さよなら、スタジオ有栖ちゃん ー仮面の優等生と秘密の練習会ー


「あった」

 閉会式が終わり、ほとんどの生徒が下校した夕方。私は忘れ物のタオルを取りに体育館へ戻った。
 まだ体育祭の飾りが天井から吊り下げられたままで、熱気の余韻が残る空間は、物悲しくシンとしている。


 キュッ……


 運動靴が体育館の床に擦れて小さく鳴る音がした。

「だれ?」

 振り返ると、積まれたパイプ椅子の影から誰かが出てくる。
 佐伯君だ。
 体操着ではなく、バスケ部のユニホームを着ていた。
 つい、まじまじと見てしまう。
 背が高い。それに男の子とは思えないほど肌が綺麗で、案外凛々しい眉から続く高い鼻筋が美しい。横広の二重瞼に長いまつ毛。大きめだけど薄い唇は、綺麗な形で口角をあげていた。
 ユニホームから覗く手足は長く、男の子らしいしっかりとした筋肉がバランス良くついている。
 本当に綺麗な人だ。

「えっと……西条(さいじょう)の友達だっけ?」

 わ。目が合ったら、話しかけられてしまった。

「あ、そうです。芹香ちゃんと同じクラスで……あの、佐伯君は何を?」
「部活に来たんだ。今日は体育祭だったから休みなんだけど、うっかり忘れてた」

 少し照れながら笑う顔は、可愛らしくもある。
 佐伯君は一瞬戸惑ったような顔をしてから、おずおずと口をひらく。

「あのさ、今日いっぱい写真を撮ってたけど……俺のこと撮ってない?」

 静かな声が、広い体育館に低く響く。
 どこか探るような、警戒を込めた眼差しが私に向けられていた。

「撮ってないです! 佐伯君、写真苦手っていつも言ってますし」

 思わず声を張り上げ否定する。
 しかし、私の手に握られたスマートフォンを見つめる彼の目は、まだ疑わしげだ。

「見ていいですよ、カメラロール」

 誤解されたままなのは嫌だ。
 私は自分のスマートフォンのロックを解除し、彼に差し出した。
 佐伯君は少し驚いたように目を見開いたが、ゆっくりと手を伸ばして受け取る。
 長くて綺麗な指が、静かに画面をスライドさせていく。今日撮影した写真は、おそらく二百枚近くある。見る方も大変だ。

「……ごめん、本当だったんだね」

 しばらく触った後、画面から目を離した彼が小さく息を吐きながら言った。

「いえ、気にしないでください。勝手に撮られてるかもって思うと不安ですよね」

 被写体には肖像権がある。
 映りたくない人を勝手に撮ってはいけないし、ましてや勝手にSNSに上げてもいけない。それは撮影する者のマナーだ。写真部でも口を酸っぱくして言われる。

「……有栖(ありす)も写真嫌いなの?」
「え、どうしてですか?」

 突然投げかけられた問いに首を傾げた。
 っていうか私のあだ名、知ってたんだ。今更ながら驚く。

「一枚もないから。自分の」
「あー……」

 言葉が詰まった。
 視線を下ろす。確かにそこには芹香たちの弾けるような笑顔や、グラウンドを走るクラスメイトたちの姿ばかりで、私自身の写真は一枚もない。

「みんなの撮ってたら忘れちゃったんです」

 私はへらりと笑ってごまかした。

 本当は、自分の写真も欲しかった。誰かと一緒に撮りたかったし、誰かに『撮って』と言いたかった。
 勇気がなかったのだ。
 その一言を口にしたら、自分がどれほど孤独か認めてしまう気がして……。
 私は爪が手に食い込むほど握りしめる。
 視線を落とした私を、佐伯君が無言で見つめている気配がした。
 次の瞬間、小さな音が響く。


 カシャ。


「……え?」

 不意に鳴り響いたシャッター音に、私は驚いて顔を上げた。

 
 カシャ。


 もう一度鳴る。
 佐伯君が、手に持っていたスマートフォンをこちらに向けていた。

「一枚もなさそうだったからあげる。体操着だし、体育館の飾りもついたままだし、まだギリ体育祭っぽい」

 彼から差し出されたスマホの画面を覗き込む。
 そこに映っていたのは、少し俯いた私と、目を見開いて佐伯君を見ている私。背後には、まだ片付けられていない『体育祭』の横断幕がくっきりと写り込んでいる。

「ほ、本当だ! 横断幕あるから体育祭っぽい!」

 胸の奥からこみ上げてくる熱いものに押されるように、声が高ずんだ。
 自分の顔が映っている写真。
 今日、私が確かにこの場所にいた証明に、嬉しさが溢れて画面から目が離せなくなる。

「ぷはっ」

 それまで少し硬い表情をしていた彼が、突然吹き出した。

「抜き打ちの写真でそんな喜ぶなよ」

 呆れたように、でもどこか柔らかく笑う佐伯君。

「嫌だったら消してもいいし、記念が欲しければ取って置けば?」

 そう言って、足元においてあったペットボトルを手に取る。

「じゃ」

 短い挨拶とともに、彼はクルリと背を向けた。

「あ、佐伯君、ありがとうございました!」

 去っていく背中に向かって声を張ると、彼は歩みを止めずに振り返り、ニッと笑ってみせた。

「疑ったおわび!」

 ひらひらと手を振って、彼は体育館の重い扉の向こうへ消えていった。




「すごい……さすが、噂に違わぬ爽やかイケメン」

 背中が消えても、ぼうっと出口を眺め続けた。
 胸の奥が、トンットンッと不規則な音を立てて波打っている。

「……はは。体育祭の記念写真、撮れちゃった」

 画面に触れる。
 カメラロールに二枚、自分が映った写真。
 学校。体育館。体育祭の飾り。
 学校でこんな写真を撮ってもらったのは初めてで、こんな風に驚いた顔の自分を見たのも初めてだ。そう思った瞬間。


 ドクン。


 大きく、心臓が打つ。
 体を揺らすほどの振動が、頭の中にまで響いてきた。
 静かな体育館の中が、私の心臓の音でいっぱいになるんじゃないか。そんな気持ちになる。

 だって、すごい。

 レンズのこちら側にしかいなかった私が、初めて向こう側にいる。
 高校生活という世界の中に、佐伯君が引っ張り出してくれたのだ。

 胸の奥で静かに、ほんの少しだけ、何かが変わりそうな予感がした。