「長谷部先輩、いらしてたんですか?」
「うん、ちょっと息抜きにね」
声をかけてくれたのは、高校三年生の長谷部先輩だった。
すでに部活は引退しているけれど、数々のコンテストで賞を取ってきた写真部の頼れるエースだ。
「どうですか、受験勉強」
「いやぁ息が詰まるよ。模試、塾、学校、模試、塾……全然カメラを触る時間がない」
苦笑いしながらも、先輩の手は愛用のカメラのボディを愛おしそうになでていた。
「あ、ちょうどよかったです。これ届いていました」
棚の上に置かれていた封筒を先輩に差し出す。
大きめの角二サイズ。顧問の先生から預かっていた手紙だ。
「ああ、返却か」
先輩は封筒の封を切り、中から写真を取り出して確認する。
「去年の受賞作。いい写真ですよね。ここの波の色合いがすごく素敵で……」
広い海を背景にした写真だった。
小学生くらいの女の子がサンダルを両手に下げ走っている後ろ姿。
砂浜に残る足跡と、それを静かに消していく引き波のコントラストがとても印象的な一枚だ。
「はは、ありがとう。惜しくも最優秀賞は逃したけどね」
「でも優秀賞です」
私も同じコンテストに応募したけれど、結果は予選落ちだった。
「ありがとう。しかしな、テーマがありきたりで良くなかった。海と少女なんて、みんな撮ってるもんな」
「やっぱり、コンテストってテーマが大事ですか?」
私たちが応募した高校生写真グランプリは、全国の高校写真部員が目標にする大きなコンテストの一つだ。
「自由に撮っていいことにはなってるけど、似通った作品だとどうしても印象に残るのは難しいよね」
実際、去年のコンテストで最優秀賞を取った写真も、海をテーマにしたものだった。
皆に選ばれやすいテーマで良い写真が撮れる可能性も高いが、数が多く、似たような作品に埋もれやすい。だから、その中で優秀賞に残った長谷部先輩は、本当にすごいのだ。
「高校生らしい日常を撮るわけだから、学校や夏休みの思い出に偏っちゃうのは致し方ないところなんだけど……背伸びしても仕方ないしな」
先輩はそう言いながら、写真を大切そうに封筒へしまった。
「有栖川さんは、今年も出すんだろ?」
「はい。そのつもりなんですけど……」
言葉を濁してしまう。
まだこれだと思える写真は一枚も撮れていなかったし、どんなテーマで撮ればいいのかも絞りきれずにいた。
「見せてよ、最近撮ったの」
「あ、これどうぞ」
前に現像した写真を、個人用の引き出しから取り出した。量が多くて束になっている。
何枚もの写真を見て先輩が目を丸くした。
「ずいぶんたくさん……へえ、花か……え、学校?」
「はい。裏庭です」
「こんな花壇あったっけ?」
「さ……去年までは緑ばかりだったんですけど、今年はお花も多いんです」
佐伯君が!
と言いかけて、言葉を変えた。彼が園芸係で世話をしていることは、きっと話さない方がいい。
「いいなあ、去年もあったら、僕もここで撮ってたかも」
「素敵な花壇ですよね」
本当は言いたかった。
花壇がきれいなのは、佐伯君が毎日丁寧に世話をしているからだと。
お花が増えたのだって、彼が用務員さんや先生に掛け合って花を増やしてもらったからだと。
佐伯君と話したことを思い出しながら、クスリと笑う。
長谷部先輩はじっと並んだ写真を見つめ、それから真剣な眼差しになって口を開いた。
「出してみなよ、これ」
「え、でも……」
「いや、この写真じゃなくてもいいけど、でもすごくいいよ。ここにあるの全部」
「で、でも、花もありきたりですし」
「有栖川さんがこの花をよく見ているのが伝わる写真だと思う。確かに、これはちょっと寄りすぎだし、これは色合いが今ひとつだけど……」
自分でも薄々感じていた弱点を正確に指摘され、ドキッとする。
さすがは長谷部先輩だ。
「もっと綺麗に撮りたいんです。どうしたら良いと思いますか?」
「そうだな……」
思い切って尋ねると、先輩は少し驚いたように目を丸くし、それから腕を組んで考え込んだ。
「他の場所で撮ってみる」
「え、花壇じゃなくて?」
「うん、僕が時々やるんだけど。煮詰まった時は、別の場所で撮るんだ。そして撮りたい場所に戻ってくる」
先輩は吊るされた写真をもう一度まじまじと見つめた。
「別の場所で得た刺激が、凝り固まっていた思考を壊してくれるっていうか……なんか、そういう瞬間がある気がするんだよね。まあ、僕の勝手な体験談なんだけど」
「わかりました。私、やってみます」
「うん」
机の上の機材を片付けながら、長谷部先輩が言った。
「撮れたら、また見せてよ。年内は登校してるから声かけに来て」
「いえ、でも申し訳ないです。先輩はもう引退されているし、受験生ですし……」
「問題ないよ。僕の息抜きを手伝ってくれるくらいの気持ちで。僕、有栖川さんが撮った写真をもっと見たいんだ。相談でも、なんでもいいよ」
ポンと胸の奥に灯りがともったように、あたたかい気持ちが広がる。
自分の写真を真剣に見つめ、親身になってアドバイスをくれる、とても優しくて頼もしい先輩だ。
「ありがとうございます。じゃあ、ぜひ」
ふと思った。
もしかしたら写真も、今の私と佐伯君がしている「無理をしない練習」と同じなのかもしれない。
教室という本来の場所から離れ、毎朝の静かな花壇で自分を変えてみる練習。
佐伯君は「練習を重ねれば、教室でも無理しなくていいようにできる」と言っていた。
写真もきっと同じだ。
別の場所で色々な経験をして練習を重ねてから、本来撮りたい花壇へ持ち帰ってくれば、今よりもずっと満足できる写真を撮れるようになるのかもしれない。
――そうすれば。
胸の奥がドクンと大きく波打った。
私も、佐伯君のようになれるかもしれない。
練習を積み重ねて、自分が納得できる最高の写真を撮ってコンテストに応募できれば……私だって彼と同じように『自分ならできる』と胸を張れる人間になれるかもしれない。
そうなりたい。
強く、心から思った。
かすかに震えてしまった胸元を抑えるようにして、長谷部先輩の背中に宣言する。
「先輩、わたしがんばります!」
