよ? え、やだ、有栖ちゃんってば教えてくれないんだもん」
「有栖ちゃん知ってたでしょ、ひどい!」
「ひどくねーよ」
ぴたりと、再び空気が凍りつく。
男の子らしい、でも、少し乱暴なこんな言葉を佐伯君が使っているところも、これまで一度も聞いたことがなかった。
「誰が世話してるとか関係ないだろ。花を踏み荒らしていい理由なんかひとつもねーよ。最低だな」
「あ……」
「俺が世話してたんだよ、ずっと。でも、黙っててくれって俺が有栖川に頼んだんだ。有栖川は俺との約束を守ろうとしただけだ」
「えと……」
「い、いこ、芹香ちゃん」
顔を見合わせた二人は、地面に置いていたカバンを拾い、バタバタと逃げるように走り去る。
もみ合いの中で突き飛ばされた格好のまま地面に座り込み、私はどうしても動くことができなかった。
芹香たちが踏み荒らすのをやめても、逃げ去っても、踏みつぶされた花たちが元に戻るわけではない。
顔が、火がついたように熱い。
身体中の血が全部、目の周りに一気に集まってくるような感覚がして、ボロボロと涙が溢れ出した。
「ごめん……」
それだけを、絞り出すように呟く。
佐伯君が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる足音が聞こえた。
「ごめ、コスモス、が……にちにち、そ……うっ」
上手く喋れない。
ただ、踏みにじられた花の名前を必死に繰り返した。
視界が涙で大きくぼやける。
涙に霞んだ向こう側で、ピンクや紫、黄色の花弁が、荒らされた黒い土と混ざり合って無残に潰れているのが見えた気がした。
ポタリ。ポタリ。
足元の土に、まるくて濃いシミが広がる。
「う……えっ、ぅ……」
しゃくりあげる息に紛れて、情けない声が漏れ出してしまう。
止めたいのに、どうしても止まらない。
せめて静かに泣きたいのに、私は幼い子供のように声を上げて泣きじゃくった。
体を大きく震わせながら泣き続ける私の横に、佐伯君がそっと腰を下す。
何を言うでもなく、ただじっと、静かに花壇を見つめていた。
