「最近、ずいぶんと朝が早いのね?」
洗面所で出かける支度をしていると、後ろからお母さんが不思議そうに声をかけてきた。
「うん。部活の写真、朝の学校で撮るようにしてるんだ」
鏡に向かって答えながら、髪にコームを通す。
写真部の活動にしては、やたらと熱心に洗面台の前で身だしなみを整えているけれど、幸いなことにお母さんからそれ以上突っ込まれることはなかった。
「こんな感じ……かな?」
普段は何も考えずに髪を結ぶだけだけれど、今日はストレートアイロンの電源を入れて髪を通してみる。
昨年、芹香たちが「髪がツヤツヤになる」と話題にしていて、誕生日に頼んで買ってもらったものだ。
じっと鏡を見つめる。アイロンを握る手に力が入った。
サラサラになった髪の毛先を指で整えてみるけれど、どこか見慣れない自分の姿に胸がソワソワと落ち着かない。
「……だめだ。気合い入ってる感じがする」
鏡の中の自分に向かって小さく首を振り、コードを抜いた。
いつもの通り二つ結びにする。
余計な緊張が消えて、いつもの自分に戻った気がした。
*
「おはよう」
「おはよ」
毎朝、裏庭の花壇で佐伯君と交わす挨拶。
朝の澄んだ空気の中、佐伯君がジョウロで水を与え、私はその横でカメラを構えてシャッターを切る。
「好きな食べ物は、グラタン」
「俺は肉。一番は唐揚げかな。動物は?」
「犬! 昔お祖父ちゃん家で飼っててかわいかったから」
「俺も犬だな」
好きな音楽や映画のこと。
そんな他愛もない話を重ねながら、自然と笑い声が零れる。
「え、意外。少年漫画なんか読むんだ?」
「一つ上のいとこから、時々借りるよ」
「じゃあ、週刊少年ホップで好きな作品ある?」
「あ、バスケの!」
「まじ? 俺も好き」
自分が知らなかった彼の話を聞くのは純粋に面白く、偶然見つかる共通の話題には思わず声が弾む。
『おーい、どこ投げてんだよっ』
『わりぃ!』
そんな声が聞こえてきて、はっと身をひそめる。
朝練をしている、野球部員だ。バタバタと足音が近づいて、また遠ざかる。
「……行った、みたいだな」
「ふー。びっくりした」
止めていた息を吐き、じっと固めていた身を緩める。
「ぷっ」
佐伯君が吹き出す。
「何か、おかしいな。別に悪いことしてる訳じゃないんだから隠れなくてもいいのに」
「あ……たしかに。でも無理しない練習だから」
「うん。他のやつがいない方が練習になる。だから、皆には内緒な」
二人でくすくす笑う。
気づけば、一日の中で一番楽しみな時間が、この佐伯君と過ごす朝のひとときになっていた。
「なんかすげえな」
不意に会話が途切れ、ジョウロを置いた佐伯君がポツリと呟いた。
「有栖川と話してると、あー俺笑ってるなって思うんだ」
彼は照れたような、どこか寂しげな陰のある顔で言葉を続けた。
「でもそうするとさ、普段、教室で過ごしてる俺って本当に仮面なんだなって、思い知らされるよ」
「……っ」
言葉を詰まらせる。何も答えられなかった。
胸の奥がキュッと締め付けられる。
言いたいことは痛いほど分かった。私もまったく同じだったからだ。
毎朝の楽しい時間が終わってチャイムが鳴ると、教室へ向かう足取りがずっしりと重くなる。
愛想笑いの仮面を張り付けたまま残りの一日を過ごすことが、この朝の時間と対比されることで、だんだん辛く感じ始めていた。
「村田たちのことも、友達だと思ってるし普通に好きだよ、そりゃ。でも……やっぱり皆は、皆が求めてる爽やか優等生の俺を好きなんじゃないかと思ちゃうんだ」
皆が求めている自分。私にとってのそれは『スタジオ有栖ちゃん』でいることだ。
写真は好きだけど、写真を撮るだけの係でいたいわけじゃない。でも、皆が求めているのは、そういう私なのだろうと思う。
「まあ、でもそれだけ練習の効果が出てるってことだよな。少なくとも有栖川と話している時はそういうの取っ払えているわけだから」
沈黙を破るように、佐伯君が意識して明るい声を出した。
「練習を重ねていけば、教室でも部活でも、もう少し自分らしく笑える日が来る気がする」
佐伯君の横顔を見つめながら、素直にすごいな、と思った。
自分の内側にある不安を払いのけるように真っ直ぐな笑顔を作れるのは、彼がこれまでいくつもの不安や葛藤を自分で乗り越えてきたからだ。
『自分ならできる』と信じられる人の、強くて温かい笑顔だった。
「……そうだね」
声を絞り出しながら、私は心の中で小さく首を振った。
私は、まだそんな風に思えない。
乗り越え方すら分からないのだ。どうすれば彼のように『自分にもできる』と思えるようになるのだろう。
*
「うん、いい感じ」
赤暗い光が満ちる暗室の中、現像液から引き揚げたばかりの印画紙をクリップで吊るして乾かす。
被写体はすべて裏庭の花壇だ。
朝の光に包まれた表情と、時々放課後に足を運んで撮る表情。
陽の当たり方も、花の佇まいも毎日少しずつ違う。
植物という生き物を相手にしているのだと、現像されて浮かび上がる写真の表情を見るたびにハッとさせられる。
「これは……でも構図がなぁ」
持ち上げてじっくり見つめる。色は綺麗に出ているけれど、被写体に少し寄りすぎな気がした。
会心の一枚を現像して、佐伯君に見てもらいたい。
ただその一心で、私は毎日シャッターを切り続けていた。
「お疲れ様、有栖川さん」
カチャリとドアを開け暗室を出たところで、急に声をかけられた。
