さよなら、スタジオ有栖ちゃん ー仮面の優等生と秘密の練習会ー


 コンコン。


 開け放っていた暗室のドアが、規則正しくノックされた。

「お話し中、失礼」
「あ、先輩。こんにちは」

 長谷部先輩の声に驚き、裏返りそうな声で返事をしてしまった。

「熱心だね有栖川さん、昼休みも。……で、そちらの君は?」

 長谷部先輩の視線が、私のすぐ後ろに立つ佐伯君へと向けられる。

「あの、すみません。お友達なんですけど、写真を見たいって言ってくれて案内していたんです」

 普段あまり見かけない顔が暗室にいたことで、驚いたのかもしれない。
 先輩の表情からふっと笑顔が消えた。

「ああ、そう。……見せるのはいいけど、暗室はやめようか。現像液とか、一応薬品だから」

 ハッと息をのむ。
 うっかりしていた。
 たしかに現像液には刺激物や一部毒性のあるものが含まれている。自分の配慮のなさに青ざめ、慌てて深く頭を下げる。

「すみませんでした、考えが至らず……」

 私の動揺を察したのか、先輩はいつものようにふわりと表情を緩めた。

「うん、次から気を付けてくれればいいよ」
「あの、すみませんでした」

 後ろから佐伯君も丁寧に頭を下げる。

「違うよ佐伯君、私が連れてきたんだから」


 キーンコーンカーンコーン


 慌ててフォローしようとしたその時、チャイムが鳴る。

「予鈴だ。戻った方がいいね」
「はい。……あ、長谷部先輩は何か御用があったんじゃ?」
「……いや、忘れ物をしたかと思っただけ。思い違いだったみたいだ。鍵は僕が締めておくよ。つぎ、自習だから」
「じゃあ、お願いします」

 間もなく授業が始まってしまう。
 私は佐伯君と顔を見合わせ、急いで廊下を進んだ。



*



 授業にまったく身が入らない。黒板に板書しながら説明をする教師の声が、右の耳から左の耳へただ流れていった。

 初めて誰かに、花の話をした。
 親だって『男の子にしては草花が好き』程度にしか捉えていない。
 そんな俺の秘密を、有栖川に打ち明けたのだ。
 恥ずかしさと、それを上回る胸のすくような妙な爽快感が広がっていた。
 早朝の、無理をしない練習会を二人で始めて二週間と少し。
 もしかしたら薄々バレているかな、程度に思っていたけれど、まさか見事に言い当てられるだなんて思いもしなかった。


――見ていてくれたんだ、俺のことを。


 ふとそんな思いが頭をよぎると、途端に頬の緩みが止まらなくなる。
 俺は咳払いを装い、ズッと鼻を啜るふりをして表情をごまかした。

 はたと我に返る。
 ……まずいぞ。
 さっきは勢いのまま誘ってしまったけれど、うちに有栖川が来るということじゃないか。
 部屋を片付けないと大変だ。
 いや、普段からそんなに散らかしてはいないけれど、変なものが転がっていないか確認して、写真を引っ張り出して、掃除もして……あれ、いつ来るんだ?
 あのまま部室の前で解散してしまったから、具体的な日程を決めるのをすっかり忘れてしまっていた。

「……うっわ」

 空気の抜けたような小さな声が漏れ出た。
 隣の席の奴がチラリとこちらを見てきたが、俺は知らん顔で黒板を凝視するふりをしてやり過ごした。

 うっかりしすぎだろう、俺。
 まさか今日ってことはないはずだけど、インスタのメッセージで聞くか?
 でもそれだと連絡は夜になってしまう。
 わたわたと頭の中を回転させてから、ふっと息を吐く。
 どうしてここまで慌てているのか、自分でも可笑しいくらいだ。けれど、有栖川がうちにやってくる――ただそれだけのことが、胸が躍るほど楽しみだった。
 ふと、昼休みの出来事が頭に浮かぶ。

 『長谷部先輩』

 有栖川はそう呼んでいた。
 名前だけは知っている。三年の、特進クラスだ。
 部活動はもう引退しているはずなのに、部室に忘れ物とは何だろう。それに……記憶を必死に手繰り寄せる。
 長谷部先輩は、この間の雨の日に渡り廊下で有栖川と話していた、あの男だ。
 ザワリ、と胸の奥が不気味に疼く。
 長谷部先輩は感じのいい人で、俺たちのことも別に怒ったりしなかった。大人っぽい落ち着いた口調で、危険だからと静かに注意してくれただけだ。
 ……そう。大人っぽい。
 たった一学年違うだけで、あれほど差が出るものなのだろうか。

 ふーっ。

 周りに悟られないよう、低く長く息を吐き出す。
 なぜだか胸のモヤモヤが収まらない。
 いや、これはもうはっきりとイライラしている。

「じゃあ次、佐伯、解いてみろ」
「……はい」

 教師に指名され、慌てて席を立つ。
 黒板を見上げながら、どの問題を当てられたのかさえサッパリ分からない自分に気づき、苦笑するしかなかった。



*